最後の試験が、試験官の「はじめ」という合図とともに幕を開けた。
試験科目は魔法史。私は解答用紙の上に羽ペンを走らせる。少し熱気のこもった部屋の中、傍の窓ガラスにスズメバチがぶつかる音が、うっとうしく聞こえたが、無視して解答を書き続けた。
大方の回答を書き終えたると、時間を確認する。そろそろ試験時間の半分が経過しようとしていた。心の中で、そろそろヴォルデモートが企てた計画が始まるかと思うと、つい身構えてしまう。まったく……最後の試験とはいえ、試験に対する集中力を妨げるような策を企てるのはやめてほしい。私は書き終わったからいいが、まだ周りには書いている人がいるというのに。羽ペンをもてあそびながら、そんなことを考えていたときだ。
「うわぁぁぁぁあ!!」
試験の静寂を破るように響き渡る叫び声が辺りに満ちた。それと同時にガタン!と後方の方で椅子から誰かが落ちる音。驚いて、周囲の生徒が一斉に後ろを振り返る。私も確認のため振り返った。案の定、ハリーが椅子から落ちて痙攣していた。表情はこの位置からだと見えない。
「席を立たないで試験を続けなさい!」
年老いた試験監督がハリーを立たせると、大広間からハリーを退出させた。再び試験会場に静寂が戻ったが、先程までのピリピリと張りつめた緊張感はない。誰もがそわそわして試験に集中しているようには思えなかった。
それは私も例外ではない。
ハリーの悲鳴が、私にはヴォルデモートが企てた計画開始のベルが鳴り響いたように感じられたし、それは事実だろう。試験問題に目を向けながら、これからしの流れを脳裏で反芻し、計画に穴がないかを考える。
「試験やめ!」
思った以上に残りの時間は矢のように早く過ぎてしまった。私は手際よく片付けると、先に退出したハリーの所へ行こうとするハーマイオニーやロン・ウィーズリーに近づこうと足を進めた。……だが……
誰かに手をつかまれる。無視して振りほどこうとしたが、つかむ力が強い。私は振り返って、誰が私の手をつかんでいるかを確認した。
「…放してくれないか?」
「ったく。昨日約束したのを忘れたのか、セレネ?」
呆れ顔で私をつかんでいたのは、ノットだった。約束なんてした覚えがない。私は眉間に皺を寄せて、私よりずっと背が高いノットを見上げる。
「約束?なにかしたか?」
「忘れたのか?昨日の夜、俺が話しかけようとしたら『眠いから明日』って言っただろ?」
……しまった。すっかり忘れてた。昨日の天文学の実技試験の後、ノットに話しかけられたのだが、あまりにも眠かったので「眠いから明日」といって、さっさと寮に帰ったのだ。いくら眠くても、話を聞いておけばよかった。昨日の私を「バカ」と罵りたくなった。無意識のうちに唇をかみしめる。ちらりとハーマイオニー達がいた場所を見るが、そこに彼女たちの姿は見えない。…一応、私が彼女たちの跡を追えなくなった場合にそなえ、壁の中からアルファルドに追跡してもらっている。だから何か変化が起きたときはすぐに情報が私に伝わるだろう。私はノットに向き直った。
「分かった。で、昨日は何を言おうとしてたんだ?」
「別に。大した用じゃない。セレネは昨夜の出来事についてどう思ったか聞きたかっただけだ」
あぁ、あのことか。
私は納得すると、腕を組んだ。昨夜の出来事というのは、天文学の実技試験の時の出来事だろう。アンブリッジとその配下の闇払い3名が、ハグリットを学校から追い出そうと襲いかかり、止めに入ったマクゴナガル先生の不意を衝いて失神させたという事件が起こったのだ。ちなみに、ハグリットは、その場を逃走。マクゴナガル先生は……亡くなったという話を聞かないので、恐らく病院に搬送されたのだろう。ダンブルドアほどではないが、この学校の中では古参の教師であるマクゴナガル先生が、胸に4本のもの失神光線を浴びたのだ。生きている方が、不思議だと私は思う。少なくとも、学校の医務室で処置できるレベルを越している。
「マクゴナガル先生が一命を取り留められるか心配だな」
「だよな」
……沈黙が続く……
他に用がないのなら早く行きたい。だがノットは、何か言おうか言わないか迷っている様子だった。
「あのなぁ…他に用がないなら私は帰るけど?」
「ったく、ここだと言いにくい。…ちょっと来い」
あたりを見渡したノットは、外に向かって歩き始めた。夕食の時間が近づいているので、私たちが話していた大広間に人があふれ始めていた。一体彼は何を話したいのだろうか?途中、すれ違ったアステリアや他のスリザリン生に「テストはどうだったか」と聞かれたが、生返事をしながら人ごみをかき分け、外に出る。先程まで人ごみの中にいたからだろうか?外の空気が新鮮に感じた。
「で、他の人に聞かれたくないことってなんだ?」
禁じられた森の近くまで来たとき、ようやくノットは立ち止った。だが、私の問いかけに答えようとしない。森の方から何かの小さく唸るような声が風に乗って聞こえてくるくらい、あたりは静まり返っていた。私は少し声を荒げて、同じことを繰り返し問う。すると、ノットはこう言った。
「お前、変なことに足を突っ込んでいるんじゃないだろうな?」
ノットがいつになく厳しい顔で問い詰める。私は、何事もないような笑みを浮かべながら、いつも通り口を開いた。
「あのな、私も試験勉強で忙しかったんだ。変なことに足を突っ込む余裕なんてない」
「嘘だろ」
「嘘を言ってどうなるんだ?」
私がそう告げると、ノットは覚悟を決めたような表情を浮かべた。
「『例のあの人』と取引していることは、十分『変なこと』って言えると思うけどな」
私は、思わず驚いて顔をあげた。ノットが適当に言ったのかと思ったが、そうではないみたいだ。ノットの目には確信の色がうつっている。
「ヴォルデモートと取引?寝言は寝てる時に言ったらどうだ?」
「ずっと、おかしいと思ってたんだよ」
低い声で問い詰めるように話し始めるノット。…ヴォルデモートと取引をしていることは事実だが、誰にもわからないように隠し通してきたはずだ。だから、このまましらを切り通すつもりだ。でも、どうしてノットは気が付いたのか気になった。彼の父親経由で知ったとも考えられるが、それはありえない。あの取引は極少数の人間しかしらないはずだ。私は黙って、その続きの言葉を待った。
「たった一人の家族の死を、あんな短時間で乗り越えられるわけがない。しかも、殺される以前と行動がほとんど変わらないなんておかしいだろ?他の奴らは、乗り越えたんだと安心してたみたいだがな。でも、俺は騙されないぞ。あまりにも不自然だからな」
私は黙って聞いていた。否定もしないし、かといって肯定を示すこともなく、ただ黙って聞いていた。
「ダンブルドア側について復讐を試みた可能性も高いが、それはない。ダンブルドアの味方のグレンジャーやロングボトムと話している時、どこか寂しそうな表情を浮かべていたからさ。もしグレンジャー達が中立の立場だったなら、あんな表情を浮かべるわけがない。
だからといって、魔法省の味方でもないみたいだ。アンブリッジが花火の対処に戸惑うのを笑ってみていたからな。
となると……『例のあの人』側について復讐を試みている可能性が高いというわけだ」
どこか間違っているか?というような目で私を見下ろすノット。私は、小さく笑みを浮かべた。
「あのなぁ、私とクイールは養子縁組。仲の良さは上辺だけだ。あんな奴のために、私がどうして…」
「どこが上辺だけだ。誰が見ても三校対抗試合の前に会っていたお前たちは、中良さそうだったぞ。駅ホームでも、仲良さそうだったし」
私は黙り込む。これ以上シラを切るのは無理そうだ。それにしても、ノットは私のことをよく見ているな、と思う。次にこういう計画をするときは、注意人物として警戒しておかないと。
「もし、その推論の通りだったら、どうするつもりだ?」
「止めることはしない。俺がお前の立場だったら、復讐を考えていたはずだからな。
他の人に迷惑をかけないように、誰にも言わずにさ。ただ……」
私から視線をそらすノット。全く、なんでこいつは、たびたび言いよどむのだろう?自分に自信がないようには見えないから、私のことを考えて言おうか言わないか考えてくれているのだと思うが。男なら、迷っていないで、ハッキリと口に出して言って欲しい。
「いつも思うけど……言いたいことがあるなら、ハッキリと言ったらどうだ?」
私は、腰に手を当てると、ため息をつく。太陽が『禁じられた森』の木々の梢に、まさに沈もうとしている時だった。何か決心を固めたように、ノットは私の方に向き直る。
「俺も手伝っていいか?」
「ダメだ」
切り捨てるように、私は言い放った。ノットは「やっぱりな」という表情を浮かべている。が、それと同時に、ここでは引かないという意志の強い色が瞳に見え隠れしていた。
「もし、ヴォルデモートと取引していたとしても、それは私の問題だ。あんたには関係ないだろ」
「関係ある。俺だってダンブルドアが嫌いだ。それに、俺の父上は死喰い人だ。俺なら『例のあの人』の一味に加わることが出来る」
「戦闘訓練も積んでいないのに、生半可な気持ちで死地に向かうつもりか?」
「セレネだって戦闘訓練なんか積んでないだろ?セレネ程じゃないが、俺だって人並み以上に魔法を使うことが出来る。足手まといにはならないはずだ」
「ダメだ……っ!」
そういってから、誰かが近づいてくる気配を感じた。少し遅れてノットも気が付いたらしい。何か言いたそうな口を閉じると、気配がする方向に視線を向けた。
芝生の上を、歩いてくる3人の人影。先頭を歩いているのは、ハーマイオニー。そのすぐ後ろにいるのはハリーで、更に数歩遅れて小走りでついて来ているのはアンブリッジだ。
まっすぐ私たちがいるところに向かってくる3人、身を隠す場所はない。私は小さく笑みを浮かべると、わざと見つかるように3人がいる方へと歩き始めた。背後でノットが小さく抗議の声を出していたが、無視することにする。
案の定、すぐに私は見つかった。
「そこで何をしているの、ミス・ゴーント。それからミスター・ノット?」
アンブリッジが戸惑いを隠せない声で言う。ハリーやハーマイオニーは何も言わなかったが、困惑した表情を浮かべていた。
「試験が終わったので、少し散歩していました」
平然とした表情の仮面をかぶり、アンブリッジの目をまっすぐ見る。アンブリッジの表情からは戸惑いの色は消え、いつもの意地悪い笑みが浮かんだ。
「ちょうどよかったわ、ゴーント。貴方は『中立』だと言っていたわよね?」
「はい」
私は頷いた。アンブリッジは、いつも通り…私を利用しようとしているみたいだ。私は思わず笑いたくなった。これから私の方がアンブリッジを利用しようとしているなんて、夢にも思っていないに違いない。
「ミス・グレンジャーとミスター・ポッターが違反物を森の中に隠しているみたいなの。
一応、杖は取り上げてあるから私1人でも大丈夫な気がするのですが、万が一ということもあるから…私の護衛をしてくださる?」
「はい、わかりました」
私は、これ以上ないというくらい満面の笑みを浮かべた。アンブリッジは、その結果に満足したらしい。嬉しそうにカエルそっくりな顔で笑うと、ノットの方を向いた。
「ポッターの仲間を、有志で募ったスリザリン生が、私の部屋で見張っています。あなたも手伝ってくださる?」
ノットは私の方を見た。私は腕を組むと、感情を悟られないように無表情を保ちながら、ノットの方に顔を向けた。
「アンブリッジの部屋に行ってくれないか、ノット。さっきの話は…あとで話そう」
ノットは頭を掻きながら小さく…本当に小さく舌打ちをした。
「分かったよ、行けばいいんだろ。その代わり……絶対に森から戻ってこいよ」
私がこれから何をしようとしているのか、なんとなくだと思うが感づいているみたいだ。私のことを気遣ってくれる優しさは、先程まで感じていた…これからしようとしていることに対する緊張を解してくれた気がした。それと同時に、別の緊張感を感じる。ノットだけではない…この場にいないけどアステリアもスネイプ先生も…ルーナやダフネたちも…私のことを心配してくれている。与えられた仕事はしっかりこなすつもりだ。でも……絶対に私はこの場所に戻ってくる……戻ってこないといけない。
私はノットに背を向けると、ハーマイオニーより先に森の中に足を踏み入れた。
「…で、どっち?」
振り返らずに、前だけを見て尋ねる。ハーマイオニーは、まるで転がるように…私の前に慌てて進み出た。
「こっちよ」
ハーマイオニーが森の奥へと歩き続ける。そのすぐ後ろを、不安顔をしたハリーが続き、嫌悪感丸出しの表情を浮かべたアンブリッジが少し遅れて続いた。私は『アンブリッジの護衛』という役割を与えられているので、アンブリッジの少し後ろを歩いた。
木立の中は、もう夏が到来寸前の頃合いだというのに、ひんやりとしている。ハーマイオニーが森の動物たちを威嚇するかのように、不自然なくらい大きな音を立てて下草を踏みつけながら歩いていく。アンブリッジは、時折…倒れた若木につまずきそうになっていた。
…ハーマイオニーがどこに行くつもりなのか、見当がつかなかったし、先程から妙な視線を感じる。みえない何者かの目がジッとわたしたちに注がれている気がする。嫌な予感がする。私は、いつでも戦闘態勢に移行できるように身構えて歩き続けた。
「あと、どのくらいなんですか!」
少し怒ったように問いただすアンブリッジ。薄暗い湿った平地に出たとき、ハーマイオニーが叫んだ。
「もうそんなに遠くないです!もうほんのちょっと―――」
その時だ。空を切って一本の矢が飛んできた。ドンっと音を立ててハーマイオニーの頭上の木に突き刺さる。そして、辺りの空気が蹄の音で満ちた。森が揺れているような気がする。アンブリッジは小さく悲鳴を上げ、私を盾にするように自分の前に押し出した。
まったく、自校の生徒をなんだと思っているのだろう。やっぱり、このカエルは校長以前に教師失格だ。
私は、アンブリッジの手を振りほどき、周りを見た。四方八方から50頭あまりのケンタウルスが矢をつがえ…弓を構え、私たちを狙っている。
初めて見たケンタウルスは、教科書に掲載されている図面で見るより『孤高』という雰囲気があっていた。目の前で怯えて腰を抜かしかけているアンブリッジより、己に『誇り』というものを抱いている。思わず目を奪われてしまいそうだ。
上半身は人だが、絶対に人とは交わらない。そんな孤高の生物が、私たちに敵意の視線を向けている。
「誰だ?」
男の裸の胴体が、斑な緑色の薄明かりの中で、一瞬宙に浮いているように見えた。それは弓を構えながら、少しずつ私たちに近づいてくるにつれて、男の腰の部分が、栗毛の馬の胴体に滑らかに続いているのが見えた。私が口を開く前に、アンブリッジが震える杖をケンタウルスに向けた。
「私はドローレス・アンブリッジ!」
アンブリッジは、恐怖で上ずった声で答えた。
「魔法省大臣上級次官、ホグワーツ校長、並びにホグワーツ高等尋問官です!」
「魔法省の者だと?」
落ち着かない様子でざわざわと動き始めるケンタウルス達。
「そうです!だから、気をつけなさい!魔法生物規制管理部の法令により、お前たちのような半獣がヒトに攻撃すれば――」
「我々のことを何と呼んだ?」
荒々しい風貌の黒毛のケンタウルスが叫んだ。弓の弦がキリキリとしぼられる。
「この人たちをそんな風に呼ばないで!」
ハーマイオニーが憤慨したが、アンブリッジには聞こえていないみたいだ。
「法令第十五号『B』にハッキリ規定されているように、『ヒトに近い知能を持つと推定され、それ故にその行為に責任が伴うと思料されている魔法生物による攻撃は――』」
「ヒトに近い知能!?我々の知能は、有難いことに、お前たちのそれをはるかに凌駕している!…いったい我々の森で何をしている?」
「お前たちの森!?」
アンブリッジは恐怖だけではなく、今度は憤慨で震えているみたいだ。チラリとハーマイオニーの表情を見ると、恐怖で歪んでいるようにも見えるが、どことなく、この展開を予想していたようにも見える。……ここでケンタウルス達とアンブリッジを衝突させようとしていたみたいに。いや、させようとしていたのだ。どう見ても、勝算はケンタウルス側にある。このような展開にすることで、アンブリッジを振り払おうと考えたのかもしれない。
そんなことを考えている間にも、アンブリッジとケンタウルスの口論は激しさを増していた。
「人間よ、さぁ誰の森だ!」
アンブリッジは、先程よりも数歩前に出て怒りでると顔を真っ赤に染めた。
「汚らわしい半獣!手におえない動物め!ここは魔法省が管理する土地です!『インカーセラス‐縛れ』!!」
金切り声で、栗毛のケンタウルスに叫ぶアンブリッジ。ロープが太いヘビのように空中に飛び出して、ケンタウルスの胴体に強く巻きつき、両腕をとらえた。ケンタウルスは激怒して叫び、後足で立ち上がって縄を振りほどこうとした。他のケンタウルス達がアンブリッジに襲いかかる。私は地面を思いっきり蹴って、後ろに後退した。
ハリーはハーマイオニーを地面に押し付け小さくうずくまるようにして、ケンタウルス達をやり過ごしていた。赤い閃光がアンブリッジの杖から噴射される。だが、どのケンタウルスに当たることもなかった。…杖はアンブリッジの手から滑り落ち、ケンタウルスの蹄で真っ二つに折れた。
「は、放しなさい!私は魔法省大臣上級事務次官です!お願い、放して!!」
ケンタウルスに連れ去られ、森の奥へと消えていくアンブリッジ。ひっきりなしに悲鳴や叫び声をあげていたが、その声はだんだん微かになり、蹄で地面を蹴る音にかき消されて、ついに聞こえなくなった。
「…コイツらはどうする?」
その場に残った数頭のケンタウルスが私たちを取り囲む。
「この子たちは幼い。我々は子馬を襲わない」
ゆったりとした悲しげな声を出す栗毛の毛のケンタウルス。だが、それに反対するように黒毛のケンタウルスが一歩前に出た。
「コイツらはあの女を連れてきたんだぞ、フィレンツェ?しかも、それほど幼くない。こっちの男の子は、もう青年になりかかっている」
「だがべイン。この男の子はハリー・ポッターだ」
「ハリー・ポッターとはいえ、特別扱いにするつもりか?」
「そんなつもりはない。ただ……」
「あの女を連れてきた。それはあの女と同罪だ!だから――」
そのあとの言葉は聞き取れなかった。開けた平地の端で、バキバキっという大音響が聞こえてきたのだ。あまりの物音に、私もハリーもハーマイオニーも、その場に残ったケンタウルス全員も振り返った。2本の太い木の幹が、不気味に左右に押し開かれ、そこの隙間から巨大な男が顔を出した。
明らかに人間ではない。
苔むした大岩にも見える頭部。そして申し訳ない程度に首がある。レンガのように大きく黄色い歯が、おぼろげな明かりの中で微かに光る。獣の皮を縫い合わせた汚い褐色の野良着を着ているその姿は、軽く5,6メートルはある。
「巨人、だと?」
目を疑ってしまった。教科書によると巨人はイギリスにはいないはず。確かフランスの山奥やスイスの山岳地帯にひっそりと暮らしていると書いてあった。いったいこれは、どういうことなのだろうか?
私が困惑しているほど、他の人達は困惑していないみたいだ。ハリーとハーマイオニーの顔は恐怖で覆われ、ケンタウルス達の間に緊張が走る。
「ハガー!」
何かを探す様に、足元を見渡す巨人。ハガー?巨人特有の言語だろうか?
「ハガー!!」
「ココを立ち去れ、巨人よ!」
ケンタウルスの一頭が弓を引き絞りながら叫ぶ。しかし、巨人には何の影響も与えなかったようだ。少し前かがみになり、足元をよく見ようとする。そしてまた声を轟かせた。
「ハガー!!!」
数頭のケンタウルスが、今度は心配そうな戸惑い顔をした。しかし、ハーマイオニーだけが違った。ハッと息をのむと小さい声でつぶやいた。
「ハリー…『ハグリット』って言いたいんだと思うわ!」
「なんだって?」
思わずハーマイオニーに聞き返してしまった。だが、その言葉に返答しようと口を開いたまま、ハーマイオニーは恐怖で固まってしまう。巨人がハーマイオニーに気が付いたのだ。じぃっとハーマイオニーを見る。
「ハーミー、ハガー、どこ?グロウプ、ハガー、欲しい!!」
吠えるようにそういうと、巨人がハーマイオニーに手を伸ばした。ハーマイオニーは空気を裂くような悲鳴を上げる。それと同時に、放たれるケンタウルスの矢。どうやら、巨人が射程距離に入るのを待っていたみたいだ。
ケンタウルスの矢は、巨大な顔に浴びせかかり、巨人は痛みと怒りで吠えながら、身を起こした。血が辺りに飛び散る。私は、素早く杖を頭上に向けた。
「『プロテゴ‐守れ』!」
とっさに作った透明な盾が巨人の血のシャワーから身を守ることが出来たが、ハリーとハーマイオニーは血を浴びてしまった。巨人が痛みのあまり暴れはじめていたので、私達は、全力でその場から避難をする。
ケンタウルス達が散り散りになって森の奥へと逃げていくのを、唸りながら追いかけていく巨人。辺りに少しずつ、元の静寂が戻りはじめた。
「……さてと……これから、どうする?」
固まったまま動かない2人に話しかけると、2人は現実にようやく戻ってくることが出来たみたいだ。
「お城に戻らなくちゃ」
消え入りそうな声で、つぶやくハーマイオニー。それに対して噛みつくようにハリーが言う。
「そうだね。その頃にはシリウスきっと死んでるよ。本当に名案だ」
「でも杖がなきゃ何にも出来ないわ」
「待て、シリウス・ブラックに何かあったのか?」
『シリウス』が『どうしたのか』を私は知っているが、知らないふりをして尋ねる。すると一瞬口をつぐんだハリーだが、すぐに口を開いた。
「シリウスが神秘部でヴォルデモートにつかまって、今にも殺されそうなんだ!」
「…それは、どこから得た情報だ?」
「夢で見たんだ!さっきの魔法史の試験の時……僕は、現実を夢で見ることがあるんだよ!」
「そうか」
…成功だ。私は、口元が歪みそうになるのを必死でこらえた。ヴォルデモートが立てた計画は、順調だ、あまりにも順調。もう笑いたくなるくらいに順調だ。
ハーマイオニーが、少し疲れたように項垂れながら口を開いた。
「でも、神秘部があるのはロンドンよ?今からロンドンまでどうやって行くつもりなの?」
「セストラルを使えばいい」
「セストラルだって!?」
背後から驚きの声が上がった。そこにはロン、ジニー、ネビル、ルーナ、そしてセドリックがいた。全員かなりボロボロだ。ネビルの右目の上にはコブが紫色に膨れ上がっているし、ジニーの顔には擦り傷が幾本も見える。ロンの唇からはひどく出血をしていた。…ほとんど無傷といえるのは、セドリックだけだろう。
「どうやって逃げたんだ?」
目を丸くするハリー。ロンはハリーとハーマイオニーに杖を差し出しながら得意げに答えた。
「失神呪文を2、3発。それから武装解除呪文。ネビルも『妨害呪い』の凄い奴を1発かましてくれたぜ。でも、なんたってジニーが一番だな。『コウモリの鼻くそ呪い』でマルフォイをやっつけたんだ。…それで、君たちが森に入るのを見たから追ってきたんだけど、どうしてソイツがいるんだ?それに、アンブリッジはいったい」
困惑した表情を浮かべるロン。……そうか……ドラコ達は負けたのか。彼らの命が無事だといいが。気になったので様子を確かめに城へ戻りたかったが、今は仕事の方が大切だ。私はぐっとこらえる。ハリーが口を開いた。
「ケンタウルスの群れに連れてかれたよ。そこでグロウプに助けられたんだ?」
「グロウプって?」
ルーナが不思議そうな顔をすると、ロンが『ハグリットの弟』だと即座に答えた。
……なるほど。ハグリットの母親は巨人だ。異母弟を、どこからか連れてきて『禁じられた森』に隠しておいた、というところか。なんという危ない真似を…。ここは学校だぞ?巨人は凶暴で知られている生物だと思ったが、あの巨人は例外だと思いたい。
「…なるほど、だからアンブリッジがいないのか。で、どうやっていくんだ?ロンドンに」
「セストラルを使えばいいだろ」
私は杖をしまうと、カサカサと揺れた木陰を指さした。長い黒い鬣を揺らしながら、セストラルが姿現す。
「ハグリットが授業で言ってたのを覚えていないのか?『飼い慣らせれているセストラルは、道に迷わない』。それに、ハリーもハーマイオニーも、セストラルの好物の『血』を浴びているから、どんどん集まってくると思うし」
そういっている間にも、また2頭……木陰から姿を見せた。
「何頭いるの?」
少し震え気味だったが、どこか覚悟を決めた表情で問うハーマイオニー。
「4頭いるよ。だから、あと4頭必要だね」
ネビルが言う。するとハリーが怒ったような表情になった。
「何言ってるんだ!君たちは連れて行けない!君たちは関係ないんだ!」
ジニー、ネビル、ルーナ、セドリックそして私を指さすハリー。だが、4人ともついていく気なのだろう。もちろん、私もついていくつもりだが。
「シリウスのことなら、私だって関係あるわ!」
ジニーが歯を食いしばると、驚くほどフレッドとジョージにそっくりな顔になった。
ネビルも少し青ざめながらも、一歩前に出る。
「…DAは『例のあの人』に対抗するために訓練していたんじゃないの?…あれは遊びだったの、ハリー?」
「私も手伝いたい!」
「……私は足手まといだと思うか、ハリー?」
にっこりと笑いながら口を開くルーナに続く形で、私も口を開いた。一瞬、脳裏に先程のノットとの会話が浮かんできた。でも、すぐに頭の片隅に追いやる。セドリックもハリーの前に立った。
「ハリー、神秘部にはヴォルデモートがいるんだろ?アイツの部下には借りがあるんだ。だから、行かせてくれ」
私達の決意が揺るがないと感じたのだろう。ハリーは、大きくため息をついた。
「分かったよ……みんなで行こう」
暗闇に目を光らせながら、慎重に私たちに近づいてくるセストラル。その数は、ちょうど8頭いるから、いつでも出発できる。私は近くにいるセストラルにまたがろうとした……が、その前に重要なことを忘れていた。セストラルには見える人と見えない人がいるということを。
やっとの思いでセストラルの上に乗ることが出来たネビルと、慣れた様子でセストラルにまたがり、ローブを調えているルーナ以外の人には見えていない。私は、またがりかけていたセストラルから離れると、ルーナと協力して他の人達をセストラルに乗せた。
全員が乗れたみたいなので、私もセストラルに跨る。ちょうど翼の付け根のところに膝を入れると安定した。…ヒッポグリフに乗るような感じかと思っていたが、もっと馬に近い。ヒッポグリフとは違い、毛並みが馬のように艶々と滑らかだった。
「それじゃあ、ロンドンの魔法省来訪者入り口まで……どこに行くかわかったらだけど」
遠慮がちに告げるハリー。だが…セストラルは何も行動を示さない。失敗したか…そう思った時だった。
危うく落馬しそうになるほど素早い勢いで、両翼がさっと伸びた。セストラルは、ゆっくりとかがみこみ、それから弾丸のように急上昇する。
骨ばったセストラルの尻から滑り落ちないように、両腕両足でがっちりと胴体にしがみつかなければならなかった。セストラルは、力強く飛翔する。
―――――魔法省へ向けて――――――
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11月18日:一部訂正