朝、ちょうど最後の一欠けらになったパンを口に放り込んだ頃。斜め前に座っていたダフネが悲鳴を上げた。私を含めた周りのスリザリン生が、何事かと振り返ってダフネを見つめた。
「どうしたのよ、ダフネ?」
突然の悲鳴に驚いてポタージュを溢してしまったパンジーが、少し声を荒げて問いかける。答える代りにダフネは『日刊預言者新聞』の一面をテーブルの上に広げた。
10枚の白黒写真が載っていた。9人の魔法使いと1人の魔女。何人かは黙って嘲るような笑みを浮かべ、他は傲慢そうな表情を浮かべながら写真の枠をつついている。1枚ずつ名前とアズカバン送りになった罪名が書いてあった。
「…アズカバンからの集団脱獄!?」
普段は落ち着きを払っているザビ二が、目を丸くしながら叫ぶ。カタン、とミリセントが手にしていたスプーンが地面に落ちた。……だが、ミリセントは拾うことをしないで、食い入るように一面を凝視している。
簡単に内容をまとめれば、こんなことが書いてあった。
昨夜未明、アズカバンから『特別監視下』にある10人の死喰い人が脱獄したらしい。規模が規模なだけに外部犯の可能性が高く、魔法省大臣…ファッジは『シリウス・ブラックの手引きがあった可能性が高い』と発表していた。
…シリウス・ブラックは死喰い人ではないから、この10人の手引きをするわけがない。
どう考えても、ヴォルデモートが直々に乗り込んでいって……大方『吸魂鬼』を手なずけたのだろう。
私は、教職員テーブルに目を走らせた。……いつもと様子が違う……
ダンブルドアとマクゴナガル先生が深刻な表情で話しこんでいる。スプラウト先生は、ケチャップの瓶に『日刊預言者新聞』を立て掛け、食い入るように読んでいた……が、スプーンは止まったままで、そこから半熟卵の黄身がポタポタと膝に落ちているのにも気が付いていない。スネイプ先生は、全く表情を変えることなく新聞を読んでいたが、気のせいか、少しだけ食べる速度が遅くなっている気がした。
テーブルの端に座っているアンブリッジは、オートミールを旺盛にかっ込んでいた。普段ならガマガエルのような眼が、行儀の悪い生徒がいないかどうか大広間を舐めまわしているのに、今日だけは違う。食べ物を飲み込むたびに、しかめっ面をして、時々テーブルの中央をチラリと見ては、ダンブルドアとマクゴナガル先生が話し込んでいる様子に、毒々しい視線を投げかけていた。
私は席から立とうとしたとき、未だに広げてある新聞の一面に掲載されている1名の写真に眼がとまった。櫛を何年もいれていなそうな長い黒髪が特徴的な女性……顔立ちは整っているので、髪をとかして化粧をしたら、かなりの美人になるのではないだろうか?
写真の下に書いてある名前は≪ベラトリックス・レストレンジ≫……≪フランクならびにアリス・ロングボトムを拷問し、廃人にした罪≫だと記されていた。それに……ヴォルデモートの右腕だとも。
ロングボトムといったら……脳裏に浮かぶのは、同学年の丸顔の男子、ネビルだ。
私はグリフィンドールのテーブルをチラリと見る。大方のグリフィンドール生は、友達とクィディッチの話やら宿題の話やらで盛り上がっているが、新聞を睨んでいるハーマイオニーの周囲だけが違う空気を醸し出していた。
ハリーもロンも目を丸くして新聞の一面を凝視している。その隣で、ネビルが何かを押し殺したような顔をしていた。オムレツがまだ半分以上も残っているのに新聞を睨んだまま動かない。
……そういえば、ネビルの両親の話を聞いたことがなかった。
いつも厳しくて怖い祖母の話ばかり。その理由が今になって分かった。彼の両親は、ベラトリックスに拷問されて…
私は視線をネビルから逸らすと、そのまま大広間から外に出た。
今日は日曜日。授業はない。玄関の向こう側には、憎たらしいくらい晴れ晴れと青空が広がっている。殆どの生徒が外に遊びに向かう中、私は流れに逆らって階段を上っていた。このまま『秘密の部屋』に行って、調べ物をしようかと考えていた時だ。
「セレネ!」
後ろから声をかけられる。よく知った声だったので振り返ると、ハーマイオニーが顔を強張らせて人混みをかき分けながら、走り寄ってくるところだった。
「新聞読んだ?」
「あぁ、一面だけなら」
「なら、話が早いわ。セレネ、今からでも遅くないから『DA』に戻って!」
私は無表情の仮面をかぶりハーマイオニーを見た。ハーマイオニーは必死の形相をしている。
……何度目だろう。ハーマイオニーは何かにつけて『DA』…『闇の魔術に対する防衛術の自習』件『反アンブリッジ連盟』に加担するよう勧誘してくる。
『私が最初に入っていたのは、ハリー陣営だと思い込ませるため』なんて言えるはずがない。だから、勧誘されるたびに『私はアンブリッジに目を付けられているから』とか『他のスリザリン生との仲に溝を作りたくないから』とか『気が進まなくなった』と言ってやり過ごしていた。
でも、しつこくしつこく勧誘してくるハーマイオニー。
最近、ハーマイオニーの顔を見るたびに、少しうんざりすることが多い。まぁ、彼女は私が何をしようとしているのか知らないから仕方ないが。
「私は…」
「新聞を見たんでしょ?それに、貴方もシリウスが無実だって知っているんでしょ?」
少し声を低くして私に尋ねるハーマイオニー。…どうやら、私がシリウスの正体を知っているということを知っているみたいだ。おそらく、シリウス本人から聞いたのだろう。
「だから、あの集団脱獄は、きっとヴォルデモートがかかわっているに違いないわ」
「まぁ、十中八九そうだろうな」
私が肯定すると、ぱぁっと花が咲いたみたいに顔を明るくするハーマイオニー。
「セレネ、あなたならわかるでしょ?悪(ヴォルデモート)を殺さない限り、魔法界に平和は訪れないって。だから、自主的にヴォルデモートに対する対抗力をつけないといけないと思うの。ちょうど、今から『DA』が『必要の部屋』で始まるの。セレネも一緒に行きましょう!」
必死の形相で訴えかけるハーマイオニー。私のためを思って、彼女は誘ってくれている。
私は、ハーマイオニーから顔を逸らしたくなった。
「私は……そうは思えない」
小さく……でもハッキリとそう告げる。ハーマイオニーは固まったまま動かない。私はハーマイオニーが話し始める前に口を開いた。
「平和なんてものは、ヴォルデモートを殺したからって訪れない。確かに奴は傍迷惑な奴。記録によればマグルを殺し、反論する者を殺した。
でも……奴を殺したからって『平和』が訪れるとは思えない」
瞳を閉じると、脳裏に浮かぶのは、ブルーの瞳を持った老人の顔。ヴォルデモートがしていることは『悪いこと』だということは分かる。でも、私からしてみれば、正義面をしているあの老人の方が、ヴォルデモートより『悪』だ。
「善悪の基準なんて人それぞれだ。例えば…ほら、どの人も考えている事が同じというわけではないだろ?それと同じ。『平和』に対する価値観も人それぞれだ。ヴォルデモートを倒したら『平和』と感じる人は確かにいると思う。でも……それを『平和』と感じない人だっている」
私は、ハーマイオニーに背を向けると、ゆっくり歩き始めた。私の背中を追いかけるように、ハーマイオニーが悲痛の色が濃い声を出した。
「セレネは、ヴォルデモートにつくの!?」
私はいったん……足を止めた。思わず振り返りそうになったが、拳を握りしめて堪える。……ここで振り返ったら……私は、先に進むことが出来ない。
「私は、アイツに抵抗して命を落としたくない」
私は、再び歩き出した。誰が何を言おうと、私の道は私で決める。もう、誰にもセレネ・ゴーントは渡さないと、あの日に決めたんだ。
「セレ…」
「私は!」
ハーマイオニーが、私の名前を呼ぼうとする。それを遮るように私は声を発した。
「私は、ハーマイオニーのことを友達だと……思っている」
ハーマイオニーを裏切るような真似はしたくない。…私が進もうと思っている道を考えたとき、結果として裏切ることになってしまうかもしれない。むしろ、なる可能性の方が非常に高い。でも、私はハーマイオニーを裏切るような真似をしたくない。
出来ることなら、ここで私が今しようとしていることを吐露したい。それをしたら、今後の計画がすべて水の泡になるので言えないが。
ハーマイオニーが反応する前に走り出す。私とハーマイオニーしかいない廊下を走り……右に曲がるとその近くにかけてあったタペストリーをめくって抜け道へと飛び込んだ。
暗い…暗い抜け道を抜け扉を開く。明るい陽光が差し込んできて、思わず目をつぶってしまった。
「……やっと見つけた」
光の向こうから声がする。ゆっくり目を開けると、そこに立っていたのは不機嫌に眉間に皺を寄せたドラコだった。嫌になるくらい白い封筒を手にしている。
「…ありがとう」
封筒を受け取り、差出人の名前を見た時、私は先程までのハーマイオニーとのやりとりを、即座に胸の奥にしまった。
差出人は『ヴォルデモート』。アイツが私に手紙を書くなんてことは、今までなかった。これは…十中八九、私宛の指令だ。
右袖に隠してあったナイフを取り出し、それを使いながら丁寧に端を切り落とす。予想以上に達筆な字で綴られた『指令書』を、一行…また一行と読むたびに、口元が歪みそうになった。
「何が書いてあったんだ?」
ドラコが怪訝そうな顔で尋ねてくる。ドラコの問いに、私は答えず、出来るだけ無表情を保ったまま、折りたたんだ手紙を封筒に入れ直す。そして、ローブの内側から杖を取り出した。
「『インセンディオ‐燃えろ』」
呪文を唱えると、杖先から緑色の炎が噴射される。そのまま封筒は、あっという間に全体が黒く変化し崩れ落ちた。
「なぁ、何て書いてあったんだ?」
再度問いを投げかけてくるドラコ。私は顔が歪みそうになるのを必死でこらえながら……限りなく無表情に近い表情で……書いてあった内容の要約を口にした。
「『引き続き、“おもり”を頼む』ってこと。あと『“例の予言”を手に入れる手助けをしろ』だってさ」
「引き続き“おもり”?いや……それ以前に『例の予言』って何の予言だ?」
腕を組んで考えるドラコ。
「言えるのはそれだけ。これ以上は禁則事項だ」
私は、杖をローブの内側に戻しながら歩き始める。
『予言』についての対策を考えてあるが、『おもり』については、いまだに良作が見つかっていない。まず『おもり対象』とは寮が違うし、学年も違う。『おもり対象』の部屋に忍ばせてある蛇(バーナード)の定期報告だと朝から晩まで、基本的に『おもり対象』は遅れてしまった勉強に励んでいるみたいだ。ハリーと良い仲になりかけていたレイブンクローの東洋系ガールフレンドに支えられながら。
『記憶の混乱』が生じているということで『おもり対象』は『第三の課題』について話せない。だから、状況はハリー達にとってみたら暗転している。以前としてハリーやダンブルドアは『嘘つき』と呼ばれている。でも、それが私や奴にとって見たら好都合だ。このまま上手く計画が熟してくれたら…
「―――なの?」
耳にこびり付くような甘ったるい作り声が、どこからか聞こえてくる。私の少し後ろを追うようにして歩いてきたドラコにも聞こえたらしい。首を回して声の出どころを確認している。
「―――あの―――――んです」
「そうなの。続けてくださるかしら?ミス・エッジコム」
声の出どころは、半開きになった扉。空いた教室の中から話声が漏れているみたいだ。
扉に出来るだけ近づいて中を覗き込むと、中には扉側に背を向けている…いつも通り気持ち悪くなるくらい濃いピンクの服を着ているアンブリッジ。そして戸惑いながら何かをアンブリッジに打ち明けている赤い巻き毛の少女。確か名前はマリエッタ・エッジコム。この間『ホッグズ・ヘッド』で見かけたレイブンクローの女子生徒だ。
「あの……8階の『必要の部屋』に行けば、先生にとって都合の良いものが見つかると思います」
…私は息をのんだ。私の隣で耳を立てているドラコには何のことだか分からないみたいだ。でも、私には何が目の前で行われているか分かった。
あの少女は、『DA』のメンバーを売ろうとしている。そういえば、ハーマイオニーが『今日はこれから会合がある』みたいなことを、さっき言っていた。
「…っち」
小さく舌打ちを打つ。そして、気が付くと再びしまったばかりの杖を取り出している私がいた。その行動の意味を考える暇もなく、すぐ近くにいるドラコでさえ判別できないような小さな声で、私は呪文を唱えた。
「『エクスペクト・パトローナム―守護霊よ、来たれ』」
杖先から白銀の大蛇が飛び出す。……音もなく出現した大蛇に、ドラコは気が付いていない。私は『警告文』を脳裏に思い浮かべながら、大蛇に向かって杖を一振りすると、白銀の大蛇は霞になって何処かへと向かう。
私の名前が記されたままだと考えられる『DAの名簿』には、あの場を去る前に呪いをかけておいた。用紙に名前を記した誰かが密告した場合、用紙が燃えるという証拠隠滅の呪いを。
それに『DA』のメンバーを逃がす義理は私にはない。なのに……何で私は杖を振ったのだろう?何で、私は『守護霊』に『警告』を載せて……『DA』のメンバーがいる『必要の部屋』まで飛ばしたのだろう?
あのメンバーの中にはネビルやハーマイオニーがいるから?本当にそれだけの理由なのだろうか?
気が付かない間に、クイールのお人好しな性格が移ってしまっていたのかもしれない。私は苦笑を浮かべながら、再びアンブリッジとマリエッタ・エッジコムの密談に耳を傾けた。
「そう……具体的には何が起きているの?」
「……秘密の会合です……教育令違反の」
マリエッタが、アンブリッジに対して懺悔するように言葉を発した時だった。マリエッタの頬から鼻を横切って、膿んだ紫色の『できもの』がびっしりと広がり、文字を書き始めていた。
≪密告者≫
という反逆の言葉を。