今回は番外編なので、スネイプ先生視点です。
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僕は脚を動かす速度を緩めずに、チラリと振り返った。…僕の後を追いかけて来ていたのは小さな茶色の犬。たぶんトイ・プードルだと思う。僕の家の周りで見かける野犬とは比べ物にならないくらい毛並みの状態が良い。緑色の首輪をしているから、飼い主とはぐれてしまったのだろう。犬は、小さな足を必死で動かして、僕の後を追ってくる。
僕は前を向いて、歩く速度を速めた。でも、犬はついてくる。はぁ、はぁ、と荒い息を吐きながら犬は必死で僕の後を追ってくる。鬱陶しい…
魔法を使って追い払おうかという考えが、僕の頭をかすめた。でも、そんなことはしない。
いちいち犬ごときのために魔法を使うなんて笑止千万だ。無視していれば追ってこないはず。僕はただ前の丘だけを見て歩いた。丘の上の四方に太い枝を伸ばした樹が見えてきた。その根元のところに寄りかかって本を読む、愛おしい少女の姿も…
少女…リリーは僕が近づいてくるのに気が付いたのだろう。本から顔をあげると、まるでヒマワリの花が咲いたみたいな明るい笑みを浮かべた。強張っていた僕の顔も、自然と柔らかい表情になるのが自分でもわかった。それと同時に、丘を登る速度が上がる。
「ごめん、待った?」
丘を一気に駆け上ったので息が荒くなってしまった。リリーは笑みを浮かべたまま、首を横に振る。
「私も今来たところなの。…あら、その犬ってセブの犬?」
振り返ると、僕と同じように荒い息をしている犬が座っていた。赤い舌を、だらしなく伸ばして。
「いや、知らない犬。ずっとついてくるんだ」
僕がそう言うと、リリーは犬に近づいて行った。犬の頭を恐る恐るといった感じで撫でる。すると嬉しそうに犬は尻尾を振った。…なんだか、尻尾だけ動く人形みたいだ。リリーは犬を抱えると、丘を下り始めた。僕は慌ててその後を追う。
「どこに行くんだ?」
「決まっているじゃない。飼い主のところに連れて行くの」
当然だという顔をしたリリー。…せっかくリリーと過ごせる時間なのに、犬のせいで時間を取られることになるなんて。僕は心の中で、ため息をついた。
「…どこの犬だ?」
僕は、少し乱暴に犬の首輪についている鑑札を見た。鑑札に書かれている住所は、リリーの家と僕の家の中間あたりの場所を指していた。
「≪S・W≫……『S』が犬の名前の頭文字で、Wが飼い主の苗字の頭文字か」
「W…W、ねぇ。……あっ!」
『W』から始まる苗字について考え込んでいたリリーが、何か思い出したみたいだ。
「きっと『ホワイト』さんの家よ!そういえば、昨日…妹(チュ二ー)が『クイール君の犬がいなくなった』って言っていた気がするわ」
すると『クイール』という名前に反応したのか、犬は嬉しそうに尻尾を振り始めた。よしよしとあやす様にリリーが犬を撫でる。……いいな、犬。僕は慌てて視線を逸らした。なんで僕が犬なんかに嫉妬しているんだ!とにかく早く犬の飼い主のところへ連れて行こう。
「そのクイールとやらは、リリーと仲が良いのか?」
「近所だから話したことがある程度。彼の家は基本的に人づきあいが悪いんだけど、クイール君は別なの。頼み事は断れない性格でね、物凄いお人よし。普段はロンドンの寄宿舎学校に通っているみたい。それで……そうそう、あとチュニーの初恋の相手よ。まぁ、クイール君にはすでに好きな人がいるみたいだから、チュニーの初恋は実らなかったけどね。…あっ、この家よ」
豪華でもなくかといって特別貧乏というわけでもなさそうな普通の家に辿り着いた。小さいながらも手入れが行き届いた庭があり、3階建てで、僕の家よりもずっと裕福な暮らしをしているみたいだ。リリーがインターホンを押す。…でも、誰も出てこない。
「あれ?おかしいわね」
何回押しても出てこない。留守なのだろう。まったく、さっさと犬を手放したいのに。
「…僕の家に何か用ですか?」
ふいに背後から声が聞こえた。振り返るとそこにいたのは、身体中が泥まみれになった少年だった。これといって特徴のない顔をしている。…おそらく、この少年が『クイール』なのだろう。頬に殴られた痕があり、左手で右腕をかばっている。それに加え、足元がふらついていることから察すると、誰かと喧嘩した後なのだろうか?
「ちょっと!?どうしたの、その怪我?」
リリーの顔が真っ青になる。その拍子にリリーは犬を地面に落としてしまった。犬は驚いてキャンっと吠えた。だが、すぐに体勢を立て直すとクイールと思われる少年の所に走りだした。
「ス、スポット!?」
泥まみれの顔が、一気に明るくなる。スポットと呼んだ犬を愛おしそうに抱きかかえるクイール。
「よかった…。てっきり父さんに……本当に良かった」
目を潤ませながら、クイールはスポットの背を優しく撫でている。スポットは気持ちよさそうに目をつむる。
「ありがとう!リリーとその子が保護してくれたの?」
「その犬を保護したのは私じゃなくてセブよ。それよりもクイール君……その怪我はどうしたの!?」
クイールは、リリーと僕に笑いかけた。
「ちょっと転んだだけだって。ありがとう。えっと、僕の名前はクイール・ホワイト。君は?」
「…セブルス・スネイプ。別に礼を言われるようなことはしていない。ただ犬が僕に付いてきただけで…」
「でも、スポットを連れてきてくれたんでしょ?ありがとう!」
僕は、にっこりと邪気のない笑みを浮かべているクイールから視線を逸らした。何時以来だっただろう、礼を言われたのは。…記憶を掘り起こしてみても何も出てこない。出てくるのは、喧嘩している両親と……リリーだけだ。
「そうだ、なにかお礼をしたいから……家に上がっていかない?今日はお父さんもお母さんもロンドンに行っているから、いないし。それにお菓子くらいならだせるよ?」
犬を抱えながら、玄関の扉を開けるクイール。
「いや、だから僕は……」
「行きましょう、セブ!」
僕は帰ろうとしたけど、リリーが僕の腕をつかんで離さない。
「だが、僕はリリーと…」
今日一日、ずっと2人だけで過ごしたかったのに。…そう言おうとしたが、リリーのアーモンド型をした緑色の瞳を視た途端、反論できなくなってしまった。否、その瞳に見惚れてしまって、何も言えなくなってしまったというべきなのだろうか。
そのまま僕はクイールの家の中に連行されたのだった―――
「…スネイプ先生、お願いがあるんです!!」
研究室の扉が壊れそうになるくらいの勢いで開かれる。真っ青な顔をして飛び込んできたのは、たしか2年生のアステリア・グリーングラス。5年のダフネ・グリーングラスの妹だと記憶しているが、物静かな姉とは正反対で溌剌としていて落ち着かない女子生徒だ。
「スリザリン、1点減点」
「え、え――!!なんで、ですか!?私、何か悪いことしましたか!?」
「スリザリン生なら、もう少し余裕をもって行動してもらいたいものだ、ミス・グリーングラス。家ではノックもなしで入室することが失礼極まりないことだと教授されていなかったのか?」
「…すみません…」
アステリアの昂揚して赤くなっていた顔が、水でも被ったように覚めていき、90度に身体を折り曲げ、謝る。私は手に持っていた写真を机の上に伏せると、腕を組んだ。
「…それで、いったい何の用かな?生憎と我輩は忙しい。用件は手身近にすませてもらいたいのだが」
「あっ、そうでした!」
パッと顔を上げるアステリア。……表情が変わるのが速い。再び昂揚気味た表情を浮かべていた。
「先生!犬を寮で飼ってもいいですか?」
「犬だと?」
耳がおかしくなったかと思い、聞き返す。だが、私の耳がおかしくなったわけではなかったみたいだ。
「はい!まだ犬種は決めてないんですけど。小型ならトイ・プードルとかポメラニアンとか…で、大型ならラブラドールとかシェパードみたな犬を飼いたいんです!」
……なるほど。ホグワーツの校則では、寮に持ち込みが許可されている動物を『フクロウ』『猫』『ヒキガエル』に指定している。それ以外の動物は、寮監に許可を貰わないと飼うことが出来ない。数年前はグリフィンドールのウィーズリー家が『ねずみ』の申請をミネルバ・マクゴナガルに提出していた。それに、私自身もセレネが『蛇(バーナード)』を寮に持ち込むことを許可した。
だが、今回のこれは許可しても良いのだろうか?そもそもどうして今頃、犬を飼いたいと思ったのだろう?だが、それを問う前にアステリアの方から答えてくれた。
「アニマルセラピーって知っていますか?動物と一緒に暮らすことで、精神的な健康を回復するマグルの医療方法です!犬という一般的愛玩動物を飼うことにより、セレネ先輩の心のケアにつながるのではないでしょうか?」
…つまり、自分のためではなくセレネのためだということか。確かに最近のセレネはおかしい。今までと何も変わらないように過ごしているが、逆にそれがおかしい。普通なら、大切な人を失った後は、何か変わるはずなのに……セレネは何も変わらない。
恐らく、自分の中にストレスをため込んで無理をしているのだろう。
そう考えると、ある意味…そのアニマルセラピーというのは、セレネにプラスの影響をもたらす可能性があるかもしれない。だが…
「却下だ」
「えぇぇ!!なんで、ですか!?」
アステリアが憤慨する。だが、私は出来るだけ淡々とした口調で話した。
「君の同室のミス・アインバッハが、動物アレルギーだということを知らないのかね?
そんな話をする前に、ミス・グリーングラス。君は、前回の課題を提出していないようだが、どうしたのかな?」
「げっ………じ、次回持ってきます!」
首を絞められた時のような声を出すと、研究室を飛び出していった。…騒がしかったアステリアが消え、再び静寂が研究室に戻ってきた。私は先程伏せた写真を裏返す。…そこに映っているのは3人と1匹。
その中で生きているのは、不機嫌な顔をした私だけだ。緑色の瞳を輝かせているリリーも、まだ顔に泥を付けているクイールも、クイールが抱えている犬も、この世にはいない。
初めてクイールと会った日に、3人で撮った唯一の写真で……唯一、私が持っているリリーが映っている写真だ。クイールはお人好しで、最初は私たちの仲に割り込んでくるマグルだと思っていた。
でも、3人でいるとホグワーツにいる時より楽しくて、心が落ち着いて…あの数年間の夏は、今まで過ごしてきた日々の中で一番楽しかった。学校で生活している時、幾度となく『クイールも魔法使いだったらいいのに』と思ったのを覚えている。
5年生の最後でリリーを傷つけてしまって、それからは、3人で遊ぶということはなくなってしまったけど、クイールとの交流は続いていた。学校では私のことを唯一理解してくれるルシウス・マルフォイにも相談できないリリーのことを、親身になって相談に乗ってくれたし、クイールなりにリリーとの仲を保たせようと奔走してくれていた。
……その努力が実を結ぶことがなかったが。
クイールの飼っていた犬のスポットは、かなり長生きした。今から15年前、クイール曰く『心臓病の発作』でスポットは死んだ。享年17歳だったらしい。それと時同じくして…クイールがひそかに思いを寄せていた女性も、別の男と結婚した。クイールの両親は彼が16歳の時に死んでいる。
特に親しい友人がいるわけでもなく。…いたとしても、日本という最東の国の友人や、怪しげな流れ者の類が多かったらしい。…私は私で『死喰い人』として活動していたから、あまりマグルのクイールには近づくことが出来ない。やりとりしていた手紙の文面でのクイールは『明るい』雰囲気だったが、無理に『明るく』ふるまっているようにも見える手紙だった。
そういえば1回だけ、ロンドンでクイールを見かけたことがある。所要で『聖マンゴ魔法疾患傷害病院』を訪れた時、行きかう人々の中にクイールの姿を見つけたのだ。その時のクイールは、少年時代の彼からは考えられない雰囲気を纏っていた。一見するとマグルに溶け込んだ無色無臭の存在。だが、私は気がついた。クイールの瞳は、何も映していない。そう、例えるなら感情のこもっていない機械のような瞳だ。私が呆然としている間に、クイールは異様な雰囲気を醸し出していた青年に話しかけられた。赤い帽子に赤いロングコートを纏った金髪の青年とクイールは、どこか親しげに話し合いながら近くの路地へと消えていく。私は、慌てて2人の後を追いかけた。
でも、時はすでに遅く…薄暗く汚らしい路地の中に、彼の姿を見つけることが出来なかった。もちろん、あの異様な雰囲気を醸し出していた青年の姿も。
……もし、セレネを引き取っていなかったら、クイールはもっと早くに死んでいたかもしれない。セレネが、抜け殻となったクイールの新しい中身になったお蔭で、クイールは生き続けることが出来た。自分の娘のようにセレネを育て、教職に再就職し……彼は人生に終止符を打った。
『この娘の名付け親になってくれ』と私に頼み込んできたときの、輝いた眼を今でも思い出せる。あのとき、『あぁ、こいつはもう大丈夫だ』と思えたのに、私より早く死んでしまうとは…
私は、あの娘を幸せにすることが出来るのか。正直、自信がない。
リリーの子も必死で守っているが、セレネもヴォルデモートから護りきれる自信がない。むしろ、セレネからヴォルデモートの方へ行ってしまう日が来るのではないかと思う日がある。むろん、根拠のない話だ。でも、妙な胸騒ぎがする。だから何度もセレネには警告をしているが…
コンコン
小さく扉をノックする音が聞こえる。再び写真を机に伏せて、扉を開けると………そこにいたのはブルーの瞳の老人が立っていた。