大鍋から黄色の煙が天井へと螺旋を描きながら昇っていく。
どうやら無事に魔法薬が完成したらしい。私は立ち上がると、橙色の液体を試験管で掬いとる。コルクで栓をすると、いつも通りスネイプ先生に提出する。スネイプ先生は難しい顔をして試験管を受け取った。
「…本当に、我輩の言いつけを守っているか?」
近くにいる私にしか聞こえないくらい小さな声でスネイプ先生は問いかけてきた。しかも、ほとんど口が動いていない。私は小さなため息をついた。
「大丈夫です。まだ、死にたくないですから」
先生の目を見ながら、私も先生にしか聞こえないくらい小さな声で言う。先生は疑惑の色を隠さない。その眼はまるで、私の考えを読もうとしているみたいだ。
…スネイプ先生は、私の名付け親でありクイールが死んでからは保護者になってくれた。内輪で執り行ったクイールの葬儀の時に、先生が保護者として名乗り上げてくれたのだ。その時に先生が私に言った言葉は、今でもハッキリと思いだすことが出来る。
先生は、あの葬式の日…他の弔問客みたいに、私に対する同情の眼差しを向けることはなかった。保護者として名乗り上げてくれたスネイプ先生は、去り際にただ一言、こう言った。
『命を無駄にするな』と。
何故だかわからない。だけどその言葉が、クイールを失ったことに対する他のどんな慰めの言葉よりも、すんなりと心に浸透したのは確かだ。
先生は『クイールが死んだ分、彼の分まで生き続けろ』という意味で言ったのだと思う。それまでは、どうやってカルカロフに復讐をするかをだけを考えていた。たとえ自分が死んででも、カルカロフに復讐が出来ればそれでいい。そう思っていた。
だけど、先生のその一言が、不思議と脳内に重く響いた。一気に頭から水をかけられたかのように、熱が引いていくのが自分でも分かった。
クイールはきっと、私が死ぬことを望まない。
そのことに気が付いたとき、私はまだ死にたくない。ここで命を捨てるようなことをしたくないと思えるようになった。『死』に対する底知れない恐怖も、押し寄せる波のように戻ってきた。復讐するとしても、自分が死なない方法を選ぼうと思った。それと同時に、今後の身の振り方を考え始めていた、そんな時だ。…ヴォルデモートが家にやってきたのは。
先生には私が『破れぬ誓い』を結んだことを話していない。私がヴォルデモートと『破れぬ誓い』を結んでいるなんてダンブルドアに知られたら、行動を起こしにくくなる。万が一、スネイプ先生経由でダンブルドアに知られたらまずい。だからヴォルデモートに、他言しない様にと釘を刺しておいた。もちろん、その配下のシルバーやルシウス・マルフォイにも。
だから『破れぬ誓い』のことを知っているのは、あの場にいた私達4人。…それから『あるもの』を調達するために協力を仰いだ衛宮切嗣と、不本意ながらに知られてしまったが、私に協力をしてくれているルーピン先生くらいだ。一昨日の出来事を見てしまったハリーも知ってしまった可能性があるが、あたかも『夢』であるように勘違いさせたので、たぶん知らないし、気づくことはないだろう。今のところの話、だが。
先生は、まだ疑惑の目をしている。…だが、こうしているのは時間の無駄だと思ったのだろう。先に折れたのは先生の方だった。
「……言いつけを守っているのであれば構わない。だが、忘れないことだ。……クイールを真に思うのであれば、道を踏み外さないようにしたまえ」
気のせいだろうか……少し寂しげな色が先生の顔に浮かんだ気がした。だが、それは一瞬で、よく見直した時には、いつもの感情を押し殺したような仮面をつけた表情になっていた。
私は一礼をすると、その場を辞した。もう教室に残っている生徒はいない。今日の授業は魔法薬学で終わりだから、誰もが予定を入れている。
いつも行動を共にしているダフネは、これから付き合っているレイブンクローのテリー・ブートと落ち合う約束をしているらしい。パンジーはクィディッチの練習に出かけたドラコの応援で、ミリセントはそれに野次を飛ばしに行くと言っていた。私も誘われたが、クィディッチに興味がないので断った。
手際よく荷物をまとめ、ほんの数人しか残っていない教室を出る。その時にトボトボと意気消沈といった様子で歩くネビルの背中を見つけた。
私が近づくと、力なく笑うネビル。そういえば、ネビルは今回も魔法薬の調合を失敗していた。橙色の液体になるはずの魔法薬が、何故か桃色のスライムみたいな固形物になっていたのが脳裏に浮かぶ。
「セレネは凄いよね。いつも完璧に調合しているし」
ため息交じりに言うネビル。…やっぱり、今日の授業の失敗のせいで落ち込んでいるみたいだ。なんだかネビルの周りに悪雲が漂っているのが見えた気がした。
「ネビルだって凄いと思うぞ?特に薬草学の知識が。私は『ミンビュラス・ミンブルトニア』って植物を知らなかった」
そういうと、ネビルの表情は少しだけ明るくなったが、依然として暗いままだった。
「『ミンビュラス・ミンブルトニア』なんて知っていても何も役に立たないよ」
「知らないよりも知っていた方が役に立つ。それに前にネビルは言っていただろ?『いつも覚えられない寮の合言葉だけど、今年は“ミンビュラス・ミンブルトニア”だから忘れないよ』って。
私もネビルに『ミンビュラス・ミンブルトニア』を教えてもらっていたから助かったことがあったし」
私は、自分の口元が微かに歪んでいるような感じがした。そう、ネビルのお蔭だ。一昨日の夜、ルーピン先生や衛宮切嗣との密会をハリーが聞いていたことを思い出す。
最初は気が付かなかったが、バーナードが『ピット器官』という蛇が持っている探知能力でハリーがいるということを教えてくれたのだ。話しの内容を聞かれたらまずいので、直ぐにハリーを気絶させた。でも、ダンブルドアみたいに記憶を改竄する様な行為はしたくない。
仕方ないので、ハリーをグリフィンドールの談話室まで運んだのだ。寮に入るための合言葉については、前にネビルに教えてもらっていた。ネビルに教えてもらっていなかったら、私はいったいどうしていただろうか。
「助けてもらったって……本当に?」
驚いたような眼で私を見てくるネビル。私は真顔で頷いた。
「だからネビルは、少し自信を持っていいと思う」
「ありがとう、セレネ……あっ、そうだ!」
嬉しそうな顔をしたネビルは、きょろきょろと辺りを見渡して誰もいないことを確かめている。聞かれたくない話なのだろう。ネビルは、内緒の話をするみたいに声を低くする。
「あのさ……アンブリッジ先生の授業についてどう思う?」
なるほど、だから周りを気にしていたのか。あの先生の悪口を言ったことが、先生にバレたら、後々つらい目に合うのは自分だ。私も四方に人がいないのを確認すると、声を小さくした。
「魔法省の決めたことを的確にこなしているだけ。あの女が行っている教育は実質陶治……つまり知識の詰め込み教育だ。確かに知識や理論は必要だが、それを扱う能力を育てないと意味がないのに、それが分かっていない」
「だよね。あの授業だと、本当の防衛術が学べないよね」
同意を得られてホッとしているネビル。先程までの暗い表情ではなく、どこか生き生きとした表情になっていた。
「ハーマイオニーに誘われたんだけど、次のホグズミード村に行く日に、自主的に『闇の魔術に対する防衛術』の自習をしないかって。セレネも行かない?」
「自習か…」
正直、試験レベルの防衛術は出来る自信がある。
だが、少しは練習をしないと腕が落ちそうな気がするし、アンブリッジに強い反対意見を持っている人が………アンブリッジと敵対するダンブルドアの味方として私の前に立ちふさがる可能性のある人が、現時点でどれだけの実力を持っているのかを知ることが出来る機会かもしれない。
「少し興味が出てきたな。ちなみに…他に誰が来るのかネビルは知っているのか?」
「まずハーマイオニーでしょ。それから…えっとね、ハリーが先生で…それから…」
「待て!ハリーが先生?」
顔を歪めて誰が参加するのかを思い出そうとしているネビルに口を挟んでしまった。
てっきり、互いに呪文を掛け合って、指摘したり指摘されたり、ああでもない、こうでもないと言いながら、互いに成長していけるような自習をするのだとばっかり思っていた。
なのに、ハリーが先生で、参加する人が生徒?互いに呪文をかけあうよりも、危険な気がする。というより、ハリーに教師が務まるのだろうか?
「どうしてハリーなんだ?」
「だって……ほら、セレネも見たんでしょ?『例のあの人』が復活したところを」
ネビルが恐々とした様子で聞いてきた。だが、ネビルの眼はいつになく真剣な光を放っている。…どうやら、ネビルはヴォルデモート復活説を信じているみたいだ。
「ああ、見たな」
「僕たち『あの人』に立ち向かわないといけないんだ。…怖いけど……でも…怖がっているだけじゃ、だめだから。だから、『あの人』と一番多く戦って生き延びているハリーが先生に適任だと思うんだ。それに1年生の時からずっと……」
ネビルの手が震えている。本気だ。ネビルは本気で『ヴォルデモート』に立ち向かうきだ。ネビルはダンブルドアの味方に付くだろうと、なんとなく予想はついていたし、ハリーのことを信頼しているということも分かっていた。でも…実際に目にすると、なんだか少し寂しいような悲しいような気分になってきた。私は、無意識のうちに自分の右腕を強くつかんでいた。ヴォルデモートと契約を結んだ、右腕を…。
「どうしたの、セレネ?顔色が悪いよ」
ネビルが心配そうにのぞきこんでくる。私は無理やり笑みを作る。
「大丈夫」
私は、ネビルに言い聞かせるように言った。それと同時に、自分自身に言い聞かせるように、自分の気持ちを再度確認するかのように。
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11月10日:一部改訂