SIDE:ハリー
「疲れた」
僕はパジャマに着替えないで、そのままベッドに潜り込む。ずっと羽ペンを使っていたので、右手が麻痺しているみたいで感覚がない。ベッドの上についている天幕を眺めて、ため息をついた。
…本当に今日は、朝から最悪な気分だった。
今学期末に迫っている『OWL(普通魔法レベル試験)』のせいで先生たちは処理しきれないんじゃないかってくらいの量の宿題を出したせいで、せっかくの日曜日なのに、ろくに休めなかった。それに、昨夜のクィディッチの練習は最悪だったし。
…なんか思い出すだけで腹が立つ。
今学期からクィディッチのキーパーになったロンを加えた新生・グリフィンドールチームの初練習だったんだけど、そこにスリザリンの連中が来て野次をとばしたんだ。それも、物凄く胸糞悪い野次。ロンの家族を中傷するような野次のせいで、ロンが怒って顔を真っ赤にしていた。しかも、ロンがチームに入ったことを快く思っていないフレッドとジョージも悪ふざけをして練習を滅茶滅茶にしたし…。
その上、パーシー……ロンのお兄さんからロン宛に手紙が届いたのだ。野心家で権威に対する執着心が強くて、そこまで好きというわけじゃなかったけど、それでも比較的良好な関係を築いていたパーシーが、僕を『情緒不安定』と断定しているなんて。
最悪だ。
本当に僕は運がない。
今年の夏休みだって、最悪だった。
なんかよく分からないけど、吸魂鬼に従兄(ダドリー)と一緒に襲われて、呪文を使ったせいで退学処分になりかけたし。やっとダーズリー家から解放された!って思ったのもつかの間で、『不死鳥の騎士団』っていう反ヴォルデモート運動のアジトになったシリウスの屋敷の掃除をしないといけなくなるし。懲戒尋問で刑事事件の大法廷で裁きを受けないといけなくなるし、付添人のダンブルドアは僕のことを見ないし。
ハーマイオニーもロンも……誰も僕のことなんて考えてくれないし。
挙句の果てには、新聞で『狂った』とか『目立ちたがり屋』とか『うそつき』呼ばわりされるのは僕だけだ。なんで僕と同じようにヴォルデモートが復活のを目撃したセレネは狂人扱いされないんだ?セドリックが騒がれないのは分かる。……だって、まだ病院で入院しているみたいだから。
僕の右手の甲に刻まれた文字が目に入ってきた。
《嘘をついてはいけない》
この文字は、アンブリッジの罰則で刻まれた文字だ。ただの書き取りの罰だと思ったら、使用するインクは自分の血、つまり筆者の血を使って書く羽ペンを使った書き取りの罰だったんだ。
「嘘なんてついてないのに…」
嘘はついてはいけない。そんなこと百も承知だし、僕は嘘なんてついていない。ヴォルデモートは本当に復活したのに……嘘なんてついてないのに。なんで僕だけ………
セレネだって見ているのに。『ヴォルデモートは復活していない』ってセレネは嘘をついたのだろうか?自分の保身のために、僕が言っていることを全て狂言だということにして。セレネは、ヴォルデモートと戦わないのか?
「あれ?」
窓の外に広がる夜の闇の中に、小さな人影が動くのを見た気がした。僕は足音を立てないようにしながら窓に近づいて、それが何なのか確かめようと目を細める。
「セレネ?」
思わずつぶやいてしまった。…腕時計を見ると、もうすぐ短針が11時を指すところだった。…こんな深夜に1人で何をしているんだろう?
僕がジッと目を凝らしてみていると、セレネは…なんと『暴れ柳』の木に近づいて行ったんだ。『暴れ柳』といえば、ルーピンが入学したから植えられた、近づくものを攻撃する柳だ。とにかく触られるのを嫌い、ロンのお父さんの車(フォードアングリア)を攻撃したり、僕のニンバス2000を修復不可能なほどに破壊するほど。でも、あの樹を止める方法はある。ここからだと分からないけど、幹のある一点を突けば動きが止まり、ホグズミードにある『叫びの屋敷』に繋がる道が出来るんだ。
まさか、セレネもそれを知っていたってこと?一体どうして?
僕は考えるより先に行動していた。トランクの中から『透明マント』を取り出すと、それを羽織る。
僕は、セレネがなんであんなところにいるのか気になったんだ。こんな時間に、暴れ柳に近づくってことは十中八九『叫びの屋敷』に行こうとしているとみて間違いないと思う。
…もしかしたら、セレネはヴォルデモートと手を結んでいるのかもしれない。だから、こんな夜中に城を抜け出そうとするに違いない。信じたくないけど、だってセレネはスリザリンの血を引いているし。…でも、セレネのお父さんは『(元)死喰い人』のカルカロフに殺されているみたいだから、ヴォルデモートと手を組みそうにないんだけど。
僕はロンを起こそうかと思ったけど、ぐっすり眠りこんでいるロンを起こすには時間がかかりそうだ。ロンを起こして事情を説明しているうちにセレネを見失いそうだと思った僕は、早足で寮の階段を下りた。
「『ルーモス‐明かりよ』」
杖先に頼りない明かりが燈る。その足元だけを照らす明かりだけが、誰もいない静まり返った廊下を照らしていた。
そういえば、こうして『透明マント』で姿を消して移動するのは何度目だろうか?そんなことを考えながら校庭に出る。
とっくにセレネの姿は、見えなくなっていた。もう『暴れ柳』を通過してしまったのだろう。暴れ柳は強風で煽られているみたいに枝を軋ませ、僕を……誰も近づけないように枝を前へ後ろへと叩きつけていた。
僕は握りしめていた杖を、近くに落ちている木の棒に向けた。
「『ウィンガーディアム・レビオーサ‐浮遊せよ』」
木の棒がフワリと宙に浮く。僕はそのまま木の枝を荒れ狂う暴れ柳の枝をかいくぐるように動かすと、幹の一点に触れさせた。すると、まるで大理石の彫刻のように動きを止める暴れ柳。そして根元のところに人が一人通れるくらいの隙間が出来た。僕は透明マントをしっかり体に巻きつけなおすと、先が見えない埃っぽいトンネルの中に潜り込んだ。
だんだんとトンネルが急な上り坂になってきた。はぁ…はぁ…と荒い息が漏れそうになる。でも、ここで変に音を立てたら聡いセレネのことだ。気が付かれてしまう可能性が高い。僕はなんとか息を押し殺して進む。
「『ノックス‐闇よ』」
聞き取れないくらい小さい声でつぶやく。すると頼りなさ気に燈っていた杖明かりが消え、辺りが闇に包まれた。
「――――なのか?」
「あぁ――――ということだ」
「――――だね。2人とも会ったことがないから分からないけど―――の方は、特に会ってみたかったな。セブルスと仲良くなった珍しいマグルだし」
微かに明るい前方から、風に乗って声が聞こえてくる。1人目は知らない男の声だったが、2人目はよく知っている声、セレネの声だ。でも、3人目の声を聞いたとき耳を疑ってしまった。だって、その声もよく知った声で…でも、ここにいるはずがない人物の声だったから。
はやる気持ちを抑えて、僕は坂を上りきってトンネルから出た。扉の向こうから明かりが漏れている。…僕は恐る恐る隙間を覗き込んだとき、思わず声を出しそうになってしまった。
そこにいた人は3人。
板が打ち付けられた窓の傍に立っているのは、着古した闇に溶け込みそうなコートを羽織る知らない男。その近くの素朴な扉に寄りかかるようにして立っているのはセレネ。足元に蛇のバーナードをはべらせている。眼鏡はかけていなかった。闇の中で得物を見つけた獣みたいに、瞳が青く爛々と輝いている。…そういえば、ヴォルデモートと対決した時も、あんな感じで目が蒼くなっていたけど、どうしてだろう?という疑問が浮かんできたが、それを打ち消すような衝撃が僕に走った。
やや無表情な2人の前に置いてある、今にも脚が折れそうな丸椅子に腰を掛けて微笑んでいる人物。継ぎ接ぎだらけのローブを身にまとった若白髪の男、ルーピンがいたのだ。
なんでこんなところに…?
僕が困惑している間にも話は進んでいた。知らない男が、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。ふぅ…と煙草の白い煙を吐きながら男は無感情なまなざしをセレネとルーピンに向けた。
「……だが、納得がいかないな。君はまだ成人すらしていない女の子だ。…その重みを背負って生きていく決心をしたことに、いつか必ず後悔する日が来る。それでも、やるのかい?」
「後悔は、ありません」
まっすぐ男を睨むように見つめるセレネ。そんなセレネを見たルーピンは、立ち上がってセレネの肩に手を置いた。
「心配するな。セレネが道を踏み外さないように僕やセブルス……この子の名付け親が面倒を見るから」
……え?セブルス?今ルーピンは、セブルスって言った?
僕の思考が凍結しかけた。えっと、なんでセレネの名付け親がスネイプなんだ?セレネってマグルの中で育てられて、ホグワーツに入学するまでスリザリンの末裔ってことを知らなかったんじゃなかったっけ?
「……いつまでも面倒を見れると思っているのか?」
「まさか!でも、その時が来るまでのストッパーになることは出来る。…その時にはセレネの心の準備もできているさ」
ルーピンは男の無感情な目をまっすぐ射抜くように見ている。決意を固めた色だ。でも、どうしてセレネのストッパーになろうと思ったんだろう?2人に共通点なんてないように思えるのに。
「……そうか。まぁ、君の計画は僕にとっても利益になるから止めることはしない」
煙草を踏み消す。それから男は、セレネの立っている傍の扉の取っ手に手をかけた。
「……例の物はクリスマスまでに用意できる。受け取りは、どこにする?ダイアゴン横丁かな?」
その時、部屋の空気が変わった。ルーピンとセレネの目が見開き、互いに目配せをしているのが分かった。
「……切嗣さん、あなたは何でダイアゴン横丁を知っているのですか?」
セレネが言葉を慎重に選んでいるみたいだ。…えっと、今の雰囲気から察するに、キリツグって呼ばれた男はマグルだと思われていたってこと?いや、それよりも、ダイアゴン横丁も知らないと思っていたマグル相手に、セレネは何を頼もうとしていたんだ?
「そうか、君たちには伏せられているのか」
少し驚いたような眼をするキリツグ。取っ手にかけていた手を外し、扉に背を預けると、口を開いた。
「僕も魔法使いだ。正確に言えば魔術師と言った方がいいのかもしれない」
「「魔術師?」」
ルーピンの言葉とセレネの言葉が、見事にはもった。セレネの足元にいた蛇は、話を聞いていないみたいだ。ただボンヤリと辺りを見渡している。キリツグは再び白い煙草を取り出すと、ライターで火をつけた。
「まぁ、分類上の話だ。君たちの使う『魔法』は、日々の生活のために使われている。
だが、魔術師は違う。魔術師は『根源』…簡単に言えば、『この世の始まりから、終わりまでの全ての情報を保存した究極の知識』へ到達することを探究する学者のようなものだ。その探求に魔術を使うから魔術師というだけだよ」
白い煙を吐きながら、淡々と話すキリツグ。
この部屋にいる蛇を除いた全ての目が、全てキリツグを見ていた。
「君たちが知らなかったのは当然だ。この世界に魔術師は一握りだし、魔術師は一族に代々伝わってきた魔術を秘匿することに専念している。根源に到達するために研究を重ねてきた秘術を、他人に知られないように、ひっそりと生活しているんだ。
魔法使いの中でも、魔術師の存在を知っているのは魔法省大臣くらいだろう」
知らなかった。つまり、生活のために魔法を使うのが僕たちで、研究のためだけに魔法を使うのが魔術師ってこと?
誰も身動きをしない。ただ、蛇だけがセレネの身体を巻きつけるように、セレネの身体を登っていく。耳元で何かを囁くように、口を開いて赤い舌をチロチロと出しているのが見えた。セレネは蛇を気にしていないらしい。最初に浮かんでいた驚きの色は消え、無表情でキリツグを見ていた。
「……切嗣さんは、クイールの友人で傭兵(ナタリア)の弟子だったと思うのですが…傭兵活動の傍らに研究をしていたのですか?」
セレネが尋ねると、キリツグは首を横に振った。煙草の灰が埃の溜まった床に落ちていく。
「僕の父親までは列記とした魔術師だ。だが、僕はナタリアと同じ道を選んだ。
父親から衛宮の魔術に関する秘術を継いではいるが、研究はしていない。今は妻や娘達と一緒に、魔術とは、ほぼ無縁に暮らしている。……もちろん、君たちの使う魔法ともね」
少しだけ感情がない瞳に柔らかな色が混じった気がした。さっきまで得体の知らない男に見えたけど、なんだか普通の家族思いの男に見えた。…もっとも、それは一瞬だけで、すぐに何も感じていないような眼に戻ったけど。
「……じゃあ僕はもう帰る」
「…少し待ってください。今、問題が発生しました」
セレネはそうつぶやいた途端、眼にもとまらぬ速さで杖を取り出した。
「『ステューピファイ-麻痺せよ』」
深紅の閃光が杖の先から噴射された。それも僕に向かって。僕は杖を取り出す前に、閃光が胸を貫いた。透明マントがずれ堕ち、僕の姿がセレネ達に完全に見えてしまったみたいだ。
「ハリー!?なんでここに…」
ルーピンが驚いて目を丸くさせている。口を開きたかったけど、口が痺れて動かない。たった一撃でこの威力。それだけセレネの魔力が高いってこと。
「…バーナードが『人間の臭いがする』って教えてくれたから気が付いたが…。なんだこの透明マント、死の線がほとんど視えない」
蛇の頭を撫でながら、眉間に皺を寄せるセレネ。キリツグも訝しげな顔をして近づいてくる。
「聖遺物なのかもしれないな。人間には理解出来ないものは『その眼』で認識できない可能性がある」
「聖遺物?……確かにジェームズは『家に代々伝わる透明マント』だって言っていたな。考えてみればおかしい。透明マントは時間が経てば効果が切れてくるはずなのに……」
何か言っているけど、よく分からない。えっと、つまり僕の透明マントが異常ってこと?というか…その眼…って……なんだろう?セレネの……青く光ってる眼の…こと?ダメだ、頭が…うまく働かない。
「…で、どうするんだい、御嬢さん?」
キリツグという男が、無感情な眼で僕を見下ろしてくる。僕は……僕はどうなるんだろう。
動け、動け。あと少しでも動けば…逃げられるかもしれないのに。
「私達の話を聞かれた。…どうするか、言わなくても分かると思いますけど」
僕を見下ろす蒼く輝くセレネの眼が、無性に怖く感じた。なんだか、そのまま見ていると『死』に誘われそうな気がした。
「でも、今は殺さない」
セレネが杖を振り上げて何かをつぶやいた。深紅の光線が再び僕を貫き、身体じゅうに走る激痛。
ルーピンが憐れむような顔をして何か言っているのが視界に入ったけど、何を言っているのか聞こえない。だんだん意識が遠く……遠く……沈んでいく………
「…リー…ハリー!」
誰かに強くゆすられて、ボンヤリと目を開ける。目の前に心配そうに顔を歪ませるロンとハーマイオニーの姿が見えた。
「ロン…ハーマイオニー……っ!そうだ、セレネ!!」
僕は辺りを見渡した。僕の目の前に広がっているのは、いつもの談話室。深紅で統一された家具、勢いよく燃えている暖炉…そして黄金のライオンのタペストリー。僕が座っているのは、お気に入りの座り心地の良いふかふかのソファだった。あの埃まみれで汚らしい『叫びの屋敷』とは雲泥の差。
「夢でも見ていたんじゃない?セレネはどこにもいないわよ?」
「夢…?」
そうだ。あれは夢だったんだ。冷静に考えてありえないじゃないか。
セレネが叫びの屋敷にいるとか、ルーピンがいつの間にかセレネと仲良くなっているとか。得体のしれない男がいたとか、何か取引をしていたとか、魔術がどうたらこうたらとか。
セレネが僕をここまで運んでくれたって考えられるけど、セレネはスリザリンの女子生徒。グリフィンドールの合言葉を知っているわけないから、送り届けるなんて不可能だ。夢にしてはかなり鮮明に思い出せるけど、ありえないことだらけ。きっと夢だったんだ。
僕は苦笑いを浮かべると立ち上がった。
「今日の最初の科目はなんだっけ?」
朝食をとるため、大広間に向かいながら2人に尋ねる。ロンが鞄から時間割を取り出す前に、ハーマイオニーが口を開いた。
「魔法史よ」
「魔法史か……後でノートを見せて、ハーマイオニー」
ロンが当然のように言う。そんなロンをハーマイオニーは思いっきり睨みつけた。
「もう!私に頼らないという発想がないの?」
「ない」
断言するロン。ロンの言う通り、魔法史の授業はハーマイオニーに頼らないといけない。淡々と一本調子で先生が話すだけのつまらない授業だから、10分も眠気に耐えていれば奇跡という授業なのだ。唯一聞いていることが出来るハーマイオニーが、テスト前にノートを見せてくれたから、今まで合格点を取れたようなものだ。
「あのねぇ!あなたたちは……」
「そんなことよりも朝食だ!僕、腹ペコだよ」
説教を始めようとするハーマイオニーの言葉を遮るように、音を立てて席に着くロン。ハーマイオニーは少しムスッとしていたけど、僕は無視することにした。朝食のトーストにバターを塗りながら、そっとスリザリン寮のテーブルを見る。丁度セレネが欠伸をしながら席に着くところだった。……なんだか寝不足みたいだ。やっぱり夢じゃなかったんじゃないかな。
「あっ!!」
ハーマイオニーが息をのむ声がそばで聞こえたので、セレネから視線を外した。
「どうしたんだ?」
僕は、スプーンを落としてしまったハーマイオニーに何事かと声をかけた時……なんで驚いているのか理解できた。ハーマイオニーが拡げていた『日刊預言者新聞』……その一面にドローレス・アンブリッジの写真がでかでかと載っていたのだ。胸糞が悪くなるような笑みを浮かべながら、大見出しの下でゆっくりと瞬きをしている。
≪魔法省、教育改革に乗り出す。ドローレス・アンブリッジ、初代高等尋問官に任命≫
「アンブリッジ――――――高等尋問官?」
僕は暗い声で思わずつぶやいてしまった。摘まんでいた食べかけのトーストがズルリと落ちる。…僕の思考から、昨日の出来事が夢かどうかなんて吹っ飛んでしまった瞬間だった。
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11月10日:一部改訂