淀んだ空気を一掃するように鳴り響くチャイムの音。
今学期初めての『闇の魔術に対する防衛術』の授業だったわけだが……正直、2年生の時のナルシスト男の授業より退屈だった。だが、愚痴を言う人は誰もいない。みんなさっさと教科書を片付けて帰る支度をし始めた。
「ちょっと残ってくれないかしら?」
『防衛術の理論』と題された分厚い教科書を鞄にしまったとき、教卓の向こう側にいる新任のアンブリッジ先生が声をかけてきた。やけに甘ったるい猫撫で声で、不愉快な気分になった。それでも、なんとか私は笑みを浮かべる。頭をコクリと下げて了承の意を示した。
今年から闇の魔術に対する防衛術を担当するアンブリッジ先生は、あまり好きそうになれなかった。
…まるで作り物のような優しげな笑みも、桃色の服も気に入らなかったし、化粧が濃く、少し太っている先生の外見も、あまり好きにはなれなかった。でも、なにより気に入らなかったのは、授業に対するやる気のなさだ。
たった今しまった教科書ひとつ見ても、やる気がないように感じる。この教科書には『防衛術を使用する』という意味の言葉が全く出てこないのだ。『話し合いで何とかなる』といったことが永延と言葉を変えながら綴ってある。何か説明があるのかと思ったが、先生は『1章を読みなさい』と私たちに言うと、教卓の後ろに置かれた座り心地のよさそうな椅子に腰を掛けると、それっきりだった。私たちを品定めするように眺め見てくる。
やる気がないことは火を見るより明らかだ。
学期末に行われる試験には、実技として防衛術を使用することが求められる。試験で出るような防衛術は習得済みなので私は大丈夫だが、他の生徒は違うだろう。このままの調子で、ただ教科書を読むだけの授業が1年間続いた場合…いったい何人の生徒が試験に落第することになるだろうか?
「そんなところでボーっとしていないで、こちらに来なさい」
甘ったるい声が催促してくる。
私は顔に笑みを浮かべたまま、アンブリッジ先生の前まで歩いて行った。先生は私が嫌な顔一つせずに先生の言うことを聞いたので満足した顔だった……が、その瞳に探るような色が混じっていることに、私は気が付いていた。先程よりも少し警戒心を高める。
「この後、何か予定はある?」
「いえ、今日はこの時間で終わりです」
先生はますます満足そうな顔をした。なんだか、先生には悪いが……太ったガマガエルのように見える。瞳の奥に欲望や意地悪さを隠しきれていない、醜いガマガエルだ。
「そう、なら少しお話しません?」
私の返事を聞かずに、私の腕を無理やり引っ張ると自室に連れ込む先生。部屋もこれまたピンク一色の部屋で、思わず出て行きたくなった。趣味の悪い子猫が描かれた小皿が沢山飾ってある。私と同年代の少女の部屋なら、まだ理解出来る。だが、どう見ても中年のおばさんの部屋がこれだと……かなり引く。
それに、頭がクラクラする様なくらい鼻にツンとくる香水の匂いが充満していた。密室だったので窓を開けたかったが、失礼な気がするので我慢することにする。
私の心中には気が付かないらしいアンブリッジ先生は、にんまりと笑みを浮かべたままカップを用意していた。
「何が飲みたい?紅茶?それともコーヒー?」
「……紅茶でお願いします。あっ、私が淹れましょうか」
「いいのよ、お茶会に招待したのは私なのだから」
クスクス笑いながら大げさな身振りで紅茶を入れるアンブリッジ先生。…嫌な感じがする。毒……は無いと思う。でも、飲んだら真実を話してしまう『真実薬』が盛られている可能性が高い。先生が私を見ていない僅かの隙をついて、ローブの下にしまってある杖を、袖の下に移した。
「さぁ、おまたせ」
コトン…と音を立てて置かれる紅茶。見た感じ普通の紅茶だ。だけど、あまり上等な香りではない。もちろん、そのあたりで売られている安物の紅茶の香りではない。だが、例えるなら…かゆいところに手が届かないみたいな感じで、あと一歩、高級と称せない香りだ。
「冷めないうちに飲んでね」
そういう先生だったが、先生自身は紅茶に口を付けない。明らかに何か盛られている。私はカップを口元まで持っていくと、唇を固く結んだまま、飲んだふりをする。アンブリッジ先生の口がますます横に広がった。…どうやら、私が飲んだと思ってくれたみたいだ。
「ありがとう。さてと…あなたは本当にスリザリン生なの?」
「私はスリザリン生です」
アンブリッジ先生の目をまっすぐ見つめて話す。…どうやら、先生の眼には私が『異端のスリザリン生』に見えたらしい。
「そう……じゃあ、もう一つ聞いてもいいかしら。あなた、ハリー・ポッターのことをどう思う?」
…なるほど。私は1人で納得をした。周囲から見たら私はグリフィンドール生と仲が良好な異端のスリザリン生だ。闇の魔術に対する防衛術の授業が始まる前に、次の監督生の集まりについてハーマイオニーと少し話していたところを、先生に見られていたのかもしれない。
「特に何も」
「本当に?」
「はい。知り合い以上友達以下、というところでしょう」
私の眼をじぃっと睨むように見てくるアンブリッジ先生。私も笑みを保ったまま、先生から目を離さないで見続けた。
「良かったわ……あなたは『正常』みたいね」
「『正常』?」
私が思わず聞き返す。アンブリッジ先生は、ほっとしたような表情を浮かべながら、スプーンで紅茶を掻きまわしていた。
「知っていると思うけど、ハリー・ポッターは情緒不安定でしょ?それが貴方にも悪影響を及ぼしているんじゃないかって心配したの。ポッターやその取り巻きと仲良くしていたら貴方の将来に傷がつくから」
…私を心配するような眼で見てくるアンブリッジ先生。一見すると母鳥が雛を見守るような表情に見えなくもないが、やっぱり瞳が濁っている。駅のプラットホームで他人の私を気にかけてくれた、ウィーズリー夫人の方が、私を思ってくれていた気がする。
「ハリー・ポッターが情緒不安定…?私が見る限り、彼は至って正常だと思いますが?」
「優しい子ね…でも、彼を気遣わなくていいのよ。本当のことなんだもの」
困ったような顔をするアンブリッジ先生。
あぁ、そうだった。目の前にいる先生はドラコ情報によると、元魔法省大臣の上級補佐官。ダンブルドアやハリーが唱える『ヴォルデモート復活説』を反対する魔法省側の人間だ。しかもその頂点に限りなく近い人物。つまり、ハリーが戯言を言っていると思っているのだ。…あの第三の課題で何があったのかを語れる人物は、ハリーの他に私とセドリックしかいない。
だが、セドリックは未だに意識が戻らないし、私は何があったのかを話さない。何回か聞かれたが、面倒なので『ハリーに聞いて』と言うだけにしている。今学期に入ってから、見覚えのあるハッフルパフ生が、あまりにもしつこく尋ねてきて、まくのが大変だったのを思い出す。
「あのね、あなた…卒業後は魔法省に入らない?」
「魔法省ですか?」
「そうよ、あなたの素行と成績だったら、卒業して1年目で大臣下級補佐官に任命されるのも夢ではないわよ」
子どもの前に、とびっきりのお菓子を目の前に出したような顔をするアンブリッジ。私は呆れ顔になりそうだったが、なんとか笑顔の仮面を被り続けていた。
将来の高い地位を保証する代わりに、魔法省側、つまりアンブリッジの陣営に下れ…ということか。
さて、どうしよう。正直、こんな見るからに小物のオバサンに従うのは遠慮したい。まだダンブルドアに仮初の忠誠を誓った方がましだ。
魔法省に就職するなんて考えたこともなかった。上の地位に行けばいくほど、イギリスの魔法界の責任を背負わないといけないのだ。だからといって低い地位だと給料が少なくて、生活が困窮するだろう。他の職業でもそうだとおもうが、魔法省は特にそのイメージが強い。だからあまり就職したくない。それに……目の前にいる女(アンブリッジ)がいつまで高い地位にいるのは、せいぜい現魔法省大臣がヴォルデモートの復活に気が付いて、責任をとって辞任するまでだ。そう考えると、このガマガエル女が鼻を高くして生きていられるのは、あまり長くないと思う。
だからといって、断ると後が面倒になりそうだ。
「少し、考えさせてください」
私はゆっくりと告げると、席を立った。…無言呪文を使って、カップの中の紅茶を消失させてから…
「あ、あら?もう帰ってしまうの?紅茶がまだ……残ってないけど、もう少しお話しない?」
アンブリッジが引き止める声が聞こえたので、すまなそうな顔をして振り返る。
「すみません、ちょっと用事を思い出したので、席を立たせてもらいます。先生も学校に来たばかりで忙しいと思いますし」
一礼して部屋を出た。部屋を出て、新鮮な空気を思いっきり吸う。…頭がはっきりしてきた。
「やっと解放されたのか、セレネ」
廊下の向こうから、ドラコが歩いてくるのが見えた。何か手に少し通常のサイズより大きい白い封筒を持っている。
「まぁな。…それは?」
「セレネに頼まれていたものだ。…でも、ここまで慎重に行動する必要があるのか?」
「慎重になるに越したことはない」
私はドラコから、白い封筒を受け取った。宛名として記されている名前はドラコの名前だが、封筒の中に入っていた一回り小さい封筒に書かれていた宛名は私宛だ。
魔法省が学校を支配下に置こうと身を乗り出している。そんな魔法省と敵対しているハリー・ポッターと関わりのある人物は要注意人物としてマークされていてもおかしくはない。そんな要注意人物が、誰か外部の人と接触を持っていないかを確かめるために、魔法省側の人間、つまりアンブリッジとその仲間が、要注意人物あてに届いた手紙を勝手に読むということがあるかもしれない。
明らかに要注意人物に含まれていそうな(…というか、先程のアンブリッジの発言からして含まれていた)私宛の手紙は、全て魔法省側の人間に読まれていると思った方がいい。それなら話は簡単だ。絶対に魔法省から要注意人物として扱われない人経由で私宛の手紙が届くようにすればいい。
だから、魔法省上層部と仲の良い父親を持つドラコに協力を要請した。……私宛の手紙はドラコ経由で届くように細工をすることにしたのだ。事前に、先方へ送る封筒の中に返信用封筒として『ドラコ』の名前が書かれた封筒と私の名前が書かれた封筒…そして、面倒な事情を説明する手紙を入れておく。そうすることで、私の手紙の内容が誰かに見られるということはなくなる、という細工だ。
手間がかかるが、読まれることはない。今やり取りしている手紙は、あまり人に見られたくない手紙だから。
「…で、誰からなんだ?」
覗き込むように私が拡げた手紙を見るドラコ。私はドラコが読もうとする前に、手紙を折りたたんだ。
「父さんの友人からの返信。魔法界のツテだと手に入れられないものを、手に入れるため交渉をしている最中。今度の日曜日に会うことになった」
淡々と私が要約した内容を話すと、怪訝そうな顔をするドラコ。
「魔法界で手に入らないもの?忘れているかもしれないが、ホグワーツでマグル製品は…」
「狂うのは電気機器だけだ。私が手に入れたいものは、ホグワーツの中でも絶対に狂わない」
口元が歪んでいるのが自分でもわかった。私は折りたたんだ手紙を封筒に入れ直すと、杖を袖の下から取り出す。
「『インセンディオ‐燃えろ』」
呪文を唱えると、杖先から緑色の炎が噴射される。そのまま封筒は、あっという間に全体が黒く変化し崩れ落ちた。
「セレネ、やっと見つけた!」
丁度その時、廊下の向こう側からダフネが姿を現した。少し息が荒く額に丸い汗が浮かんでいた。恐らく、走って来たのだろう。
「汽車の中でセレネに言われたことなんだけど……成功したよ」
「ありがとう、ダフネ」
私はホッと一息ついた。正直あまり友人を巻き込みたくなかったが、自分では難しい内容だったので協力してもらったのだ。これが上手くいかなかったら、今後の予定が一気に崩れる。
「ごめん、使い走りみたいなことをさせて」
「いいの。でも、セレネは平気なの?」
心配そうな顔をするダフネ。私はダフネを安心させるように笑みを浮かべる。
「大丈夫。じゃあ、また後で」
ダフネとドラコに別れを告げて、『秘密の部屋』へと足を進めた。こつんこつんと私の足音だけが、人気のない3階の廊下に響き渡る。
水面下で行動を始める最低限の準備は整った。後は、奴らに気が付かれないように、さらに策を仕込まないと。
私は一度、心を落ち着かせるために深呼吸をして…それから、2か月ぶりに『秘密の部屋』へと足を踏み入れたのだった。
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11月10日:一部改訂