しんしんと雪が、何日にもわたり降り続けていたので、まるで城は砂糖にくるまれているみたいだ。ボーバトンの薄青い馬車は、粉砂糖のかかった巨大な冷えたカボチャの馬車のように見えたし、ダームストラングの船窓は氷で曇り、帆やロープは真っ白に霜で覆われていた。
全てを覆い隠すように、まっさらな雪で校庭がおおわれている。ダームストラング生とボーバトン生が城に行き帰りする道だけが、深い溝になって道が出来ていた。これほど雪が積もっていたら、夜になるまで校庭いっぱいに、無限にある雪を使って遊ぶ生徒で溢れていそうだが、太陽が傾き始めても遊ぶ生徒は数人だった。
ほとんどの生徒が、夜に始まるダンスパーティのために、夕方には寮で準備をしていたからだ。それは私も例外ではなく、図書室に閉じこもっていたが、8時に開始するパーティに備えて6時には寮に戻る。
すでに部屋にはパンジーたちが支度をしていた。私は小包を丁寧に開け始める。この小包は、クリスマス休暇に入り、山のように出された宿題をすべてやり終えたころに、クイールからの手紙と一緒に届いた小包だ。
その中に入っていたのは、端の方が薄桃色に染まっている全体的に白い着物。たしか『振袖』といわれる種類だった気がする。私の好きな深海を思わす蒼色の生地に淡い花模様が描かれている帯も、セットで入っていた。
同封された手紙には
≪いらないってセレネは言っていたけど、父さんがこっそり買っておいた着物だ。魔法を使えば着付けはできると思うし、送っておくよ。セレネと会えないのは悲しいが、4年生以上は残らないといけないっていう学校の決まりなら仕方ないな。…でも、絶対に覚えておきなさい。男は飢えた狼で女の子を虎視眈々と狙っていて―――(以下省略)≫
という内容が書かれていた。…過保護な親だとも思うが、それだけ私のことを考えてくれているということだ。恥ずかしいと思うのと同時に、嬉しいと思う私がいる。
「へぇ…これをセレネは着るのね」
ダフネが珍しそうに、桐の箱に入っていた振袖を繁々と覗き込む。そして、そっと手を伸ばして生地に触れた。
「これって、高級品なんじゃない?」
ダフネが目を大きく見開いた。私も触れてみると、ものすごく触り心地がいい。……とんでもない値段がしたに違いない。少し申し訳ない気にもなったが、せっかく買ってくれたものなので着ることにする。
「そういえば、ダフネは誰と行くの?」
フリルが沢山ついた淡いピンクのドレスを着ようと悪戦苦闘していたパンジーが、いったん手を止めて尋ねると、ダフネは顔をこれ以上ないというくらい真っ赤に染めた。
「……テリー・ブート君。2年前の『決闘クラブ』でペアを組んだよしみで、一緒に行かないかって誘われて……」
「マジで!?あの人結構イケメンじゃない!!あ~もう!なんで皆、イケメンをちゃっかりゲットしているわけ!?」
ミリセントが頭を抱え込んだ。彼女は、すでに深紅のルビーを連想させるドレスを着ていた。
「パンジーは、ドラコと一緒に行くでしょ。セレネはノットの奴と一緒に行く約束をしているのにもかかわらず、ありとあらゆるイケメンから声をかけられていたし。レイブンクローの『マイケル・コーナー』とか、『アンソニー・ゴールドスタイン』とか、グリフィンドールの『ジミー・ピークス』とか、キラッと爽やかスマイルを浮かべているダームストラング生とか!
その上ダフネまでもが、レイブンクローのイケメンをゲットしているなんて…」
「で、でも、ミリセントだってパートナーはいるでしょ?クラッブとゴイルみたいにパートナーが見つからなかったよりは、いいと思うけど…」
ダフネが遠慮がちに言うと、人を殺せるくらい鋭い視線をダフネに向けるミリセント。
「でも顔はフツメンよ。どちらかというとイマイチ。頭の出来がいい人が集まるレイブンクローの生徒なのに、バカなマーカス・ベルビィなのよ?」
力尽きたようにベッドに顔をうずめるミリセント。私は、小さなため息をついた。
「ダンスパーティでも出会いがあるんじゃないか?」
「そうよ!パートナーと喧嘩別れした後の他校生を狙うとかさ、いいんじゃないの?」
パンジーが1オクターブほど普段より高い声で、ミリセントに話しかける。ミリセントはハッとした顔をして顔を上げた。まるで、目からうろこが落ちたかのようだ。
「そうよ、それいいわ!!ありがとう、セレネにパンジー!私、頑張るわね!!」
ミリセントの顔に再び笑顔が戻った。そして小さな香水瓶を取り出すと、自信に満ちた顔で首筋や脇の下に液をかけ始めた。私は前におぼえた着物の着方を思い出しながら、難しい時には魔法を使いながら振袖を着る。袂にいつも持ち歩いているナイフをしまい、杖は帯の中に入れた。
「うわぁ……アジアンだね」
ダフネが、針葉樹を思い起こさせる深緑のドレスの上に、黒のボレロを羽織りながら私を見てきた。髪を丁寧にカールさせていたパンジーも私を見る。
「いいわね、髪を加工しなくても見栄えが良くて。そういえば、セレネはハーマイオニー・グレンジャーと仲が良かったけど、あのブスが誰と行くのか知ってる?」
パンジーはハーマイオニーをライバル視している。だから、ハーマイオニーが誰と行くのか気になるのだろう。…ハーマイオニーは、誰と行くのか言わないで欲しいと言っていた。どうせ、もうすぐ知ることになると思うが、ここは黙っておく。
「…知っているけど、誰にも言わない約束なんだ」
「もう!あと数時間以内に分かる話じゃない。教えてくれたって、別にかまわないと思うけど?」
「でも、教えない約束なんだ」
「…そう、なのね。まぁいいわ!私とドラコのペアより栄えるとは思えないし」
…パンジーがクラムと一緒にいるハーマイオニーを見たらどう思うだろうか?パンジーも、話に加わってこなかったミリセントも『クラムファンクラブ』の一員だ。ショックで脚色させた話を、新聞や週刊誌にスキャンダルとして投稿しなければいいが。
「セレネ、行かないの?」
入り口の扉を開けたダフネが振り返る。時計を見ると、もうパーティが始まる20分前だ。そろそろノットが待っているに違いない。
待ち合わせをしている談話室に行くと、いつもの黒いローブの群れではなく、色とりどりの服装で溢れかえり、ずっと華やかな雰囲気だった。いつも将棋を指す時に使うテーブルの傍でノットがドラコと話していた。
ノットの服装は……あまり普段と変わらない。黒が基調のシンプルなローブだ。ドラコは、牧師のような黒い詰襟ローブを着ている。ドラコが視界に入ったパンジーは、転びそうな勢いで駆け出し、彼に抱きついた。ドラコは、まんざらでもないという顔をしている。ノットは普段より目を大きく見開いて、私を上から下まで見た。
「……へぇ、似合ってるじゃないか」
「世辞はいらない。早く行くぞ」
ノットと一緒に、談話室を出ると玄関ホールも色とりどりのドレスを着た生徒でごった返していた。大広間のドアが解放される8時を待って、みんながウロウロしている。時折感じる、好奇心のような視線がうっとおしくて、ナイフを取り出したくなったが、右拳を握り締めることで、何とかこらえた。
クリスマス休暇が来ると毎年私は家に帰っていたので、学校に残るのは初めてだが………まさか、こんな豪華な飾り付けがされているとは思いもしなかった。まぁ、客人が来ているので例年以上に張り切って装飾をしたのかもしれない。
大理石の階段の手すりには、万年氷の氷柱が下がっている。クリスマスツリーの装飾も手が込んでいて、紅く輝くヒイラギの実から本物のホーホーと鳴くフクロウまで盛りだくさんだった。廊下に並んでいる甲冑の全部に魔法がかけられ、誰かがそばを通るたびにクリスマス・キャロルを歌った。……これの中に、たまにピーブズが入り、下品な合いの手を入れて歌うことがあったので、フィルチが何度も鎧の中からピーブズを引きずり出さなければならなかったのを思いだす。
正面の樫の木で作られた扉が開き、ダームストラングの生徒が、カルカロフと一緒に人で溢れかえりそうな玄関ホールに入ってくる。先頭にいるのがクラムとハーマイオニーのペアで、ハーマイオニーは以前あった時に着ていた目が覚めるような青いドレスを着こなしている。髪の毛に魔法でもかけたのだろうか?いつもは広がっていた髪の毛が、ストレートパーマをかけたかのように滑らかで、優雅なシニヨンに結い上げていた。
まだ私の周りにいる人は誰もハーマイオニーがクラムのパートナーだと気が付いていないみたいだ。あれは誰だろう?とひそひそ話している声がチラホラと耳に入ってくる。
フラーはシルバーグレーのドレスを着ていて、レイブンクロー生の……たしかクィディッチチームのキャプテンの人を従えている。フラーのパートナーの人は、足取りがおぼついていなくて、目がフラーにくぎ付けになっていた。セドリックはチャイナ服を着た東洋人の美女と一緒に話している。
ハリーはサリーを着たグリフィンドール生、たしかパーバティと一緒だ。だが、ハリーは一緒にいるパーバティよりも、セドリックの隣にいる東洋人に目を奪われていた。そして、私たちの視線に気が付いたのか、ハリーと目が合う。ハリーは驚いたように私を見てきた……が、すぐに東洋人に視線が戻る。
「代表選手はこちらへ」
マクゴナガル先生が代表選手を集める。私は袖に手を入れて、ハリーたちのいる方に歩くが、ノットに話しておかなければならないことを思い出して立ち止まった
「…そういえば、アンタはダンスできるのか?」
「出来るに決まっているだろ?父上に連れられて社交界に出ないといけない時があったからな」
バカにされたと思ったのか、少し怒ったような感じで言うノット。…私はホッと胸を下した。
「…なら、リードを頼む。私は卵のヒントがないか探らないといけないからな」
「なんだ。そう言うから、てっきり踊ったことがないのかと思った」
「父さんが嗜み程度に教えてくれた。高度な技術はないが」
「……だろうな」
納得したような声を出すノット。彼はそのあとも何かを言おうと口を開いていたが、その言葉はマクゴナガル先生の声にかき消された。
「準備が出来ました。ついてきなさい」
指示に従って大広間に入ると、先に入っていた他の生徒たちの拍手で迎えられた。
ノットの腕に手をかけてエスコートされながら、さりげなく周囲の様子を観察する。
大広間の飾りつけは、いつにもまして豪華だった。壁は銀色に輝く霜に覆われ、星の瞬く様子を映し出している黒い天井にはヤドリギや蔦の花綱が絡んでいる。今日はダンスを踊るためか、大きな寮ごとのテーブルは無い。代わりに10人程度座れるテーブルがいくつも置かれていた。その奥の方に、審査員の先生や役人が座っているテーブルがある。…ちょうど代表選手とそのパートナーの数分だけ席が空いているテーブルが。
だが、1つ妙な点に気が付いた。審査員の役人…クラウチの姿がなく、代わりに、どこかで見覚えのある赤毛の青年が胸を張って座っていたのだ。……クラウチの代理だろうか?きっとそうだろう。最後に見たとき、クラウチはどう見ても病気に侵されているみたいだったから。
金色に輝く皿には、まだ何も乗っていない。代わりに小さなメニューが乗っていた。…ウェイターらしき人影はいない。どうするのだろうかと思っていると、ダンブルドアが皿に向かって
「ポークチョップ」
と唱えた。すると、何もなかったはずの皿にポークチョップが現れたのだ。さすが、魔法界だ。マグルの世界のクリスマスとはスケールが違う。私はメニューをめくり1番値段が高そうな『牛フィレ肉フォアグラソース添え』を頼む。せっかく来ているので、高いものを食べた方が得に決まっている。
金の皿の上に出てきた肉は、これだけか…と落胆するくらい小さかったが、舌の上で肉が溶けるくらい美味しかった。これを食べた後、当分の間は普段食べている肉は食べられないだろう。
だが、この方法……これを行っている屋敷しもべ妖精にとっては、ずいぶん余分な労力を使うはずだ。しもべ妖精の扱いに関して人1倍、神経を尖らせているハーマイオニーはどう思うだろうか…と思い、ちらっとそちらを見てみると、どうやら考えていないみたいだ。クラムとすっかり話し込んでいて、何を食べているのか分からないみたいだ。
……珍しい……
普段、口を開かないクラムが、夢中になって話しこんでいる。話している内容は自分の学校の話や地元の話といった他愛もない話だった。クラムがハーマイオニーの頭脳目当てに近づいた、ということも考えられたが、それはないと今なら断言できる。クラムは本当にハーマイオニーが好きなのだ。
食事を食べつくせばダンブルドアは立ち上がり、生徒達も立つように促した。杖を一振りすれば、テーブルは壁際に退き、ダンスをするのに必要なスペースができる。そして右手の壁側に沿ってステージが現れた。上にはドラム一式、ギター数本、リュート、チェロ…そしてバグパイプが設置されている。
……特に『金の卵』のヒント…になりそうなものはない。
熱狂的な拍手と歓声が大広間に響き渡ると、ステージの上に異常に毛深い人たちが現れた。ダフネのベッドの上に貼ってある『妖女シスターズ』のポスターに印刷されている人たちだ。……まさか、本人たちが来るなんて……ものすごい金がかかったパーティだ。
テーブルのランタンが一斉に消え、それを合図に代表選手たちが立ち上がる。
「じゃあ、リード…頼むぞ」
「わ、分かってる」
遠慮がちに私の腰に触れるノット。差し出された手に自分の手を添えて、踊り始めた。妖女シスターズが、物悲しい曲をスローテンポで奏でていく。足の動きに気を配りながら、周囲をさりげなく見渡していくが…特にヒントになりそうなモノはない。
次第に、観客としてみていた代表選手以外の人達もダンスフロアに上がり始める。近くでは元気を爆発させて踊るフレッドと黒人女性…たしかアンジェリーナという人がいたので遠巻きにし始めたころから、もしかしたら私の勘違いだったのではないか…と思うようになってきていた。
他の代表選手もパートナーも、みんなダンスに夢中だ。1人だけ……ハリーという例外がいたが、それは私のように『金の卵』のヒントを探しているのではなく、ただダンスに興味がないだけのように思える。眼をうっとりとさせてハリーを見つめているパートナーのパーバティを見ずに、他の人が踊る様子を観察していた。
バグパイプが最後の音を振るわせるのが耳に入ってくる。大広間が再び拍手に包まれ、次の曲を奏で始める前に、ノットから手を放しダンスフロアから降りる。
「で、ヒントは見つかったか?」
彼は、近くにあったバタービールのビンを渡してくれた。私はビンを受け取ると、黙って首を横に振った。
「ダメだ。もしかしたら、私の勘違いだったのかもしれない。巻き込んで悪かったな」
栓を抜きながら謝ると、ノットは呆れたように息を吐いた。
「あのなぁ、俺は巻き込まれようが、巻き込まれなかろうが別にかまわない。ただ俺は…」
何かを言おうとしていたノットだったが、その先の言葉は紡がなかった。…何を言おうとしたかったのか、よく分からない。
「言いたくないなら無理して言わなくていいぞ」
「ったく……お前って奴は。ほら、行くぞ」
私の手を引っ張るノット。顔が仄かに紅潮しているように見えるし、腕をつかむ手も、どこか熱い気がする。
「…熱でもあるのか?」
「ねぇよ。気にしないで行くぞ。もしかしたら、外にヒントがあるかもしれないだろ?」
そのまま外に連れ出すノット。正面玄関の扉は開け放たれたままだった。
だが、その先に広がっていたのは何も変哲のない芝生ではなく、赤・黄色・白・橙…そして青色のバラが咲き誇るバラ園だった。電灯やランプの明かりではなく、そのバラ園を照らすのは自ら煌く妖精たち。園には何本かの散歩道が用意されていて、ところどころに豪華なベンチが設置されている。
時折聞こえる水音は、噴水の音だろう。実際に音のする方へ歩いていると巨大な噴水があった。魔法で刻一刻と色を変えていく……最初に見たときは緑色だったのに、今では橙色へと変化していた。
「…よくここまで出来たな…」
色を変えていく噴水を見て、感心するようにノットがつぶやく。本当にその通りだ。たしか昼の時点ではバラが生えている気配なんて少しもなかったことから察するに、ほんの数時間で用意したのだろう。
「…ここまで出来るなら、音姫をつけてくれたらいいのに」
「音姫?…なんだ?」
「いや、気にするな。日本で見かけた素晴らしい文化だ」
噴水の傍のベンチに腰を下ろす。…やはり、ヒントのようなものは見当たらない。完全に私の勘違いだったようだ。
「日本が好きだな、セレネは」
「父さんが好きだからな」
「日本人の友達とかいるのか?」
「あぁ、いるな」
脳裏に浮かぶのは、酒蔵の一人娘の顔。あれ以後も時折、『マグルの方法で』文通をしている。フクロウのアクベンスに、日本までの長旅をさせるのはつらい仕事だと思うし、瀬尾もフクロウが手紙を届けに来たら、驚くだろう。
「どんな奴だ?」
「…私達と同年代で、未来視が出来る女の子」
「未来視?そんな非現実的なモノを持つ女がいるのか?」
驚いたように目を見開くノット。半信半疑というような口ぶりだった。私はコクリと頷く。
「非現実というなら、『魔法』事態が非現実だ。森にいるケンタウロスも、湖にいる水中人も…」
私はここで言葉を切った。湖には『水中人』がいる。たしか水中人は、マーミッシュ語という私達とは違う言語で話すのだという。その声は、私達では到底理解できそうにない言葉なのだとか。もっと言うなら、この世のものとは思えない叫び声に聞こえるのだとか。
その時、私の中で何かがつながった気がした。
「…まさか…」
「この流れで何か気が付いたみたいだな」
「あぁ。ありがとう、ノット。早速、明日にでも試してみるか」
「明日だと?今から試すんじゃないのか?」
ノットが少しだけ眉を上げる。
「時間がまず遅すぎるからな。それに、せっかくの魔法界のパーティだ。出来る限り堪能しないと損だろ?」
ホタルのように淡い光を放つ妖精たちを眺めながら言う。
「…なら、今度俺の父上が主催するパーティに来るか?」
斜め上の方向を向いたノットは言った。……気のせいか、この暗がりでもよく分かるくらい顔を紅潮させている。
「…いいのか、そんな内輪のパーティに私が参加しても?」
「別にかまわない。だって俺は…お前を―――」
「ストーーップ!!ストップですよ!!!」
黄色いバラの茂みから、黒くて小さい影が弾丸のように飛び出してきた。私は反射的にベンチから立ち上がって避けることができた。……が、状況の把握が出来ずに驚いたまま固まっているノットが座ったベンチに、黒い影が激突したせいで後ろに倒れるベンチ。
「っ!誰だ?」
「痛いです!でも、先輩の貞操が守られるのであれば……このアステリア、これぐらいの痛みなど大した問題ではありません!!」
頭を押さえているノットの近くで、アステリアが元気いっぱいに立ちあがった。近くのバラの茂みに姿を隠していた男女が、何事か…と私たちを見てきた。…うっとおしかったが、説明が面倒なので帯の内側に隠しておいた杖を取り出すと、私たちの方を見ていた男女に向ける。2人は小さい悲鳴を上げると、一目散でどこかへ去って行った。
「…で、それは分かったが……なんでここにいるんだ?」
アステリアは1年生だ。
3年生以下は4年生以上に誘われないとダンスパーティに参加することができない。なので、4年生以上に誘われたのかもしれない、と考えるのが妥当だろう。だが、どう見てもアステリアの格好は、高そうなダッフルコートにチェックのスカート。パーティに参加している格好には見えない。
「こっそり寮から出てきました!安心してください、この暗さなので誰も気が付きませんよ」
「そういう問題か?」
「そういう問題です。ゴイルって人に誘われたので、その人と一緒に来て陰ながら先輩を見守る…っていう手もあったのですが、ゴイルって人が生理的に無理だったので、1人で来ました」
ピシッと敬礼をしながら言うアステリア。私は、はぁ…とため息を漏らしてしまった。
「あのな……ゴイルが生理的に無理だというのは理解できるが、ゴイルも先輩だ。失礼だと思わないか?せめて『口臭が無理』くらいにしておけ」
「…お前も失礼だぞ、セレネ」
ノットが呆れたように突っ込みを入れる。
「先輩~、先輩~、おなかが減りました。お腹が、くうくう言っているんです。
そこの石造の上に止まっている、コガネムシも食べたいくらい、お腹が減っているんです。何か食べるものでもありませんか?」
「…そういえば、バタービールが置いてあった近くに、デザートが置いてあったな。3人で取りに行くか?」
「いいですね!行きましょう!!スイーツ大好きです!」
ぴょんぴょんと跳ねながら正面玄関の方へ向かうアステリア。
「せっかくの貴重な時間が……」と、うなだれ気味のノットがつぶやいている。私も2人の後に続こうと思ったが……ふと、トナカイの形をした石造の上に止まっている、1匹のコガネムシに目が留まった。
……このコガネムシの触角の周りの模様、どこかで見たことがあるような気がする。しかも、普通のコガネムシより1回り大きい気がするし…
「先輩!早く早く!!」
「早くしろ、セレネ」
アステリアとノットが呼んでいる。私はコガネムシから視線を外すと、2人の方へ駈け出したのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
10月15日:一部改訂