『闇の魔術に対する防衛術』の教室は、前任者2人と比較すると『まとも』だといえるだろう。誰かの後頭部の匂いを隠すために漂っていた、にんにく臭は充満していないし、自分の写真をベタベタ貼り付けているわけでもない。ただ、机とイスと黒板だけがある質素な教室だった。
今年から『闇の魔術に対する防衛術』の授業を担当するルーピン先生は、汽車で見かけた時より健康そうにみえた。以前は頬がこけていたのだが、少し丸くなって血行が良さそうになっている。もしかしたら、ずっと貧しい暮らしをしていて、ろくに食事をとることが出来なかったのかもしれない。ルーピン先生は、私達を見ると笑みを浮かべた。
「教科書を鞄に戻してもらおうかな。今日は実地練習をすることにしよう。杖だけあればいいよ、ついてきて」
「何するんだ?…またピクシー?」
斜め前の席で教科書を鞄に戻しながら、子分(クラッブとゴイル)にヒソヒソと話しかけるドラコが見えた。彼の脳裏には昨年、ロックハートが行った授業…ピクシー妖精を一籠持ち込んでクラスに解き放ち捕まえさせようとした出来事が浮かんでいるのだろう。さすがに2年連続ピクシーはないと思うが、どんな実地練習なのだろう?ルーピン先生の雰囲気や汽車での対応から考えて、私達に無理難題を吹っかけてくることはないと思うが、用心に越したことはないかもしれない。
私達は、ルーピン先生に続いて廊下に出た。授業中のため、誰もいない廊下を歩いていく。時折、ゴーストがふわふわ浮いているのを見かけた。だが、それ以外は特に何もなく、辿りついたのは職員室。ちぐはぐな古い椅子が沢山おいてあり、ただ今授業中なので誰も先生はいなく、がらんとしていた。
いったいこのようなところで何を実習するのだろうか、と思っていると奥の方にガタガタっと不自然に揺れているタンスがあった。ひぃっと隣にいるダフネが小さな悲鳴を上げる。パンジーやミリセント達もビクッと固まったまま動かない。そんな3人を落ち着かせるように、優しげな笑みをルーピン先生は浮かべた。
「心配しないくていいよ。中には『まね妖怪』、通称『ボガート』が入っているんだ。こいつは暗くて狭いところを好む。これみたいなタンスとか流しの下、それから食器棚などかな。さてと、では『まね妖怪』とはいったい何でしょう」
バラバラと手が上がる。ルーピン先生は、一番最初に手を上げたノットを指名した。
「形態模写妖怪。一番怖いと思うものに姿を変えることが出来る」
「その通り。だから、中の暗がりに座り込んでいる『まね妖怪』は、まだ何の姿にもなっていない。
タンスの戸の外にいる誰かが、何を怖がるのかまだ知らない。『まね妖怪』が一人ぼっちの時にどんな姿をしているのか、誰も知らない。しかし、私が外に出してやると、たちまち、それぞれが一番怖いと思っているものに姿を変えるんだ」
ルーピン先生が話している間にも、再びガタガタっと揺れるタンス。ビデオカメラか何かを仕掛けておけば、その姿が分かるかもしれない。だが、ホグワーツに電気製品であるカメラを持ってきても、壊れてしまう。もし、『まね妖怪』の正体が知りたいなら、学校の外で探さないといけないのかと、ぼんやり考えている間にも、先生の説明は続いていく。
「『まね妖怪』を退治するときには、誰かと一緒にいるのが一番いい。どんな姿に変身すればいいのか分からずに、混乱するからね。
こいつを退散させる呪文は簡単だ。しかし、精神力が必要だ。こいつを本当にやっつけられるのは『笑い』なんだ。君たちは『滑稽』だと思う姿に『まね妖怪』を変身させる必要がある。
初めは杖なしで練習しよう。私に続いて言ってみようか――――『リディクラス―バカバカしい』!」
「「「リディクラス―バカバカしい!」」」
クラス全員が一斉に唱える。その声に反応したのか、タンスがガタガタと呼応する頭に揺れる。奥の方にも突然揺れたタンスがチラリと見えたことを考えると、どうやら他のクラスの分もあるらしい。ルーピン先生は、出席簿に目を落とした。
「よし、じゃあ、まずは…ダフネどうだい?」
「わ、私ですか!?」
『この世の終わりだ』という表情を浮かべながら、おずおずと先生に近づくダフネ。ルーピン先生は、安心させるように笑いかける。
「君が世界で一番怖いと思うものはなんだい?」
「バロール」
ささやくような感じで答えるダフネ。ルーピン先生はフムっと考える仕草をした。
確かバロールというのは、ケルト神話に登場する魔神だ。≪すべてを殺すという片眼を持っている≫と本で読んだ気がする。ある意味、私の『眼』に似ている能力を持つ魔神だ。
「『眼』さえなければバロールは怖くないよね?そうだな、出来るだけバカバカしいアイマスクか何かを思い浮かべるんだ。出来るかな?」
ルーピン先生の問いを聞いたダフネは、やや考えた後、躊躇いがちに頷いた。その反応を視た先生は、穏やかな口調を保ったまま口を開いた。
「『まね妖怪』がタンスからウワッーっと出てくるね?そして君を見ると『バロール』に変身するんだ。
そしたら杖を上げて叫ぶ『リディクラス』ってね。
その時に、脳内に思い描いたアイマスクに全神経を集中させる。全て上手くいけば、バロールはアイマスクで視界が遮断され、慌てふためくことになる」
「ほ、本当に?」
私にできるかな。という不安な顔を浮かべているダフネ。緊張で顔が真っ白になっているみたいだ。
「じゃあ、みんなもちょっと考えてみて。何が一番怖いかってことを、そしてどうやって可笑しな姿に変えられるかもね」
部屋が、しん…と静かになった。みんな目をつぶって考えている。私も目をつぶると、少し俯きながら考え始めた。
私の怖いモノは決まっている。昏睡状態の時に触れた『』。あれより怖いモノは思いつかない。だが、果たして『まね妖怪』が『』に変身できるだろうか?アレは表現できるモノではない。概念に近いモノだ。仮に『』に変身したとしても、私は『』をどうやったら可笑しくできるだろうか?
「みんな、いいかい?」
ハッと顔を上げると、みんな覚悟を決めたような顔になっている。チラリと後ろを見ると、ミリセントは準備万端らしく腕まくりをしていた。どうしよう、これは困った。まだ『まね妖怪』が何に変身するのかさえ思いつかない。私の順番が来ないことを、祈るしかない。
「ダフネ、3つ数えてからだ。いーち、にー、さん、それ!!」
先生の杖の先から、火花がバチバチとほとばしり、タンスの取っ手のつまみに当たった。タンスが勢いよく開き、中から何かが現れる。
寝起きのようにボサボサと広がった痛んだ長髪。ケルトの魔神『バロール』が、のっそりとタンスの中から姿を現した。片目は開きギラギラとした目でダフネを睨んでいたが、もう片方の『バロールの魔眼』と恐れられる方の眼は、大きく重い瞼で覆われていた。ダフネは杖を振り上げ、震える手で狙いを定めると、目をつぶった。
「り、リディクラス!!!」
パチンっと鞭を鳴らすような音がしたと思ったら、バロールが躓いた。バロールには、真っ赤な色をしていて真ん中に目が書いてある、バカバカしいアイマスクをかけられていた。それをはぎ取ろうとするバロールだったが、取れないらしく悪戦苦闘している。
どっと笑いが上がった。私もこらえきれずに笑ってしまう。『まね妖怪』はその笑い声に戸惑ったように動きを止めて、おどおどし始めていた。
「パンジー、前へ!」
パンジーが、慌てて後ろに下がったダフネの隣に立つ。バロールはパンジーの方を向いた。すると、またパチンっという音を立ててバロールは消えた。
そこに現れたのは粗い毛並に鋭い牙と爪をもった二足歩行の動物。ダラリと涎を垂らしている狼男が立っていた。ルーピン先生の横顔が辛そうに歪んだように見えたのは気のせいだろうか…
狼男は一吼えすると、パンジーに襲い掛かろうと膝をかがめた。パンジーは真っ直ぐ狙いを定めて叫ぶ。
「リディクラス!」
パチン!という音が響く。狼男の口に鉄の輪がはまり口が開かなくなった。手はコスプレで、よくありそうな犬の手みたいな手袋をはめていて、頭には狼男には不釣り合いな猫耳、いや、犬耳をつけている。いったいパンジーは、どこからそう言った知識を手に入れたのだろうか。
「次、ドラコ」
ドラコがキリッとした顔で前に進み出る。パチンっと音を立てて『まね妖怪』が変身したものは、頭をフードにすっぽり包んだ何かだ。とはいえ、『吸魂鬼』とは違う。動き方が『吸魂鬼』なら滑るように動くが、まるで獲物をあさる獣のように地面を這ってきた。銀色に光る液体が、フードに隠れた顔から滴り落ちている。
ドラコの顔は一瞬ギクリと強張っていたが、左手につかんだ杖で何とか狙いを定めると叫んだ。
「リディクラス!!」
パチンっと音とともに、それはネズミになって、自分のしっぽを追いかけてクルクル回り始める。
「次は、ザビニ!」
ネズミが尻尾を追いかけるのを止めてザビニのを方を見た途端、パチンっと音とともにそこに現れたのは巨大な黒い犬。目をギラつかせたクマほどもある大きな犬だ。どこかで見覚えがある気がする。私の後ろにいたミリセントが、『死神犬(グリム)よ』と呟いていた。
「リディクラス!」
ザビニが叫ぶと、パチンっと音を立てて、黒い風船で出来た間抜け面をした犬に変わる。
「次、セレネ!」
もう私の番が来てしまった。私は、杖を構えると、犬の間抜け面を見る。『』に変身するとは思えないが、いったい何に変身するのだろうか。
パチン!
現れたのは、5歳くらいで東洋系の顔立ちをした少女。黒い絹のような前髪を額に垂らし切り下げ、後髪を襟足辺りで真っ直ぐに切りそろえている。白い下地に鮮やかな蝶の柄が映える着物を纏っていて、どこか禍禍しくも美しく感じなくもない深紅の瞳を私に向けていた。その少女を一目見た瞬間、私は動きを止めてしまった。
脳裏を走馬灯のようにかけるのは、ずっと昔、まだ事故に遭う前の出来事。忘れかけていたあの時の恐怖が、一気に押し寄せてくる。
でも、あの時の私ではない。あの時の弱虫で、臆病で、力もなかった私ではない。それに、目の前にいる『あの少女』は『まね妖怪』なのだ。心を落ち着けるように、深呼吸をすると、杖を持ち上げた。呪文を唱えようと、口を開く。
「リディ…?」
突然、目の前にいたはずの『まね妖怪』が姿を消した。どこに消えたのだろうか。私の記憶の中にいる『あの少女』は、姿を消す能力なんて、なかったはずだ。まさか、後ろに回り込まれたのだろうかと思い、振り返るが『少女』の姿は何処にもない。いったいどこに行ったのだろうか、と思った瞬間の出来事だった。
『逃げちゃダメ』
まるで地面から湧き上がったかのように、姿を消していた『少女』が私の眼の前に現れたのだ。そして、私が杖を振り上げる前に、杖を持つ手をつかんでくる。その握力は弱い少女のモノではなく大の大人、いや、大人の握力よりも強いように感じた。普段の私なら、振り払うことが出来ただろう。だけど、振り払うことが出来なかった。私の手は、ぐいっと少女に引っ張られて抑え込まれる。耳元に少女の、どことなく血の臭いがする吐息がかかった。
脳裏に『あの時の出来事』が走馬灯のように浮かぶ。それと同時に、当時の恐怖が全身を支配し始めた。動くことが出来ない。
だんだんと少女の口が、私の首に近づいてきている。噛まれる、と直感が私に告げ、身体がぶるっと震えた。
「来るな、リディクラス!!」
目をつぶって、少女の手を振り払うように呪文を唱えた。『まね妖怪』は、相当勢いよく吹っ飛んだらしい。つかんでいた手を離し、何かに衝突する音と悲鳴が聞こえた。
そっと目を開けると、職員室は滅茶苦茶になっていた。書類が宙を舞い、机が倒れている。イスの中には木っ端みじんになっているイスもあり、ガラスの破片が床に散らばっていた。『まね妖怪』の姿はどこにも見当たらなかった。
「どうやらセレネが、『まね妖怪』を退治したみたいだね」
ルーピン先生が笑いかけてきた。顔は笑っているが、目が笑っていない。ショックで呆然としている人が多かったみたいだが、先生の言葉でハッと我に返ったようだ。
「『まね妖怪』と対決したスリザリン生にはそれぞれ5点あげようか。それから質問に答えてくれたノットにも5点。宿題として月曜までに『まね妖怪』についてのレポートを書いてくること。
セレネは少し残ってもらうけど、今日はこれでおしまい」
呆然と立ちすくんでいる私を、心配そうに振り返る人もいたが、みんなさっさと教室を出て行く。ただ1人、ダフネだけが最後まで残っていた。
「ダフネ、早く帰りなさい」
「え、でも先生、その、職員室の片付けなら私も手伝います」
私を心配してくれているのだろう。少し嬉しかったが、これは私の問題だ。
「ダフネ、これは私の責任だ。迷惑をかけられない。心配してくれてありがとう」
ダフネはまだ心配そうに顔を歪ませていたが、職員室を出て行った。それを見届けると私は、ルーピン先生の方を向く。
「それで、どこから片付ければいいですか?」
「いや、片付けは私がしておくよ。成績表みたいに生徒には見せられない重要な書類もあるしね。それよりも、大丈夫かい?」
心配するように、私を覗き込んできたルーピン先生。
「授業が始まる前に一通り、受け持つ子の過去の成績を見させてもらったんだけどね。
マグルの世界にいても魔力を暴走させずに無自覚で制御できていた君が、制御しきれずに暴走させるなんて思ってみなかったよ。…あの『まね妖怪』が変身した少女は、何か言っていたのかな?」
そういえば、あの『少女』が話していた言語は日本語だった。今更ながらに思い出す。あの時は、恐怖で何も考えることが出来なかったから、気にも留めていなかった。
「『逃げちゃダメ』と言われました。…小さい頃、義父さんと日本の神社へ行った時に、出会った少女みたいな吸血鬼です」
そう、あの時…もし、あの人が助けに来てくれなかったら、何も戦う手段を持たなかった私は死んでいただろう。もしくは、吸血鬼の仲間入りをしていたに違いない。そう思うと、ぞっとする。でも、実際には噛まれずに済んだ。だから、私はココにいる。アレは、もう過ぎた出来事なのだ。あの着物を着た少女の姿をした吸血鬼と出会うことは、もう二度とない。たかが『まね妖怪』に後れを取ってしまった自分が、情けなかった。
そんな私の様子を見たルーピン先生は、ポンッと私の頭に手を置き、ニッコリと笑う。
「失敗は成功への近道っていうから、次から気をつければ大丈夫だよ。セレネなら、次はきっと上手くいくと思う。…ほら、そろそろ昼食の時間帯だ。まずは、しっかり食べて元気を出さないと」
「ありがとうございます」
私は、先生に礼を言うと、私は職員室を出た。だけど、昼食が用意されているであろう大広間ではなく『秘密の部屋』へと続くトイレに走った。あの場所なら、絶対に誰も来ない。バジリスクの様子も気になるが、それよりも今は1人で、冷静に自分を見つめ直す時間が欲しかった。
私は、まだ『あの人』に近づけてない。あんな過去の出来事に、イチイチ動揺されるようでは、命を助けてくれたあの人に全然近づけていないじゃないか。
遠くの方で、授業終了のチャイムが聞こえたような気がした。
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9月24日…一部訂正