「くれぐれも、気を付けるんだよ。何度も言うようだけど、男は優しい人の皮を被った狼なんだぞ?
どこに潜んでいるか分からないんだ」
クイールが先程、売店で購入したサンドイッチの入ったビニール袋を渡してきた。心配そうに顔を歪めながら、つい数分前にも言われたことを繰り返すクイール。私は微笑を浮かべながら、ビニール袋を受け取った。
「分かってる。父さんも気をつけなよ、最近の親のクレームは理不尽だから」
「理不尽なんて言ったら失礼だぞ!」
クイールの職業は小学校教師だ。少し顔をしかめて、本格的に説教モードに入る。
「いいかい、親はね、大事な子供を僕たち教師に預けているんだ。子供がどう過ごしているのかが心配になって、少し口うるさくなるのは当然のことだと思わないか?だいたい―――」
この先の言葉は、後ろに停車している深紅の列車、ホグワーツ特急の汽笛によってかき消された。私はクイールに笑いかけると手を振り、ひょいっと汽車に飛び乗った。ガタンゴトンっと音を立てて走り始める。プラットホームに立って私に手を振っているクイールの姿が点となり、ついに見えなくなるまで窓の側に立っていた。クイールの姿がすっかり見えなくなると、渡されたサンドイッチを持って、去年同様、少し前に確保しておいたコンパートメントの戸を開ける。ただ、去年とは違い、そこには誰もいなかった。
今年は、1人ゆっくり汽車の旅を楽しめそうだ。…もっとも、ただの汽車の旅で終わりそうにないけど。窓の外に広がる風景を横目で見ながら、日本旅行で予言されたことを思い出していた。
あの少女の予言通りに事が進むとすると、他のヒトを巻き込まないためにも、1人でいた方がイイ。とりあえず、何が起こるか分からないので杖の手入れをしようと、杖をポケットから取り出したとき……ガラリと扉が開いた。反射的に、杖を開かれた扉に向ける。
「おい、なに臨戦態勢とってんだよ?」
そこに立っていたのは、化け物でもヴォルデモートでもなかった。トランクを引きずっている背の高い少年で同じスリザリン寮に所属する友人…セオドール・ノットだ。去年同様、出発して間もないのにローブをしっかり着ている。私は杖を下ろすと、安堵の息を漏らした。
「なんだ、ノットか」
「なんだとは失礼だな。数か月ぶりに会ったというのに」
少し額にピキピキと筋をたてながら、私の前の座席にどさりと腰を掛ける。
「私は同席する許可を出した覚えはないんだが」
「いいだろ。他に席が空いてなかったんだ」
私はため息をついた。他に席がないというなら仕方がない。それに、ノットは同じ寮の友人だ。追い出すのは気が引ける。最低でもあと4年の付き合いになるのだ。ここで断って仲が険悪になる…ことはないだろうが、万が一険悪になってしまった場合、残りの4年間が辛い。いつ、瀬尾が予言した『化け物』がやって来るか分からないが、その時は先にノットを逃がせばいいだけの話。
「それにしても、眼鏡を買ったのか。ゴーントの視力は良かったんじゃなかったか?」
「あぁ、これか。急に悪くなったんだ」
眼鏡の冷たいふちを触る。恐らく、これから会う全員に眼鏡について訊かれるのだろう。実際に、プラットホームですれ違ったグリフィンドールのリー・ジョウダンや、レイブンクローのルーナにも訊かれた。
もう、不快感を感じることはなくなっていたが、当分の間、この眼鏡を好きになれそうにない。顔に違和感を感じる上に、なんとなく先学期末の不快感を思い出してしまうので、好きになれないのだ。
とはいえ、この眼鏡のおかげで『眼』がだいぶ楽になった。そこらじゅうに漂っている『死の線』を意識しなくてよくなったからだろう。クイールも『セレネの顔色が、ずいぶん良くなった』と言っていた。
それでも、わずかに不快感を感じるうちは、好きになれないのだろう。まぁ、いつかは慣れるはずだ。
「眼鏡、似合ってるぞ」
ノットが彼の父親のツテで手に入れた将棋盤をトランクから取り出しながら、ボソリとつぶやく。
「世辞は言うな」
「俺は嘘は言わん。お前と違ってな」
将棋盤から駒を取り出すと一つ一つ丁寧に並べていくノット。私も自軍の駒を並べながら、軽くノットを睨む。
「どういうことだ」
「視力が良かったはずのゴーントが一気に視力を悪くするとは思えない。まっ、言いたくなかったら言わなくていい」
そう言うと、どちらが先攻か決める前に、歩兵を動かすノット。私の嘘に気が付いていながらも、詳しい事情を言わなくて済んだということに少し感謝をしながら、私も歩兵の駒を動かした。
それから『シリウス・ブラック』の話をしたり、今年から行ける『ホグズミード村』の話をしながら将棋をしていた。昼の車内販売のカートを押したオバサンがやって来た時は、さすがに一時中断をした。昼を食べ終わると、ノットには一度だけコンパートメントの外に出てもらってから着替えをする。
それからは、またずっと雑談をしながら将棋をしていた。
どれくらい時間がたったのだろうか?
コンコンと、どこか遠慮がちなノック音。その後にガラリっと開いた扉の音で、私とノットは将棋盤から顔を上げる。そこにいたのは、グリフィンドールの丸顔の少年、私の友人の1人であるネビル・ロングボトムだった。物凄く困った顔をしていて、かすかに目元が赤かった。まるで、泣く寸前の子供みたいに。
「グリフィンドール生がなんのようだ?」
少しイラついた感じでネビルを睨むノット。ネビルは驚いたのか、身を小さくさせた。私はため息をつく。
「ノット…グリフィンドール生だからといって、煩いぞ。それで、ネビルはどうしたんだ?」
「え、えぇぇ!!セレネだったの!?眼鏡をしているから分からなかった!!」
どうやら、ネビルは私だと気が付かなかったらしい。目が飛び出そうになるくらい驚いている。
「似合ってるよ、セレネ!」
「ありがとう」
「…おい、俺の時と反応が違うぞ」
汽車に乗ってから、ほとんど負けているからイラついているのだろう。やけにムスッとした感じの声で問いかけてくるノット。私は将棋盤を睨みつけながら、口を開いた。
「ネビルの表情は読み取りやすいからな。ノットは表情に変化がないから真偽の判定がしにくい。それにしても、いったいどうしたんだ?」
「え、あ、うん。実は僕のトレバーがまた逃げちゃって、見かけなかった?」
「また逃げたのか、あのヒキガエル?」
ネビルのヒキガエルのトレバーは、脱走癖がある。1年生で初めてネビルと会った時も、彼は脱走したトレバーを捜していた。それに、学校内でも度々トレバーを探すネビルを見かけることがある。
「仕方ない、手伝うか」
「おい!まだこっちが終わってないぞ」
「これで王手だ」
パチンと『龍馬』と書かれた駒を『王』の前に動かす。ノットは逃げ道を捜そうとするが、私の考える限り、もうどこにも逃げ道はない。
「勘違いしないで欲しい。私は飲み物を買いに行くだけだ。そのついでにカエル探しを手伝ってもいいというだけのこと」
ネビルと一緒にコンパートメントを出る。そのとき、初めて窓の外が豪雨だったことに気が付いた。たしか昼ごろにも雨は降っていたと思うが、まさか窓から見えるはずの丘陵風景がかすむほどの雨が降っているとは気が付かなかった。汽車を出る時にはトランクから傘を出さないといけないな、と頭の片隅で考える。
「ありがとうセレネ」
「勘違いするな。私はオバサンのところまで飲み物を買いに行くだけだ。買いに行くまでの暇つぶしに、トレバーを捜そうかと思っただけ。それにしても、今度からケージに入れて育てたらどうだ?私のバーナードみたいに」
「それも考えたんだけど、やっぱり可哀そうで。
それに、僕のことだからケージをどこに置いたか忘れちゃって、見つけた時にはトレバーの干物が出来てそうだから」
「……」
その可能性を、否定できないところが怖い。
車内販売のオバサンから『かぼちゃジュース』を買い、立ち飲みしつつトレバーを捜して、コンパートメントに帰る途中のことだった。雨は激しさをさらに増していて、窓の外は墨色一色だった。風が唸りを上げるなか、通路に灯りがポッと灯る。
その灯りのおかげで、通路の隅に丸くなっているカエルがいたのを見つけた。そっと拾い上げると、トレバーは低い声で鳴いた。
「ネビル、トレバーじゃないか?」
「えっ、あっ!本当だ!ありがとうセレネ!」
ネビルはしっかりとトレバーをつかむと笑顔を浮かべた。だが、その笑顔はすぐに消えてしまった。
急に、ガクンと汽車の速度が落ち始めたのだ。
「これって何?もう着くの?」
「いや、まだ着くのは先のはずだ」
時計を見る限りだと、まだまだ到着時間ではない。予定より早く着いたとも考えられるが、この豪雨の中だ。速度を落として運転している可能性が高いのに、なんでこんなに早く着くのだろうか?不審に思っている間にも、どんどん汽車は減速していき、ピストンの音も比例するように弱弱しくなっていく。不審に思うのは私だけではなかったみたいだ。どのコンパートメントからも不思議そうな顔が突き出していた。
「あ、あれ、ハリーじゃない?」
見ると、少し先のコンパートメントから、ハリーの顔がキョロキョロと出ているのが見えた。だが、彼は私とネビルに気が付かなかったみたいだ。
「ねぇ、ハリーに何が起こったのか聞いてみる?」
ネビルが不安そうに言った。秘密の部屋での出来事について、何も知らないハリーと一緒にあまりいたくなかったが、私はネビルの案に賛成した。たぶん、先程チラリと見えたハリーの表情から推測するに、彼も何が起こったのか分からないのだろう。だが、この異常事態、こうして2人で通路に立っているより、誰か知り合いのコンパートメントに入れてもらった方が安全だ。それに恐らく、この兆候は瀬尾が予言した『化け物』が現れる前段階。1人で迎え撃つよりも、他の人と一緒にいた方が勝算が高くなるかもしれない。もし、私がやられたとしても他の人を逃がす時間は作れるし、その人が救援を呼んできてくれるかもしれない。
私とネビルは先程、ハリーが顔を出していたコンパートメントに直行した。
ハリー達の居るコンパートメントの前にたどり着いたとき、ちょうどガクンっと汽車が止まり、明かりも消えて真っ暗になった。ドシン、ドサリっとどこからかトランクが荷物棚から落ちる音が聞こえてきた。ネビルが思い切ってコンパートメントの扉を開ける。
「ごめんね、どうなっているのか分かる?」
「分からない…とりあえず座って」
ハリーの声がした。ネビルに続いて私も入る。すると、猫の唸り声が聞こえてきた。同時にネビルの悲鳴も。大方、猫の上にでも座ったのだろう。だが、ハリー達の中に猫を飼っている人がいたとは記憶にないが。
「大丈夫か、ネビル?…というか誰の猫の上に座ったんだ?」
「セレネ!?セレネもいるの!?」
「セレネ・ゴーントが何の用だ?」
ハリーが驚く声がした。ロンは威嚇するように言い放つ。
「ネビルのトレバー探しに付き合っていただけだ」
「その猫は私の猫なの。セレネは何が起こったのか分かる?」
ハーマイオニーの声がする。彼女の声は少し震えていた。
「分からない」
「ねぇ、何が起こっているの?」
背後から、どこかで聞いたような声が聞こえた。振り返るとそこに立っていたのは不安そうな顔をしたジニー・ウィーズリーだった。だが、私は彼女と『初対面』なので知らないふりをする。
「分からない。とりあえず私は入るけど…アンタの名前は?」
「こいつはジニー。僕の妹だ」
ロンが厳しい口調で言った。とりあえず、私は残り半分の『かぼちゃジュース』の瓶を座席の上に置かせてもらった。
「とりあえず、ここに座って――」
「痛い!!ここには僕がいるんだ!!」
「静かに」
知らない男の人の声がした。しわがれ声で、その人が杖に灯りをともす。
白髪交じりの人だったが、本当の歳はクイールやスネイプ先生と同じくらいなのではないだろうか?
疲れた感じの表情をしていた。しかし、目だけには油断がなく、鋭く警戒していた。彼の鞄には『リーマス・ルーピン』と刺繍してあるのが見える。おそらく、空席の『闇の魔術に対する防衛術』の先生だろう。他に空席の授業なんて、思いつかないし。
私は袖の下にナイフがあるということを服の上から確認すると、いつでも外せるように眼鏡の縁をつかんだ。
「あれ、セレネって眼鏡買ったの?」
「ハリー、少し黙っててくれないかい」
ルーピン先生が私に質問しようとしたハリーを制す。そのまま先生はゆっくり入口の方まで歩いていく。だが、先生がたどり着く前にドアが自然と開いた。
入り口に現れたのは、マントですっぽり体を覆った天井まで届きそうなくらい大きな黒い影だった。だが、単に背の高い人というわけではない。その手は灰白色に冷たく光り、触れることを躊躇うようなかさぶたに覆われ、まるで水中で腐敗したか死骸のような感じだ。それはグルリとコンパートメントを見まわした。そしてガラガラと音をたてながら、ゆっくりと長く息を吸い込んだ。まるで周囲から空気以外の何かを吸い込もうとしているみたいだった。ぞっとするような冷気があたりを覆った。座席に置いておいた『かぼちゃジュース』の中身がカチカチっと凍っていくのが視界の端に見えた気がした。
脳裏に瀬尾が教えてくれた『未来の光景』が横切る。急いで眼鏡を外そうと思ったが、つかんでいた手を動かすことが出来ない。息が詰まるみたいで苦しかった。寒気が皮膚を通り越して、身体の内側まで深く潜り込んでいく。私の胸の中、そして心臓へと…
私は立っていられなくなった。跪くようにして床に倒れてしまった。近くで他にも誰かが倒れる音がする。何も視えない。ただ、冷気が私の身体を支配していく感じだ。目玉がひっくり返りそうになりそうになりながらも、必死で我を保とうとしていた。だが、悪寒の奔る感覚は濁流の様に私に押し寄せてくる。まるで『』を観測していた頃のような感覚が、身体を支配していく。
遠くで、ルーピン先生が何か言っているのが聞こえた気がした。
「エクスペクト・パトローナム―守護霊よ、来たれ!」
誰かが、何か銀色の動物らしきものを杖の先から噴射させられたのが視界の端に映った。すると、侵入者はスルスルっと退散していった。何事もなかったかのように。身体に温かさが戻るのは少し先になりそうだが、押しつぶされそうだと感じるほどの重圧はなくなった。私は立ち上がろうとしたが、手足に力が入らない。
「大丈夫かい?」
ルーピン先生が優しく笑いながら手を貸してくれた。周りを見渡すと、ハーマイオニーもロンもネビルもジニーも、特にジニーは、ハリーを除くと1番ひどい状態で、ガタガタ震えていた。ハリーは顔面蒼白の状態で、床に気絶していた。
「…大丈夫…です」
かすれた声でボソリと呟く。
「今のはなに?」
ジニーが青ざめた表情で呟いた。ジニーは身体じゅうが震え、縮こまっている。
「『吸魂鬼』通称ディメンター。魔法使いの監獄『アズカバン』の看守だよ」
ルーピン先生が、床に倒れているハリーの調子や他の子たちの調子を確認しながら口を開いた。
今のが、『吸魂鬼』。本で読んだことがある存在で、著者は『アレは看守という生温い言葉で片付けられないバケモノ』と称していたが、まさしくその通りだと実感した。幸福を拭い去って、それを食料としていると記されていた。だけど、幸福どころか私のすべてを奪われてしまいそうな、そんな感じのバケモノだった。『眼』も杖もナイフも使わせる暇を、奴は与えない。こうなることは、予知できていたのにもかかわらず、素早く対応することが出来なかった。
あんなバケモノと12年間も共に過ごしていたのに気を狂わすことなく、脱獄までやり遂げた『シリウス・ブラック』とは何者なのだろうか?考えるだけで、ゾワゾワッとしたモノが背筋に奔る。
窓の外の雨は、激しさを増していた。当分やみそうにないなと頭の片隅で考えながら、気絶しているハリーが目覚めるのを他の人たちと一緒に待っていた。
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9月24日…一部改訂