「あら!わざわざ、ありがとね」
日本から帰ってきた私は、マージョリーさんに土産のカステラを渡す。
マージョリーさんは甘いモノが大好きだ。だから甘いモノを土産にしようと考えていたのだが、西洋人の好みに合う甘いモノが日本には少ないのだ。日本の料理は全般的に、イギリスと比べ物にならないくらい美味しい。日本で中華料理を食べた時、いままで母国イギリスで食べた中華はなんだったんだと思うくらい、めっちゃ食っちゃおいしい。だが、日本の甘い食べ物となると、話は違ってくる。餡子や饅頭といった薄味の甘い菓子は、イギリスで受け入れられないのだ。私も舌が肥えて初めて、美味しいと思うようになったが、最初に口にしたときは、味を感じることが出来なかった。
仕方ないので、『京都土産』を諦め、『日本土産』ということでカステラに決めた。デパートの地下で試食したら、甘かったし大きさも丁度よかった。つい、自分用にも買ってしまうくらい美味しいカステラだった。あとで、クイールから『カステラは元々は“カスドース”っていうポルトガルの菓子』だと教えてもらったが、見事に日本の菓子と化しているので、問題ないだろう。
「いえ、いつもマージョリーさんには土産物を貰っていますので。そういえば、今年の夏はどこかへ行ったのですか?」
私は笑顔を浮かべながら、マージョリーさんに問いかける。きっと、自慢話を聞かされるに違いないと思っていただけに、マージョリーさんは不快そうな顔をされて、少し驚いてしまった。
「兄のバーノンの所に行ったよ。ダッダーちゃんはますますカッコよく成長していてねぇ。写真見るかい?」
そう言われたので、かなり嫌々のぞいてみる。お世辞にもカッコイイとは言えなかった。この写真に写っている子鯨サイズの少年を『カッコイイ』と表現したとすると、ドラコの子分どもでさえ『カッコイイ!』と表現しないといけなくなる。マージョリーさんは一回検診に行って、目を診てもらった方がいいのではないだろうか?
「…体格がいいですね」
本音を言えないので曖昧にそう返す。すると、良い方向にとらえてくれたみたいだ。マージョリーさんは満面の笑みを浮かべていた。先程までの不満顔が、嘘のようだ。
「そうだろう、そうだろう!立派な体格のいい健全男子だわよねぇ~。それに比べたら、あんたさ、あそこに居候してるポッターってガキを覚えてるかい?」
「ハリー・ポッターですか?」
覚えているも何も、同じ学校に通っている。魔法薬学の時間くらいしか、会う機会はないし、寮が違うから話すことは稀だけど。
「そのポッターだよ!ダッダーちゃんとは比べものにならないくらい不健康な体をしてんだ。みすぼらしい生まれそこないの顔だ。まったく、その上、私に挨拶もしないで夜中にフラフラどっかに出て行ったんだ。本当にろくでなしの息子だよ!『更生不能非行少年院』に入れられて当然さ。もし私の家の前に捨てられていたら、すぐに孤児院行きにしていたね」
「……」
一体何をしているんだ、ハリー?夜中にフラフラとどこに行ったのだろう。危ない店にでも行ったのだろうか、13歳で。さすがに、ハリーに限ってそれはないと思う。『更生不能飛行少年院』について深く詮索はしないでおこう。
「それよりも早く帰った方がいいわよ、あんたは女の子なんだから。『シリウス・ブラック』が現れたら大変だからね」
「『シリウス・ブラック』ですか?」
思わず眉をしかめて聞き返した。するとマージョリーさんは、内緒話をするみたいに顔を寄せて低い声で話してくれた。
「どこぞの監獄から脱獄した凶悪犯さ。ボッサボサの髪をしていてね。ポッターと同じくらいみすぼらしい顔をしてんだ」
「凶悪犯ですか。でも、聞いたことない名前ですね」
「なんでも12年前に一度に13人も殺したんだ。まったく、そんな凶悪犯を脱獄させた看守は一体誰だい!どこの監獄から脱獄したのかも、ニュースで流れない!今そこに現れるかもしれないのに、国は安全管理や危機意識が低すぎる。とにかく1人歩きは気を付けるんだよ」
そう言いながら『犬の世話がある』といって家まで送ってくれないマージョリーさん。心配しているのか心配していないのかよく分からない。きっと、彼女もなるべく家の中で大人しくしていたいのだろう。下手に出歩いてシリウス・ブラックと鉢合わせなんて、嫌だろうし。
それにしても、まさかマグルの世界で『シリウス・ブラック』の名前を聞くことになるとは思わなかった。その名前は『生粋の貴族―魔法族家系図』で見かけた名前だ。純血の名門『ブラック家』の長男で、たしかスネイプ先生と同じ年に生まれていたような気がする。
もしかしたら、マグルの監獄からではなく、魔法族の監獄『アズカバン』からシリウス・ブラックは脱獄したのかもしれない。だから、どこから脱獄したかニュースにならない。というか、出来ない。
大方、ヴォルデモートの手先で、ヴォルデモート失脚後に逮捕されて収監されていたのだろう。ブラック家は『生粋の貴族』みたいだし。だが、どうやって脱獄したのか思いつかない。
魔法使いの監獄『アズカバン』がどういう所で、何処にあるのかは知らない。ダフネが前に教えてくれた話だと、そこには『吸魂鬼(ディメンター)』という化け物が看守をしているらしいということは知っている。そいつは『人の幸せ』を糧として生きている化け物で、ずっと近くにいると気が狂ってしまうらしい。
ダフネの父親が魔法省に務めているらしいのだが、その関係で一度だけアズカバンという所に行ったみたいだ。たった3時間足らずで帰ってきた父親は、すっかり衰弱し、震えが止まらなかったそうだ。
たった3時間で人を弱らせてしまうのであれば、12年間も一緒にいたらどうなるのだろうか。『我』を保っていられるのだろうか?普通の神経なら、考えられない。
考え事をしているうちに、家の前を過ぎるところだった。ポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に差し込む。カチャリという嬢が外れる音。私は玄関に足を踏み入れた。
「ただいま」
しかし、返事は帰ってこない。…当然だ。家の中に、誰もいないのだから。クイールは、朝から研修でロンドンまで行っている。ついでにダイアゴン横丁に立ち寄って、新しい教科書や羽ペンなどの必要な学用品を買ってきてくれる事になっていた。今年は、あまり背が伸びなかったのでローブを新調する心配がない。万が一、新調しなければならなくなったとしても、3年生からは休日にホグワーツの近隣の村『ホグズミード』に外出する許可が与えられている。いざとなったら、そこにある服屋で新調してもらえばいい。村だから、一軒くらい服屋があるだろう。
私は宿題をするために自分の部屋に戻る。丸まった羊皮紙を広げてから、羽ペンにインクを浸した。宿題くらいボールペンやシャーペンで書きたいが、使ったせいで減点されたら嫌だ。だから、羽ペンを使う。カリカリッと音をたてながら『縮み薬』について、教科書を時折見直しながら書き始めた。
『今日は、どの宿題をやっているんだ?』
机の上に置いてあるケージの中から声がした。蛇のバーナードがゆっくりと重たい頭を持ち上げて私を見る。
『魔法薬。縮み薬のレポートだ』
『そうか』
それだけ言うと、再び頭を下げて目を閉じるバーナード。最近、バーナードの調子が悪い。いつも、どこか怠そうに寝ている。餌を食べる回数も量も、グッと減った。元々クイールが拾ってきた時点で、結構な年だったのだ。そろそろ寿命が来ても、おかしくはない。
クイールが新しい蛇を買うか?っと尋ねてくれたのだが、私は断った。ペットなら、今はハーマイオニーのところに手紙を運んでいるフクロウのアクベンスがいる。それに、ホグワーツに帰れば、バーナードの何倍もある巨蛇、バジリスクがいる。
バジリスクには『魔法族でもマグルでも人間を襲わないで、マウスみたいな小動物のみ襲うように』と言いきかせておいてあるので、餌の心配は不要だ。私が卒業したらバジリスクをどうするかが問題になってくるが、その時はその時で考えることにしよう。卒業まで4年もあるのだ。4年なんて、まだまだ先。
しばらく、羊皮紙の上に羽ペンを走らせていたが、だんだん蒸し暑くなってきた。汗が額からポツポツと滲んでくる気がする。エアコンをつけようかとも思ったが、手が届く範囲にリモコンは無い。ちょうど程よい具合に風が吹いているみたいなので、少しだけ手を伸ばして窓を押し開ける。すると、密閉された自室に、新鮮な風が入ってきた。
なんだか、生き返るような気がする。深呼吸をしてから、再びレポートに取り掛かろうとした時、ふと窓の外に広がる通りが目に入った。特に気にすることのない通りだが、今日は違った。
黒々とした巨大な犬が、通りをよろよろと歩いていく。
首輪はつけていなく、毛並みはここから見ても粗悪で、汚らしかった。まるで、遠くから旅をしてきたみたいに。そうとう腹を空かせているに違いない。遠目からでも、骨と皮ばかりに痩せ衰えているみたいだということが分かる。この辺りは高級住宅街なので、犬を飼っている人はいるが、たいていの人は家の中で飼っている。外に連れて歩くときは首輪とリードをしっかりつけているし、どの犬も血統書付きで毛並みも手入れが行き届いている。となると、通りを歩いている黒い犬は、野犬ということになる。だが、このあたりで野犬を見かけたことなんてない。
カーテンが揺れるのと呼応するみたいに私の髪も揺れる。教科書の読んでいるページを押さえておかなかったせいで、風が勝手にページをめくってしまっていた。風でめくれてしまったページを慌てて抑え、元のページに戻したときには、すでに黒い犬の姿はない。
私は気を取り直してレポートを書くことに戻った。だが、しばらくの間、黒い犬が頭から離れなかった。