イグサという藁で編まれた床に、私は眼鏡をかけたままゴロンと倒れこんだ。
夏休みということで、義父のクイールと一緒に日本旅行を楽しんでいたのだが、なんで、こんなに疲れないといけないのだろうか。
そもそもの予定では、こんなに疲れるはずじゃなかった。クイールの日本留学時代のフィールドワークで知り合った友人という男性の所を訪ねている。クイールと男性が楽しそうに話している暇な時間、のんびり辺りを散策しようと思っていた。なのに…
『暇なら手伝って』
という女将さん(だと思う割烹着を着込んだ人物)の一言で、全てが変わった。気が付くと、今まで嗅いだ事のない酒の臭いが充満する中、他の大人に交じって雑用全般をしている私がいた。あっちで呼ばれれば、すっとんで蒸米を汲み出しの手伝いをし、向こうで呼ばれれば、慣れぬ下駄で精いっぱい走って行く。
掌から、ほんのりと薫る日本酒の匂いを嗅いだとき、思わずため息がこぼれてしまった。とりあえず、今日は『酒造りの鬼』の家に泊めてもらい、明日の朝早くに次の知り合いの所へ出発するみたいだ。なんでも、バスの本数が少ないから、早めに出ないといけないらしい。
クイールは一体、何を考えているのだろうか。
どうせなら、京都や奈良と言った、もっと日本らしいところに行きたかった。もちろん両方とも以前、訪れたことがあったが、それはそれ、これはこれ。再び行くことで、何か新たな発見があるといいなと期待していたのに。今回の旅行では、どこに行くのか詳しく教えてもらっていない。クイールのことだから、危ないところには行かせないと思うが…少なくとも、ここよりマシなところだと願うことにしよう。
そんなことを思っているうちに、すぅっと眠りの世界に入り込んでしまっていたらしい。
誰かに揺すられて、ハッと目を覚ました。ガバリと起き上がり、枕元に置いておいた果物ナイフを構える。
「セレネ、僕だって」
そこにいたのは、クイールだった。優しげな笑みを浮かべながら、両手を上にあげている。
「そろそろ出る時間が近づいているよ。支度して。玄関で待ってる」
そういうと、彼は部屋を出て行った。今更ながら、何か草を模した絵が描かれている薄い掛布団が、そっと私の上に掛けられていることに気が付いた。古い時計が、遠くでボーン、ボーンと時を告げている。窓を見上げると、まだ藍色に染まっている西の空に、黄金色をした満月が沈もうとしていた。…どうやら、寝過ごしそうになっていたみたいだ。
私は、急いで身支度をする。シャツに短パンというラフな格好に着替えると、愛用のウェストポーチに先程のナイフを仕舞い、杖が入っているかどうかも確かめる。衣類やアメニティグッズ等がリュックサックを背負い直せば、準備万端だ。障子を開けクイールの所へと急ぐ。だが、玄関にクイールの姿は見当たらない。どうやら、先についてしまったみたいだ。ブーツを履いて、ぼんやりと縁に座り込む。
こうして、ボンヤリとしていると、つい先日のダンブルドアとの会話が蘇ってくる。あの時の、モヤモヤ感とともに。アレで良かったと思うけど、思えば思う程、腑に落ちない何かが広がっていく。この不思議な眼鏡のお蔭で、ずいぶんと楽に暮らせるようになったが、それを意識する度に……
「あ、あの…」
どことなく、か細い声が後ろから聞こえる。その声で現実に戻った私は、ゆっくりと振り返った。そこにいたのは、ここの一人娘だった。歳は、確か私より少し下。というより、見た感じ下。名前は知らない。昨日の酒造りの手伝いで、一言二言交わしただけだ。
「確か、セレネさん…でしたっけ。もう、帰るんですか?」
「みたいです。お世話になりました」
少しだけ、頭を下げると、向こうも頭を下げてきた。会話が途切れ、静寂が再び辺りを包み込む。
「セレネさんって、どこの人ですか?」
静寂が耐え切れなくなったのかもしれない。彼女は、なんとなくというような感じで口を開いた。
「イギリス」
短く答える。会話が続かない。三度、辺りに静寂が満ちる。何か私から声をかけてみようか。こういう時、クイールなら気の利いた言葉が出てくるのだが、私は何も思いつかなかった。こちらの学校生活について、聞いてみようか。そう思い、口を開こうとした時、妙なことに気が付いた。
なんとなく、少女の様子が変だ。まるで怯えるように、身体を震わせている。その視線は、まっすぐ私に向けられていた。だが、私は怯えられることをしていない。
「…どうしたんだ?」
「えっと…なんでもないです」
眉間に皺を寄せて尋ねると、ふるふると彼女は首を横に振った。
「いや、なんでもなくないだろ。震えてる」
私が、使い慣れていない日本語でもう一度だけ尋ねた。すると、少し何かに悩んだ様子だった彼女だが、勇気を振り絞ったように口を開いた。
「あの、驚かないで聞いてくださいね。セレネさん、汽車に乗らないでください」
「…?」
いきなり、何を言い出すのだろうか。私が当惑している間にも、彼女は言葉を続けている。
「き、汽車の中で、変なフードの人…なのかなぁ?よく分からないけど、変な人がセレネさんに襲い掛かって、セレネさん倒れちゃうんです。だから、汽車に乗らないでください」
蒼白になりながらも、必死に私に訴えかけてくる少女。何で、いきなりこんなことを言ってきたのだろうか?
「何で、そう思ったんだ?」
「そ、それは…」
少し後ろめたそうに、彼女は眼を板張りの床に落とした。冗談で言っているようには見えないから、何か根拠があるのだと思う。まさか、未来でも視たのだろうか。バカバカしいと一蹴しかけたが、ありえない話ではない。
私は選択しなかったが、3年生から選択可能になる授業に『占い学』という未来を占う授業があった気がする。それに、『死』を視てしまう眼があるくらいだ。『未来』を視る眼があっても、不思議ではない。
「なんとなく、です。私の勘って、よく当たるから。なんとなく、セレネさんが汽車の中でマントを被った変な人に襲われる、ような気がして」
どことなく寂しそうな表情を浮かべながら、小さく呟いた。『信じてもらいたい』という強い気持ちと、『どうせ、信じてもらえないだろう』という強い気持ちがぶつかり合っているようにも見える。
「マントを被った変な人か。どんな人だ?」
「全身マントを被っていて、顔は分からなかったです。でも、その人が汽車の個室に入ってきた瞬間、パリパリって、瓶の中の水が凍って、それから、真っ青な顔をしたセレネさんが床に倒れるんです」
今にも泣きそうな少女は、必死に私に告げてくれた。瓶の中の水が凍る、ということは氷結系の呪文を使ったということだろう。だけど、そんな呪文を使えそうな同学年はいない。ハーマイオニーやレイブンクロー生は使えるかもしれないけど、全身マントに身を包んで私を襲うか?そもそも、新学期が始まる前に、そんなことをして一体、何の得がある?絶対に寮監から、ホグワーツ到着早々、罰則を受けることになるだけだ。ということは、外部の魔法使い。外部の魔法使いで、私に敵対心を持っている可能性があるのは…『ヴォルデモート』くらいだ。だが、そんな簡単に現れるか?第一、私を狙う前にハリー・ポッターを狙うだろ。だけど、もし…ハリーを倒した後に私を狙うことだってあり得るかもしれない。私を殺せば、スリザリンの継承者は、もうアイツだけなんだから。
「あの、信じられないと思うんですけど、汽車に乗ったら…」
「信じるよ」
私が答えると、少女は呆然とした表情になった。まさか、信じてもらえるとは思っていなかったのかもしれない。私だって、『占い学』という科目があると知っていなかったら信じていなかったと思う。
「でも、9月に学校へ帰るときには必ず、汽車に乗らないといけない。気を付けることにする」
私がそう言った時、ちょうどクイールと彼女の両親が玄関に姿を現した。
なんでも、いらないと言っているのに朝食用の弁当を持たせてくれたみたいだ。女将さんから受け取った弁当には、和紙で丁寧に包まれた真っ白な握り飯が2つ入っている。私はリュックサックの中に、大事にしまうと、クイールと一緒に頭を下げた。ここに来ることは、2度とないだろうと思いながら、3人に背を向ける。一瞬、私に未来を教えてくれた少女の顔に、信じてくれたという嬉しそうな表情と、私の未来を心配する表情が浮かんでいたように見えた。
クイールの後について出ようとした私は、いったん立ち止まってから振り返った。
「学校に無事帰れたら、手紙を出すよ」
そう言って、少女に笑いかける。少女は最初こそ少し驚いたような表情を浮かべていたが、すぐに、ますます心配そうな表情になってしまった。…どうやら、死亡フラグと思われてしまったのかもしれない。
私は彼女のことを振り返ることなく、クイールの背中を追いかけた。
「静音ちゃんと文通するのかい?」
少し先の電柱の所で足を止めていたクイールが、私に微笑みかける。そうか、あの子は静音というのか。
「文通、というか生存報告。あとで、住所を教えて」
そう言いながら、海沿いの国道を歩く。潮の香が風に運ばれ、鼻孔に届いた。イギリスの潮の香とは違うような気がする。異国に来たんだなと、今更ながらに思った。そんな私を見たクイールは、ニッコリと楽しそうな笑顔を浮かべる。
「じゃあ、帰ったら瀬尾静音ちゃんの住所を教えるよ。それとも、今がいい?」
「なくしそうだから、家に帰ってからでいいよ。それより、次はどこに行くの?」
私は、話題を切り替える。
「もう、特に用がないから…京都観光をしようと思ってるんだけど、どうかな?」
クイールが笑顔を浮かべながら、提案してくる。私が即決で頷くと、クイールの表情はますます嬉しそうに輝いた。
「じゃあ、伏見稲荷に行こうか?」
「義父さん…私はあそこ、嫌いって知ってるくせに。だって…」
私は言葉を区切った。背後から、バスと思われるエンジン音が近づいてくる。実際に振り返ってみると、遠くにバスが視えた。このあたりで走っているバスの路線は1つだけ。ということは…
あのバスに乗り遅れたら、次のバスが来るまでの2時間、待ちぼうけを食らうはめになってしまう。
バス停まで200メートル。早朝から私とクイールは全速力で走る羽目になったのだった。