それは、19年前の夜のこと―――
ガラスケースを叩く音が空しく響き、消えていく。
グリフィンドールの剣は、惚れてしまうくらい精巧な輝きを放っていた。不純物が憑いている気配は、まるでない。『眼』を通して剣を視たが、全てを切り裂く切っ先には『線』なんて一本も奔っていないのだ。
つまり――私の読みは、空振りに終わってしまった。
「読みが、外れた」
口から言葉が零れ落ちる。
その言葉も、静かすぎる校長室に消えて行った。
額縁には、誰も残っていない。どの歴代校長も、外の乱戦を応援しに行ってしまっているのだ。戦闘は続いているらしく、私の声は消えていくのに、悲鳴や倒壊音が途絶えることは無い。
『バジリスクを操ることが出来るのは、セレネだけだから、僕達のことは気にしないで校長室へ向かってくれ!』
と言われ、私が校長室までやって来た。
『合い言葉』なんて分からなかったから、ナイフで魔法を破って押し入った。
でも、最後の分霊箱は『グリフィンドールの剣』ではなかったのだ。では、最後の分霊箱は、どこにあるのだろうか?ホグワーツに、これ以上隠されているとは思えない。だからといって、他に隠されている場所なんて見当もつかないし、いまからそこへ駆けつけたところで、間に合うかどうか定かではない。
そもそも、『分霊箱があるかもしれない』というだけでホグワーツ侵入を企てたのは、他ならない私だ。秘密の部屋伝いに城へ侵入できたのはいいが、その後見つかってしまうことなんて予想できたことだし、その危険を冒してでも侵入すべきと主張したのはこの私だ。
騒ぎは拡大し、騎士団と死喰い人が入り混じった乱戦状態へと発展してしまった。この瞬間にも外で呪文が稲妻のように光る。一体、この戦争で何人の人が命を落とすことになるだろう?もしかしたら、この瞬間にも私の知っている人が危険に陥っているかもしれない。
「王手……いや、そんなことない」
まだ、挽回の策はあるはずだ。
必死に思考を回転させる。一秒、一秒が惜しくてたまらないのに、何も思いつかない。この状況になって、ハリーの中の分霊箱を壊さなければよかったと後悔する。ハリーには悪いが、彼にヴォルデモートの心理状態を覗いてもらうことによって、最後の分霊箱のありかが分かったかもしれないのに。
自分の考えの甘さが、何処まで行っても憎い。でも、悔やむのは後だ。とにかく最善の策を考えなければ――。
「セレネ様」
その時だ。
しわがれた声が、背中にかけられた。
はた、と振り返る。すると、そこにはいつかの老いたしもべ妖精が佇んでいた。私は目を丸くし、彼女を見つめる。
「クリーチャー?」
「はい、クリーチャーでございます」
行儀正しく礼をするクリーチャーを視て、私は疑問を抱いた。
このしもべ妖精は、私に恩義を感じている。だから、私は――勝手に外を出歩くことが出来ない自分に代わり、ロンドンに来訪したキリツグさんたちと接触するように頼んだのだ。その用は既に終わり、お疲れ様、ありがとうと別れたはず。なのに、何故――今ここにいるのだろう?
「あなたに頼んだ用事は――終わったと思ったと伝えたはず」
「いえ、クリーチャーには残っているのです」
クリーチャーは、ハッキリと言い放つ。
テニスボールみたいな眼には、困惑する私がハッキリと映し出されていた。
「実は、キリツグ様から言伝があります」
「キリツグさんから?」
もう彼とは別れたはずなのだが――どうしたのだろうか?
「はい、最後の分霊箱『蛇のナギニ』は既に破壊したとのことです」
「そうか―――はぁ!?」
驚きのあまり、口が開いてしまう。
いつ、どこで、どのようにして、ナギニを倒したのだろうか?その背景がまるで見えてこない。いくら質問しても、クリーチャーは『存じません』の一点張りだった。本当に存じないように見えるから、これ以上尋ねてみても意味がないだろうと判断し、私は階段に足をかけた。この階段を降りれば、私も乱戦に身を投じなければならない。
その覚悟は、とうに出来ている。
「おしえてくれて、ありがとう――クリーチャー」
「いえ、お気をつけて――セレネ様」
私は階段を降りる。
徐々に、呪文の破裂音やら悲鳴が近くなっていくのを感じた。階段を降りれば降りるほど、足が軽くなっていくのがよく分かる。あの乱戦だと、自分でも死ぬ確率が高い。だから、死から逃げたい。でも、それよりも自分の大切な場所を護りたいという気持ちの方が強かった。
それに、全ての分霊箱が破壊されたって伝えないといけない人がいる。だから、ここで立ち止まっているわけにはいかない。ほとんど躊躇することなく、最後の一段を降りた瞬間、地面すれすれを呪文が奔ってきた。
私は飛び跳ねてかわすと、まだ足が地面に着く前に左手を伸ばした。
「『ステューピファイ―失神せよ!』」
名前も知らぬ死喰い人は、弧を描いて飛んでいく。
だが、それを悠長に見届ける暇はない。視線の端に、こちらへ飛んでくる緑の閃光を見つけたからだ。ひょいっと半歩後ろに下がり、右手のナイフを回した。寸断された緑色の閃光を放った魔法使いから表情が消えた。そして、まずナイフに視線を向け、そのまま私の瞳の色を視た瞬間、回れ右!と言わんばかりの速度で逃げ始める。
後を追いかけようか、と思ったが、よすことにした。逃げている奴を深追いする時間なんて、もったいないではないか。
逃げた男に背を向け、私は外へと走る。その途中で、ふと、こんな言葉を思い出した。
『「命が惜しければ、ハリー・ポッターとセレネ・ゴーントを差し出せ。
さすれば、お前たちは救われる』
校長室へ飛び込む前、どこからともなく聞こえてきたヴォルデモートの声。
まるで、拡声器で呼びかけたような声だった。ということは、すなわち呼びかけられる程近くにいるということ。まぁ、アイツ自身が参戦しているような騒ぎには思えないので、自分は少し離れた場所で安穏と戦況を分析していると推測する。
「この近辺で、隠れるのに適した場所は――叫びの屋敷か」
ヴォルデモートは、卒業後に植えられた『暴れ柳』と、そこに隠されている通路の存在を知らないはずだ。むかし、ルーピン先生の案内に従い通った道を反芻しながら、杖を一振りした。
『さて、行こうか』
呪文を使い、あっさりと身体を透明にする。もう、誰も私の存在に気がつかない。そのまま乱戦の合間を縫うように駆け抜ける。一気に大将の首を獲ろう――というのは、私の役目ではない。ならせめて、名誉挽回として大将が潜んでいる位置は明らかにしよう。
ホグワーツの校庭は、通常――夜になると灯りが全く存在しない暗闇に包まれる。それは、今日も例外ではなかった。校門に近い辺りや校舎の近くでは、呪文の閃光が飛び交い、まるで花火を灯しているようだ。だけれども、『暴れ柳』が植えてある位置まで来ると静かなモノで、そこだけ普段の夜と変わらない空間が広がっていた。
「――まさか、またここを通るなんて、な」
アルファルドが『暴れ柳』の動きを止めた隙を狙い、窪みに偽装された通路に転がり込む。埃っぽいことこの上なく、息が詰まるほど狭かったが、文句など言っていられない。
黙々と這うようにして、狭い通路の奥に視える小さな光目がけて進んでいく。匍匐前進は、舞弥さんとの修行で何度となく繰り返し行ったことだ。別に造作もないことだ。
『アルファルド、先行してくれる?』
この先、何があるのか分からない。
いくらホグワーツ内部から『叫びの屋敷』へ侵入できると知らないとはいえ、警戒を怠るだろうか?いや、そんなことないだろう。むしろ用心に越したことは無いだろう。
『了解しました、主』
アルファルドは、従順に頷くと先行する。
あっというまに、アルファルドの姿は光の中へ消えて行った。私も慎重に後を追う。もしかしたら、あの光の向こうにヴォルデモートがいるかもしれないのだ。気を抜けるわけがない。もっとも、アルファルドが躊躇いもなく進んでいったことから、ここを抜けた先の部屋には誰もいないのだろうと推測できる。それでも、用心に越したことは無いのだ。
『主』
先行したアルファルドが、戻ってきた。
私は匍匐を止めると、眉間にしわを寄せた。出口で待たず、わざわざ報告するために戻ってきたのだ。抜けた先の部屋に、なにかあったに違いない。
『どうした?』
これ以上ない、というくらい小さな声で囁き返した。
だけど、アルファルドは何も答えない。ただ沈黙をつづけている。
『なにか、危険なモノでも見つかったのか?』
『いいえ、恐らく危険なものではありません』
妙に歯切れが悪い。
ハッキリと言いたくない何かがある、というのだろうか?
『とりあえず、進んでも危険はない?』
『はい、恐らくは』
私は一層、慎重に進む。
アルファルドをここまで動揺させるものとは、いったいなんなのだろうか?この先に、その答えが待っている。そして、出来るだけそっと部屋に入り込む。
埃っぽい部屋には、ほんの少し前まで人がいたのだろう。暗くて、周囲はよく分からない。
『ルーモス-光よ』
赤子みたいな灯りが、ポンッと杖先に灯る。
最初に視界に入ったのは、埃のたまった床だった。灰色の床には、何人かの人が歩いた痕跡が残されている。次に映し出したのは、誰かの脚だった。血の気のない白い脚が、スカートの中から伸びている。記憶が正しければ、ホグワーツ指定のスカートだ。私は震える杖先を、ゆっくりと上へ動かしていく。指定のスカートから、指定のローブに、胸に縫い付けられた見慣れた蛇のエンブレムが目に入った瞬間、杖の震えが大きくなった。
緑色に銀糸で描かれた『蛇』と『S』の文字が示すものは、1つしかない。私は震える右手を支えるように、左手を添える。また、上へと杖を動かした。
脚同様、不自然なくらい白くなり過ぎた首から、ゆっくりと顔の方へ灯りを向ける。
「えっ…?」
私の口から、声が零れ落ちる。
震えはピタリ、と止まってしまう。驚きのあまり、身体から力が抜けてしまう。気がつけば、ぺたりと座り込んでしまっていた。
杖灯りの先に転がっていた死体は、まぎれもなく『私』―――セレネ・ゴーントだったのだから。
茫然とする感情をよそに、セレネの身体は動く。
てきぱきと死体の手の中に杖がないことを確認し、ローブのポケットを探った。そして見つけた使い古された生徒手帳。そこに記されていた名前は、『ミリセント・ブルストロード』――私の友人の名前だった。
そこから何が起きたのか、真っ白になる感情とは別の冷静な部分が推理する。
事実は分からない。
ただ、推測することは出来た。
ノットの話によれば、私はまだ『退学』になったわけではなく、トランクや衣類といった私物は寮に置かれたままだったらしい。ミリセントは、そこに付着した髪の毛を手に入れたのだろう。ポリジュース薬は、簡単に調合できるものではないから――魔法薬学の新しい先生が、教室に――『珍しい薬』として持ってきた際に、手に入れたのだろう。
ポリジュース薬と髪の毛を使って、ミリセントは私に化けた。
そして死んだ。
何故私に化けたのか、分からない。
ただ、ハッキリしていることは、1つ――ミリセントはセレネとして死んだことだ。そして、その要因を作ってしまったのは――ヴォルデモートをここに招きよせてしまった私だ。
私が、分霊箱がホグワーツにあると思ってしまったばかりにヴォルデモートを呼び寄せ、こんな結末になってしまったのだ。
私は――大切な友人の命を――また救えなかった。
最初は、ルーナ。次は、ミリセント。2人も殺してしまった。
風に乗って、遠くから声が聞こえてくる。ヴォルデモートの声だ。
『ハリー・ポッター、1時間以内に『禁じられた森』へ来い。
すでにセレネ・ゴーントは命乞いをしながら死に、蛇語を操る者も俺とお前だけだ。2人っきりで話そうではないか』
他の言葉は、耳に入らない。
ただ、私はヴォルデモートの手によって殺されたことになっていると、ぼんやり思うだけ。でも、実際に殺されたのは私に化けたミリセントだ。私は――何をすればいいのだろうか?
弔い合戦、をすればいい?
でも、はたしてそれは正解か?そもそも、私はヴォルデモートを傷つけることが出来ない。
なら、どうする?ヴォルデモートに着き従う死喰い人を代わりに倒す?
分からない。
どうしたらいいのか、わからない。
目を伏せ、そのまま動きを停止させる。アルファルドが何か囁きかけてきたが、もう何も聞こえない。暗い暗い闇の中に、セレネ・ゴーントは沈んでいく。
「……立てるか?」
その時、声が聞こえてきた。
顔を上げれば、そこに立っていたのは銀髪に碧眼の女性。幼い私が憧れた命の恩人が、その手を指し伸ばしている。
(ナタリア、さん?)
思わず瞬きをする。
彼女は、とうの昔に死んでしまっていると聞く。だから、ここにいるわけがないのだ。
案の定、手を伸ばしていたのは、ナタリアではなかった。姿背格好だけでなく性別まで違うノットが、手を伸ばしている。
「セレネ、大丈夫か?」
私を案じるような声は、壁一枚隔てた遠くから聞こえてくるようだ。
ノットの手を借り立ち上がった私は、ふとナタリアに思いをはせる。
本来であれば、私はあの時に死んでいた。だけど、ナタリアがいたから助かった。
でも、私は誰も助けていない。むしろ、周りの人間を殺してばかりだ。
ルーナも、ミリセントも、クイールも、私のせいで死んでいった。私がいなかったら、彼らが死ななくて済んだ未来があったかもしれないのだ。
だけど、私はアステリアではないから、それを知ることが出来ない。私は、この世界に生まれて、死んでいくしかないのだ。
「私は――」
償っても、どうにもならない。彼らは既に、死んでしまっているのだから。
それならば、残った友人を護ろう。でも、それでは私の見ていなかったところで命を落とす友人が出てくるに違いない。
私は――この強さで、どうすれば友人を護ることが出来るのだろうか。
事前に、友人の平和を害する者を倒せばいいのだろうか。そう、それがいい。
カルカロフの行動を事前に予期していれば、クイールは死ななかった。
そもそもハリー・ポッターだけを『神秘部』へ招けば、ルーナ―がついてくることは無かった。
寮の荷物をトンクスか誰かに頼んでさっさと取り除いてもらっていれば、ミリセントは変身する術を持たなかった。
そう、全ては私の準備や配慮が足りないせいで起こった出来事だ。
だから、今度は失敗しない。ヴォルデモートは、ハリー・ポッターに敗れる。そんなこと、容易に想像が出来た。私とミリセントの区別もつかない老人に、ハリー・ポッターが負けるわけがない。分霊箱がないいま、ヴォルデモートは死ぬ。だけど、その取り巻きは死なない。何人かは逃げ延び、再起を待つはずだ。
10年後、20年後、彼らが再起したとき――私の友人が殺されるかもしれない。
恨みは募れば募るほど、恋のように焦がされるのだと本で読んだことがある。19年前の関係者として、ハーマイオニーが、ノットが、ダフネが、ドラコが、みんなが殺されないとは限らない。
だったら私は、先にその芽を摘もう。
ナタリアさんのように、傭兵として世界を回りながら――己の腕を磨いて、逃げ延びた奴らの息の根を断とう。
拳を血が滲むまで強く握りしめ、歯を食いしばる。
19年前の夜。
それは、今までのセレネを捨てることを決意した瞬間だった。
END