アステリア・グリーングラスと呼ばれていた少女は―――ゆっくりと目を開ける。
そこは、薄暗かった。
とても、とても薄暗い。
そして、寒い。
刃で全身を突き刺すように、また心の奥の郷愁を煽る様に、凍える寒さが肌を伝う。
空に視線を向ければ、紺碧の霧が立ち込めていた。
「ここは……どこでしょうか?」
口から出るのは疑問だが、本当はどこだか見当がついていた。
少女は長い髪をぱさりっと払うと、ベッドに腰を掛ける。ほのかに鼻につくのは薬品の香り、そして窓の外は古びたロンドンの町並み―――大方、聖マンゴ魔法疾患病院だろう。
とりあえず、自分は助かったようだ。
「――あの男の生死は、分からないですけどね」
19回目の世界も、空振りに終わりそうだ。
時計の隅に映る日付は、8月31日。ちょうど、明日からホグワーツが再開される。また、新しい学期が回り始める。ルーチンワークのような日々が、学生たちに戻ってくるのだ。
「…だけど、ソレがなんというのでしょう?」
少女が大切に思っているのは、そんな退屈極まりない事柄ではない。
問題なのは、憧れの先輩がいるかどうかの一点に尽きる。かなり長い間眠っていたが、その間に彼女はどうなっただろうか?箒で飛び立った彼女は、何処へ行ったのだろう。まさか、日本に行ってしまっていたら、もう世界をもう一度――跳躍する必要が出てきそうだ。
「あ……」
その時だ。
入口から驚きの声が漏れる。
見てみれば、そこにいたのは平凡なようで賢い憶病すぎる――少女の姉だった。
口をわなわなと動かし、眼をまん丸くさせている。
私はしぃっと口元に人差し指を当てると、片方の手で姉を手招きした。
「姉様、癒師たちが来る前に話がしたいんです。急用なので、静かに入ってくれませんか?」
少女の姉は警戒する様に、それでも何も言わずに後ろ手でドアを閉める。
内心、少女はにたりと笑った。馬鹿な姉は、命を失う危険な目にあってもなお、少女を信じているらしい。
「アステリア、大丈夫なの?」
開口一番、少女を心配する声を発した。
少女はそれに無邪気な微笑みを返すと、最重要事項を問う。
「姉様、セレネ先輩は?」
「セレネは―――今は生きているよ」
振るえる唇から紡がれる安否の報告。
少女はホッと内心息を吐きながらも、僅かな引っ掛かりを感じとる。
「『今は』?どういうこと、姉様?そもそも、その情報をどこで手に入れたの!?」
アズカバンに放り込まれて、『形だけ生きている』状態のセレネなど興味がないし、意味がない。少女にとって大切なことは、意志を持った状態で生きていることなのだ。
でなかったら、19回も世界を跨ぐ理由がない。5回目くらいで、私は魔法を封印していたはずだ。
「ごめん、でもノットから聞いたの。ちょうど……16時くらいだったかな?
守護霊が部屋の窓から飛び込んで来てね、
『セレネが逃げてきたら、保護してくれ』って、急に連絡が入ってきたの。
それで待ってたんだけど、何も起きなくて―――」
―――つまり、生死不明ではないか。
少女は考え込んだ。
このまま『死んだ』と断定して世界跳躍するか、はたまた生存を確認してから行動を起こすべきか。個人的には、後者を取りたい。しかし、セレネを探すのに時間がかかってしまう。
(―――私には時間がないんです)
少女には、圧倒的に時間がなかった。
気を抜いた瞬間に『アレ』が近づいてくるからだ。
世界を渡る、そんな大魔法が無代償ですむわけがない。
ましては、見習い魔法使いならなおのこと、その代償の大きさに潰されてしまう。
代償を払え、代償を払え、と両手を血に染めた『赤い死』が追いかけてくるのだ。本気になればすぐに追いつけるだろうに、わざわざ私をいたぶる様に、じわじわと近づいてくる。
だから、時間がない。
さっさとセレネに待ち受ける『死』の運命を回避しなければならない。
出来るなら世界を跳躍することなんかしたくないし、これ以上――対価を増やしたくない。セレネの死を回避したら、いつでも代償を払う準備が出来ている。
しかし、裏を返せばセレネを助けるまで『代償』を払えないということだ。
早急に、死を回避する。だから、この世界には見切りをつけて跳躍しよう。いや――でも―――
「先輩は――逃げて来ていない。つまり、生死不明ってことですよね、姉様」
「そうよ。でも、生きているって私は信じたい」
姉は、何かを握りしめる。
それは、小瓶。太陽の滴が詰まったような――黄金の液体が揺れる小瓶だった。
「それ、『幸運薬』ですか?」
「うん、お守り代わりに持ち歩いているの。あの時も――この薬のおかげでセレネに会えたのだから」
その薬のせいで、少女に殺されかけたことを忘れているのだろうか。
少女はニタリっと笑うと、立ち上がった。急に立ち上がったので、姉はきょっとんと首をかしげる。
「どうしたの、アステリア?」
「そうですね、姉様―――」
魔法界の貴族らしい上品な笑みを、姉に向ける。
舞踏会に登場してもおかしくはない気品あふれる少女は、荒野の悪魔のような笑みを浮かべた。
「代わりに眠ってください、姉様」
少女の狂気に気がついた姉は、咄嗟に杖を上げる。
何処かの誰かと同じように、袖口の下に隠し持っていたらしい。しかし、その程度のこと
少女はとうに見通していた。
姉が呪文を放つ前に、少女は杖を奪い取る。杖さえなければ、彼女はただのマグルも同然だ。少女は、焦りの色を浮かべる姉に呪文を放った。
「悪いですね、姉様」
姉が意識を手放しきる前に、少女は次の行動を起こす。
部屋から轟く魔術反応に、気がつかない癒者はいない。彼らが少女の病室に辿り着くまで、ほんの数分もかからなかっただろう。
「君っ、大丈夫かい!?」
「は、はい!大丈夫です!!!」
ベッドに横たわる病人服を着た姉を見下ろしながら、少女は震える声で話し始める。
「ちょっとゴキブリが出て……びっくりして『消失呪文』を使ってしまいました」
憶病な姉の服を纏った少女は、泣きべそをかく。
癒者たちは、どことなく少女に違和感を感じ取ったが深く追及はしなかった。
こうして、少女と姉は入れ替わってしまったのである―――
「とりあえず、イギリスの様子を視なくてはいけませんね」
廊下を歩く少女は、ポツリっと呟いた。
売店で新聞を買って、ロンドンの街を歩く。もうすっかり夏が世界を覆いつくしていたけれども、そんなことは少女の関心ではない。いまは、イギリス魔法界の情勢を知ることが大切だ。
「ふーん、ホグワーツ新校長ですか」
一面に映るのは、新校長として紹介されるマクゴナガル――ではなく、セブルス・スネイプだった。しかし、彼は入院中で教鞭に立てないため、副校長と副校長補佐に就任した死喰い人が学校を運営するらしい。
「ホグワーツがヴォルデモートの手に落ちた、ってことですね。
まぁ、ダンブルドアの糞爺がいなくなった以上、ハゲが調子に乗るのは当然でしょうけど」
新聞を畳みながら、魔術の炎で新聞を刻む。
少女は、のんびりと――しかし実際には緊迫した様子で歩みを進めた。そんな少女に、忍び寄る影が1つ、2つ、3つ―――
「何の用ですか、貴方たち?」
静かな声で、後ろに立つ男共に告げる。
男共は、下品な笑いを立てる。そして、少女に向かって色々と言葉をまくし立てた。
それを全て列挙するのは、少女にとって浪費でしかない。必要な部分だけをかいつまんで、少女は問い返した。
「つまり、ハゲの通り名を口に出すと保護魔法が破れ、居場所が感知され、即座に死食い人の襲撃を受ける――ってことですね。なんとまぁ、ちょっと眠っているうちに生きにくい世の中になりましたね」
しかし、それは死喰い人達を逆上させてしまったらしい。
「貴様っ!闇の帝王をは、ハゲとは何事か!?」
「事実、ハゲじゃないですか。それとも、『毛根無し男』とか『厨二爺』とかの方が良かったですか?
あぁ、『世界征服し隊の隊長さん』でもいいかもしれませんね。ちょっと長い名前ですけど」
その言葉を発した瞬間、呪文が飛んできた。
彼らにしては早い速度で宙を奔ったのだろうけど、少女にとっては愚鈍以外の何物でもなかった。ゆらりっと身体を逸らせて交わすと、そのまま彼らに向かって歩く。
「―――1つ、聞きたいことがあります」
まるで呪文が少女を避けるように、逸れていく。
死喰い人達は顔をしかめながらも、悠々と歩く少女に呪文を放ち続けた。呪文の発声は最初は余裕たっぷり、しかし少女が近づくにつれ声が震え、しまいには恐怖を叫ぶように呪文がはじき出される。
「セレネ・ゴーントの居場所――彼女の同行を知りませんか?」
少女は、ホグワーツ特急から降りる。
姉の制服を纏い、姉の同級生たちと城を上がる。姉はもともと口達者ではなかったので、何も口を開かなくても意識されなかった。
そのうち、校舎に響くように―――そう、まるで城を構築する石1つ1つが声を出したかのように、重たく響き渡る。
「命が惜しければ、ハリー・ポッターとセレネ・ゴーントを差し出せ。
さすれば、お前たちは救われる」
城内は、酷いどよめきようだ。
その様子は、一周前、いや……何回か巡り歩いた世界を連想させられた。
そう、それはセレネ・ゴーントがハリー・ポッターと手を取り合って進んだ周。彼らが手を取り合った時は、たいていこの場面までことが進むのだ。……時に、『ハリー・ポッターを差し出せ』としか言わないときもあるけど。
少女は楽しげに、微かに口元を釣り上げた。
「ここまで来た、なら探さないと―――あれ?」
ここで、少女は疑問をおぼえる。
城にある分霊箱は、前回とは違い自分がすでに壊してある。そのことは、セレネも気がついているはずだ。なのに、何故―――城に来た?
他にも分霊箱があると、思ったからなのだろうか?そういえば、校長室にはグリフィンドールの剣が置いてある。もしかしたら、あれを分霊箱と考えたのかもしれない。
「うん、それなら納得がいきますね」
「なにボケーっとしてんのよ!早く逃げるわよ!!」
パンジー・パーキンソンが何かを叫ぶ。
その近くにいた男子生徒も、慌てたように駆けだし始めた。
「はい、それでは逃げましょうか―――貴女たちだけは」
彼女たちが疑問を発する前に、少女は軽く暗示の魔術をかける。
パンジーと隣の男子生徒は、コクリと頷きふらふらと人混みの中に流れて行った。
確か、姉の友人はもう1人いたはずだが、彼女の姿が見当たらない。どうせ、逃げたのだろう。少女は早々と結論付けると、反対方向に歩き始める。
「確か、ハゲが隠れているのは―――『叫びの屋敷』でしたっけ」
暴れ柳の木を潜りながら、小さく呟いた。
消去法で考えても想像つく話だ。校舎内に入る術がない以上、ホグズミート村にいると考えるのが妥当。村の施設の中で、最も奴らが好みそうな場所と言ったら『叫びの屋敷』しか考えられない。
「来たな、小娘」
その声に、びくりっとさすがの少女であっても震えてしまった。
まだ少女がいる場所は、木の根元からそう離れていない。気がつかれるのが早すぎだろ、と内心驚きながらも黙って進む。
しかし、どうやら少女に向けられた言葉ではなかったようだ。
トンネルの出口の向こう側からは、2人分の気配があった。ただ、それが誰のものなのか分からない。出口を塞ぐように、梱包用の古い木箱のようなものが邪魔しているからだ。
少女は息を殺しながら、出口のギリギリのところまで近づき、木枠と壁の間に残されたわずかな隙間から覗いた。
「私を呼んで、どうするつもりだ?」
セレネ・ゴーントが腕を組んで佇んでいる。
その向こう側に、ヴォルデモートらしき影が視えた。ヴォルデモートは、長く青白い指で杖をもてあそんでいる。
「決まっている。ただ―――それを確認する前に1つ聞いておこう。
お前は、誰だ?」
誰?
そんなの問うまでもないではないか。
少女は目を細めた。そして、セレネ・ゴーントは清々しい笑みを浮かべて言い放つ。
「セレネ・ゴーントに決まってる。
で、再度聞くけど……用件は何?まさか、呼び出して終わり?」
「ハリー・ポッターは一緒じゃないのか?」
「あんな眼鏡と一緒に行動?そんなこと、するわけない。それは、アンタの勘違いだ」
はんっと、セレネは鼻で笑う。
ヴォルデモートは赤い瞳を細め、セレネ・ゴーントを睨みつけた。
「それで、用件は何?私は忙しいんだ」
「忙しい?……まだ『アレ』を探している途中なんだな」
にやりっと笑う。
どうやらヴォルデモートは、少女が壊した分霊箱の存在を知らないらしい。
「『アレ』?」
一瞬、何のことやら?と言わんげな表情を浮かべたセレネだったが、すぐに嘲笑するような表情に戻った。
「え――、そう。『アレ』を、まだ探している最中。なに、見つけたら不味かった?
それとも、見つけて欲しかった?」
どことなくセレネの歯切れが微妙に悪いのは、気のせいだろうか?
「でも、それを確認するためだけに呼んだのか?
わざわざ、ご苦労なことで」
皮肉交じりの言葉。
この時期のセレネを、少女はあまり知らない。だから、少しくらい言葉尻が違っていても、あぁそう育たったのかとしか思わなかった。
「あぁ、もちろんだ」
ヴォルデモートは、赤い瞳を向け続ける。
セレネは、いまだに黒い瞳を向け続ける。少女の位置からだと、杖を後ろ手に握っているのが見てとれた。
「俺様の杖は、イチイの杖だ」
ヴォルデモートは立ち上がり、セレネにゆっくりと近づいていく。
マントを翻す音は、まるで蛇の這う音のようだ。少女は、いつでも動きだせるように身を構える。
「だが、あの杖はポッターを殺し損ねる。
俺は『最強の杖』を求めた。しかし、それは既に無き杖だ。ところで、最強の杖に使われる芯を知っているか?」
最強の杖――それは、ニワトコの杖だ。
曰くありきの杖だということは知っているが、細かいことまでは知らない。
それは、セレネも同様だったらしい。眉間にしわを寄せ、小さく『いや、知らない』とだけ答えた。
「それでは、教えてやろう――――『セストラルの毛』だ」
その時、少女に同じ衝撃が走った。
少女は知っている―――セレネ・ゴーントの杖に使用されている芯も『セストラルの毛』なのだ。しかし、セレネはことの重要性に気がついていない。
ムスッと近づいてくるヴォルデモートに、杖を真っ直ぐ向けるだけ。それが、挑発にしかならないということを知らないようで―――
「……それが、なんだっていうんだ?それから、それ以上近づくな。
近づくなら―――」
「『アバタ・ケタブラ』」
唐突に―――そして瞬きをするくらい自然に、緑色の閃光が破裂する。
少女は、悲鳴と共に出口を吹き飛ばした。
「先輩っ!!」
ヴォルデモートなどには目もくれず、少女はセレネに駆け寄った。
傷一つないセレネの身体を抱き寄せ、耳元で叫んだ。
「先輩っ、先輩っ!」
セレネ・ゴーントの墨のような瞳は、何も映していなかった。
心音も、脈も感じられない。一瞬の出来事で、驚く暇もなかったのだろう。口はぽっかり空いたまま、瞳は天井を向けられていた。
「……」
その様子を、ヴォルデモートが黙って視ている。
少女は、動かなくなった先輩を抱きしめながらヴォルデモートを見上げた。
その少女の眼差しを視て、ヴォルデモートは少し――おや?と疑念を抱く。
「……やけに冷静だな、小娘」
先程までの取り乱しようが嘘のよう―――少女は冷やかな瞳をヴォルデモートに向けている。大切な人を殺されたという憎しみも、悲しみも、憎悪も、意志のないガラス玉の瞳は、ただただヴォルデモートを映し出していた。
「いえ、また失敗してしまっただけですから」
なんとなく―――予想は出来ていた。
あぁ、まただ。という気持ちは、落胆やもろもろの感情を抑え込み、次にとるべき行動の計画を立てはじめている。
今回は、セレネをヴォルデモート側につけさせることに成功した。
その上で、ハリー・ポッターと行動することで――ここまで生きることが出来た。今回の敗因はなんだろうか?それは、ヴォルデモートが求めるモノを知らなかった。
「ニワトコの杖が亡き今、先輩の杖を欲する。そのことを、しっかり頭に入れて貰わないといけませんね」
ポツリ、と呟く。
それは、いったい…誰に向けた言葉だったのか。それを知る者は、誰もいない。
ヴォルデモートが問う前に、少女は消えてしまったからだ。
そう―――アステリア・グリーングラスは、世界を渡った。
次の世界に待つセレネ・ゴーントを……今度こそ、救うために。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1月9日…一部訂正
最終回っぽいですけど、まだ違いますよ!!