―――桃源郷。理想郷。ユートピア。
すべてに共通しているのは、手の届かない場所にあることと、二度と巡り合うことはないことだ。
ナイトスプリングスでは、そのような教えがある。
今夜のお話は「アルカディア」
バリー=ウィーラーは編集者である。
あるとき彼は、彼自身が受け持つ作家がスランプに陥ったと話を聞きつけた。
売れっ子作家特有の症状だが、その作家は神経質で内面に暴力的な一面を隠していることもあり、それなりに充実した休暇が必要だった。もしくは、充実感はなくても、考えることのない、のんびりとした休暇が。
バリーは彼の休暇を了承した。
「まぁ奥さんによろしくな」
そう言って送った。
ある日、彼からSOSの電話がかかってきた。
「よぉ、休暇を満喫してるか」
「バリーか? 助けてくれ! ここの連中は何かおかしい……」
「冗談はよせよ」
「冗談なんかじゃない。俺は本気だ」
鬼気迫る電話内容にはじめはバカにした調子のバリーも、様子がおかしいことに気が付いた。
彼は神経質な男だったが、冗談くらいは言う。酒によって下品なことも口にする。
だが、少なくとも悪戯に時間だけを消費する男ではなかった。
バリーは一度電話を切ると、再び電話をかけようとした。
鳴り響く電話。
受話器を取ると、酷く落ち着き払った声が聞こえてきた。
「取り乱してすまなかった。休暇はやめにした。今から仕事をする。原稿を渡しに来たから扉をあけてくれ」
――休暇中ではなかったのか?
バリーは疑問に思いながらも自宅の扉を開けてみれば、髪をオールバックにした彼がいた。
格好も随分とラフである。20代のプレイボーイのような色気さえある。
手にあった原稿を受け取り、目を通す。
確かに文章は彼のものだ。
何か釈然としない気持ちを抱きつつも、バリーは尋ねた。
「雰囲気変わったな」
「これが普通さ」
時に理想郷は人を飲み込んでしまう。
ナイトスプリングスも同じなのかもしれない。