陽は落ち、月明かりだけが辺りを照らし出しているミルディアンハートに一人の少年の姿があった。ルシア・レアグローブ。ダークブリングマスターであり、大魔王の称号を持つ存在。だがその姿は普段のそれとは大きく違っていた。
生気はなく、眼の下には隈ができている。瞳に光はなく、無表情。魂がなくなってしまった抜け殻のような有様。同時に誰も寄せ付けないような空気を放っている。それを証明するようにルシアはただその場に座り込んだままある一点を見つめたまま動こうとしない。
そこには力の塊があった。紫の光を放ちながら生き物の心臓のように鼓動する物体。見る者全てを闇に引きずり込んでしまいかねない魔性を秘めた終わり亡きものの真の姿。
次元崩壊のDB『エンドレス』
エンドレスと五つのシンクレアが一つとなり、元の姿となった存在。文字通り世界どころかこの次元すら消滅しかねない力を秘めた禁忌。その大きさも既にルシアが初めて目にした時とは比べ物にならない程巨大化している。鼓動が刻まれるごとに一歩、また一歩糸確実に力が増してきている。
『大破壊』
かつて世界の十分の一を破壊したと言われる大災害。しかし五十年前とは比べ物にならないエネルギーが脈動している。かつてはシンクレアのみ、しかも剣聖シバの攻撃によって防がれてしまったが今のエンドレスの力はその時を遥かに上回っている。例え五十年前のようにレイヴの攻撃を受けたとしても世界の消滅を防ぐことはできない。魔導精霊力による完全消滅でなければ対抗できない世界の終焉がすぐそこまで迫ってきていた。
それを前にしてもルシアは何も行動を起こすことはない。口を開くことも、立ち上がることも。ただエンドレスが完成した時から黙って座り込んでいるだけ。半日が経過し、夜が訪れているにも関わらず。
「…………アキ、いつまでもそのままでは体に障るわ」
いつもと変わらぬ静かな声でジェロはルシアの背中に向けて話しかける。その姿もいつもと変わらない。絶望の二つ名に相応しい力と戦装束。四天魔王として大魔王を守護する役目を果たすためにあるべき姿。その役目を果たすためにジェロは先程まで動いていた。
ミルディアンを氷漬けにすることによる陽動。それがジェロがルシアから命じられた内容。最後のシンクレアであるラストフィジックスを手に入れるためにジェロはあえて囮を引き受けた。最後のシンクレアを手に入れることはダークブリングマスターの役目。だがジェロにとってはそれ以上にこの戦いには大きな意味があった。
自らの主を救うために。
ジェロがこの場にやってきた四天魔王としてではない、彼女個人の理由。エンドレスに裏切りがバレてしまった以上、ルシアに未来はない。それでも最後のシンクレアを手に入れれば裏切りを不問とするというヴァンパイア、ひいてはエンドレスの提案によってジェロは動いた。結果は確かだった。最後のシンクレアを手に入れたことによってルシアは命を取り留めた。代償としてその心を失うことによって。
「…………」
ジェロに気遣われながらもルシアは答えることはない。振り向くことも、視線を向けることも。ただエンドレスを見つめているだけ。そこにあるはずのない物を見いだそうとしているかのように。
既にこのミルディアンにルシア達以外に人の気配はない。ジェロが張った結界も解除され、凍結から解放された住人達も逃げ出して行った。だがジェロにとってそんなことはどうでもよかった。ただ結界を張ったままではこの場から動こうとしないルシアの体に障る。それだけ。
ジェロはただそんなルシアの姿を黙って見続けることしかできない。もしこの場にバルドルがいれば騒がしく茶々を入れていたかもしれない。もしアナスタシスがいれば穏やかに言葉を投げかけていたかもしれない。もしマザーがいれば――――
(そう……そういうことね……)
事ここに至ってようやくジェロは辿り着く。自らが抱くこの感情が何なのか。その正体を。何のことはない。どうやら信じがたいが、自分は人間界に来てからの、アキ達と共に過ごした一週間足らずの時間が楽しかったらしい。
二万年以上永くに渡り生きてきた中で、このわずかな刹那の時間こそが至高だった。だからこそ虚無感が、喪失感が生まれてくる。もうあの時間が戻ってこないのだということだけで。それだけでこんなにも胸が苦しくなる。絶望とは違う、得もしれない感情。それが何なのか今のジェロには分かる。かつてバルドルが散々口にしていたもの。それは
「……どうやらアスラが言っていたことは本当だったようだな」
「ホム」
「……ふん。ここの戦には間に合わなかったようだな。つまらん」
突如その場に現れた三人の乱入者によってジェロは自らの思考から現実へと引き戻される。そうなってしまうほどの力を彼らは持っている。
『獄炎のメギド』 『漆黒のアスラ』 『永遠のウタ』
魔界を統治する四天魔王の内の残る三人。それぞれが世界を支配するほどの力を持つ怪物たちが今、人間界に集結したのだった。
「あなたたち……どうしてここへ……」
ジェロは一瞬で普段の空気と表情に戻りながらこの場に現れた三人と向かい合う。だがそこには驚きが隠し切れてはいなかった。無理のない話。ウタやアスラだけならともかくメギドまで人間界にやってくるなど前代未聞。事実、メギド達はルシアの守護をジェロに任せていた。故にこれは単純なこと。ジェロの役目が終わり、本来の役目を四天魔王が果たす時が来たということだった。
「アスラから事情は全て聞いておる……全て、な。故に我らはここに集ったのだ」
ジェロが何を言わんとしているかを悟ったメギドは重苦しい空気と共に真実を告げる。アスラから全てを聞き、この場にやって来たのだと。アキの、マザーの裏切りも、その顛末も全て知った上でここに来たのだと。
メギドとウタはそのまま変わり果ててしまったアキへと視線を向ける。そこにはつい先日、儀式を乗り越え、大魔王に至った男の姿はなかった。あるのはただ人形のように座り込んでいる紛い物だけ。ルシアもまた四天魔王が集ったことすら興味がないとばかりに反応を示すこともない。メギドとウタもまた声をかけることはない。アスラに至っては見ることさえない。そんなことに意味はないのだと示すかのよう。そんな三人の姿にジェロが言葉にならない感情を抱きかけるものの
『よく集まった、我が子らよ……。ようやくこの時が来た……この世界を元のあるべき姿に戻す時が……』
それはエンドレスの言葉によって遮られる。四天魔王はそのままエンドレスの声に導かれるように視線を集める。そこには今にも力を解放し、爆発しかねないDBがある。声はまるで機械であるかのように人間味がない。ただの装置。並行世界を破壊し、現行世界に至らんとする概念、現象であるDBに感情もなど必要ない。担い手を導くシンクレアでさえ駒であったのだと証明するような不気味さがそこにはあった。
『だがそのためには光の者達を排除せねばならぬ……そのために動いてもらうぞ。四天魔王の本来の役目を果たすのだ……』
エンドレスは命令を下す。光の者達、レイヴマスター達の排除。それが四天魔王達の本来の役目。魔導精霊力に、レイヴに力を貸すであろう者たちに対する対極の存在。
エンドレスがこのまま大破壊を起こせばそのまま並行世界は消滅するもそう簡単に事は運ばない。その唯一の脅威である魔導精霊力を排除しなければそれは為し得ない。時空の杖こそがその最たるもの。
エンドレスを抑え、呼び寄せることもできる杖。それがあればエリーは大破壊の瞬間、エンドレスを星の記憶へと強制的に呼び寄せることができる。そうなれば大破壊は失敗。余分な力を消費させられたエンドレスでは魔導精霊力には対抗し得ない。故にエンドレスは光の者達を排除しなければならない。他ならぬ、聖地、星の記憶にて。
四天魔王達はただ静かにエンドレスの、生みの親たる者の言葉に聞き入る。シンクレアと違い独立はしていても彼らはいわばエンドレスの子。しかいこの場にはそうではない者が一人存在していた。
『どうした……人形よ。我が完成してから一言もしゃべっておらぬではないか。いつかのように騒ぐ気はないということか……?』
「…………」
人形、ルシアに向かってエンドレスは改めて話しかける。この半日、幾度か同じやり取りがあったもののルシアは口を開くことはない。怒ることも、泣くこともない。まるで本当に人形になってしまったかのようにルシアは黙りこんだまま。その胸中をエンドレスは知ることはない。アキはエンドレスに適性がある存在。逆にいえばエンドレスですら支配することができない存在。シンクレアたるマザーであれば一心同体のように感情も思考も読み取ることができるが今のエンドレスには不可能。マザーは消滅、取り込まれ存在しない。裏切り者であることを示すように同期したにもかかわらずその全ての記憶や経験をエンドレスは得ることができなかった。最後の悪あがきにも等しい抵抗。だがエンドレスは力づくでそれを押し通した。結果全ての記憶や知識を得ることはできなかったがアキという担い手の人格を知ることができた。故にエンドレスは確信していた。もはやアキに抵抗の意思はないのだと。もしあったとしてもその全てを己は凌駕すると。
『なるほど……どうやらまだ死に足りないようだな。もう何度か味わってみるか……?』
それでもなおエンドレスは念のためとばかりにアキへと繋がりを、加護を絶たんとする。頭痛と吐き気による苦痛と死による恐怖。それによる屈服。既に半日の内に何度もそれが行われている。拷問という呼ぶことすらおこがましいほどの所業。だが逆を言えばそうしてもまでもアキにはまだエンドレスにとって利用価値が、存在価値があるということ。だがそれが行われるよりも早く
「……そこまでよ。それ以上すればアキの精神に支障をきたすわ。それはあなたの望むところではないはずよ」
ジェロの絶対零度にも近い忠告によって防がれる。瞬間、冷気が辺りを支配していく。瞳には既に光が灯っている。手は握りこぶしとなっている、もはや完全な臨戦態勢。
『ほう……その人形を庇うということか。心配せずとも壊す気はない。それにはまだやってもらうことがあるからな……』
「なら尚のことよ。大魔王を守護するのが私達の役目。そうでしょう……?」
ジェロは己の感情を寸でのところで抑えながら出来る限りエンドレスを刺激することなくその場を抑えんとする。その言葉と視線が他の四天魔王に向けられるも
「確かに……だが我らは四天魔王である前にエンドレスの子。その意志は何よりも優先されるべき。例え大魔王であってもそれは変わらぬ」
「ふん、そんなことはどうでもいい……オレが求めるのは戦のみ。レイヴマスターとの戦いだけだ。他のことなど興味はない」
「ホム、ホム」
三人の魔王はそれぞれの立場、意見によってジェロの言葉を否定する。その根幹は同じ。エンドレスの意志こそが全てだと。大魔王などという肩書もただのお飾り。エンドレスが十全の力を発揮できる担い手、人形を手に入れるための口実に過ぎない。現行世界の再生もまた二次的な形。確かに担い手がいた方が遥かに効率はあがるが絶対不可欠のものではない。優先順位でいえば並行世界消滅が何よりも優先される。分かり切っていた答えだとはいえジェロは言葉を失う。自分と他の四天魔王の間にある壁を。ジェロは気づかない。変わったのは他の四天魔王ではなく、自分の方だということを。
『どうした……まさか貴様まであの裏切り者のように気が触れてしまったのではあるまいな……』
「……ならどうするというのかしら」
エンドレスの最終警告ともとれる言葉を聞きながらもジェロは臆することなく正面から向かい合う。いつ戦闘が起きてもおかしくない程の空気が辺りを支配する。他の四天魔王達もそれに呼応するようにジェロと向かい合う。一触即発。そんな空気が破裂せんとした瞬間
大地を割る程の衝撃と轟音がそれらを一気に切り裂いた――――
「ごちゃごちゃうるせえぞ……てめえら……」
地に響くような声を漏らしながらルシアは地面へと突きたてられている自らの剣を抜きとる。先の衝撃と轟音はルシアが剣を地面へと突き立てたから。ただそれだけ。重力剣でもないただの鉄の剣にも関わらずミルディアンハートが崩壊しかねない威力がある。それ以上にその圧倒的威圧感と力に四天魔王達ですら言葉を失ってしまっていた。まるでいつか先代キングが六祈将軍たちを諫めた瞬間の再現。違うのはその規模が桁外れだということだけ。その証拠にルシアの体からは凄まじい力が溢れだしている。人が手にするにはあまりにも大きすぎる次元崩壊という禁忌。神にも等しい力を扱うことが今のルシアにはできる。
既に先程までの無気力さも、空虚さもない。ルシアはその足で立ち、手に剣を持ちながらエンドレスへと近づいて行く。同時に夜が明け、朝日が差し込んでくる。並行世界最後の一日が始まらんとしているかのように。
エンドレスは問う。どうするつもりだ、と。四天魔王達もまたその答えを待ち続ける。
「決まってんだろ。ハル達を倒してこの並行世界を消す。俺は現行世界に行って生き延びる。それだけだ」
ルシアは宣言する。これまでと変わらない答えを。ただそれだけのために足掻いてきた。それを今更曲げることはないと。同時にルシアはエンドレスの力を解放する。大破壊ではない、もう一つの力を。
『星の記憶』
シンクレアを五つ集めることによって至ることができる星の聖地。レイヴを入口とするならばこれは裏口。この戦いの終着点。全ての始まりであり終わりの地。
ルシアとエンドレス、それに連なる者である四天魔王。その全てが今、星の記憶へと至り、その瞬間を待ち続けるのだった――――
静かさだけが辺りを支配しているどこか幻想的な洞窟。かつて五つ目のレイヴが守護されていた洞窟の一角で一人の少女が岩場に座りこみ、その両足を泉につけていた。
だがその幻想的な空気とは裏腹に少女の顔はどこか儚げに見える。普段の天真爛漫な姿からは想像できないような光景。そんな中
「ごめん、エリー。遅くなっちまった……」
どこか慌てながら銀髪の少年、ハルが少女、エリーの元へとやってくる。頭を掻き、苦笑いしている姿は年相応の十七歳の少年そのもの。戦いの時に見せるレイヴマスターとしての顔は今のハルにはない。
「ううん、ごめんね、ハル。付き合ってもらっちゃって……」
そんなハルの姿に笑みを浮かべながらエリーはハルを出迎える。その言葉が示すようにこの場には二人以外の人影はない。他の者達は既に寝入ってしまっている。避けようがない明日の戦いに備えて。
エリーの記憶を蘇らせるためにシンフォニアへと向かい、それを果たしたハル達はそのままここイーマ大陸のレイヴポイントまで戻ってきていた。当然、再会した覆面の男、ジークと共に。全ての事情を皆に伝えた後、エリーはそのままある作業へと入る。五つのレイヴを本来の一つの姿に戻すこと。魔導精霊力の完全制御が可能になったからこそできる芸当。同時に五つが揃い、一つになったエンドレスを相手にするためには必要不可欠なもの。それを見事に果たすと同時に世界に異変が起き始める。
異常気象に天変地異。記憶を奪う霧、メモリーダストの発生。その全てがエンドレスが完成し、大破壊が起ころうとしている前兆であることは明らか。加えてエリーはその手にある時空の杖によって既にエンドレスが星の記憶に辿り着いていることを察知していた。時空の杖によって呼び出される前に自らそこに至ること。あえてそこで決戦を行うことで決着をつけるつもりなのだと。このまま放置すれば世界は異常気象によって混乱し、被害を受けてしまう。いつ大破壊が起こるかも分からない。エリー達に逃げる選択肢はない。否、そんな選択肢など最初から存在していない。この瞬間のためにエリーも、ハルも、多くの仲間達も戦い続けてきたのだから。
決戦を前にして最後の宴を済ませた後、仲間たちは眠りにつき、休息を取っている。明日の最期の戦いに備えて。そんな中、エリーに誘われたハルは皆が寝静まったのを確認し、ここまでやってきたのだった。
「いいさ。みんな、あっという間に寝ちゃったしな。で、話って何なんだ? みんなに聞かれたらまずいようなことなのか……?」
「…………うん。あたし、ハルに謝らなきゃいけないことがあるんだ……」
いつもと変わらない自然体のハルとは対照的にエリーは顔俯かせたまま。泉の水面に映る自分の顔を見つめながらもエリーはゆっくりとハルへと振り返り、告げる。
「ごめんね、ハル……あたし、ハルの気持ちには応えられない……」
いつかのハルの告白に対する答えを。自分が好きだと言ってくれたハルへの自分の答え。その表情は悲しみに染まっている。今にも泣き出しそうなのを必死にこらえているかのようなもの。それだけでその答えがエリーの本心ではないのが明らかだった。
だがそれでもエリーはハルの想いを受け取ることができない。その資格がないと思っていた。
魔導精霊力の完全制御と記憶を取り戻したこと。それによってエリーは全てを悟った。自分の正体を、その役割を。自分がリーシャであったこと。それ自体は大きな問題ではない。確かに驚いたが、ある意納得できる事実だった。だから問題はもう一つの事実。
魔導精霊力によってエンドレスを倒すこと。それが五十年の時を超えてエリーが果たさんとする使命。それに迷いはない。しかしそれでも、避けることができない運命がそこには連なっている。
記憶喪失。
魔導精霊力を使うことによる代償。かつてレイヴを生み出したことによってエリーは記憶を失ってしまった。ならばエンドレスを倒すために魔導精霊力を使えば今度も同じことが起こってしまう。レイヴを生み出した時以上に、思い出すことすらできないかもしれない。だからこそエリーはハルの気持ちを受け入れることが、応えることができない。戦いが終わればもう自分はいなくなってしまう。
五十年前、大切な約束を、シバと会う約束を果たすことができなかったように。
もう二度と、ハルにまであんな想いをさせるわけにはいかない。それが苦渋の末にエリーが選んだ答えだった。
静寂が二人の間に流れる。エリーはただ俯いたまま。罪悪感に苛まれるしかない。でもこれ以外に方法はない。もし自分が応えれば、ハルが辛い思いをするだけ。そう心の中で言い聞かせるも
「そっか……うん。じゃあ仕方ない。この戦いが終わってからもう一度告白するよ」
「…………え?」
ハルのあまりにも理解できない言葉に呆気にとられるしかない。
「ど、どういうこと?」
「だからこの戦いが終わって、アキを止めた後にもう一度告白するんだよ」
「何言ってるの!? そんなことしても意味ない! その時にはもうあたしの記憶は……!」
そこまで口走った時点でようやくエリーは悟る。初めからハルには全てお見通しだったのだと。その証拠にエリーが記憶をなくすことを聞いても驚くそぶりを見せていない。
「やっぱりそうなんだな……でも大丈夫。今回は思い出せたんだ。だったら今度も思い出せるさ」
「どうしてそんなことが分かるの!? もしかしたらもう二度とハルのことを思い出せなくなるかもしれないのに……どうして……」
エリーは涙を滲ませながら問う。どうしてそこまで信じられるのかと。記憶を失うこと恐怖をエリーは誰よりも知っている。だが一番辛いのは記憶を失う人物ではない。忘れられてしまう、覚えている周りの人物であることを。だがそれを分かった上でハルは告げる。
「大丈夫。もしエリーがオレ達のこと忘れちゃったら思い出させてやるよ」
自分たちがエリーの記憶を思い出させて見せると。初めての出会いから始めて、これまで旅してきた全ての場所を巡りながら。記憶を失くしたエリーが嫌がったとしても無理矢理でも連れて行ってみせると。
「ふふっ……そうだね。ハルならきっと……ほんとにそうしてくれるもんね……」
「ああ、約束する。だからエリーもオレ達を信じてくれ」
エリーはハルの予想を斜め上に行った答えに圧倒されながらもどこか楽しげに笑うしかない。先程までの儚げな空気はもう残ってはない。自分が一体何を悩んでいたのか、怖がっていたのかと不思議なってしまうほどの何かがハルにはある。
「ねえ、ハル……もう一つ聞いてもいい? いつか聞こうと思ってできなかったこと……」
「いつか……? あの間違ったことをしたらって奴か?」
「うん……友達と約束したんだ。でもそれをしたらもしかしたら取り返しがつかないことになっちゃうかもしれない……今まであたし達がしてきたことがダメになっちゃうかもしれないとしたら……ハルはどうする?」
エリーは真っ直ぐにハルと向かいながら己の迷いを吐露する。先の迷いとは違う、もう一つの問題。自らに託された願い。エリー自身の願いでもあるそれを実現しようとすればもしかしたら全てが台無しになってしまうかもしれない。これまでの旅も、想いも。
カームが、シバが、ジークが、みんなが繋げてくれた希望が。
使命を果たすためならすべきではない博打。リスクが高すぎる愚策。だがそれでもエリーはあきらめることができない。しかし、既にエリーの心は決まりつつあった。先のハルとのやり取りによって。ただ単純なこと。
「決まってる。その友達を信じるだけさ。もし間違ってたとしてもオレ達もいる。そうだろ?」
誰かを信じる。簡単で、難しい真理。エリーは思い出す。自らが持つ力が何であるかを。
魔導精霊力。
この世の頂点に存在する破壊と創造の魔法。時空を崩壊させるエンドレスに匹敵する力。だがそれは表向きの事実に過ぎない。
カームに言われた言葉。魔導精霊力は自分の友達、大切な力。だから大切に使いなさい。その意味をエリーは悟る。信じる力こそが五十年前から受け継がれた真の力だと。
あの日、滅びた世界でした彼女との約束、希望を守るために。
「ありがとう、ハル……あたし、決めたよ。だからお願い。ハルの力を貸して」
エリーはあの日の、星跡の洞窟から消え、アキが迎えに来るまでの半日の間にあった真実をハルへと明かす。
今、全ての因果を結んだ、最後の戦いの夜が明ける。九月九日。時が交わる日。全ての戦いに終止符が打たれる運命の日が始まろうとしていた――――