「…………ふう」
ルシアは大きく息を吐きながらその手にある書類をデスクの上に置く。ようやく一仕事終えたサラリーマンのような姿。それを示すように服装も黒のスーツ、DC本部で最高司令官として振る舞う際のもの。だがルシアが頭を悩ませているのは最高司令官としての仕事ではない。むしろ仕事の量については先日ディープスノーを側近に任命したことによって以前の半分以下になっている。もちろんそれを見越したうえでの人事だったのだがまさかここまで楽になるとは思っていなかったルシアは改めてディープスノーの有用さを実感した形。にもかかわらずルシアが疲れ切っている理由。それは
『どうした、辛気臭い顔をしおって。いつもいつもお主は仕事が遅いのではないのか?』
自らの胸元から見上げるように話しかけてくる少女。少女というよりは幼女といった方がいいのではないかと思える容姿を持つ金髪幼女がイスに座っているルシアの膝の上に乗ったまま小悪魔のような笑みを浮かべている。どこか満足気でもある幼女、イリュージョンによって幻の姿を見せているマザーにルシアはうんざりするしかない。
「余計な御世話だ。そもそもてめえがそこにいるから余計仕事が遅くなるんだろうが」
『ふん、お主こそ人のせいにするでない。この姿は幻、重さも何もない。加えてちゃんと仕事が終わるまで静かにしておったであろう? これ以上我にどうしろというのだ』
「そもそもイリュージョンで姿を見せる必要がないだろうが。いやでもいつも胸元いるってのになんの嫌がらせだ!?」
『はて何のことやら。まったく、せっかく我が傷心のお主を癒してやろうとしておるのに……ヘタレなのは大魔王になっても変わらぬの』
やれやれと言った風に首を振りながらマザーは自らの主の不甲斐なさを嘆く。見た目で言えば幼年期のカトレアなのだが放っている空気は全くの別物。ルシアからすれば同じ容姿でここまで差が出るものなのかと呆れるほど。
(ちくしょう……調子に乗りやがって……星跡の洞窟から帰ってからずっとこの調子じゃねえか……)
内心舌打ちしながらルシアはこれまでの現状を思い返す。星跡の洞窟でのハル達との接触と顛末。想定外の事態もあったが結果としては成功。エンドレスは復活したものの南極へ送り、エリーもまたハル達の元へ戻っていった。ここまでは問題ない。だがDC本部に戻ってからは明らかにマザーの様子がおかしかった。端的に言えば今まで以上にルシアに纏わりついてくるようになってしまっていた。イリュージョンを使う頻度も増し、それでも飽き足らないのか今のようにルシアの膝に乗ったりとやりたい放題。まるでわが世の春がきたと言わんばかりの状態。だがようやくその理由がルシアにも見当がついていた。
(くそっ……やっぱ俺がエリーに振られたのを面白がってやがるな……! 馬鹿にしやがって……ったく)
自分はエリーに振られてしまったこと。すぐにそれには気づかなかったもののそこからのマザーの言動やエリーの言動を思い返す中でようやくルシアは状況を理解することができた。それ自体は構わない。例えエリーの質問の意図が分かっていたとしてもルシアの答えは変わらない。エリーの想いに応えることはない。そもそも根本的な問題としてルシア自身、エリーに対しては恋愛感情を持ってはいなかった。好意はあるがそれは親愛の情に近いもの。例えるならレイナに対する感情に近い。何よりもエリーはハルの想い人。それを奪うことなどあり得ない。その気があるのなら初めてエリーと会ってから一緒に暮らした二年の間に動いている。そう言った意味でエリーに振られること自体は大した問題ではない。
(しかし何だこの敗北感……? いや、知らない間に惚れられて知らない間に振られるって……ちくしょう、ハルの奴、今度会ったらもう一発殴ってやる! 俺だってこんな状況じゃなけりゃ彼女の一人や二人……)
ぶつぶつと八つ当たりのようにルシアは心の中で愚痴をこぼすしかない。ハルに関しては完全な八つ当たりであり、ルシアなりの祝福という名の嫌がらせ。もし自分がこんな状況でなければ恋愛の一つや二つしても良かったのかもしれないがいかんせんそんな余裕も時間もなかった。マザーを誤魔化すだけでも精一杯にも関わらずさらに自分の企み(表向きには世界征服)に賛同してくれる女性などいるわけがない。恋愛関係でも詰んでいると言わざるを得ない己の状況に辟易とするもどうしようもない。今のルシアにできるのはただひたすらに裏から世界を救い、自分が生き残れるように動くことだけ。
「……どうやら一段落したようね。コーヒーを持ってきたわ」
「あ、ああ……悪い、ジェロ……」
そんなルシアの苦労が通じたのかは定かではないが完璧なタイミングでジェロがコーヒーを差しだしてくる。その声に一瞬ぎょっとしながらも恐る恐るルシアは受け取るしかない。魔界から連れ出して行動を共にしてから既に一週間以上になるが未だにルシアはジェロに対するトラウマを払拭できずにいた。しかも仮にもジェロは四天魔王。そんな彼女を秘書ならまだしもお茶を持ってこさせているなど魔界の住人から見れば恐れ多くて卒倒しかねないこと。
『まったく……四天魔王にこんな雑務をさせるとは、流石は大魔王。偉くなったものじゃのう……』
「ち、違うわ!? 俺はそんなこと一言も言ってないっつーの! これはジェロが勝手に……」
「……余計なことだったかしら」
「い、いや……そんなことは……ご、ごほん! とにかくありがとな、ジェロ!」
乾いた笑いを見せながらルシアは慌てて言い直すもジェロは全くいつもと変わらない無表情。何を考えているのか未だに分からない。ただ一つ分かることは間違いなく彼女が絶望、氷の女王であるということだけ。マザーはどこか不満げにしているがジェロ相手では大きく出れない様子が見られる。もちろんマザーに限った話ではなくシンクレア全てに言えることなのだが。
「…………っ!」
とりあえず持って来てくれたコーヒーを口につけるもルシアは思わず吹き出し様になってしまう。冷たかった。ただひたすらに冷たかった。ルシアはコーヒーはホットを好んでおり、この部屋にあるコーヒーメーカーを使っている以上ホットになるはずなのだがジェロが持ってくる物は全てアイスコーヒーになってしまっている。嫌がらせでも何でもなくジェロはただホットコーヒーを持ってきただけなのだがそれだけでアイスコーヒーになってしまうという出鱈目さ。冷気を抑えているにもかかわらずジェロがこの場にいるだけで冷房いらずという優良物件。しかも何故かずっと自分の隣に控えているという特典付き。いくら言っても座ろうとしない、クーリングオフが効かない絶望にルシアはただされるがままだった。
『もう、ジェロったら何度言えば分かるの? そんなんじゃいつまで経っても面白く……じゃないアキに慣れてもらえないわよ! せっかく買ってもらった服を着てることをアピールしなきゃ!』
「服……? そういや今日はスーツじゃねえんだな」
もう見ていられないとばかりにバルドルがしゃしゃり出てくるも誰もまともに相手をしようとはしない。特にジェロはガン無視だった。もはやそういう役なのだとルシアも理解してきたので気にすることはないもののバルドルの言葉によってルシアは改めてジェロの服装に目を向ける。白のセーターにロングスカート。先日ルシアが買った服をジェロは身に着けていた。服装だけでいえば珍しい物でもないのだがジェロが着ていることによって際立っている。普段の戦闘装束とのギャップというのもあるのかもしれない。
『どう? 中々似合ってるでしょう? それにジェロったら可愛いのよ、この服を着てから鏡の前を何度も行き来しては嬉しそうに』
「……言いたいことはそれだけかしら。何ならあなたをアクセサリとして私の首に掛けてあげてもいいのだけれど」
『と思ったんだけど気のせいだったみたいねー。とりあえず着てみただけよね! だからそれだけは許してくださいお願いします』
『威厳も何もあったものではありませんね……』
『ふん、いつものことじゃ。にしても服か……やはり黒のゴスロリでは……いやしかし……』
ジェロの視線と言葉によって凍りついてしまうバルドルを前にしてルシアもまた溜息を吐くしかない。同時にアナスタシスとマザーも何やらブツブツと独り言をつぶやいている。数年前まではマザー一人であったにもかかわらず今はそれは嘘であったかのような賑わい。元々マザーだけでも騒がしかったはずなのだがそれすらマシだったのだと感じるほど。だがルシアにとっては既に慣れつつある光景。それどころかある種の安堵すら覚えるほど。先のようにハル達と接触するのに比べれば可愛いもの。人間の、自分の適応力の高さに感謝すればいいのか嘆けばいいのか考えている中
『……で、いつまでこの茶番は続くのかしらぁ?』
心底呆れ気味の、いらだちすら滲ませる言葉が響き渡る。ルシアは一瞬、体を強張らせながら自らの胸元へと視線を向けるしかない。そこには先日までにはなかった四つ目の闇の輝きがある。
『ヴァンパイア』
吸血鬼の名を冠する四つ目のシンクレアが今まで黙りこんでいたにも関わらずもはや我慢の限界だと言わんばかりの態度を見せていた。
『なんだ、やっと口を開いたかと思えば第一声がそれか? バルドルでももう少しマシな言葉を選ぶぞ』
『あんなのと一緒にしないで頂戴。それよりもいつまでこんなところでグズグズしているつもりなわけぇ?』
『あたしの扱いが日に日に悪くなっているような気がするんだけど……まあいいわ。良くはないけどいいことにして、何をそんなにイライラしてるわけ? あたし達はいつも通りにしてるだけなんだけど』
『いつも通り!? これが!? あなた達これまで一体何をしていたの!? 下らない話をしてる暇があったらさっさとラストフィジックスを探しに行く算段をつけなさいよ!』
「そ、それは……」
ヴァンパイアの当然と言えば当然の主張にルシアは言葉を濁すしかない。既にルシアは四つのシンクレアを手にし残るはラストフィジックス一つのみ。本体であるエンドレスも目覚めたことによってもはや世界の終焉はカウントダウンに入っている。今のルシアにできるのはできるだけラストフィジックスを手に入れるのを遅らせること。しかしついにその話題になったことでルシアは内心冷や汗を流しっぱなし。どう言い訳をすべきか、誤魔化すか必死に考えるも
『ふん、ヒステリーを起こされても見苦しいだけだぞ、ヴァンパイア。もっと優雅さをみせてはどうだ、情けない』
『あなたにだけは言われたくないわぁ……そもそもあなたこそ何を考えてるわけ? 担い手……アキに纏わりついてるだけで何もしてないじゃない。本当にしゃべるだけの石に成り下がったのかしらぁ?』
『分かっておらぬのは貴様の方であろう。確かに残りはラストフィジックスだけだがその居場所はまだ分かっておらん。闇雲に探してもどうしようもあるまい』
『そ、そのぐらい分かってるわぁ! でもだからってこの状況を見れば焦りもするわよ! アナスタシス、あなたは何も思わないわけ!?』
『いえ、私は特に何も。これがアキ様と私達の日常ですので……』
『……そう、いいわぁ。でもこれからどうする気なの? まさかずっとここで意味のないおしゃべりをして時間をつぶすつもりじゃないんでしょぉ?』
まるで蛇を連想させるような視線でアキを射抜きながらヴァンパイアは告げる。これからの方針。最後のシンクレアであるラストフィジックスをどうやって手に入れるのか。
『……一つはあのジークという魔導士から聞き出すことですか。いえ、レイヴマスター達もその場所を知っているかもしれませんね』
『でもそれってもう無理なんじゃない? レイヴマスター達は逃げちゃったし、今はジークって奴も魔力を隠しちゃってるんみたいだし。まったく、ジェロがちゃんとしてればこんなことにはならなかったのにねー』
「…………」
「い、いや……あれは俺を心配して来てくれたからで……ジェロもそんなに気にすんなって、はは……」
ルシアはバルドルの狙っているのか天然なのか分からない発言に思わずフォローを入れてしまう。そうしてしまうほどに明らかにジェロの空気が重かったからこそ。ジェロは無言で自らの失態を恥じているのだが半分以上は主の前でそれを指摘したバルドルへの怒りによるもの。だが自分の失態は事実であるため否定することもできずただ無言でバルドルを睨みつけている。バルドルは自分が絶対氷結寸前の状況に陥っているのにも気づかずジェロから一本取ったことに大喜びしているのだった。
(ジェロはともかく……ひとまずはハル達は安全だな。流石はジークってところか。エリーの魔力も一緒に隠しているみたいだし……)
ルシアはここにはいないジークに感謝するしかない。ルシアとして最悪の展開があのままジークやエリーの魔力を追い、ラストフィジクスの隠し場所を聞き出すという流れになることだったのだがその心配は消え去った。恐らくはマジックディフェンダーかそれに類するもので魔力を消したことによってジェロはジーク達を追うことはできなくなっていた。今ハル達がどこにいるかはルシアも分からない。ただ分かることは今自分がここで時間を稼がなければハル達はどうしようもなくなってしまうということだけ。
(とにかく出来るだけ時間を稼がねえと……でもこれ以上は流石にやべえ……! もうマザー達を誤魔化せる理由も言い訳も残ってねえし……)
だがルシアにとってはある意味ウタとの戦いよりも厄介な状況になりつつある。既にマザー達からすれば動かない理由はない。その最後の理由だったエンドレスの目覚めも起こってしまった。今は半壊してしまったDCの立て直しという名目で閉じこもっていたがもはやそれも限界。そもそも六祈将軍が壊滅してしまった以上DCには何の価値もなく、あるのはルシアにとってだけ。
(落ち着け! まだ何とかなる! ハル達が五つ目のレイヴと新しいTCMを手に入れてくれればまだ希望はあるはず……!)
残された最後の希望を思い出し、ルシアは己を鼓舞する。ルシアの、ハル達にとっての最低条件が揃えばまだ世界を救える可能性が確かに存在する。
『真実のレイヴ』
『聖剣レイヴェルト』
『エリーの記憶』
『時空の杖』
この四つがハル達が手に入れなければならない最低限のもの。いわばRPGの最終戦において必要不可欠になる装備。だがそのどれも未だハル達は手に入れていない。星跡の洞窟の戦いから既に一週間は経過しているためどれかは手に入れていてもおかしくないが全てが揃っているとは考えづらい。今のルシアにはその状況を確認する術すらない。しかも他ならぬ自らの影響で新たな刺客をハル達に送ることもできない。
(本当ならBGとの戦いになるはずだがもうそれは起こらねえ……ってことはもうハル達に戦闘の機会はねえってことだ。もう六祈将軍もいねえし、俺の配下は四天魔王だけ。こいつらを送り込むのはいくら何でもヤバすぎる……下手したら一発でハル達が全滅しちまう!)
ルシアはただ頭を抱えるしかない。本来ならBG、ハードナーと六つの盾がハル達と戦うはずだったのだが既にルシアの手によって壊滅させられてしまっている。それによるハル達の戦闘の経験値、レベルアップは見込めない。分かっていたことではあるがその差は大きい。ハルに関しては自分との戦闘によって成長し、シバとの試練を乗り越えれば可能性はあるがレットやムジカ達は間違いなく弱体化してしまうはず。刺客を送り込もうにも六祈将軍は既に壊滅し、それ以下の構成員などハル達の敵とはなり得ない。だが四天魔王を送り込むのは愚の骨頂。四天魔王の強さをルシアは誰よりも知っている。ハジャを超え、世界最強の魔導士になったはずのジークですらジェロに敵わなかった。自動再生という能力があったとはいえジェロは全く意に介した様子すらない。ウタは当然として他の二人も実力の大差はない。今の状態のハル達では例え全員でかかったとしても四天魔王一人にすらも歯が立たない。
(仕方ねえ……これは分かり切ってたことだ。だがハル達が最低条件さえ満たしてくれればまだやりようはある……! 要は俺が負ければいいんだ! 初めからこの戦いはエンドレスを倒すための戦いなんだ……!)
知らず拳を握りながらルシアは自分に言い聞かせるエンドレスを倒すこと。それがこの世界を救うための条件であり、答え。そのために自分は必死に抗ってきたのだから。もはやルシアは察していた。エンドレスが完成することは恐らく避けられないであろうことを。
『九月九日』
時が交わる日と呼ばれる時の接合点がすぐそこまで迫っていること。その事実にようやくルシアは気づいた。
リーシャがレイヴを生み出し
シンクレアによって大破壊が起こり
ゲイルとキングが生まれ、争った日。
あり得た未来ではハルとルシアが世界の命運を賭けた最終決戦を行った日。
まさに世界の意志が働く日。その日がまさにそこまで迫っている。それが何を意味しているかなどもはや語るまでもない。
本当ならエンドレスが完成する前にハル達に全てのレイヴと完全制御の魔導精霊力によってシンクレアを壊してもらうことを考えて動いてきたがそれが間に合わないであろうことがルシアには感じ取れてきていた。まるで見えない力が働いているかのよう。もしかしたら自分はとんでもない思い違いをしていたのではないかとルシアは考えていた。
そう、レイヴとシンクレアは対を為すもの。すなわちそれが揃うのも、完成するのもまた同じ。レイヴが揃うときはすなわちシンクレアが揃う瞬間なのだと。
ルシアがこれまで足掻いてきたのも無意味であり、全ては時が交わる日に収束するように決まっていたことなのではないか。そんな抗えない大きな力を悟り、ルシアは絶望しかけるも必死に振りかぶる。
(いや……まだそう決まったわけじゃねえ! 現にレイナは助けれたんだ! 未来は変えられるはずだ! マザー達を壊せばまだ……)
ルシアは自分に言い聞かせるように自らの胸元にある四つの母なる闇の使者達を見つめる。エンドレスの分身でもある四つの魔石。並行世界を消滅させ、現行世界に至るための存在。その恐ろしさも、出鱈目さもルシアは散々味わって来た。文字通りその体で。彼女達は間違いなく悪そのもの。だが同時に現行世界にとっては正義でもある存在であることもルシアは知っていた。いわばエンドレスは元に戻ろうとする力。それ自体は悪しきものではない。しかしこの世界で生きる者たちにとっては許すことができないもの。なら自分にとってはどうなのか。ルシアは今まで考えなかった、考えようとしなかった事実に向き合わなければならない。
(俺は……こいつらを……壊せるのか……?)
自分がシンクレア達を、マザーを壊すことができるのか。
そんな、当たり前の、今更な事実。
もしシンクレア達が物言わぬ石であったなら何の問題もないだろう。もし彼女達が何の感情も持たない存在なら情を感じることもなかっただろう。もしこんなに長い間共にいなければこんなことを考えることすらなかっただろう。
常識で考えればあり得ないようなこと。世界にとっての敵である相手に情けをかけるなどあり得ない。だがアキにとってはそうではない。アキにとってこの世界は自分の世界ではない。ただ自分が死ぬのが嫌で仕方なく動いていただけ。しかしダークブリングマスターとしてのもう一つの役割からそれだけが選択肢ではないことが示された。現行世界を再生することができれば自分だけは生きることができる。今までの前提を覆しかねない選択肢。それすらも理由の一つに過ぎない。アキはようやく悟る。自分が一体何をここまで悩んでいるのかを。それは
『……何をボーっとしておる? 見つめられるのは悪くないが全く話に参加せんのは見逃せんの』
マザーのどこかきょとんとした姿によって霧散してしまう。ルシアは自分が知らず考え込んでしまったことにようやく気づく。どうやらこれからの方針が固まりつつあるらしいことを場の雰囲気から察し、とりあえずその場をまとめることにする。
「悪い……ちょっとな。で、話はどうなったんだ?」
『本当に聞いておらんかったのか? とりあえずバルドルの奴の力でラストフィジックスの気配の方向に向かって地道に探していく方向になった。ま、本当にこやつの能力が当てになればの話だがの』
『ちょ、ちょっと! いくらマザーでもそんな言い方は許せないわ! ちゃんとドリューの持つ二人の気配は探しだしたんだから! ね、ジェロ?』
「…………」
『え? またガン無視? もしかしてさっきのことまだ根に持ってるの?』
『それはともかく、ひとまずはそれしか手はないようですね。納得しましたか、ヴァンパイア?』
『…………そうねぇ。ま、そういうことにしておいてあげるわ』
『ふん、そんなに焦ることもあるまい。それよりもアキ、ちょっと我に付き合え。行きたいところがあるのでな、準備するがいい』
「は? 何の話だ? 行くってどこへ……」
『いいから早く着替えんか! そんな恰好では話にならん! それとジェロ、他のシンクレア達を頼む。我はその……うむ、アキと二人きりで話があるのでな』
『え? 何? 面白そうじゃない、あたしも一緒に……ぶっ!?』
「ええ……分かったわ。何かあったら呼んで頂戴。すぐに行くわ」
あれよあれよという間に話がまとまったのか完全にマザーと出かけることが決定してしまったルシアは言われるがままにスーツからいつもの黒の甲冑に着替え、他のシンクレアをジェロに預けたままその場を後にする。行き先はルシアですら分からない。知るのはマザーのみ。一体何の意図があるのか分からないままルシアはマザーと共にDC本部を後にするのだった――――
【……で、一体あれはどういうことなのかしら。説明してくれる、二人とも?】
どこか冷たさを感じさせるヴァンパイアの声が部屋に響き渡るもジェロは何の反応も示さない。無反応なのはいつもと変わらないがいつもと違うのはジェロにはヴァンパイアの声が本当に聞こえていないということだけ。それはシンクレアだけが聞こえる、ルシアですら立ち入ることができない領域での会話。いわばエンドレスの深淵。
【どういうこと、とは? まだ今後の方針に不満があるのですか?】
【いいえ、方針自体は構わないわぁ。今のところ他に代案もないし。気になってるのはあなた達のアキへの態度よ。ちょっと甘すぎるんじゃない? まだ一週間だけどあの担い手がどこか本気でないことは私にも分かるわぁ。なのにあのままにしておいていいわけ?】
【……あなたが言いたいことも分かります。ですがアキ様はマザーの選んだ担い手。私達がとやかくいう筋合いではありません】
【あたし同じよー。確かに甘いところもあるけどあたしたちを扱う力は確かだし。何よりもマザーがいいならあたしはオッケーよ♪】
アナスタシスとバルドルはさも当然のように己の意見を告げるだけ。だがそれでも納得いかないのかヴァンパイアは黙りこんだまま。それがいつまで続いたのか
【ところであの子、マザーは担い手に入れ込みすぎじゃない? まさか本当に人間に惹かれちゃってるってわけ? そんなことしても無駄だってこと、あの子も知ってるはずじゃない。ちゃんと言ってあげた?】
【……ええ、一度。ですが自分がやりたいようにやるそうです。全て分かった上でしょう。自らの主に対する想いは彼女が恐らく一番強いでしょうから】
アナスタシスはどこか憂うような声で呟く。かつてのマザーとやり取り。それによってこの先どうなるかを見越したうえで。だが
【ふふっ、あはは、あははははは! ちょっと笑わせないでよ、アナスタシス……自らの主への想いって……ふふっ、そんな冗談を言うようになったのね。あの人間の影響をあなたも受けちゃってるんじゃない?】
【……どういうことですか】
【あなただって知ってるはずでしょぉ? 担い手、主なんてのは形式的な話。あんなのはただの傀儡、人形よ。エンドレスにとってはただの道具でしかないわ。それを主だなんて……あなたもしかして人間にでもなったつもり?】
【…………】
【だんまりってわけぇ? バルドル、あなたはどうなの? まさかアナスタシスみたいに甘いこと、あなたが言うわけないわよねえ?】
【……ええ。あたし達はシンクレア。担い手は人間。それ以上でも以下でもないわ】
【そう……安心したわ。じゃあ精々短い時間だけど愉しませてもらうとしましょうか……『ごっこ遊び』はもうおしまいよ……】
吸血鬼は楽しげに嗤う。これから起こる喜劇を前にして歓声を上げる観客のように。その場にいるもう二人の使者は無言のまま。氷の女王は知ることはなくただ自らの王のために役目を全うせんとしているだけ。
ルシアとマザー、そしてシンクレア達の物語もまた終焉に向けて転げ落ちて行こうとしていた――――