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No.33354の一覧
[0] ウージェーヌ・ラスティニャックの、フシギな、アイの、告白(中世ヨーロッパファンタジー的、身分差別的恋愛物語)[yuasa](2012/06/06 15:06)
[1] 第二話 ミニョン[yuasa](2012/06/06 15:25)
[3] 第三話 アンナ[yuasa](2012/06/10 03:23)
[4] 第四話 エステラ・ド・ハビシャムの好奇心[yuasa](2012/06/11 16:13)
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[33354] 第四話 エステラ・ド・ハビシャムの好奇心
Name: yuasa◆763d16ae ID:c6ddc953 前を表示する
Date: 2012/06/11 16:13
   第四話 エステラ・ド・ハビシャムの好奇心


「今日も糞にまみれてるのかい?」

 と、橋のたもとの乞食が言いました。ウージェーヌ・ラスティニャックは、はい、とうなずき、ミニョンはいつものようにヘラヘラ笑いました。

「糞が食えればいいのになあ」

 と、乞食は言い、ゲラゲラ笑うのです。そうしてプッツリ黙りこみ、例の、ほんのり香る魂の匂いだけ残して、夜の闇のなかにズブズブ溶け込んでしまいました。
 黒い川原に着くと、ウージェーヌは血肉のこびりついた動物の皮を洗うようにミニョンのからだを洗い、内臓をしごくようにミニョンの髪を洗います。そうしていつものように暗くって何にもない人糞の道を、歌を歌いながら歩き、黒くて分厚い、お腹の痛くなるような雲を眺めながら、ミニョンの綺麗になった青白い肌を眺めて、

「今日のお月様も、綺麗に輝いているね」

 と、ニッコリほほえんで言うのです。そうして鎧を着た夜警に挨拶をして、アンナの家に帰ります。貧者の家、賤民の家、アンナの家。アンナは埃だらけの顔を、湿らせた手ぬぐいで拭っているところでした。桶の水で手を洗ってもいます。
 ウージェーヌは、少し意外なものを見た気がしました。

(アンナも女の子なんだな)

 そう思います。いつも汚いままで水浴びやお風呂が大嫌い。一月に一回風呂に入るか入らないかのアンナなのですから、そのアンナがからだを拭いているのをみて、びっくりしてしまったのです。
 でも、くるりと振り向いたアンナの顔はやっぱり狼のそれで、彼のなかの意外な感動は一気に吹き飛ばされました。やっぱり彼女は女の子というよりも、彼にとっては一個の大切な人間であり、《愛》の教師であり、首をギリギリ絞める絞首台のロープから、爪先立って逃れようとするかけがえのない人間の魂でした。
 アンナは言います。

「今日さ、エステラんちの下男が、一人死んだんだよ。ニヘヘヘヘ!」

 蝋燭の炎のなかで、アンナは踊るように笑っていました。ゲラゲラ笑っているのです。

「きたねえヤツさ。おれより意地汚くって、おれより馬鹿なやつなんだ。だけれどよ、死んだあいつはおれより肌が青白くって、女みてえなやつだったぜ。つい――あれ、こいつは誰だっけって、きょろきょろしちゃうぐらいだったぜ」

 アンナは自分がいかにしてその死体を処理したかを教えてくれました。ギラギラ光っている目、大きな口は上に引き攣って、アンナもまたなにか大きなものにズルズル魂を引っ張られているようでした。

「まずは、窓を開けるんだ。やつの魂が天国に行けるようにね。それからそいつの死んだ部屋の椅子を片っ端からひっくり返して、魂が戻ってきても、座れないようにしてやった。で、そいつを棺おけにぶち込んで、やつが持っていた持ち物は全部棺おけに一緒にしてやった。それからもおれの仕事さ。面倒ったらなかったぜ、白い服に着替えて……」

 アンナは誇らしげにそれらをいちいち身振りでもって報告してくれたのです。その報告を聞いて、ウージェーヌ・ラスティニャックの胸は痛んでいました。ギリギリギリギリ痛んでいました。

(だって、悲しいじゃないか)

 と、彼は思うのです。人が一人死んだのだから。学院の生徒が、あの絞首台でひとり跳び下りたようなものじゃないか。彼は悩ましげにペラペラしゃべりたてるナナの顔をじっと見つめ、その小さな胸をみつめました。アンナの服の下、皮膚の下、肉の下、肋骨の下、その下のブヨブヨした心臓を。

(人の魂はきっと心臓にあるんだ。それで、そいつが死ぬと、最後の絶命のとき、フウと息を吐いて、そこで魂がフっと抜けていくんだ。それで魂はウロウロあたりを見渡して、空を目指すんだ。あの灰色の分厚い雲を突き抜けて、天の御国に)

 ナナは最後に言いました。

「一人お利口さんで馬鹿な糞野郎がいるぜってエステラに言ったらさ、言ってくれたぜ。そいつを連れてこいってな。おれが言うンなら間違いなく、お利口さんな、お馬鹿さんなんだろうってな。ぜひ連れて来い……ってな! ニ、ヘ、ヘ」

 アンナは得意そうでした。この一週間、彼はずっとナナのもとで盗みといたずらばっかりさせられていたので、ちょっと嬉しく思いました。これで半人前以下の《愛》の賤民から、もうちょっとだけ進むことが出来るかなって思ったのです。賤民の仕事をするというのは、彼の願いでもありました。彼が身も心も賤民になるために、どうしても必要な段階であるように思ったのです。
 ウージェーヌはアンナと食事を取りながら、こんなによくしてくれてありがとう、と言いました。アンナはニヤリと笑って、よせよ、と言いました。

「なあ、そうだよな、ミニョン。まだまだてめえからは搾り取れるって、おれはそう睨んでるだけさ」

 ニヘヘ、とアンナは笑っています。
 ミニョンも、ウージェーヌ・ラスティニャックも。





 翌朝はいつもとおんなじでした。朝の気だるい光がナナの家に差し込むと、ウージェーヌ・ラスティニャックはミニョンを川原まで連れていくのです。そうして橋のたもとの乞食に朝の挨拶をして、ミニョンのからだを洗ってやります。で、綺麗になったミニョンを連れて家に戻ると、アンナが貧しい野菜スープを作ってくれているのですが、その野菜スープにはほんのわずかしかあずかれません。彼女は彼の親方で、彼は彼女の職人みたいなものでした。親方が起きろと言ったら起きて、食えといったら食うのが職人の務めなのです。
 朝食を終えると、ミニョンを家に置いて、彼は《エステラんち》に向かいました。エステラ・ド・ハビシャムという貴族の女の子のいる、彼にとってはちょっとだけ懐かしい、貴族の屋敷に向かったのです。

 ウージェーヌ・ラスティニャックにとって、《エステラんち》はほとんど憎たらしい我が家みたいなものでしたから、実に順調に挨拶をすませました。愛想のない、能面みたいな顔をしたメイドのアリサににこやかに挨拶をして、こちらに振り返りもしない執事のだれそれに慎み深く挨拶をして、殴られながらナナに仕事を教えてもらいます。
 二階の《エステラの部屋》からチェンバロの音色が流れていました。ナナが言うには、やっぱりエステラが弾いているとのことでした。

「エステラは、暇だとずうっとあれを弾いてるぜ。あれを弾いてるときに、やつの持ち物を盗んじまっても、きっとわからねえぜ」

 ナナはニヤニヤ笑っていました。
 あるときオルガンの音色がピタリとやみ、それからトン・トン・トンと、階段をおりる軽快な足音が聞こえ、エステラ・ド・ハビシャムが現れました。貴族の娘、賤民ではない娘、《愛》のない娘――。でも、エステラは美しかったのです。ウージェーヌとおんなじ金色の髪を腰まで伸ばしています。肌も真っ白に透き通っていて、かつてのウージェーヌとおんなじ、頬には薔薇の色が差していました。青い眼の彼女がにっこりほほえむと、薔薇色の頬に可愛らしいえくぼが現れて、見る者を魅了するのです。
 その愛すべきエステラ嬢が、朝食を食べに一階におりてきて、大げさな身振りでナナに言いました。ナナにすがりつきながら。

「彼――名前、なんだったっけ――そう、でも、昨日死んじゃった彼、うん。かわいそうだったわ……。どうしてあんなに早く死んじゃったのかしら。あんまりだわ。まだ、ええ、きっと三十歳くらいだったでしょう?」

 エステラ・ド・ハビシャムは、実に好奇心が旺盛なようでした。ウージェーヌ・ラスティニャックは、彼女とナナとの会話を聞いて、やっぱり驚いていました。それもそうでしょう。貴族が賤民の死因を探るなんてことをしているのですから。エステラは、机の上でパタリと倒れている蝿を眺めて、その死因を探るようにナナに問いかけています。
 でも、彼が驚いたのはそれだけじゃなくって、このエステラ・ド・ハビシャムという貴族の娘が、ティル・シュピーゲル学院の一年生だということでした。

(顔をみたことがある)

 彼はエステラの顔をじっと見つめて、思いました。彼女は実に優秀な子で、学年が一個上のウージェーヌでさえ名前を知っている才媛なのです。なんだか、マホウ使いになりたいとか公言しているという――

「やつがなんで死んだかって? さあ、なんか悪いもんでも食ったんじゃねえか。てめえの糞とかよ」

 ナナはニヘヘと笑いながら、いかにも適当なことを言ってのけます。エステラはなんだか納得がいかないようで、唇に人差し指をあてて、むっつり考え込みます。

「いえ、きっと何かあったのよ。誰かに殺されたのかもしれないわ。毒殺よ。毒殺だわ。でも、ナナ、毒ってどうやって作るのかしら。あとで調べておいてちょうだいよ。それで犯人を割り出してみせるわ」
「そういう小難しいのは、お利口さんで馬鹿野郎で、この糞野郎にやらせておいてくれよ」

 ナナがウージェーヌ・ラスティニャックを紹介しました。ウージェーヌはペコリと頭をさげます。エステラは、そんな彼の全身をくまなく観察して言いました。

「私の、この類まれな記憶力だと……」

 エステラは腕を組んで、トン、トン、といかにも思索する調子です。美しい眉間に皺を寄せて、難しい顔をしています。

「あなた、どっかでみたことある顔だわ。他の屋敷で仕えていたのかしら?」
「他の屋敷ですか」

 彼は言いました。彼はちょっとだけおかしくなって、にこにこ笑っていました。この目の前の女の子が自分の正体を見破れないっていうんだったら、ぼくは《愛》に向けて確実に一歩、前進してる。彼は胸を張って、そんなことを考えます。

「そうよ。そう。たとえばマースロワの家とか……」
「マースロワ?」

 彼はドキリとしました。

「ええ、マースロワ。違う? エカテリーナ・マースロワの家。聞いたことあるかしら? そうそう、彼女ったらすごいのよ。最近断食をはじめたみたいで、どんどん痩せていくの。学院中の噂よ」
「断食だって? 二ヘヘ。その馬鹿はあれかい、そんなに食いしん坊なおれのことを虚仮にしたいのかい」
「ううん。きっと違うわ」

 と、エステラはいかにも真面目にこたえるのです。

「なにかお願いごとがあるのよ。なにか神さまにすがりたくなるような。あるいは悩みごとでもあるのかもね。ああ、何かしら……一体あの狼の子、魔女の子、エカテリーナ・マースロワは一体何を考えて生きているのかしら。興味は尽きないわ……」
「人間の生き死にです」

 不意に、ウージェーヌが言いました。

「へえ! 人間の生き死に! ふふふ」

 エステラはとっても驚いたようでした。彼の顔に、ぐいと自分の顔を寄せて、家畜をみるような瞳でまじまじとみつめます。

「あなた、とってもおかしな子ね。おかしな子だわ。おかしい子! あなた、ナナと知り合いだったんだって? どこで知り合ったの?」

 ああ、その瞬間、彼の心に草原の風が吹きました。どこで会ったか。大事な大事なナナとどこで知り合ったか。貧民の街か、草原の中か、農村の中か……。彼はナナに聞きました。

「ねえ、ナナ。覚えてる?」

 ナナはこたえました。

「大昔のことだぜ、エステラ。覚えちゃいねえよ。昨日のことだってこいつは覚えちゃいねえぜ、ニヘヘ」
「ふうん。親は何してるの? 職人だったり?」
「盗賊騎士です。エステラさま」

 ウージェーヌ・ラスティニャックは、いつもいつも胸のなかでひっそり膨らましていた彼自身の、ちょっとだけ誇らしい冒険譚を告白しました。書斎のなかで、庭のベンチで、絞首台の椅子で、彼は灰色の空を眺めながら、あるいは焼けてしまった紙面を眺めながら、夢想していたのです。自分と自分の親の歴史を。

「ぼくの父は、いつも人を殺して回って、いろんな農村を襲って略奪していました。ぼくはもうそういうのに辟易してしまったんです。父が死に、母親はぼくにまともな職人になってほしかったみたいなんです。でも、それが嫌で遍歴の旅に出ました。あるとき、どこかの農村でついお酒に酔っ払ってしまって、ブラブラ歩いているうちに迷ってしまって、遠くのこの市に来たんです。そこで、きっと、物乞いでもしてるときに、ナナに出会ったんだと思います」
「ふうん、故郷には帰りたくならないの?」
「まったく」
「そうなんだ。うん、わかったわ。実はあんまりよく分かってないんだけれど、あなたがとっても面白い子だってことだけは感覚的に分かったわ。ねえ、あとでもっとお話しましょ。私、いろんな話が聞きたいの。面白い話がだれよりも大好きなの。私のこのたくましい想像力を慰めてくれる人のお話が聞きたいの」
「いいですよ」

 そっけなく、ラスティニャックは言いました。彼はちょっとだけむっとしていたのです。なんでだろう? 彼は自問します。思うに、彼女は自分よりもちょっとだけ、《愛》に対して軽率なのではないか。マホウ使いになりたいくせに。

「それじゃあ、うん、とりあえず下がっていいわ。あ、あと、ちょっとだけ、あなた、泣いてあげて。あなたの前任者のためにね! それがきっと、彼の魂の救いに繋がるわ」
「かしこまりました」
「まあ、ご丁寧にありがとう! かわいらしくって、礼儀正しい下男さん!」

 エステラが、胸の前でぱちりと手を合わせて、にっこりほほえみました。えくぼが印象的な、可愛らしい笑顔でした。 





 屋敷の外に出ると、ウージェーヌ・ラスティニャックの目の前に一面の芝生が広がります。からだ全体で大地に根付き、一斉に呼吸をしている緑色の群れ。そうして屋敷の境界を定めるように大きな立木が遠くに並んでいるのです。エステラの屋敷は小高い丘に建っていたので、ちょっとした休憩時間などに眼下の街並みを遠望することができました。
 太陽が昇る東の方角には学院の尖塔が厳かに突っ立っていて、その一番大きな尖塔の頂上付近には、今もきっと絞首台があるはずでした。昼休みになれば、きっとエカテリーナ・マースロワの姿も。寒々しい北の方角には貧民街が広がっていて、そこでは悲しくって美しい嘆きの歌が響いているはずでした。
 城壁に閉ざされて見えませんが、市門の外では、山羊や羊が放牧されているんだろうな、と彼は草原の風を思い浮かべます。そして自分やアンナのような人間が家畜の糞を燃やし、笑っていることを思い浮かべ、にっこりほほえむのです。

 彼の今日の仕事は芝生の手入れでした。緑色の宝石みたいな芝生の群れ、その一本一本の首をちょんぎる役目です。悲しいことに、切断される側の芝生もまた生きていて、一本一本がまっすぐ灰色の空に伸びています。精一杯生きようとしているのです。
 芝生は、その対象によって伸びる速度が違います。それを見て、彼は、彼らと人もおんなじだなって感慨深く思うのです。

(人間も生きる速度と死ぬ速度が違うように、芝生もそうなんだ。殺しを犯して絞首台に連れて行かれる芝生がいるように、ちょっとした悪戯で親方に殴り殺される芝生もいる。ただ、みんながみんな何らかの悲しみを抱いているというのは共通していて、それがこの世のあらゆる魂が抱いている共通の悲しみなんだ)

 ウージェーヌにとっても、エステラの屋敷は広大でした。
 アンナと離れて、頬に優しく生ぬるい風を受け、絞首台にいるエカテリーナのことを思い浮かべ、糞まみれのミニョンの心配をし、

「おーい、おーい! 誰か、誰かあ!」

 と、鎌を振るいながら、つまり、一つ一つの芝生の首をちょん切りながら、もう一個いうと、つまり、ギリギリ胸を痛めながら心のなかで誰かに向かって悲しみを叫んでいると、メイドのアリサがやって来ました。

 先ほどすこしだけ紹介しましたが、このメイドのアリサほど無愛想な女の子はいないのかもしれません。年はウージェーヌとおんなじくらいでしょうか。そうして髪はカチューシャとおんなじカラス色で、肩くらいまで伸ばしています。瞳もおんなじカラス色。鼻と顎がちょっとだけ尖っていて、想像上の魔女みたいな女の子でした。
 このアリサが芝生をさくさく踏んで、そうして悲しい灰色の空をそうっと眺めて、ほうっとため息をついて、それから腰をかがめて作業をするウージェーヌに合わせて腰をかがめて、じっと彼の瞳とこの緑色の大地をみつめるのです。

「――あなたの名前、何だったかな」

 このとき、彼ははじめて彼女の声を聞きました。きつい顔に似合わず、意外に言葉は柔らかかったのです。彼は思いました、この子は人見知りなんだって。彼は続けて思います。

(カチューシャとおんなじだ。カチューシャも、あの踊りのステップを一緒に踏んでからも、まだつっけんどんな態度を取っていたじゃないか。でも、一度気を許すと、やっぱり自由奔放になるんだ。誰だってそうだ。誰だって、本当は自由なんだ。自由に生きて、自由に死んで、そこに悲しみの本質があるんだ)

 ウージェーヌはにっこり笑ってこたえました。

「ぼくはウージェーヌ」

 それでもアリサはにこりともしません。ただ、その尖った鼻を、じっと彼に向けて、それからまた緑色の大地に向けました。

「緑色の血が流れているね」

 アリサが指を大地に向けて言います。さきほどウージェーヌが刈った一本の芝の切り口から、透明で、ちょっと白っぽい雫が流れていて、それが葉を伝って緑色になっているのです。

「緑の血……そうだね」

 と、ラスティニャックは言いました。
 ふう、とため息をつくアリサ。それから彼女はカサカサでボロボロな手で庇をつくって、もう一度空を眺めるのです。灰色の空。雲がフラフラ揺れ動いています。ふう、とまた彼女はため息をつきました。まるでうまく呼吸ができない喘息患者みたいに。

「きみのほうこそ、何か悩み事でもあるの?」

 《きみのほうこそ》というのは、彼にとっては、昨日死んだらしい下男のほかに《きみにも悩み事があるの?》ということを意味していましたが、彼女にそれが通じたのかはわかりません。ただ、彼女は尖った鼻を彼に向けて、能面のようなピクリとも動かない表情で、

「あたしのオルゴール、なくなっちゃったの」

 そうボソリと呟いて、ほんのわずかだけ、まさしく羊皮紙一枚の厚さくらい、唇の両端を上にあげたのです。何か言いたそうにじいっと彼をみつめ、それから、緑色の大地をみつめ、で、もうすぐ消え入りそうなかすかで静かな声で言うのです。

「エステラさまが呼んでるよ。お菓子あげるって。アンナも呼んできてね」

 学院に登校する前、朝のデザートを下男たちに分け与えるのがエステラの一つの楽しみでした。アンナにとってもこの時間が楽しみでしたし、わざわざ地下の食糧庫で盗みを働かなくても食べものを得られるというのが、彼女にとっては何より楽な仕事でした。

 テラスに出ているエステラが、ウージェーヌの眼にも見えました。この灰色の空の下で、隅々まで広がる天の明りでもって彼女をみると、彼からしても、やっぱり彼女は誰にもまして綺麗な女の子でした。
 彼女はテラスの柵に両手をついて、海原を見渡すように喜々として庭を眺めているのです。そうして庭の先の大地を眺めていて、彼女はとにかく何かを想像し、思索することで自分の生命を永らえさせているような存在でした。
 彼女は柵に肘をついて、言いました。

「ほら、あなたたち。お菓子よ。召し上がってちょうだいな」

 アリサが豪華なお盆をもって、静かにテラスを下ります。そうしてまずアンナの前に立ったのです。ナナはアリサの顔を見ようともしません。で、蜂蜜とバターのかけられたパンケーキを何枚かつかんで、そのうちの一枚を一気に口につめこみます。クッチャ、クッチャ、と食べる様子をエステラはまぶしそうに眺めています。

「ありがとよ、エステラ」
「どういたしまして」

 エステラは実に嬉しそうでした。だけれど、もう一方の、じっと眼を閉じているアリサは何かを耐えているようでした。少なくともウージェーヌにはそう思われました。
 ナナは一枚パンケーキを残しました。パンケーキにかかった蜂蜜とバターをベロベロ犬みたいに舐めて、それから無造作にポケットに突っ込んだのです。
 次はウージェーヌの番です。アリサがしずしずやって来て、その尖った鼻と尖った顎、能面のような無表情を彼に向けます。彼はナナとおなじように無造作にパンケーキを掴みました。それからチラリとナナをみます。ナナはにやにや笑っています。おれとおんなじようにやれ、と言っているみたいなのです。
 今度はエステラのほうをちらりとみます。エステラもほほえんでいます。最後にアリサをみます。アリサはじっと彼の出方をうかがっているみたいでした。

 ウージェーヌは、四、五枚は掴んでいたパンケーキの、そのうちの二枚を口のなかに突っ込みました。飢える寸前の人間が――いのちのある飢えた人間が、目の前の食事を一目散に平らげようとするように、パンケーキのかけらがポロポロ落ちるのもお構いなしで、意を決して口のなかに突っ込んだのです。

「あははははは! そんなに急がなくってもいいのよ!」

 と、エステラは笑い、

「豚みてえだな、てめえ。ニヘヘ!」

 と、アンナは自分のことを棚に上げて笑い、一方アリサは顔をしかめます。
 ウージェーヌは目いっぱい下品な音を立てて咀嚼し、それから大仰な、賤しい職人みたいに様子でペコリとエステラにお辞儀をしました。お辞儀をしながら、口のなかのものを大急ぎで飲み込みます。で、

「ありがとうございます。エステラさま」
「これは、これは、ご丁寧に。どういたしまして!」

 最後に残った一枚。これももちろん、服がベタベタにならないようにバターと蜂蜜をしっかり舐め取って、ポケットに突っ込みました。ナナとおんなじです。ナナはにやにや笑っていました。

「あなたたちを見ていると、元気になるわ。あなたたちの大きな生命の源をどうしても考えてしまうわ! きっと何かが違うのね、何かが違うのよ、私たちとは。何かしら何かしら、何かしら……?」

 エステラは腕を組んで考え込んでしまいました。で、

「やっぱり《愛》なのかしら……」

 と、言うと、「それじゃ、仕事頑張るのよ」と手をひらひらさせて奥に引っ込んで行ったのです。
 彼女の背中を見送ったアリサは、立ち去り際、静かにウージェーヌの耳元に囁きました。

「無理してあいつの真似しなくてもいいよ。あなたはあなた」

 ウージェーヌはまじまじと彼女の横顔を見送りましたが、彼女はそれ以上は何もいわず、しずしず立ち去っていくのみでした。
 誰もいなくなると、風が吹きます。生ぬるい風。栗色の髪をなびかせながら、不意に、アンナがチッ、チッ、チッ、と何度も舌打ちをするのです。

「やつほど糞ったれの犬野郎はいねえぜ。おれのこと目の敵にしやがってさ。どうせ、さっきもおれの悪口でも言いやがったんだろ?」
「やつ?」
「《やつ?》だって?」

 ナナが眼をいからして言います。

「アリサの糞野郎だよ。チッ、チッ、チッ。あの糞ったれなツラをみてると、吐き気がしちまうぜ」
「何かあったの?」
「なんにもねえさ!」

 ナナが両手を広げて言いました。

「てめえもみただろ。あいつのジメジメしたツラをよ。で、エステラに媚びやがってよお。おれはああいう、ヘコヘコした犬野郎が嫌いなんでね」

 ウージェーヌ・ラスティニャックは、うん、とうなずきました。そうして灰色の空を眺めました。緑色の大地を眺めました。人間の悲鳴が聞こえます。どこからでも、どんなところからでも。いつも通りです。
 で、にっこり笑ってナナの肩をそっと押したのです。ナナは意外にすんなり作業に戻ってくれました。

「――さっきの食い方、最高に賤しかったぜ。おれにも真似できねえ」

 と、にやにや笑いながら。
 でも、やっぱりどうしても怒りが溜まってしまっているみたいで、芝生を蹴ったり、乱暴になぎ払ったりで、鬱憤を払っていました。ウージェーヌがちょっと振り返ると、さっきがこぼしたパンケーキに、黒光りする無数のアリがたかっています。なんとかかんとかケーキを巣穴にもっていこうと、彼らも彼らで必死に生きています。





 夕方六時の鐘が鳴る前に、エステラが馬車で戻ってきました。ウージェーヌ・ラスティニャックはさっそくエステラの自室に呼ばれました。エステラは、ウージェーヌを部屋のまんなかに立たせたまま、さっきからずっとチェンバロを弾いています。

 エステラの部屋は、ウージェーヌの眼からみても上品な趣がありました。部屋の床にしきつめられた絨毯は、女の子らしさをそれほど感じさせない重厚なものでしたし、いくつもある大きな窓にはくすんだ花柄のカーテンが丁寧にかかっていました。部屋の中央にある黒い丸テーブルは磨き上げられていて蝋燭の炎をキラキラ反射させています。
 で、肘掛のついた柔らかそうな椅子が四つ、円テーブルのまわりに置いてあるのです。暖炉の火が弱めにトロトロ燃えています。
 ただひとつウージェーヌにとって残念だったのが、生花がないことでした。

(あとで摘んできてあげれば喜んでくれるかな)

 彼はそんなことを考えながら、エステラのチェンバロを聴いていました。

 音楽がやみました。エステラがウージェーヌに振り向きました。にっこり、美しく笑っています。彼女は話を切り出しました。

「私はあなたみたいな下男をみていると、生きる力の強さを思わせるわ」

 彼は黙っています。いろいろ考えたのち、かすかにうなずきます。
 そこで、彼女がちょっと苦笑気味に「椅子に座ってちょうだい」と言ったので、ウージェーヌは躊躇しました。服が庭の泥で汚れていたからです。彼女もそれに気づいたらしく、人差し指を唇に当てて、わずかに思案します。で、解決策を思いついたらしく、えくぼを浮かべてにっこりほほえんだのです。

「テラスに出ましょう」

 外は少し肌寒く感じられます。季節は春です。とはいえ、夜が近づくとぐっと気温が冷えてきます。風が冷たいのです。
 テラスに出て、ウージェーヌは、二人並んで柵に肘をつきます。そうして灰色というよりは藍色の空を眺め――くすんでいく、生気を失っていく緑の芝生を眺め――その向こうの黒い立木を眺め、黒い空間を眺め、人間の悲鳴、暗闇のなかの人間の首吊り死体を眺め……。そうしてぼんやりしていると、ふとカテドラルの鐘が鳴り始めました。
 鳥が飛び立つ音が聞こえます。鐘が鳴るたびに何度だって彼らは避難します。藍色の空を静かに浮遊し、それからまた同じ場所にどうしても戻りたいらしく、やっぱり戻っていくのです。

 鐘の音のなかで、エステラが言いました。

「あなた、無理しなくっていいのよ。あのとき私笑っちゃったけど、別にあんな風に食べなくっていいのよ」

 彼女はにっこりほほえんでいます。隣のウージェーヌも、もちろんにっこりほほえんでいます。

「エステラさま。ぼくにとっては、あれが普通なんです」
「そう」

 エステラはうなずきました。で、隣の彼をじっとみつめました。

「私はどっちだっていいんだけど、アリサとしては、アンナみたいな子がもう一人増えちゃたまらないってことらしいわ。アリサのことも考えてあげてね」
「アリサ……彼女は賤民ですか?」
「賤民じゃないわ。生まれたときから、あの子はハビシャム家で面倒みてるのよ」
「そうですか」
「賤民、賤民ね。でも、そうね、あなたみたいな賤民にこそ、《愛》はあるんだって思うわ。私たちにはない偉大な生命力は、きっと《愛》が作用しているんだと思うの。彼らは無意識に、きっと何も考えずマホウを使っているのよ。そうでなきゃ説明がつかないもの、いっぱいあるもの!」

 エステラの瞳が、不意に生き生きと輝きはじめました。ウージェーヌをじっと見つめて、誰にも聞かせたことのない、優秀な彼女らしい自説を展開しはじめるのです。彼女の白い肌が藍から黒の肌に変わっていきました。

「《愛》については学院で習うわ。その定義についてね。でも、彼らがこの定義を満たしているとは到底思えないの。ということは、もはや、彼らのうちに、私たちにはない血筋の恩寵のようなものがあってしかるべきなんじゃないかしら。神は貧しい者を愛するのよ。富める者を悲しんでいるの」

 富める者から貧しい者になろうとしているウージェーヌ・ラスティニャックは、しばらく黙っていました。エステラはそれでもなお、独り言のように続けます。

「ねえ、ウージェーヌ。ナナが《お利口さん》だなんてこと言うの、聞いたことないわ。あの子、人を褒めないもの。だから、きっとあなたは《お利口さん》なんだって思うわ。私の言ってたこと、わかった?」
「お言葉ですが、賤民に《愛》なんて言葉が通じるとお思いですか?」

 彼はにっこり笑いました。
 で、彼女は強く頷きました。

「賤民にしかわからないことよ。だから、私、あなたに言ってるのよ」

 彼女は、ほほえみのうちに、ちょっとだけイライラを隠しているようです。テラスの柵を離れて、腕を組んだままうろうろ歩き廻ります。で、ベンチにドシンとお尻を落とし、暗くて読めないのに、今日の朝読みかけだった新聞をぺらぺらめくるのです。
 しばらくラスティニャックは黒い空を眺めていました。今日も星は出ていませんでしたし、月も出ていませんでした。ああ、でも、きっと、あの黒い空の下で、綺麗なお月様がいつものように寝っ転がっているんだろうなと思います。そうして、橋のたもとには、真っ白な雪のような目をもった乞食が、哀れな歌声を鳴り響かせているのだろうなと思うのです。
 ウージェーヌの胸に、言いようのない不思議な気持ちがわいてきました。譴責感にも似ていましたが、ちょっとだけ違います。ちょっとだけ、勇気と悲しみが同時にあるような罪悪感と譴責感が、ふつふつと湧き上がってくるのです。ぼくが言わずして、誰がいうのか。

 ウージェーヌは振り向きました。エステラの顔は、やっぱり真っ暗でした。彼は言います。

「あなたのほかにも貴族の知り合いがいるんですが――」

 ちょっと間を置いても、彼女はうんともすんとも言わず、暗闇のなかで、じっとウージェーヌの顔をうかがうのみでした。

「その貴族も言っていましたよ。貴族には愛がない、賤民には愛があるって」
「誰が言ったのかしら?」

 新聞を一枚ぺラリとめくりながら、間髪いれずエステラが言いました。

「もうすっかり忘れてしまいました。ずっと前の話なので」
「ずっと前って、いつかしら?」
「ナナが今朝言ったと思いますが、ぼくたちは、昨日のことさえ覚束ないんです。ずっと前としか覚えていませんし、場所なんてともでもないです。その人が、実際人間かどうかも怪しいものです」
「ふうん、そう」

 エステラはしばらく不機嫌そうでしたが、ここで、ようやくにっこり笑ってくれたのです。えくぼが現れて、顔がパッと明るくなりました。

「ありがとう。なんだか色々勉強になったわ! あなたと話してると、脳が活性化する気分だわ」

 そう言いながら、腕をさすります。そうして「寒いわね」と小声で呟きます。なんだか気まずい、変な間がありました。風が吹いて、「寒いわね」ともう一度エステラは言いました。

「ウージェーヌ。今日はもう帰っていいわ。あ、でも。そうそう――」

 一旦部屋に帰りかけたエステラが、またひょいとウージェーヌに顔を向けました。

「あなた、ちゃんと泣いた?」

 死んだ下男の死のことです。
 ラスティニャックは突然の問いこたえに詰まりました。その一瞬で、エステラは彼のこたえを判断したようです。

「泣くこと。それが今日の最後のお仕事よ。それが終わったら、帰っていいわ」
「はい」

 エステラはまたチェンバロを弾きはじめました。蝋燭もつけずに、暗闇の中での演奏でした。一方、彼女の言葉にいろいろ思いをめぐらせていたウージェーヌは、しばらくぼうっとテラスに立ち尽くしていたのです。で、ベンチにちょっと座って、ため息をつきました。アリサみたいに。
 ベンチには今日の新聞が置かれたままでした。エステラがさっき読んでいたところを眺めてみると、そこにはウージェーヌ・ラスティニャックの失踪についての記事があり、彼の似顔絵が掲載されていました。

(彼女はどこまで知ってるんだろう)

 彼はそう思いました。しかしここにいさせてくれる限りここにいよう、と、彼は思います。

 それから大分経ちました。辺りは真っ暗で、無音でした。ようやく声をあげて泣くことのできたウージェーヌ・ラスティニャックは、ちょっとだけ《愛》を獲得した気分になって、嬉しくなって、暗い夜道をほとんど踊るような調子で一人帰ったのです。




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