「三俣さんっ。消火弾を使って!」
ヘルメット内に響く杏奈の声に、拓也は我にかえって腰に着けた消火弾を叩き割る。もうもうと白い煙が立ち上り、火だるま状態は鎮火された。
しかし、硫黄と生臭く不快な臭いがどこからかしみ込んできて、拓也は涙眼になってげふぉげふぉと咳き込んだ。
「おお、こんなガス吸って大丈夫か」
「有毒成分はフィルターでろ過されているはずなんで。大丈夫です。ドラゴンから離れてください」
現状を思い出し、拓也は慌てて周囲を見回した。
蠍竜は両方のハサミで顎を、というより、鼻を抱えこんで地面に突っ伏している。びくびくと痙攣しているのが、薬で神経が麻痺してきたのか、単に次のくしゃみを我慢しているのかは判別できない。
拓也は炎に囲まれていない方へと走り出した。
その、わずかに地面をぱたぱたと震わせた動きが伝わったのか、蠍竜が両方のハサミを地面に着いて頭部を上げた。四つの黒い眼が赤い炎を反射し、拓也を捉えた。
カッと顎を開き、唾が吐き出される。拓也はゆるやかな蠍竜の動きの一拍先を逃げながら、まだ燃え続ける谷間の高温の中で踊るように走り回り、蠍竜を疲れさせていった。
杏奈はどうしているのかと思えば、煙の向こうから白いボディスーツにロケットランチャーを担いだ姿が、こちらを目指しているのが見え隠れする。
そうこうしているうちに、蠍竜の動きがだんだんと鈍くなり、眼から輝きが薄れてゆく。もともとあまり燃える草木の少ない谷間は、自然に鎮火してゆき、あとは黒くこげた地面や岩が残される。
拓也は肩で息をしつつ、四対の脚を抱え込むように胴の下へ曲げ入れ、両方のハサミで顔を覆い、丸くなる蠍竜を見上げた。
――終わった……。
拓也はゆっくりと横歩きをしながら、蠍竜の正面に回った。就職浪人確定の拓也が無傷で退治できたのだから、確かに死亡率ゼロなのだろうが、それでも素人には危険すぎる。
ヘルメットのバイザーに手をかけ、肉眼で蠍竜をよく見ようと、卓也が一歩前で踏み出したそのとき、蠍竜がぐっと顎を上げて、霞む四つの眼で拓也を睨みつけた。
じぃっと、どこか明確な意思をうかがわせる眼つきに、拓也の背中に冷たい汗が流れた。
それもやがて灰色に濁り、命をなくした昆虫のように、蠍竜は四肢を固く折りたたんで前のめりに沈んだ。
拓也は念を入れて、残ったドラッグボールをパスパスと蠍竜の目や鼻に撃ちこんではしばらくようすを見る。すっかり眠り込んだことを確認し、拓也は抜き足、差し足でそっと蠍竜に近づいた。
黒光りする楕円形のハサミは、拓也の鎧姿が映し出されるほどに艶があり、メタリックな光沢があった。そっと触れてみると、やはり金属的な硬さがある。地面に何度もめり込んだのに、傷ひとつついてないのだから、かなりの硬度なのだろう。
まぶたのない四つの眼は、よく見ると細かい八角形が無数に並んだ切り小細工のようだ。
周りの鱗状の殻から盛り上がったその複眼が、堅いのか柔らかいのか気になった拓也は手を伸ばした。が、届かないのでハサミによじ登ろうと正面の顎の下まで近寄ってみる。
ねちゃ、という音とともに、ブーツの底が泥に埋まるような感触を覚えたと同時に、足元から火柱が立ち上がった。
正確には、炎が拓也の体を包み込んだのだ。顎とハサミの下に蠍竜の涎がたまっており、拓也はそこに足を踏み込んでしまったのだ。
ブーツも鎧も耐火性ではあるが、先に浴びて引火した蠍竜の唾の有機成分が残っていたらしく、またたくまに燃え広がってしまった。
「!!!!」
悲鳴も上げられずにいる拓也のヘルメット内に、杏奈の警告が響き渡る。
「三俣さん、万歳してください!」
なんだかわからず、無我夢中で両手を天に突き上げる。
遠くから「ばすっ」という音が聞こえたような気がした直後、胸板にどぅん、という重い衝撃を受けた。そのままのけぞって、仰向けに地面に倒れてゆく拓也は、周囲に白い煙がしゅうしゅうと立ち上っているのをバイザー越しに見ながら、意識が遠のいていった。
額に爽やかな風を感じて拓也が眼を開けると、ガント、ベント、そしてマルチ・ユニバースの営業員、西垣杏里が拓也の顔をのぞきこんでいた。
「あ、お目覚めですね」
普通のOL的なスーツを着て、ナチュラルメイクアップに女神のごとき笑顔を浮かべている。
「おれ、地球に戻ったんですか?」
飛び起きた拓也は、硫黄と生臭いすすに覆われた鎧を着たまま、カチャカチャと耳障りな音を立てて周囲を見回した。
「んじゃ、ないんですね」
失望したのか、安心したのか、本人にもよくわからない口調だった。
「はい。まだパンタラにいらっしゃいますよ。サポート員の杏奈から、安全確認の要請を受けましたので、急遽、駆けつけさせていただきました。当社の開発した鎧は完璧にパンタラドラゴンの発火唾攻撃から三俣さまをお守りしました。緊急大型消火弾が着弾したときの衝撃も八割がた吸収できましたので、肋骨にも胸郭にも損傷はありません」
すらすらと解説する西垣杏里は、セミタイトのミニスカートからのぞく脚をきれいに並べて拓也の横に膝を着いて座っている。彼女の姉妹、杏奈の脚線美を思い出した拓也は、ふいに羞恥を感じて脚から目をそらす。
杏奈はどうしているのかと、とってつけたように目で探してみた。
少し離れたところには、大勢のパンタラ人が集り、蠍竜をぐるぐる巻きにしている。そのそばで、西垣杏奈は白いボディースーツにヘルメットを被ったまま、彼らを監督していた。
「あれ、君のお姉さん」
「はい、パンタラでドラゴンハンターなどやっております。マルチ・ユニバースのドラゴン退治ツアーの、現地ガイド主任でもあります。今後もご贔屓にお願いします」
首を少し傾げ、にっこり笑った杏里は、首のところまでたくし上げられていた拓也のTシャツを腹まで下げると、鎧のブレストプレートをもとどおりに装着した。
気絶していた間に、裸の胸を妙齢の良く知らない女性に見られていたことに、拓也は愕然とした。
意識がなかったので覚えているはずがないのだが、柔らかな指が肋骨や鎖骨、胸のあたりを撫でて怪我の有無を確認していた感触が、胸の表面に残っている気がする。
呼吸をするとまだ痛みの走る胸の奥で激しく動揺しながら、拓也はどもりながら聞き返した。
「今後も?」
「はい。三俣さんがまたドラゴン退治を希望されましたら、西垣杏奈がご案内を勤めさせていただきます」
ふたたびドラゴン退治をしたいとは、拓也は思わなかった。
「二回目からのツアー料金は、一割のディスカウントがありますよ」
いやいや、無理だろうと拓也は曖昧に首を揺らした。
関節をすべて縛り上げられたパンタラドラゴンは、並べられた丸太の上を転がりながら、谷の外へと運び出されていく。
「あれ、どうするの」
「パンタラドラゴンは、パントラではとても重要な資源なのです。あのまま、王都へ運ばれ、神殿で処理されます。パントラの捕獲手数料は、すでに三俣様の口座に払い込まれていますから、確認してください。生け捕りですから、一万バクレルは確実ですよ」
いまさらながら、拓也は目を丸くした。
日本円にして、約百二十万円を半日で稼いでしまったということか。ツアーに払った料金の元が取れた上に、残りの滞在日数を豪遊できる。
いやいや、節約して日本に持って帰れば、しばらくは生活に困らない。
あるいは、もう、二、三頭ほど捕らえれば……。日本のコンビニバイト夜勤の年収を軽く越えそうだ。
心と頭がぐらぐらしてきた三俣に、完璧な笑顔で西垣杏里がひとこと付け加えた。
「三俣様が、ドラゴンの唾溜まりに不用意に足を踏み入れたために、火だるま鎮火のために使用させていただいた緊急大型消火弾の料金、千バクレルを報酬から差し引かせていただいていますから、その点はご了承ください」
「へ?」
拓也は、間抜けた顔で杏里を見上げた。
その背後には、眼に沁みるような青い空が広がっている。