第六話 林間学校〈2〉
百草紀理子。
聖凪高校の数学教師兼魔法教師であり、男子生徒からの人気はダントツナンバーワンのセクシー女教師である。
現在24才。大学3回生の時に浮気性の彼氏と別れて以来男日照りが続いているらしい。
曰く、「聖凪の男にはろくなのがいない」とのこと。
「柊先生なんてどうかしら。今独身でしょう?」と問いかけた先輩教師に「ああいうナルっぽいのは好みじゃないの」と返すあたり中々の強者だ。
彼女にとって鼻の下を伸ばしつつ慕ってくる男子生徒などまだまだガキでしかないが、時には生徒に魅力の片鱗を感じることもないわけではない。
特に怪物一年生と恐れられる九澄大賀は、噂とは違って素直で可愛らしいところもあるし男前な一面もある。
もう少し年が近かったらあるいはちょっと好きになってたかもしれないわねと酒の席で口を滑らせたこともあった。
そんな彼女の好みのタイプは本人曰く「誠実で頼り甲斐があってユーモアもある人」というなんとも普通すぎてコメントに困るもの。
それを聞いた大木先生が、それなら自分がと名乗り出てガン無視されたことはここだけの秘密である。
さてそんな彼女の本日の仕事は林間学校での監視員。
各地のチェックポイントに置かれた魔法玉から送られてくる生徒達の情報をモニターで逐一チェックし、何かあれば巡回中の他の教師に連絡するという地味だが大切な役回りだ。
先程もB1チェックポイント付近で生徒同士が揉め事を起こしているという報告を、その近くにいる柊先生に送ったばかり。
しかしそんな彼女にトラブルが起こる。
腹痛である。
高速ダッシュでトイレに駆け込んだ彼女がそこから脱出するのは当分後の事になる。
そのためにE2チェックポイントにおいて進行中の重大な事態について彼女が感知することはなかった。
(うーん、スタート前に生徒からもらったお菓子が悪かったのかしら……?)
百草は整った顔を歪ませながら、自分にチョコレート菓子を分けてくれた地味な感じの女子生徒の顔を思い出すのだった。
####
九澄大賀は震えていた。
怖い。
怖い。
怖い。
目の前には地球の様々な猛獣のパーツを混ぜ込んで生み出したような、いかにも恐ろしいモンスターがいる。
同じ魔法生物といってもルーシーとは子猫とライオンほどにも違う。
シーバンとかいうその怪物は危険度5だそうだがそれは一体どういう数字なのか。
空手や柔道の五段よりも強いのか。
はたまたインペルダウンのレベル5囚人よりも強いのか。
SMAPの5人が一斉にかかれば何とか倒せるかもしれない。
などと現実逃避していた瞬間、シーバンがその一本角を突きつけ突進してきた。
九澄が間一髪でそれを交わすと、シーバンは勢い余って背後の崖に衝突し轟音を立てる。
「よっしゃ! 自爆しやがった!」
九澄は思わぬ秒殺にガッツポーズを決める。この勢いなら少なくとも失神は間違いなしだ。
「ふ~っ、脅かしやがって。だがこの九澄様に挑んだことをせいぜい後悔……し……」
シーバンが起き上がって九澄を再び睨みつける。
まったくの無傷。逆に崖の方は大きくえぐれていた。
もしあんなのを食らったら。
(し……死んでしまう……比喩とかじゃなくてマジで死ぬ)
観月は固唾を飲んで九澄を見守っていた。
初貝は観月に尋ねる。
「九澄くんは、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ、あいつなら絶対大丈夫」
「信じてるんですね」
観月は一瞬ためらったが、薄く微笑んではっきりと頷いた。
「うん……信じてる」
(あんたは……あんたはこんな時でもきっと……)
観月の思いが届いたのか否か、いずれにせよ九澄は覚悟を決めた。
拳を握りしめ、目の前の獣を睨みつける。
動物相手にガン飛ばしが効くとは思えない。だがビビって目を逸らせば確実に殺られる。
九澄は喧嘩慣れした男の本能としてそれを知っていた。
(腹くくるしかねぇか……)
今使える魔法はたった一つ。ブラックプレートに保存した一発のみだ。
幸いにもそれは攻撃魔法、うまくすればあるいは。
(と、その前に……)
「観月! 初貝! ここは俺に任せててめえらはさっさとに逃げろ!」
シーバンから目を離さないまま九澄が叫ぶ。
「なっ……! あんた一人だけ置いて逃げるなんてできるわけないでしょ!」
「うるせー! 女はさっさと逃げろっつってんだ!」
「女々ってあんたはいつもそうやって……!」
観月の抗議に耳を貸さず、九澄は声のトーンを丸めた。
「それによ……俺は、お前には怪我してほしくねーんだ……お前にゃいつでもそーやってガヤガヤ元気でいてほしいしな……」
「なっ……」
観月は自分の体温が一気に上がったのを感じた。
「だから……頼む」
背を見せたまま真摯に話す九澄に、観月は何も言い返せなかった。
(なによ馬鹿……あんたにそう言われたら、あたしはそうするしかないじゃない……)
「絶対勝ちなさいよ馬鹿!」
九澄は振り返らず、親指を立てて「OK」のサインを作った。
観月は初貝の手を引っ張り走りだした。
振り返ることなく森の中をかき分けていく。
(九澄が負けるとは思えない。だけど先生たちを見つけて知らせないと……!)
(きっと観月なら先生たちを見つけて知らせてくれるはず……!)
九澄は観月の行動を正確に把握していた。
なんだかんだで数ヶ月の付き合いだ。それにあいつってよくわからんけどわかりやすいし。
などと本人が聞いたら殴られそうなことを考える。
(さてと……最低でも時間は稼がねーとな……)
九澄が目の前のモンスターを抑えられているのはひとえに眼力のおかげだった。
だがその睨み合いも永遠には続かない。
間違いなくもうすぐ奴は飛びかかってくる。
ならばどうする。
九澄大賀なら――
こうする。
「へっ、いいのかよ? 俺はこう見えてもゴールドプレートの持ち主なんだぜ?」
「グアアアアアアアアアアッ!!!!!!」
唸りを上げながら突進してきた巨体。
九澄はそれを再びギリギリで交わし、体をひねりながら距離を取る。
シーバンは再び崖に激突し、なに食わぬ顔でまた九澄に向きあう。
「そ、そうか……人間じゃねーからこんなハッタリは通じねーのか……って当たり前にも程があんな」
なぜだろう。
恐怖心がほとんどのはずなのに、かすかにそれだけでない感情の昂りをかすかに感じる。
こんな時にこんなボケをかませることを考えると、怖すぎてどうかしてしまったのかもしれないと考え、自嘲気味に笑う九澄。
(くそったれ、震えが止まらねえ……なのに……ちょっと楽しくなってきやがった……。
腹ァ……くくってみっか……)
九澄にはひとつのアイディアがあった。
今自分に実行しうるほとんど唯一の攻撃手段。
(失敗したら死ぬかもな……ちくしょう、なるようになりやがれ!)
九澄はカッと目を見開き、怪物を睨みつけ自ら駆け出した。
全身のパワーを総動員した本気の突進だ。
一瞬シーバンの動きが止まった隙を九澄は見逃さなかった。
両手で怪物の大きな口の内側を掴み、120%の力でその口を一気にこじ開ける。
それはまさしく火事場の馬鹿力と呼ぶにふさわしい本気以上の腕力だった。
(どんな頑丈な体でも……ここは弱点だろ!!!)
「オープン!!!!! 声震砲(ボイスワープ)!!!!!!」
九澄は怪物の口を覗きこむように顔を突っ込み、ありったけの大声を叩きつけた。
魔法力で増強されたその音は一本に収束し、大砲のようなビームとなって怪物の口内に炸裂した。
轟音とともに九澄は反動で吹っ飛ばされ、尻餅をついて転がった。
顔や尻に痛みが走るが今はそれどころではない。
九澄が顔を上げた時、怪物は口から煙を吐き出しながらピクリとも動かず倒れていた。
「いよっしゃーー!! 大成功!!」
思わずガッツポーズする九澄。
「へっへっへ、人間様をナメるとこうなるんだっての」
仰向けで倒れている怪物に軽やかな足取りで近づき、念のため見開かれたままの目をよく観察する。
「よしよし、完全に飛んじまってるぜ。ブラックプレートと柊の魔法様々だな……」
九澄は知らなかった。
野生の猛獣の生命力と、その危険度を。
安心してシーバンから目を離したその刹那だった。
衝撃。
痛みを感知するより先に、弾けるように吹っ飛ぶ。
崖に激突し、側頭部を強打し、落下。
地に屈し、そこで初めて九澄は脇腹の強烈な痛みを知る。
痛み?
違う、そんな生易しいものではない。
全身がバラバラになったかのような激痛。
(生きてやがった……!)
完全な油断だった。
九澄はあそこですぐに逃げるべきだったのだ。
ダメージのある今のシーバンに追いつかれることはほぼなかっただろう。
だが全ては一瞬で暗転した。
怪物は口から煙と血を漏らしながら血走った目で九澄を睨みつける。
手負いの獣だけが持つ、真の憤怒と激情の目。
「ガアアァアァァアゥオアアア!!!!!」
咆哮。
「ち……ちくしょう……」
嘆き。
(死ぬ)
(死ぬ) (死ぬ)
(死ぬ) (死ぬ) (死ぬ)
(死ぬ) (死ぬ)
(死ぬ)
(死ぬ)
(嫌だ!)
(こんなところで死ぬのは嫌だ! 俺はまだあいつに何も言ってねえ……)
(まだ何もしてやれてねえ!!)
九澄は立ち上がる。
恐らく肋骨は折れた。
呼吸が地獄のように苦しい。
それでも。
「来いよ」
もう逃げることは不可能だ。
走れたとしても数メートル。
だとするれば出来ることは一つしかない。
九澄は頭上を見上げた。
高さ10メートルを超える崖。
それが二度に渡るシーバンの激突で大きくえぐれ、グラグラと不安定な状態になっている。
(俺にもし運が残っているなら……)
「来いっ!!」
歪な叫びとともに血反吐をまき散らしながらシーバンが飛び出した。
まだ動くな、待て。待て。待て。
紙一重の、千載一遇のタイミングを。
ほんの一秒あまりの時間が九澄には十数秒にも感じられた。
槍のような角が眼前に迫る。
今!
九澄は身をかがめ斜め前方に飛び出した。
シーバンの爪が九澄の背を掠める。
九澄は、勢い良く地面に転がり、怪物は轟音とともに崖にめり込んだ。
だがまだこれだけでは致命傷にならない。
九澄はうつ伏せの状態から半身を起こし空を見上げる。
度重なる衝撃で、切り立った崖の上方はこの上なく不安定になっていた。
あと少し。
あと少しで。
来い。来い。来い。
「崩れろおおおおおおおおお!!!!」
それは山の神の気まぐれか、それとも岩をも通す信念の賜物か。
九澄の叫びに呼応するように崖の上方に一直線の亀裂が走った。
シーバンがようやく身を起こした時、そいつはまだ自分に迫った事態に気付いていなかった。
上方の轟音。
怪物は上を見上げる。
その時既に数メートル級の大岩がまっすぐ怪物のもとに迫っていた。
####
「なんだ今の音は!?」
大木が叫んだ。
小柄な男性教師の後ろを走る観月は言い知れぬ不安を感じる。
大丈夫。
九澄が負けるはずがない。
危険レベル5は確かに恐ろしいが、ゴールドプレートの持ち主にとって敵ではない。
先生はそう断言した。
ならばなぜ、自分はこんなにも恐れているのだろう?
観月に答えはなかった。
「九澄ぃぃぃぃ!!!」
現場にたどり着いた観月が見たものは、崩れた崖と土砂の山、そしてそこからほんの数十センチの距離で倒れている、頭と背中から血を流した九澄の姿だった。
観月の心臓が止まりそうになる。
少女はほとんどパニック状態で九澄に駆け寄った。
「九澄! 九澄! ねえ目覚めなさいよこの馬鹿! 九澄!!」
直後、聞き慣れた声がかすれるような大きさで耳に届いた。
「……うっせえな……耳元でキャンキャン叫ぶなよ……」
九澄が目を開く。
また観月の呼吸が止まった。
「……ま、そっちの方がお前らしいけどな……」
そうつぶやいて九澄は笑った。
観月はボロボロと涙を流し、目の前の馬鹿に覆いかぶさった。馬鹿、馬鹿と何度も繰り返した。
大木は照れるように頬をかいて青春やってる男に声をかけた。
「……で、どうなんだ九澄、怪我の具合は」
「あー、結構キツイっすねー。大先生、回復魔法使える?」
「俺にできるのは応急処置レベルだ。今保健の門脇先生が向かって来ている。
彼女ならこの程度の怪我はなんでもない」
「じゃあまあ応急処置だけでも先に頼むよ大先生」
大木は苦笑した。
こんな口が叩けるのなら安心だろう。
――ちょいとばかしムカつくが。
(……しかし九澄がレベル5程度を相手にこんな重症を負うか……?
魔法の実力が高くとも戦闘には不慣れということか……?
あるいは歳相応に油断でもしたんだろう)
大木はわずかな疑問を感じたが深く考えることなく納得した。
まずは傷ついた生徒を治療することが教師の役目だと承知しているからだ。
だがその時、同様の疑問をより深く抱いた者がいた。
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夜。
観月は九澄が一人安静にしている個室を訪れた。
九澄は布団で寝転びながらテレビを見ていた。
「よお観月! なんだお前一人で来たのか。
さっきまで柊とかC組とか執行部の連中が来てたのによ。
ああそんなことより今日はありがとうな。
お前のおかげで助かったぜ」
九澄はいつものように屈託なく笑う。
何も変わった様子はない。
ただ体のあちこちに包帯が巻かれていた。
観月は九澄の枕元に座り込む。
「体の具合はどうなの……?」
「大したことねーよ。保健の先生の回復魔法ってすげーんだぜ。
傷口なんてあっつー間に塞がっちまってよ。
この包帯はまあ念の為ってやつさ。2、3日でとれるらしいぜ」
自分の頭に巻かれた包帯を指さしてヘラヘラと笑う九澄を見て観月の胸にまた不安が広がった。
いつもと変わらない、だからこそ何かがおかしかった。
「……どうして……あんな奴相手に死にかけたの……」
「は? 死にかけてねーよ! ピンピンしてんだろーが!」
「嘘! 門脇先生が言ってたよ! もう少し到着が遅れていたら危険だったかもしれないって!
内蔵が損傷していなかったのは奇跡みたいなもんだって!
あんたならあんな奴……もっと簡単にやっつけられたんじゃないの……?」
「そ、そりゃあお前……ちょっと油断しちまっただけだよ……」
これも嘘だ。
観月は確信した。
確かに大木先生や柊先生も同じ油断という見解を述べていた。
だが観月達を逃した時点で九澄は完全なシリアス戦闘モード、100%の臨戦状態だったはずだ。
あそこからどうやって油断するというのか。
仮に一瞬の気の緩みでいいのを食らってしまったとして、それでも相手を倒したあとそれなりの魔法力は残っていたはずだ。
ならばなぜ自分で回復魔法を使わなかったのか。
仮にたまたま回復魔法をインストールしていなかったとして、他に何かあるはずじゃないのか。
なぜ自分たちが駆けつけるまでただ倒れていたのか。
観月には疑問だらけだった。
今回だけではない。
以前から九澄大賀は謎だらけだった。
何かがおかしい。
何かがその疑問を一本の線につなげる気がする。
でも何が?
まさか。
その時観月の背筋にゾクリと悪寒が走る。
「分かった……とにかくゆっくり休んでいなさいよ……」
「ああ、ありがとな」
観月はゆっくりと腰を上げ、部屋を後にした。
廊下に出てから観月はブンブンと首を横に振った。
(違う……そんなわけない……そんな事絶対にありえない……
なのにあたしは……あたしは……
恐ろしい想像をしてしまっている……)
####
同じ頃柊父は現場の調査を終えていた。
モンスターが埋まっているという土砂の下には、血らしき汚れが残っていただけで肝心の死体はなかった。
魔法生物といっても死んだら煙のように消え去るわけではない。
ルーシーが死んだらただの枯れたマンドレイクになるように、このモンスターも死体が残るはずなのだ。
それがないということは逃げたか、もしくは、より可能性の高いケースとして、何者かが「回収」したということだ。
もしもあのモンスターが、何者かが召喚魔法で呼び出したものならば、死ねば術者の召喚アイテムに自動的に回収される。
そもそもこの山にあんなモンスターは生息していないことを合わせて考えれば結論はただひとつ。
奴は誰かが意図的に放った。
その目的は、九澄の命?
それとも――