第十七話 一回戦終了、そして
『全校生徒の期待と共に開かれたこの大会! 一回戦第一試合では怪物一年生九澄大賀が無傷の楽勝! 第二試合では伏兵兜天元が魔法執行部の滑塚亘を剛力でもって粉砕してみせました!』
第二試合である意味「ドン引き」した観客を温め直すために実況が声を張る。
『そして続くは第三試合! この試合の勝者があの執行部長・夏目琉へと挑戦する大注目の一戦です!』
浅沼耀司は控え室で体を伸ばし準備運動に念を入れていた。しかし表情は落ち着き払っており、そのリラックスした様子からは一切の緊張は伺えない。
「勝算? やだなあ、勝算なしに参加はしないよ。」
浅沼は燦々とした爽やかな笑顔で新聞部のインタビューに答える。
「確かに夏目くんは本物の天才だよね。けど才能で勝ってる人がいつも勝つんじゃあ世の中面白くないでしょ。ま、僕だって努力と根性で売っていくタイプでもないけどさ……そうだね、あえて言うなら傾向と対策、それが鍵なんじゃないかなあ」
「つまりどんな奴にも弱点はあるし、それを突く方法は存在するってこと。そこを理解せずにただ闇雲に頑張ったって結果はついてこないよね」
「うん、そう。夏目くんを打ち破る算段はもうついている。100%勝てるとまでは言わないけどね。そこはね、信用してくれていいよ」
「え? 新宮くんについて? あはは、彼みたいな奴は嫌いじゃないよ。前時代的でさあ、なんか見てて面白いよね。けど彼ほど弱点がわかりやすい人もいないでしょ実際」
「うん、新宮くんがどう戦うかに関してはもうみんな知ってるからさ。彼への対策を立てるのは中一の計算問題を解くより易しいことだったよ」
「色々シミュレーションしてみたけど……どう考えても、僕の勝ち以外はありえないかな」
浅沼はそこまで話した所で係員の呼び出しに応え話を終えた。そしてちょっと買い物に行ってくるとでもいうような自然な足取りで闘技場へと出て行った。
『東より入場は浅沼耀司!!』
闘技場の中央近くまでやって来た浅沼は、腰に手を当てて観客席をゆったりと見回した。なるほど、確かに一年生まで含めたほぼ全校生徒と一部の教員までもがこの大会を観戦している。愛しの百草先生までいるではないか。
「やっぱやる気出ちゃうよな―これ」
自然と頬がゆるむのを抑えられない。自分はこんなにも魔法バトルが好きだったのかと少しばかりの驚きもある。悪い気分ではなかった。
(やっぱり聖凪はいい……評価されるのは自分の能力だけ。だれも僕の"家"のことなんか気にはしない)
浅沼は古い町の名士と呼ばれる家に生まれた。跡継ぎとして大事に育てられた彼は町の誰からも特別扱いされた。小学校や中学校では教師ですら彼にへりくだり媚を売った。彼らは浅沼耀司本人を尊敬していたのではなく、ただ彼の"家"を恐れていただけだ。彼にはそれが我慢ならなかった。
父の勧めを蹴り自ら聖凪への進学を選んだのは、少しでも自分の町から離れた遠くの高校に通いたかったからだ。入学してからそこが魔法学校だと知り己の幸運に感謝した。ここでは誰も彼の家柄など気にしない。大事なのは魔法の実力だけ。本当の実力主義の世界だ。それこそ浅沼の求めていたものだった。ここで自分がどれほど救われたか、他人に話してもわかるまい。浅沼は学校そのものを人生の恩人だと思っている。
(今日は聖凪に恩返しをする日だ。最高の試合を観てもらうことで)
浅沼の前に新宮一真が歩みを進めてきた。思った通りその顔からは並々ならぬ自信が溢れている。
『西より新宮一真!! パワーの"鉄腕"と変幻自在の"幻影"!! 全くタイプの異なる二人の凄腕がここで激突します!!』
浅沼は新宮を足先から頭までじっくりと観察する。身長、体重、コンディション全て事前の下調べ通り。何も問題はない。そう結論づけた。
『始めっ!!』
合図と当時に新宮が足を肩幅に広げ若干姿勢を低くする。そして両手を腰の高さに構え眼をカッと見開く。一気に爆風のような風が新宮の周囲に広がり、浅沼がわずかによろめいた。
風が収まったあとには先程と変わらぬ姿の新宮の姿。いや、そこには微妙な、しかし確かな変化があった。全身がかすかに赤っぽく変色し、各所の血管がわずかに浮き出ている。そしてただでさえ鋭い眼光は、今にも獲物を狩ろうとする獣のようにギラついていた。
「やれやれ……君はつくづくワンパターンだな。またパワーが上がっているようだけど、いつまでもそんな単純な手でやっていけるほど世の中甘かぺ
浅沼の言葉が終わるより早く、新宮の拳が顔面を撃ち抜いた。浅沼はそのまま十数メートル吹っ飛び轟音とともに壁に激突した。
『き、強~~~~~烈ぅぅぅぅぅ!! 新宮選手の鉄拳がいきなり炸裂したァァァァ!!! 早くも勝負あったかァァァァァ!!!???』
伊勢も永井もこれには唖然とするしかない。
「は、はええ……なんてスピード、そしてパワーだ……。ひょっとしてさっきの骸骨よりもパワーあるんじゃねえか?」
「さあな……そこまではわからんが、俺達が知っている頃のパワーよりも数段上なのは間違いない。どうやらあれ一本で頂点を獲るつもりらしいな」
「"身体強化魔法〈パワー・レインフォース〉"……か……。ある意味イカれてやがるぜ、あんなやり方で勝ち抜くつもりだなんてよ」
一方控え室の九澄もこれには目を丸くするしかなかった。
「なんだありゃ、魔法なのか? ただ殴っただけじゃねーか……」
小石川ボディーの音弥が口の端を吊り上げる。
「その殴っただけというのが大問題だ。何のヒネリもない原始的な身体強化魔法、まさに最も単純で最も扱いづらいバカ専用魔法だ。それ一本をあのレベルまで極めた男などそうはいまい」
「え? 単純にパワーアップできるならめっちゃ扱いやすいじゃねーか。なんでみんな使わねーんだ?」
「世の中そう甘くないぞ。単純で習得しやすく、しかも強力……そんな魔法がノーリスクで存在すると思うか? あの魔法の最大の欠陥は、何より自分の体への負荷が尋常ではないということだ。大きなパワーを発揮するほど反動で体はガタガタになる。最悪壊れてしまいかねないんだよ。まあ普通はそこまでの出力を出せるようになる前に、欠陥に気付いてとっとと捨ててしまうけどな」
「じゃああいつはそんな反動承知でやってるってことか」
「それだけじゃないぜ。そもそも人間ってのはいきなり身体能力が何十倍になったとしてもそれをうまく扱えるはずがないんだ。走るために地面を蹴るのだって、無意識にできるのは自分のパワーを自分で把握しているからさ。突然スーパーマンになったところで自分のパワーに振り回されてまともに動けやしないんだよ、普通だったらな」
「ってことはあいつは……」
「ああ、反動による苦痛なんて百も承知で何度もあの魔法を使い、自分の体を酷使してあのパワーを活かす技術を身につけたってとこだろう。まったく、清々しいほどの馬鹿にしか出来んことだ」
九澄の脳裏に、以前新宮に素のケンカで圧倒された記憶が蘇る。あの時は驚いたが、それほどの過酷な訓練を積んでいる男ならあの強さも当然ではないか。
九澄はモニターに視線を戻す。浅沼は砂煙の中。しかしあのパンチを食らって平気だとはとても思えない。
「!!」
しかし浅沼は砂煙の中から悠々と現れた。その綺麗な顔には傷ひとつついていない。表情は余裕そのものだった。
「やれやれ、だからおめでたいと言ってるんだ。いくら強力なパワーがあっても、手口がバレている以上対処法なんていくらでもある」
浅沼は人差し指を立てて自分の優位を講釈する。
「言っておいてやろう。君の"鉄腕"じゃあどうやっても僕には勝てない。痛みすら与えられないよ」
微笑む浅沼。新宮はというとさほどショックを受けているという風でもなく、口を真一文字に結んだままゆっくりと浅沼に近づいていく。まったくもって無防備に、普通に歩いて接近する両者の姿に会場中が息を呑む。
顔と顔とが30センチほどの至近距離。
先に動いたのはやはり新宮だった。
ボディブロー。
浅沼の背中が拳の形に盛り上がる程の一撃。
さらに同じ腕で顔面へのアッパーカット。
浅沼の頭がまず吹っ飛んで首がぐいーんと伸び、あとから引っ張られるように体も飛んでいって地面に落下した。
(((……なんだ今の?)))
会場中の皆の頭に浮かんだ疑問。たしかに強烈なパンチだった。しかし今の浅沼の吹っ飛び方は明らかにおかしくないか。だってほら、「首が伸びた」。
数秒の間を置いて浅沼が平気な顔で起き上がる。新宮は呆れたように眉をひそめた。
「このパクリ野郎が」
「パクリ野郎とは心外だな。これは僕の『完全オリジナル魔法』だよ。第一キミの戦法こそオリジナリティのカケラもないじゃないか」
浅沼は両手で自分の頬を掴み、引っ張った。するとそれは引っ張られるままぐいーんと伸び、顔の面積が四倍ほどになる。
「"全身をゴムのように柔軟に"変化させることで"あらゆる打撃、衝撃を無効化する"身体変化魔法……その名も『ラバー・ラバー』!!!」
どん!!! という効果音を背負って浅沼が胸を張った。
『パ、パクリだーーーーーーーー!!!!』
実況が悲鳴のように叫んだ。
『これはちょっと色んな意味でマズイんではないでしょうか!!?? いえしかし、新宮選手にとっては極めて厄介な戦法であるということは間違いありません!!』
浅沼は雑音など無視して半身になり拳を構える。
「そしてここからが僕の素晴らしい『オリジナル戦術』の真骨頂……! ラバー・ラバー……」
「銃〈ピストル〉!!!」
「ぶ!!」
浅沼が拳を突き出した瞬間、その腕が一気に伸び新宮の顔を撃ち抜いた。
新宮はとっさにバランスを取ってダウンを回避する。しかしその頬には拳の跡がはっきり見て取れた。
「と」「ラバー・ラバー・スタンプ!!!」
蹴り上げると同時にその脚が伸び、足の裏が新宮の顔面にめり込む。
「バズーカ!!!」
両腕を同時に後ろに伸ばし、走って新宮に接近。至近距離で一気に腕を縮めその反動で胴を撃ち抜く。これまでで最大の打撃音が響き渡った。
「ラバー・ラバー……、銃乱打〈ガトリング〉!!!!」
腕がいくつにも見えるほどの高速のパンチ連打。新宮は全身に拳を浴びまっすぐ後方に吹っ飛んだ。そのまま仰向けで地面を数メートル滑り静止する。
「ふっ」
どや顔の浅沼。顔面蒼白の実況と観客。何やら見てはいけないものを見てしまったかのようなこの凍りついた雰囲気ときたら。
『き、決まったァァァァァ浅沼選手の連続攻撃!! さしもの新宮選手も深刻なダメージは免れないか!!??』
気を取り直して力強く仕事を再会する実況。正にプロ。(高校生だけど)
しかし新宮、さほど痛手を負ったふうでもなく泰然と立ち上がる。少々打たれた跡は残っていたが、ダメージがあるようにはとても見えない。
「しょせんパクリはパクリか。本家のパワーはまるでねえな」
小馬鹿にしたように笑う新宮。一方の浅沼も別にショックを受けているわけではないようだった。
「なるほど、さすがにこれだけで倒れてくれるはずもないか。ま、いずれにしても君が僕にダメージを与えるすべはない。逆に僕は他にもまだまだ君を負かすために使える魔法がある。勝敗の行方は火を見るより明らかだよ」
厳然たる事実。浅沼に新宮の攻撃は効かない。それはパワーの量が問題なのではなく根本的な相性の問題だ。である以上どう転んでも新宮に勝ち目はない。
「フン」
新宮が踏み込み、一気に距離を詰める。一瞬全身の力を抜く。全く回避行動を取らない浅沼に対し裏拳のようなモーションで右腕を鋭く振り、空を切る。
「……? 止まっている相手にも当てられないのかい?」
浅沼が鼻で笑う。だがその直後、その頬から一筋の鮮血が垂れ落ちる。
「!?」
一拍遅れてそれに気付いた浅沼は唇を震わせ自分の頬を撫でる。指に付着した赤い液体は間違いなく自分の血であり、自分の顔の傷から流れているものだった。浅沼の目はこれ以上ないというほど驚愕で見開かれている。
「そ、そんなバカな……」
「別に大したことはやってねえよ。ゴムってのは斬撃には弱いんだろ?」
新宮は手の平をヒラヒラさせおどける。そしてもう一度脱力してムチのように体をしならせ、腕を振る。腕先が見ないほどの瞬速。今度は浅沼の肩口が斬れた。
「…………ッ!!」
今や浅沼の全身から汗が吹き出していた。先程までの余裕はどこにもない。
「そうか、手刀だ! 手で"殴る"のではなく"斬る"……あの人らしいやり方だ」
永井が唸る。伊勢は脂汗を流し「その手があったか……!」と驚愕していた。
「さてと……まだやるか?」
獲物を前に舌なめずりする獣のように笑う新宮。
「い、いや……やめとく」
浅沼は引きつり笑いながら両手を中途半端に上げあっさりと降参した。
『決っちゃーーーーーーく!!!!』
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『九澄大賀! 兜天元! 新宮一真! 夏目琉! 以上にて準決勝に進出する4名の顔ぶれとなりました!! 準決勝は午後一時にスタートしますのでそれまで休憩時間と致します!』
実況のアナウンスとともに生徒たちが続々と席を立ちバラバラに動いていった。学食やパン購買は大混雑するだろう。柊愛花は友人たちに話しかけ、九澄のところへ激励に行こうと提案した。観月だけは少し渋ったような顔をしたが、結局はその場の4人全員で控え室へ向かうことになった。
愛花たちが九澄の控え室の前に着いた時、既にC組団体ご一行と一年生執行部の面々が部屋を占拠していた。
「九澄ィィィ! 絶対優勝しろよォォォ!」
「分かったからくっつくなっつ~の!!」
なぜか伊勢弟が九澄に抱きついて当の九澄に頭を押しのけられている。お馴染みのメンバーがその光景を見ながら笑っていた。愛花も釣られて笑顔になる。なぜ部屋の片隅に小石川がいるのかはよくわからなかったが。
「九澄が優勝したらC組が聖凪優勝ってことだよな?」
「ばっかオメーそりゃ九澄1人だけだろ最強なのは」
「でもよー準決勝の相手は手強そうだぜ」
「ヘーキへーキ!! あんなデカブツ九澄ならラクショーよ! な?」
(勝手なことばかり言ってんじゃねー!)
九澄はほとんど涙目になりながら周りの勝手な盛り上がりに頭を痛めていた。本当は次の相手への対策をじっくり練りたかったのだがこれではそれどころではない。
(まあ大体やることは決まってんだけどよ……)
どうせ自分の取りうる作戦などほとんど選択肢はない。今から不意打ちに行くのでもなければ、あとはせいぜい細かい手順を考えるぐらいだが、そんなものはいくら詰めても現場の状況でいくらでも動いてしまうものだ。結局のところベストコンディションで臨む以外にやるべきことなど今はないのかも知れなかった。
「そら、愛花、愛花」
愛花は後ろから声をかけられ振り返る。すると久美とミッチョンがニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。
「あれ持ってるんでしょ~? 渡してあげなよ~」
「ちょ、ちょっと、いきなりなんなの」
「あれれ~持ってないの~? それじゃあそのバッグはなんなのかなぁ~?」
久美とミッチョンはますます意地悪そうに笑いをこらえる。愛花をからかうのが楽しくてたまらないといった様子だ。
「うう……わかったってば……」
愛花は顔を赤くして遠慮がちに人混みをかき分けていく。持ち前の押しの弱さのおかげで少々時間がかかったがなんとか九澄の前まで辿り着いた。
「あ、あの~九澄くん」
九澄が振り返ると、愛花がちょこんと立っていた。何やら照れているような、遠慮しているような伏し目がちの直立姿勢で、小さなカバンを両手で下げている。すると愛花はそのカバンをサッと九澄の目の前に差し出した。
「お、お弁当作ってきたの。良かったら……どうぞ」
「お お お弁当!!??」
それはまさしく輝いていた。九澄にとってこの地球上に並び立つもののない究極の料理、それが愛花の手作り弁当である。これに比べたらどこぞの美食親父の至高のメニューなどカスにすぎない。なんちゅうもんを、なんちゅうもんを作ってくれたんや……。
「そ、その……試合前にあんまり食べないほうがいいんなら別にいいんだけど……ほら、クラスマッチの時喜んでくれたからつい」
「うおおおおおマジありがとな柊!!! 全部食うから!! 今食うから!!」
九澄は感涙にうちひしがれた。最近こういう嬉しいイベントが全然なかったから感動もひとしおである。周囲では大門が引きつった顔で歯ぎしりし、それ以外の連中はヒューヒューなどと二人をはやし立てていたが、九澄がそれを気にするはずもなかった。
「あれ、そういえば観月さんどこ行ったんだろ」
最初にそのことに気付いたのは久美だった。一緒にこの部屋に来たはずなのにいつの間にか見当たらない。
「さあ……トイレかなんかなんじゃ」
ミッチョンが冷静に答える。確かにそれぐらいしかふらりといなくなる理由がない。久美は「ならいっか」と納得した。
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(駄目……やっぱりあんな化け物に九澄が勝てるわけない……! 絶対にボロボロにやられちゃう!)
観月は廊下を駆けていた。居ても立ってもいられなかった。あの控え室にいるのは辛すぎる。あんな作り笑顔の九澄を見るのは。
(あいつきっと無理をしてるんだ……みんなを不安がらせないために……いつもいつもそうやって一人で抱え込んでいたんだ……!)
観月は九澄の秘密の核心に辿り着いたわけではない。しかし彼が実は魔法を自由に使えないということはほとんど確信していた。二重人格なのかそれとも何か他の条件があるのか、はっきりしたことは分からないが、いずれにせよ普段のあれはある種のハッタリなのだ。一回戦、九澄は自分からは魔法を一切使わず相手の魔法を破って降参させてみせた。あんな手を使ったのはきっと他に方法がなかったからだ。恐らくなんらかの魔法アイテムか何かを使ってその場を切り抜けたに違いない。
(だけど次は駄目……! あんな化け物、工夫してどうこうなるなんて相手じゃない……! ヘタしたら……ヘタしたら最悪……。嫌! 考えたくない!)
今にも涙がこぼれてきそうだった。どうしてあいつは何も話してくれないのか。あたしなら力になってあげられるのに。九澄の秘密ならなんだって守ってあげるのに。
(本当は分かってる……。あいつはあたしのことなんて全然意識してないってこと……。まるっきりあたしの空回りだってこと……)
(だけど……それでもあたしはあいつを守りたい! あいつを守るためならあたしは……あたしはなんだって出来る!)
観月は廊下の隅の控え室に飛び込む。そこは九澄の部屋ではない。部屋の扉には『兜天元』と書かれている。
部屋の片隅に一人で座っていた兜が観月を睨み上げる。その青白い顔と濁りきった目つき、ひび割れた唇はおよそ健康な人間のものではなかった。
観月は一瞬怖気づくが、すぐにつばを飲み込み拳を握る。そしてかすれるような声で叫んだ。
「あたし、なんでもします……! だから次の試合、棄権してください!!!」