第十三話 前奏
「あたしと組手がしたいって~?」
ミニマムボディにウェーブがかった明るい茶色のロングヘアー。立てばロリっコ座ればペット、歩く姿は小学生。自称セクシー美女の十九歳・九澄胡玖葉はアイスを頬張りながら弟の土下座を見下ろしていた。彼女にとっては無駄に成長しやがった弟(別に男子として特に大きいわけではない)を遥か見上げるようになって久しいだけにフレッシュな経験だ。というかなぜ自分が土下座などされなければいけないのかまるで見当がつかない。
「頼む姉ちゃん! こんなの姉ちゃんしか頼める奴が居ねえんだ!」
弟の顔つきは100%マジだった。からかっている風でも酔っているわけでもない。
「なによ、誰かにいじめられたってんなら姉ちゃんがやっつけてあげるわよ?」
「そんなんじゃねえよ。これは俺が俺自身の手でやらなきゃいけねえことなんだ。頼む! 手ェ貸してくれ!!」
胡玖葉は強い。40キロに満たない体重にして、磨き上げられた空手の腕前は日本屈指であろう。そこらのケンカ自慢よりはっきりと格上の大賀をして太刀打ちできた試しがないほどの力量だ。そして大賀が特定の武道や格闘技を学ばずして現在のレベルにまで至った理由でもある。――主に姉からの護身のために。
「……ま、いいけどさ。あんたが本気で来るつもりなら、下手な手加減は出来ないわよ?」
胡玖葉の背に殺気が宿る。九澄にとってトラウマの一語では語り尽くせない惨劇の数々。
「あー、いや、殺されたくはねーわけだけど……」
「男に二言はないわよね! 覚悟しなさいおらああっ!!!!」
秋深まる快晴の週末、九澄大賀、絶体絶命。
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「あきれた奴だ。こんな短い間隔でまた来るとはな。……というかその顔は何なんだ?」
"少年"は――見た目少年の、その実100歳を超える大魔法使いは――目の前に堂々と立つ男を見下ろしていた。下半身のない魔法体となって久しい花咲音也はどんな大男でも上から見るのが常態だったが、そもそも彼は滅多に人と会うことがない。普段の彼は聖凪の奥深く閉じられた穴蔵で学園の行く末を見守る、守護者という名のひきこもりである。彼を睨みつけるのは、なぜか顔を腫れ上がらせ絆創膏をベタベタと貼った聖凪生徒。昨日か一昨日辺りに誰かと殴り合いの喧嘩でもしたかのような有様だ。
「時間がねー。おめーに協力してもらいてーことがある」
その男――九澄大賀は半分塞がった右目で聖凪の創立者を睨み上げた。
「馬鹿につける薬はないとはこのことだな……。レベル1の試験で死にかけだったお前が次のレベルに進めるとでも? おいルーシー、お前からも言ってやれ。お前なんざ女の尻でも追いかけ回していたほうがお似合いだとな」
「大賀はバカじゃないもん!」
大賀の肩に乗っている魔法生物ルーシーは目を吊り上げて反論する。
「大賀が大丈夫だって言ったんだもん。絶対に大丈夫だもん!」
音也はやれやれと溜息をつく。ルーシーは彼にとっても可愛い孫娘のような存在だが、少々聞き分けがないのが困りものだ。
「だがいずれにしても次の試験でお前の協力は禁止だ。前回クリアできたのは完全にお前の助けのおかげだからな。二度と特別扱いはせん」
「えー! あたしは大賀のパートナーなんだもん、一緒に行くのーーーー!」
「わりいルーシー。今回は俺に任せてくれねーか?」
ルーシーは頬を膨らませて不満を示すが、九澄は済まなそうに会釈して歩を進める。
「別に今回はブラックプレートのレベルアップのために来たわけじゃねー。そこのジジイは普通の魔法だって普通に……いやハンパねーレベルで使えるだろーからな。ちょいと手合わせしてもらいに来たんだ」
「ほー……いい度胸と言えばいい度胸だ。どちらかと言えば大馬鹿者と呼ぶべきだろうがな。……いいさ、ボクも暇だからな。付き合ってやるよ」
音也は薄く微笑んで右手を高く掲げる。
「ただしボク自身に戦ってもらえるなどと自惚れてもらっては困るな……。お前の相手はこいつだ」
音也の後方、何もない空間が渦を巻く。何かがその渦の中心からせり出し、一気にその姿を表した。猛牛の頭に巨人の肉体。神話の怪物、ミノタウロス。轟音を立て地面に降り立つ。ルーシーは反射的に大河の背に隠れた。
「はっきり言ってどうなっても知らんぞ……三年生の上位クラスでも手に余るほどの魔法力を込めて召喚したんだからな」
音也にとってこれは少々タチの悪いジョークのつもりだった。まともな神経を持つならば到底敵わないレベルなのはひと目で分かる。九澄がビビって腰を抜かすか許しを請うならすぐに引っ込めてやるつもりだった。だからまさか、何の躊躇も見せず正面から突っ込んでいくなど想像は出来なかった。
(馬鹿な……! 自殺する気か!?)
「おおおおおおおおおおっっっ!!!!」
大賀は雄叫びを上げ一直線に疾走った。恐れる物など何もないかのように。蛮勇少年と怪物、二体が交差したその瞬間、乾いた打撃音が響き渡った。
「ひでぶっ……っ!」
九澄はミノタウロスの裏拳を食らって――裏拳というよりハエを払うかのような無造作な動きだったのだが――トラックに跳ねられた小学生のように吹っ飛び、5、6回転してようやく静止した。膝をガクガク揺らしながら立ち上がった九澄は手の甲で鼻血を拭き取り「中々やるじゃねーか」とうそぶいた。
「あ……あいつやっぱり底なしのうつけ者だ……。て……天下一の大馬鹿野郎だ……」
音也が声を震わせる。今回ばかりはさしものルーシーも音也に反論しようがなかった。
「ヘヘへ……ぶっちゃけ逃げたくて逃げたくてしょーがねーんだけどよ……」
九澄が足を肩幅に広げだらりと腕を垂らす。その目は全く死んでいない。
「なーんか、見えてきたんだよな……」
「あとちょっと……」
「あとちょっとでよ……」
「掴めそーなんだよな……」
九澄が笑った。それはとうとう彼がイカれてしまったからなのか。それとも。
(ボクにはもう……わからん!)
だが音也は更にここから信じがたいものを目撃するのだった。
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聖凪杯を間近に控えた平日、その時間は平常の国語の授業中だったのだが、生徒たちの視線は普通に座って授業を受ける九澄大賀に集中していた。理由は簡単、まるで数十人からリンチでも受けたかのようにズタボロの状態だったからである。
「ちょ……九澄のやつ、日に日にボロボロになっていってないか?」
誰も久美の言葉を否定できるわけがない。明らかにそうなのだから。しかし当の本人が何でもない気にするなの一点張りではそれ以上踏み込むことも出来ない。この状況に最も心を痛めているのが柊愛花その人だった。
「ねえ九澄くん……お願いだから本当のこと言ってよ」
休み時間になって愛花は人気のない廊下で九澄に問いただした。「魔法修行中の怪我」「こないだ階段から落ちた」そんな話で納得ができるものか。
「いやーははは、マジ大したことないんだって。こう見えてめっちゃ軽傷だからさ」
九澄は自分の手で腫れに濡れタオルを当てながら笑う。
「嘘! 嘘だよねそんなの! いくらあたしでもそんなのに騙されないよ!」
愛花が目をうるませる。想い人にこんな顔をされて無視できるほど九澄はクールな男ではない。まいったなあとボヤいて愛花の肩に手を置いた。
「なあ柊。俺は今までお前にたくさん嘘をついてきたんだ。多分これからも……つき続けると思う。だけどもし……もしこんな俺で良ければ……ちょっとだけ信じていてくれねーかな」
「え……? それってどういうこと……?」
九澄が何の話をしているのか愛花にはまるでわからなかった。ルーシーのことを隠していたことだろうか。いやもっと大事なことのような気がする。
「俺……いつか一段落したら、柊に話したいことがある。今は言えないんだけど、すごく大事な事なんだ。だからそれまで……ちょっとだけ待ってて欲しい」
九澄はそう言っていたずらっぽく笑った。
「今回はマジで大丈夫だからさ、きっと」
愛花は泣きそうになるのをこらえ、微笑んだ。
「ずるいなあ……。九澄くんにそう言われたら、あたしは信じるしかないじゃない」
愛花は九澄の顔の腫れにそっと手を伸ばす。
「そのかわり約束して。危ない無茶はしないって……。それと、たまにはあたしにも頼ってほしいな」
愛花の指先から暖かい光がこぼれる。小さなろうそくのようなその光に照らされると、九澄が引きずっていた痛みが少しだけ和らぐ。
「これって回復魔法か……?」
「最近覚えたの。まだほんの初歩の初歩、軽い痛み止めに傷薬が混ざったようなものだけど……」
いや、これは世界一の回復魔法だ。九澄は本気でそう思った。まるで全身から力が湧いてくるようだ。
「ありがとな、柊。マジで」
二人はお互いを見つめ合い、微笑みあった。
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「ったく、また娘をたぶらかしやがって……」
不機嫌をあらわにしながらタバコを吹かしているのは愛花の父親である柊賢二郎。言うまでもなく親バカである。
「たぶらかしてねーっつーの。大体おめーの方こそちったー協力しろよな。こちとら絶体絶命のピンチだってのによ」
九澄は壁に背をもたれながらぼやく。頭の上にはルーシーが乗っている。
「そう言う割には危機感のない顔だな。何か掴んだのか?」
「まーな」
迷いのない答え。柊父は少し意表を突かれわずかに目を丸くする。
「そうか……。ま、俺もただボヤッとしていたわけじゃない。例の大会をなんとか中止に出来ないものかと手を探ってみたんだが……」
柊父にとっても現状は好ましいとは言えない。九澄と彼はある意味で一蓮托生、九澄が本当は魔法を使えないことがバレてしまうと巡り巡ってほぼ自動的に自分のクビが飛ぶ。運を天に任せるより聖凪杯自体を取り止めさせてしまったほうが都合がいいことは確かなのだ。
「いけそうなのか?」
九澄が身を乗り出す。
「それがどうにもうまくない。校長は知ってのとおり放任状態だし、俺の危機にも呑気なもんだ。そして普段なら止める立場になるはずの教頭も、どういうわけか今回は妙に乗り気なんだ。おかげで教頭派の教員にも賛成派が広まる始末でな……」
「おいおいそれでもあんたが反対に回れば影響力あんだろ。おめー魔法主任かなんかじゃなかったのか?」
「俺は反対できん……。今から22年前、ここ聖凪で全く同じ発想のバトル大会が開かれた。ある男は最初乗り気ではなかったが、持ち前の才能とセンスのお陰で結果的に優勝に輝いた……。それが俺だ」
「お前かよ!!」
九澄は思わず突っ込む。堅物に見えて実はこの男結構ヤンチャだったということなのか。
「あくまで周囲に請われて仕方なく出場したんだ。優勝したのは天賦の才のせいだったのだから仕方なかろう」
全く悪びれないどころかむしろ得意げな柊父。
「こんな時まで自慢を挟むか……」
「いいか九澄、大会本番は強力な結界の中で行われる。俺からの手助けは一切できん。ヤバイと思ったら即棄権しろ」
「わかってるよそんなことは……。でもやる前から無理だ無謀だって決めつけて欲しくはねーな」
九澄がなぜそんなに自信有り気なのか柊父にはわからなかった。尋ねても答えてはくれないのだ。
「無駄かもしれんがその自信に一応期待はしておく。くれぐれも下手は打つなよ」
九澄は歯を見せて頷いた。
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九澄の母梢加は専業主婦である。手のかかる姉弟の子育てを一手に担ってきた彼女は、単身赴任中の夫の元から一週間ぶりに我が家に帰宅した。昔はやんちゃなわが子達を置いて家を空けるなど考えられなかったが、もう二人共いい年なんだから大丈夫よねえと気楽に考えていたのだ。なんといっても一番面倒な子だった大賀が進学校に進んでぐっと大人っぽくなったのだから、その安心は過信ではないはずだった。それが帰宅して最初に目にしたのが長女の顔の腫れだったのだから気が気ではない。明らかに誰かに殴られたかのような傷跡だった。
「こ……胡玖葉! どうしたのその顔! まさか昔みたいにオトナの人と喧嘩でも……?」
「もう、平気だよおかーさん! ちょっと一発いいのもらっただけだから! 空手やってればそ~いうこともあるよ」
「まったくもう、いい加減空手なんてやめなさいって言ってるのに……。それにしても胡玖葉、あなたどうしてそんなに機嫌がいいの?」
鼻歌交じりに食器を洗う胡玖葉は、母親を心配させないために演技しているというよりは本当に機嫌がいいようにしか見えなかった。
「んー? いや別に……あいつももう昔みたいな泣虫小僧じゃないんだなあって……」
ちょっと寂しいけどね、と胡玖葉は口の中で呟いた。母の頭にハテナが浮かぶ。
(あんたが何するつもりかはわかんないけど……あたしは応援してるからね、大賀。ま、まだまだあたしの方が強いけど)
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「やれやれ……つくづく訳のわからん奴だ」
花咲音也は戦いの跡を眺めていた。あちこちの床に割れ目やヒビが残っている。九澄の血の跡すらある。
「ねーねー! やっぱり大賀って凄いでしょ?」
ゴキゲンなルーシーに話しかけられ音也は天を仰いだ。
「あんなのはとても戦略とは言えない。一歩間違えていれば大事になっていたかもしれないんだ、甘く見るな」
アヒルみたいに口を尖らせるルーシー。だが……と音也は視線を落とす。
「音芽が何かを感じるわけだ。確かに珍味だよ、奴は」
音也は目を閉じて微笑む。この穴蔵にこもって数十年、いい加減刺激のない生活にも飽きてきた頃だ。暇つぶしとしてはあんなに面白い男はそうはいない。
「聖凪杯ね……。つまらんことを考える奴もいたもんだ。あんな曲芸で勝とうとするのはもっと馬鹿だが……」
「奴なら何かやれるかもな」
外出する良い機会ができた。その事に関しては礼を言っても良い。音也はそう思った。