第九話 九澄大賀vs新宮一真
三年生最悪の問題児と名高い新宮一真と、その彼女と言われる紀川沙耶〈きのかわさや〉は一年生校舎の廊下を並んで歩いていた。
新宮が懐かしそうにあちこちを見渡す一方で紀川は鉄面皮のままである。
二人が廊下に出ているのはC組にいた何人かの男子から九澄大賀は執行部分室にいると聞いたからだ。
「それにしてもあの男はイカれていたな。
目の前にテレポートしてきた奴を自分が召喚したなんて思うかね?」
紀川は答えない。
そのうち二人は目的地に辿り着いた。
「さて、ここが分室とやらか……。
去年まではこんなもんなかったってのに、連中ますます増長してやがる」
新宮が不愉快そうに吐き捨て、ノックもなしに勢い良くドアを開けた。
中にいた数人の視線が二人に注がれる。
「九澄大賀っての、どいつだ」
書類に目を通していた氷川は突然の闖入者に呆気にとられた。
見覚えのない二人、ネクタイのストライプからして三年生。
以前会った執行部の三年生とは明らかに別人。
ならばこの二人は誰だ?
「九澄は今、外で仕事中ですが」
努めて冷静に振る舞う。
相手の意図が読めない以上それを引き出さなければ。氷川はそう判断していた。
「なんだタライ回しかよ。
ここで待ってりゃ帰ってくるのか?」
「ええ、恐らく」
「じゃあ待たせてもらうぜ」
「あの……九澄に何か?」
「答える義務はねえな」
「じゃあせめて名前ぐらいは教えて下さい」
「……新宮一真」
その名を呼んだのは本人ではなかった。
氷川の背後、か細い男の声。
「……え?」
振り返るとそこには影沼がいた。
普段温和なその男が怖い顔で新宮を睨みつけている。
「へえ、俺を知ってるのかい」
「……有名人ですから」
「そいつは光栄だ。……と、そう怖い顔すんなよ。
お前にゃ用はねえ」
氷川は影沼の不自然な態度をいぶかしんだ。
相手のほうは影沼を知らないようだが、何かあったのだろうか。
「おい、あの人なんなんだ?」
竹谷が影沼に尋ねる。
「狂犬、鉄腕などとも呼ばれている三年生の問題児。
打倒執行部長夏目琉を公言している男」
「打倒執行部長……? あんたあのバケモンをぶっ倒すつもりってことか!?」
竹谷の問いに新宮は不敵な笑みで返した。
「ははは……さすが三年生は半端じゃねえな。
九澄はこんな連中と張り合うってことか」
「俺がどうかしたか?」
「「!!!」」
部屋の入口、二人の三年生の後ろに九澄がひょっこりと現れた。
「九澄!」
「へえ……こいつか」
新宮が九澄に顔を向けニヤリと笑う。
九澄はキョトンとした顔で目の前の見知らぬ男を観察した。
背丈は自分よりはっきりと高い。180前半はあるだろう。
そして制服の上からでもわかる均整のとれた筋肉。決して必要以上に太いわけではないが、絞りこまれ鍛えあげられている。
何より獲物を狙う猛獣のような眼と纏う空気が、他の誰とも異質だった。
その時新宮の目つきが一瞬変わる。
殺気。
刹那、九澄はゾクリとするような危険を感じ反射的に後ろに飛び退く。
無意識のうちに冷や汗が流れ拳が握られていた。
「お前……なんだ……?」
「へえ、勘の良い奴だ。なるほど頭でっかちの雑魚ではないらしい」
新宮は九澄に対して半身に立ちゆらりと力を抜いて「構え」た。
「怪物一年生なんだろ? ちょいと喧嘩しようぜ」
「ちょ……! おれと魔法バトルするつもりかよ!?」
「ああ」
(冗談じゃねー!! 昨日の今日でまだ全然レベルアップしてねーんだぞ!
今ここで戦えるわけがねえ!)
落ち着け、今まで何度も似たようなことはあった。
九澄は自分に言い聞かせる。
ここは落ち着いて戦いを回避する。それしかない。
「やめとけよ、反省文じゃ済まねえぜ?」
「そいつは俺がとっ捕まったらの話だろう?」
「……そういう過信は良くねえぜ。それによ、俺は喧嘩のために魔法は使わねえんだ。
どうしてもバトルがしたいならいっそ素手で受けてやろうか? ……なーんてな」
その提案の言葉は本心から出たものではない。
なるべく会話を引き伸ばして煙に巻くための駆け引きだ。
だが新宮は何がツボにはまったのか、腹を抱えて大笑いしだした。
その不可思議な姿に九澄も他の執行部員も呆気にとられてしまう。
「はっはっは! こいつはいい! 喧嘩なら素手でやろうぜってか!」
「な、何がおかしいんだよ」
新宮は笑いを止め、嬉しそうな顔で上着の内側に手を突っ込んだ。
「何もおかしくねえさ……お前の言う通りだ」
上着の内ポケットから新宮が出したものは紛れもなく魔法プレートだった。
九澄は魔法発動に備え身構えるが、新宮はあろうことかそれを無造作に後ろに放り投げてしまう。
「男と男の喧嘩に、こんなもんは不要だ」
投げられたプレートを紀川が無言で受け止めるのと新宮が九澄に向かって飛び出すのはほとんど同時だった。
大げさに振りかぶっての右ストレート、とっさに九澄はそれを左手で弾こうとする。
だが直後左のボディブローが九澄の脇腹に刺さる。
(――フェイント!)
一瞬呼吸が止まりわずかに背を曲げた九澄の顔面目掛けて打ち下ろすような右。
九澄は腰をかがめ左に跳躍してそれをかわす。
空振りでも背筋が凍る様な強打。
(こいつ――強え!!)
単に体格があって運動神経もいいというだけのレベルではない。
明らかに格闘技や武術の修練を積んだ動き。
新宮は間髪入れずに九澄を追い、息つく間もないほどの連打を浴びせる。
左、左、右、左、右。
九澄は必死でそれらを捌きつつ横にかわそうとするが、新宮は九澄の動きを読んでいるかのような足運びで間合いを支配する。
壁を背にしている九澄には後ろへの逃げ場はない。
顔面への被弾だけは防ぐ九澄だが腹や腕に鈍い痛みが走る。
(すげえ連打だ、しかも速え、カウンター撃つ暇もねえ!
……いや待て、さっきからこいつの攻撃はパンチばかり……フォームから見てもこいつはボクサーか!)
九澄は一瞬左のパンチを打ち返す仕草をする。
だがそれはフェイントだった。
(ボクサーなら脚への攻撃は受けられねえだろう!)
姉から学んだ空手の動き、その基本技にして強力無比な技の一つ、左の下段回し蹴り(ローキック)。
帯は持たずとも有段者に劣らない力を持つ九澄のその鋭い蹴りは、しかし新宮が右脚を軽く上げたことで簡単にカットされてしまう。
「甘えよ」
九澄の顔面が跳ね上がる。
一瞬視線が下に寄っていた九澄には、それが何の攻撃なのかわからなかった。
上のガードを固め追撃に備えた九澄に対し、新宮は鋭く距離を詰め、膝蹴り。
みぞおちに衝撃が走り九澄がうめき声を上げる。
腰が落ち、胃液が逆流し肺が悲鳴を上げる。
みぞおちとは呼吸の要である横隔膜がある場所なのだ。
そのまま倒れてもおかしくないほどの苦しみの中で、九澄はしかし歯を食いしばって膝に力を入れる。
相手より背の低い自分が更に低い姿勢になっているこの状況。
膝蹴りが当たるほど距離が詰まっているこの状況。
それは反撃のチャンスだった。
頭。
もっともシンプルで強固な攻撃。
九澄の頭頂部が新宮の顔を跳ね上げた。
金属バットで大木を叩いたような乾いた打撃音とともに新宮が大きく後退する。
体勢を崩し鼻から血を流す新宮に九澄は追撃の打拳。
全力を込めた右拳は、それを受けようとした相手の手の平ごと顔面を撃ちぬいた。
新宮が腰を落とし後退する。
「すっ、すっげえ……!」
竹谷が唸った。
格闘技に縁がない彼にとって目の前の殴り合いは別次元だった。
魔法なしでもこれほど激しい戦いができるものなのか。
ひょっとすると自分は魔法なしの彼らにも負けるのではないか……?
そんな考えが頭をよぎる。
(いける、一気にケリを付けてやる!)
九澄が距離を詰める。
中腰になっている新宮の頭に狙いをすまし左の回し蹴り。
当たれば一気に戦いを終わらせる完璧な蹴り。
だが止まる。
新宮の両腕ブロック。
逆に九澄の体勢が崩れる。
そこから鞭をしならせるような左の裏拳が九澄の眼上を叩き、鈍い痛みを与える。
直後、両者が同時に斜め後方に跳び数メートルの距離が開いた。
九澄は肩で息をしながらも構えを崩さず相手を見据える。
戦いを見守る執行部員たちは皆息を呑んだ。
「……二人共なんて動きしやがる……」
「どうりで九澄が魔法を使わなくても充分やっていけるわけね……」
竹谷も氷川も驚きを隠せなかった。
影沼は口を固く結んだまま冷や汗を流していた。
「やるじゃねえかホントに……。
正直言ってこんな楽しい戦いになるとは思ってなかったぜ」
新宮が鼻血を手で拭いつつ口の端をつり上げる。
「何が楽しいだ……こんな無意味な喧嘩痛いだけだっつーの……」
九澄は喧嘩そのものを楽しむタイプでは全くない。
強くなった理由も環境(主に姉)による要因が非常に大きいといえる。
だが目の前の相手は明らかに殴り合いを楽しんでいた。
「まだ燃え足りねえだろう……?」
新宮が禍々しい笑みを浮かべる。
瞬間九澄の背にゾクリとした悪寒が走る。
直後新宮は九澄に向かって一気に踏み込んだ。
「それじゃあちょいとギア上げていくぜ!!」
左のジャブ、いやジャブと呼ぶにはあまりにも重く、強い。その連打。
一切の予備動作無しに打ち込まれるそれらが九澄の顔面と腹を次々に叩いた。
叩いた。
叩いた。
更に左のミドルキック。
ガードの上からでも腹まで突き抜ける衝撃に九澄の顔が歪む。
(こいつ……今まで本気じゃなかったのかよ!)
明らかに攻撃の重さが一段上がっていた。
九澄がサイドに距離を取ろうと踏み込みかけた瞬間、大外からの右フックが九澄の顎を打ち抜く。
脳が揺れる感覚。全身に痺れが走り、膝から力が失われる。
倒れる。
駄目だ。
倒れない。
倒れない!
九澄は無我夢中で新宮の胴体に抱きついていた。
タックルにも似た体勢だが、ただ倒れないためにすがりついただけだ。
新宮は肘を上げて落とし九澄の背中に突き刺す。
九澄はうめき声を上げながら両腕の力を緩めない。
今突き放されれば確実にやられる。
体が回復するまで、せめてあと10秒。
九澄は自由の効かない脚で精一杯踏み込み、自分の体ごと新宮を壁に打ちつけた。
鈍い音が響き新宮が口を歪める。
だが直後に新宮は腕を九澄の首に巻き付けヘッドロックのような体勢を作り一気に力を込め絞り上げた。
首への激痛で一瞬九澄の力が弱った瞬間を逃さず、九澄を振りほどき放り投げた。
「はあっ! はあっ!」
九澄は構え直しながらも大きく呼吸を乱す。
さっきとは疲労とダメージの量がまるで違う。
それほどあの右フックの一撃は強烈だった。
(くそうどうする……このままじゃあ……)
九澄に弱気が生じたその時だった。
「こらあ!! お前らそこで何してる!!」
声の主を見ればそれはこちらに駆け寄ってくる小男、大木先生だった。
その後ろには百草先生もいる。
「無許可で魔法バトルをするなとどれほど言ったら……!
これだから生徒だけには任せておけんのだ!」
怒り心頭の大木は、しかし新宮と目が合うやギョッと顔を引きつらせた。
「お、お前は新宮……!
なんでお前がここにいる、三年生はこっちの校舎に来るなと言われているはずだ……」
新宮は戦闘モードを解き余裕の表情で肩をすくめる。
「固いこと言わんでくださいよ、去年まで通っていた校舎じゃないすか。
ていうか大先生、ますます縮んだんじゃないすか?」
「う、うるさい。お前がでかくなっただけだ……」
腰が引けている大木を見て九澄は違和感を覚える。
(なんだ? 大先生、もしかしてビビッてんのか?)
怪訝に思ったのは百草も同様のようで、大木を見下ろしながら眉をひそめている。
「あの……大木先生……」
「と、とにかく! 一年の校舎で魔法バトルなど許さんと言ってるんだ!」
「魔法は一切使ってないすよ。素手でやりあってただけっすから」
「ええいどっちでも同じだ! とっとと帰れ!!」
「へいへい、それじゃあ大先生の顔を立てておきましょうかね」
新宮は分室の入り口でずっと直立不動のまま成り行きを見ていた紀川に歩み寄る。
「つーわけだ。帰ろうぜ」
紀川は注視しなければわからないほどほんのわずかに頷き、新宮の肩に手を置いた。
「ああそうだ九澄。お前の力は認めてやる。
次にやりあうときはお互いに魔法アリ、出し惜しみはナシだぜ」
新宮は嬉しそうに笑って拳を突き出した。
二人は赤いもやに包まれ、消えた。
場にはしばらく沈黙が漂ったが、百草がそれを破って九澄に駆け寄った。
「大丈夫なの、九澄くん?」
「あ、ああ。平気だよ、センセ」
「すっげえ喧嘩だったんだぜ。プロの格闘技みて~にハイレベルな互角の攻防でよ……」
竹谷が素人丸出しのフォームでパンチやキックを再現した。
「互角……ね……」
そう呟いた九澄の膝がガクンと曲がり、床に手がついた。
顔は苦痛に歪み口からは血がにじんでいる。
「ちょっと、九澄くん?」
「平気だって……自分で保健室行くからさ」
九澄はよろよろと立ち上がり歩き出した。
全身に痛みが残り、体重が倍になったかのような感覚だった。
人の視線から外れた階段の踊場まで辿り着いたところで歩みが止まる。
大木と話している時の新宮のひょうひょうとした様子が頭をよぎった。
(あの野郎まだ余裕で力を残してやがった……。
あのまま続けていたら間違いなく……ちくしょう、聖凪にあんな奴がいたなんてな。
無駄にバケモン揃いだぜここは……)
窓の外はどんよりと雨雲が広がり、今にも降り出しそうだった。
赤く腫れ上がった拳を強く握る。
ギリギリと歯を食いしばり、知らぬ間に下を向いていた顔を前に上げる。
(強く……ならねえと……。
大会に出ようと出まいと関係ねえ。
あんな奴らがいるこの学校に居続けたいのなら……)
そしていつか本物のゴールドプレートを手にして柊の夢を叶えるために。
九澄は力強く地面を踏みしめ歩き出した。