だいじょうぶ
めがさめれば またとべる
きみは つよい鳥だから
その夜。
私は、とても不思議な風景を見たんだ。
Diddle Diddle
少し遅く帰ってきたら、有珠と草十郎が、居間で抱き合っていた。
草十郎はソファの端に片膝を付いて、折れてしまいそうなほど華奢な体を抱きとめていた。
左腕は有珠を支えて、右掌は有珠の髪に。
有珠はソファに座ったまま、草十郎の首に両腕を回して、体重を預けている。
うっすらと口を開いて、目は半ば閉じて。
窓から差し込む月光に照らされ、
ほんのかすかに震える有珠の体だけが、その風景の中で動く、すべてだった。
きれいだな、とまず思った。
壊したくない、と次に思った。
だから、そっと踵を返して、居間を出ようとした。
草十郎の顔が、こちらを向いた。
( おかえり )
と、唇だけ動いた。
私は頷きだけで返事をして、自分の部屋に向かった。
1時間も経っただろうか。
部屋のドアがノックされた。
開けてみると、コートを着た草十郎が立っていた。
「有珠は?」
「居間で寝ている。
蒼崎。有珠をお願いできるか」
「草十郎」
「ごめん。
説明したいんだが、今は時間が無い。
バイトに行かないと」
時計を見ると、もうすぐ11時になろうとしていた。
「バイトって」
「うん。
完全に遅刻だけど仕方がない。
とにかく行って、謝ってくるよ」
「…………。
分かった。行ってきなさい。
あの子なら心配ないわ。こういう時にかまうと返って怒るし」
「ありがとう、蒼崎。
じゃ、行ってくる」
草十郎は微笑むと、足早に廊下を去っていった。
次の日の午後。
私と草十郎は、学校の用事をようやく片づけ、家路についていた。
春休み真っ最中の三月末に、何が悲しくて登校しなきゃいけないんだか。
すべて顧問の山城と、隣を歩いている馬鹿が悪い。
「あ、蒼崎。
ちょっと待っててくれ」
草十郎は言うと、傍らの菓子屋に入っていった。
少しして、紙包みを手に戻ってくる。
「何?」
「桜餅。おいしいぞ。
三人で食べよう」
「―――アンタねえ。
私はともかく、有珠がそんなの食べるわけないでしょうが」
「そうか?
君にはもちろん、有珠にも意外に似合いそうだけれど」
みすまっち、と言うんだっけ、と草十郎は続ける。
「…………。
に、似合う似合わないはともかく。
紅茶で桜餅食べろって言うの?」
「む、そうか。
でも有珠、緑茶嫌いだしな」
これは困った、と肩を落とす馬鹿。
「―――はあ。
ま、大丈夫でしょ。
なんのかんの言うだろうけど、出されりゃあの子も食べるわよ」
桜餅を頬張る有珠。
正にミスマッチだわ、と考えながら。
「―――で、草十郎」
「うん。昨日のことだよな」
一旦バイトから帰ってきたら、居間で有珠が寝ていた。
少し震えているので、そっと声をかけた。
そうしたら、首に抱きついてきた。
なんだかかなしそうだったので、抱き返した。
それが、草十郎の語るすべてだった。
「……何時ころ?」
「9時くらいだったかな」
「―――アンタ、二時間もあんなことやってたの?」
無言で草十郎は頷く。
「草十郎。前に言ったわよね。
女の子にとって、寝顔を見られるのって」
「うん。
だから昨日も、そのままにしておくつもりだったんだ。
でも、震えているのを見たのは、初めてだったから」
「初めて?
アンタ、何回有珠が寝てるの見たの?」
四……いや、五回目かな、と草十郎は指を折る。
始めの二回は去年の騒動の事だとしても、3ヶ月で三回は多い。
いくら自分の陣地内でもあの子、そんなに頻繁に寝ていただろうか……?
有珠は、昨日のことを覚えていないようだった。
けど、いつもと同じはずのその表情には、
重い荷物をほんの少しだけ下ろした、
そんな軽やかな明るさがあるように、私には見えた。
「蒼崎?」
「ううん、なんでもない。
それより、今度見たときは―――」
話しながら角を曲がろうとして、出会い頭に出てきた自動車に驚く。
車は、すみませんでもなく、そのまま走り去っていった。
「なによ、こんな住宅街であのスピードって」
自分の油断を反省しながら、車影に悪態をつく。
「今の車、坂を下ってきたみたいだな」
大丈夫か?と私を心配しながら、草十郎が呟く。
「坂?白犬塚の?
どこに行ってたのかしら」
まさかうちに用があるはずもなし。
「でも、ここらへんで、あんな外国製リムジンなんて見かけないわよね」
「外国製?右ハンドルだったぞ」
「小学生か、アンタは」
「いやしかし、木乃実が
『草十郎、バッカでぇ~。《外車は左、人は右。》これ、ジョーシキだZe!?』
と」
「……なんだ、その千年杉みたいな棒読み。
はあ。
気をつけなさい、馬鹿ってうつるから。
外国車でも、その国の法律によって右ハンドルはいくらでもあるの。
たとえば―――」
――――――イギリス。
「どうした?」
「……なんでもない。
とにかく、それくらい覚えときなさい。
さ、帰るわよ」
ロビーには、有珠がたたずんでいた。
「おかえりなさい青子、静希君」
いつもとまったく変わらない表情、抑揚、立ち振る舞い。
―――変わらなさすぎる。
人がしたためるサインに、同じものが二つと無いように、
ほんのわずかな差違であれ、人の動きは日々変わるものだ。
が、今の有珠は、《私や草十郎が描く有珠像》そのものだった。
しばらくの間。
「―――年中行事?」
髪をかき上げながら尋ねる。
「ええ。
最近来なかったから諦めたのかと思っていたけれど。
予想以上に懲りない人ね」
明日の天候でも予想するように、淡々と有珠が言う。
「しばらく、自室に籠もるから。
夕食は二人で済ませて」
言い残し、有珠がゆっくりと階段を上っていく。
「有珠、大丈夫か?」
その背に、草十郎は声をかけた。
有珠は一瞬足を止め、それからゆっくり振り向く。
「なんのこと?」
「いや、なんとなくだけれど。
君は今、とても悲しそうに見える」
「 ――― 」
有珠が、厭わしげに眉を寄せる。
あの日にも感じただろう、魔術師にとって最も煩わしい、
からみつく茨のような、振りほどこうとしてほどけない感情
―――好意。
「……別になにも無いわ。
静希君の気のせい」
そう言い、ふたたび背を向けようとして、
「そうか、よかった。
でも、なにかあったら言ってくれ。
君の役に立ちたい」
草十郎の微笑みに、動きが止まる。
純粋すぎる好意。
『好きな人の役に立ちたい』
そんな、真っ正面からの感情に、有珠の顔は嫌悪に歪み―――
「 …………っ 」
歪みきる直前、別のなにかに変化した。
顔を背け、今度こそゆっくりと階段を上っていく。
「―――静希君」
二階の廊下に消えようとする直前、声だけが降ってきた。
「ありがとう」
そのまま去っていく靴音。
「……ナイス」
私は、草十郎の背中を叩く。
「蒼崎?」
「わからなくていいの。
さ、草十郎。とりあえずお茶お願い。
あの桜餅はアンタが……」
言いかけて、ちょっと微笑み、
「私が、有珠のとこ持ってくから。
やっぱ、桜餅には緑茶よね」
お情けをかけられるなんて、冗談じゃない。
自分の翼を持つ者にとって、それはこの上ない侮辱だ。
でも、
だいじょうぶ
めがさめれば またとべる
きみは つよい鳥だから
どんな翼でも、疲れ傷つくことはある。
そんなとき、羽根を休めてもいい場所があるとしたら、
それは―――
魔女がおそらく初めて目の前にする、和菓子と緑茶。
あの子は、どんな顔をするだろう?
〈 了 〉
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(筆者から)
他の方々のホームページ等に、
「久遠寺有珠の両親は他界」
などの記述を見つけました。
しかし、『魔法使いの夜』番外編で、
「(久遠寺邸には)彼女の父親でさえ滅多に入れないんでしょう?」
という発言があったこと、
また本編で見せた、有珠の、久遠寺グループに対する反感などから、
本SSでは
『有珠の父は存命、有珠とは不和』
の立場をとりました。
ご了承ください。