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No.32711の一覧
[0] 機動戦士ガンダム0086 StarDust Cradle ‐ Ver.arcadia ‐ 連載終了[廣瀬 雀吉](2023/07/03 19:06)
[1] Prologue[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:00)
[2] Brocade[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:01)
[3] Ephemera[廣瀬 雀吉](2012/05/06 06:23)
[4] Truth[廣瀬 雀吉](2012/05/09 14:24)
[5] Oakly[廣瀬 雀吉](2012/05/12 02:50)
[6] The Magnificent Seven[廣瀬 雀吉](2012/05/26 18:02)
[7] Unless a kernel of wheat is planted in the soil [廣瀬 雀吉](2012/06/09 07:02)
[8] Artificial or not[廣瀬 雀吉](2012/06/20 19:13)
[9] Astarte & Warlock[廣瀬 雀吉](2012/08/02 20:47)
[10] Reflection[廣瀬 雀吉](2012/08/04 16:39)
[11] Mother Goose[廣瀬 雀吉](2012/09/07 22:53)
[12] Torukia[廣瀬 雀吉](2012/10/06 21:31)
[13] Disk[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:30)
[14] Scars[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:32)
[15] Disclosure[廣瀬 雀吉](2012/11/24 23:08)
[16] Missing[廣瀬 雀吉](2013/01/27 11:57)
[17] Missing - linkⅠ[廣瀬 雀吉](2013/01/28 18:05)
[18] Missing - linkⅡ[廣瀬 雀吉](2013/02/20 23:50)
[19] Missing - linkⅢ[廣瀬 雀吉](2013/03/21 22:43)
[20] Realize[廣瀬 雀吉](2013/04/18 23:38)
[21] Missing you[廣瀬 雀吉](2013/05/03 00:34)
[22] The Stranger[廣瀬 雀吉](2013/05/18 18:21)
[23] Salinas[廣瀬 雀吉](2013/06/05 20:31)
[24] Nemesis[廣瀬 雀吉](2013/06/22 23:34)
[25] Expose[廣瀬 雀吉](2013/08/05 13:34)
[26] No way[廣瀬 雀吉](2013/08/25 23:16)
[27] Prodrome[廣瀬 雀吉](2013/10/24 22:37)
[28] friends[廣瀬 雀吉](2014/03/10 20:57)
[29] Versus[廣瀬 雀吉](2014/11/13 19:01)
[30] keep on, keepin' on[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:50)
[31] PAN PAN PAN[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:25)
[32] On your mark[廣瀬 雀吉](2015/08/11 22:03)
[33] Laplace's demon[廣瀬 雀吉](2016/01/25 05:38)
[34] Welcome[廣瀬 雀吉](2020/08/31 05:56)
[35] To the nightmare[廣瀬 雀吉](2020/09/15 20:32)
[36] Vigilante[廣瀬 雀吉](2020/09/27 20:09)
[37] Breakthrough[廣瀬 雀吉](2020/10/04 19:20)
[38] yes[廣瀬 雀吉](2020/10/17 22:19)
[39] Strength[廣瀬 雀吉](2020/10/22 19:16)
[40] Awakening[廣瀬 雀吉](2020/11/04 19:29)
[41] Encounter[廣瀬 雀吉](2020/11/28 19:43)
[42] Period[廣瀬 雀吉](2020/12/23 06:01)
[43] Clue[廣瀬 雀吉](2021/01/07 21:17)
[44] Boy meets Girl[廣瀬 雀吉](2021/02/01 16:24)
[45] get the regret over[廣瀬 雀吉](2021/02/22 22:58)
[46] Distance[廣瀬 雀吉](2021/03/01 21:24)
[47] ZERO GRAVITY[廣瀬 雀吉](2021/04/17 18:03)
[48] Lynx[廣瀬 雀吉](2021/05/04 20:07)
[49] Determination[廣瀬 雀吉](2021/06/16 05:54)
[50] Answer[廣瀬 雀吉](2021/06/30 21:35)
[51] Assemble[廣瀬 雀吉](2021/07/23 10:48)
[52] Nightglow[廣瀬 雀吉](2021/09/14 07:04)
[53] Moon Halo[廣瀬 雀吉](2021/10/08 21:52)
[54] Dance little Baby[廣瀬 雀吉](2022/02/15 17:07)
[55] Godspeed[廣瀬 雀吉](2022/04/16 21:09)
[56] Game Changers[廣瀬 雀吉](2022/06/19 23:44)
[57] Pay back[廣瀬 雀吉](2022/08/25 20:06)
[58] Trigger[廣瀬 雀吉](2022/10/07 00:09)
[59] fallin' down[廣瀬 雀吉](2022/10/25 23:39)
[60] last resort[廣瀬 雀吉](2022/11/11 00:02)
[61] a minute[廣瀬 雀吉](2023/01/16 00:00)
[62] one shot one kill[廣瀬 雀吉](2023/01/22 00:44)
[63] Reviver[廣瀬 雀吉](2023/02/18 12:57)
[64] Crushers[廣瀬 雀吉](2023/03/31 22:11)
[65] This is what I can do[廣瀬 雀吉](2023/05/01 16:09)
[66] Ark Song[廣瀬 雀吉](2023/05/14 21:53)
[67] Men of Destiny[廣瀬 雀吉](2023/06/11 01:10)
[68] Calling to the night[廣瀬 雀吉](2023/06/18 01:03)
[69] Broken Night[廣瀬 雀吉](2023/06/30 01:40)
[70] intermission[廣瀬 雀吉](2023/07/03 19:04)
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[32711] Unless a kernel of wheat is planted in the soil
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:b090dcee 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/06/09 07:02
 どこまでも続くその青い空を霞ませる太陽の輝きは嘗て宇宙と言う名の航路を照らし続けた巨大な灯台だ。地球を取り巻く膜の様な大気を貫いて燦々と降り注ぐその光は、熱を伴って広大な大地を温める。
 地平線まで続く金色の野にただ一人、コウは無心で麦の並びに体を屈めて根元に生えた草を追う。幅広の麦わらのつばが作り出す影を追う様に手を伸ばして、ひげ根も揃わない小さな芽を一つ一つ丹念に摘まみ取る。足元に籠もる熱気がコウの体中から汗を導き、しかしオークリーの乾燥した気候は彼の羽織った上着が濡れる前にその水分を奪い取る。喉の渇きを覚えたコウが体を起して、腰にぶら下げたガラス瓶を手にとって口に当てた。
 ごくりと飲み込むその水はほんの少しの冷たさと、舌の奥に苦みを残して喉を伝う。畑に必要な水は何箇所かに掘られた井戸から供給されるのだが、それが天然の伏流水であると言う事をコウは農夫仲間から教えられた。人工的な物が殆ど焼き払われた土地であるが故に得る事の出来た天然の恵みに舌鼓を打ちながら、コウは収穫を迎えようとする広大な麦畑を仰いだ。
 軽い眩暈と筋肉痛が立ち上る陽炎と相まってコウの視界を揺らめかせる、しかしその瞬間にコウは自分が生きていると言う事を教わった。モビルスーツを操縦していたあの頃とは違う穏やかな充足感は自然とその表情を綻ばせ、真上から差し込む日の光が影を奪って全てを浮き立たせる。外敵からその実りを守る為に突き上げられた麦の穂先一本一本が天に鏤められた星よりも鮮やかに、キラキラと光を放ってコウの心と目を奪った。

 見えない筈の境界が音となってコウの耳に届く。緩やかに吹く風が乾いた麦の穂を鳴らした。
 光の揺らめきはさざ波の様にコウの元へと押し寄せる、まるで振鈴の様な音を奏でる畑のうねりがコウの身体を包み込んだ。言葉では表現しがたい不協和の音色は無数の麦の実が奏でる生命の声だと思う、揺らぎに満ちた世界に心と体を委ねて我を忘れていたその時、その音色に負けないほど涼やかな声がコウの意識に囁きかけた。
「 ―― 素敵な、音色ですね」
 恐らくその協奏曲の壮大さに心を奪われてしまったのだろう、まるで息継ぎを挟むかのように声を詰まらせたその声の主へとコウは振り返った。畑の畦道に一人佇んで、靡く翠の髪を首筋で押えながらにっこりと微笑む女性はコウの顔を眺めながら口を開いた。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃったかしら」
「いえ、そんな。 …… セシルさんもどうしてこんな所まで? 」
 コウの他に畑に人がいないのには訳があった。殆どの農夫は日中の日差しを嫌って早朝から作業に勤しむ、コウも同じ時間には畑に出るのだが、自分の手で麦を育てているコウは機械を駆使する他の者に比べて作業時間が長くなる。最も日差しの強い昼時になると作業を終えた他の者がいなくなって、この時間はコウ一人が作業を続ける事になるのだ。恐らくは今日一日誰も訪れる事のない場所へとわざわざ足を運んで来た組合長の細君に向かってコウが疑問符を投げかけるのは当然の事だった。
「どうしてと言う事もないのだけれど、丁度通りかかったらウラキさんが仕事をしている姿が見えて。機械の手を借りずに麦を育てるウラキさんの背中を眺めてると、ほんとはこうやって植物を育てていくんだなあって」
 小首を傾げてにっこりと笑いながら語るセシルの顔を眺めながらコウもつられて笑顔を浮かべた。人と触れ合う事を極端に避けるコウにとっての例外がセシルと、夫であるヘンケンの二人だった。何かと押しかけては世話を焼くヘンケンはともかくとして、いつもニコニコと微笑みながら妻としての仕事をこなすセシルにコウは頭が上がらない。
 一人やもめの自分がこれと言った大きな病も患わずに作業に従事できるのもセシルのお陰だ。お節介にならない程度に気を配るセシルの気遣いに感謝こそすれ煩わしいと思う事など罰当たりな発想だとコウは思う。
「それにしても」
 セシルはコウから視線を逸らして背後に広がる麦畑に目をやった。コウの畑の区画は二百メートル四方の小さな一区画だが、そこから伸び上がる麦の穂の高さと大きさは抜きん出ている。周囲で大きく揺れる金色のさざ波に見とれながらセシルは感嘆の声を上げた。
「よくここまで育て上げましたね。ハード・レッド・ウィンター種(硬質小麦。パンの原料に最適。育成が難しく品質にばらつきが出易い。冬蒔き)はとても育てるのが難しい品種なのに」
「いえ、それも俺一人じゃ。ヘンケンさんや他の仲間のお陰です、みんなの知識がなければ此処まで綺麗に育てる事なんて」
 それは本心だった。困難であるが故に一粒の充実したその品種を選んだ時、ヘンケンや組合の仲間は口々に思い止まらせようとした。しかしコウの決意が固いと見るや、彼らはコウの遣り方に合った肥料や作業方法 ―― それこそ種蒔きの時期や間引きのタイミングに至るまで ―― を調べて教えてくれたのだ。自分の我儘にこれ程までに真摯に向き合ってくれた仲間に対して敢えて距離を置かねばならない自分の境遇を、コウは心密かに悔やんでいた。
 忸怩たる思いを心に秘めて目を伏せるコウに向かって、セシルは心の内を見透かした様に言った。
「それもウラキさんの人柄の賜物ですよ。どんなに貴方がみんなから距離を置こうとしても、貴方の育てたこの麦達が貴方の人柄を証明しています。みんなもそれが分かっているからこそ貴方に力を貸したのだから、もっと自信を持って」

 励ますセシルの姿をじっと見つめながらコウはそっと麦わら帽子に手を遣って、セシルの視線から自分の表情を隠す為につばを降ろした。セシルの語る一言一言がまるで牧師の語る説話の様にコウの心へと突き刺さる。自分の犯した罪を懺悔する咎人はそうして救いを求めてしまうのだとコウは自分の心へと呟いた。
 だが血塗れになった手とその背に背負う罪の重さがセシルの赦しを遠ざける、そうする事でしか自分の罪は償う事が出来ないのだとコウは信じていた。アイボリーのチノパンに七分袖のカットソーを纏った女神はコウの瞑い心を光で苛みながら、変わらぬ笑顔でその姿をながめている。
「そ、そう言えばヘンケンさんは? てっきり一緒にいらっしゃる物だと」
 ばつが悪くなって精一杯話題を変えるコウ。目の前のつばの影から姿の見えないセシルが、その問い掛けに申し訳なさそうな声で答えた。
「ごめんなさい、本当は今日ウラキさんの畑を一緒に見に来る予定だったのだけれど急に基地の方から話し合いの連絡が舞い込んで来てしまって」
「基地? 」
 この辺りで『基地』と言えばオークリーしかない、しかしコウは無意識にその固有名を口に出す事を躊躇った。小さな痛みが胸の奥に湧き上がってコウの表情を曇らせる。
「この所、取引市場で小麦の価格が上がっているでしょう? うちの組合でもその勢いに乗って買い取り金額を上げて貰う様いろんな所に働きかけているのだけれど、基地へ納入する商品だけは半年前の価格で未だに取引されているの。先月の頭から基地の兵站部に価格の見直しを要求していたのが急遽今日になって会合を持つ事が決まってしまって。でもあの人大喜びで出かけて言ったわ、『今度こそこちらの条件を無条件に飲ませてやる』とか言って」
 肩を怒らせて玄関を飛び出すヘンケンの出で立ちが目に見える様だ。彫の深い顔立ちに髭を丹念に整えたヘンケンのその時の表情を想像しながら、コウはつばの影で曇らせていた顔を崩して思わず笑った。
「あの人もみんなの生活を守ろうと一生懸命なの。幾ら政府の打ち出した振興策とは言ってもいつまでも補助が続く物でもないだろうし、来年の予算ではまた軍備にその比重が掛かる事が予想されているから実入りはもっと少なくなる。此処で収穫できる作物の取引だけでみんなが生活出来るだけのお金を確保する為にはどうしても基地との取引が重要になるから、契約の見直しは必須条件だわ」
 その口調の強さが物語るのは、それがセシルも同じ考えであると言う事だ。違う場所で生まれた二人が同じ世界で同じ方向を見つめる事が可能であると言う事実は大きな羨望と小さな後悔をコウの心へと蘇らせた。
 ヘンケン家に於ける実務の全ては自分の目の前で静かに微笑むこの女性の手に掛かっている事は、何度かの訪問によってコウ自身もよく知っている、髭そりの場所すら分からないヘンケンを文句の一つも言わずに支え続ける彼女の伴侶としての在り方は、嘗ての自分が夢見て、そして零してしまった過去の幻。
 不意にその笑顔が瞼の裏に浮かんでは、突然の痛みと共に掻き消されていく。吸い込まれてしまいそうな蒼い瞳と飾り立てる様な金色の髪。
 ニナ、君はどうして ―― 

 パン、と言う小さな音がコウの目の前から過去を追いだした。驚いたコウが帽子のつばから目を覗かせると、柏手を打ったセシルは何かを思い出した様な顔でコウの顔を見つめている。
「そうそう、そう言えば私ウラキさんにお会いしたらどうしてもお伺いしたい事があったの。いつもお顔を見ると忘れてしまって後回しになってたんだけど」
「俺に、ですか? 」
 セシルから受ける質問の内容を想像しながら、予め用意してあった回答を頭の中に羅列するコウ。自分の過去や身の上についての質問には一切答える事が出来ない、その事が後々どんな危険を及ぼすか見当もつかないからだ。基地を離れて予備役へと編入された事については言い及ぶ事が出来るかもしれないが、その際に軍から提示された新たな条件については話す事は出来ない。
 自分をがんじがらめに縛り付ける様々な制約に内心辟易しながら、コウはセシルの言葉を待つ。セシルはそんなコウの思惑をどこ知らぬ顔で、無邪気に笑いながら尋ねた。
「ウラキさんは何故麦を選んだの? 」
「 …… 俺が、麦を選んだ、理由ですか? 」
 誰にも語らない身の上の事に関しての事だろうと身構えていたコウは肩透かしの様なその質問に呆気に取られた。
「そう。だってここに来た人の殆どは取り敢えず荒れた土地でも手っ取り早く育てる事の出来るお芋やソバを選ぶのに、ウラキさんはいきなり麦って言い出すんですもの。 ―― 主人も驚いてたわ、こんな所でいきなり時間と手間の掛かる麦を選ぶ奴は端から補助金目当てに来た食い詰め軍人か、そういう趣味のある奴に違いない、って。 …… 今だから正直に言うけど私もあまりウラキさんの選択には賛成は出来なかったの、此処での穀物の栽培はうちの主人を見て知っているから。なのにこんなに荒れた土地を機械も使わずにたった二年足らずでこんな立派な畑に仕上げるなんて、並大抵の努力じゃ出来ないわ。 …… ねえ、ウラキさん。貴方はどうして麦を選んだの? 」

 拘禁を解かれて転属命令書を片手にオークリーへと到着するまでに五日を費やした。軍人として優遇される筈の移動手段を使用する事すら許されず、戦争の傷跡を色濃く残す貧粗な民間の交通手段を利用して辿り着いたコウを待っていた物はアイランド・イーズが齎した惨状が築き上げた大地だった。
 実りを遂げる事無く枯れ果てた麦畑に分け入ったコウは萎れた麦の穂を手の中に、それは力を加えなくても容易く千切れて掌へと収まってしまった。重みの無い残骸を目に焼きつけながら、コウはそれが自分とガトーが手にした成果の果てだと思い知る。
 その一握の麦の穂が、コウに向かって語る、何か。
 拘置所内に置かれた礼拝施設に常備された各宗教の教典、ムスリムやカトリック、ユダヤや仏門に至るまでのありとあらゆる言葉で翻訳されたその中の一冊をコウは偶然手に取った。朽ちかけた背表紙に文字の欠片を滲ませて、隠れる様にひっそりと立てかけられていたそれをコウは、まるで救いを求めるかのように貪り読んだ事を昨日の事の様に思いだした。

「 …… 一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。おのが生命を愛する者は、これを失い、この世にてその生命を憎む者は、これを保ちて永遠の生命に至るべし ―― 」
 
 コウの声と共に吹き渡る一陣の風が、野に立つ二人の世界を音で埋め尽くす。千切れて飛ぶ言葉は風の調べに溶け込んだまま、霞む蒼穹を目指して緩やかに舞い上がる。やがて空気が流れと音を止め、元の静寂と風景を取り戻す刹那を待たずにセシルの口が開いた。
「その言葉は? 」
「昔読んだ聖書に書かれてあった一節です。麦と言う植物を通じて人の生き死にの意義を説いた言葉だとは思うんですが、意味までは。ただこの土地で俺が物を作るのだとしたら麦しかないと、最初から決めてたんです」
「その言葉の意味を知る為に? 」
 セシルの問い掛けにコウは黙って小さく頷いた。他の誰にも語る事の出来ないあの時の気持ち、掌の上で無残に砕けたあの麦の穂をこの手で蘇らせる事が出来たのならば自分の中の何かが変わるのだろうかと思い、そしてガトーと自分が立つ世界の差の謎を知りたいと望む。
 自分の犯した罪の贖罪と言うにはちっぽけな物なのかも知れない、しかしそれでも何もせずにただ苛まれるだけの日々を暮らすには、自分の今は辛すぎる。
 穏やかではあるがほんの僅かな憐憫を纏ったセシルの濃紺の瞳がコウを見つめている。湖の様に透き通るその深さに自分が飲み込まれてしまわない様に、コウはそっと目を伏せた。

「そろそろ行かなくちゃ」
 唐突に告げたセシルの言葉にコウは再び視線を上げた。目の前に立つセシルは一度ニコリと笑顔を浮かべた後に顔を南の地平へと向ける、天頂から降り注ぐ日差しを受けて光り輝くオベリスクを目を細めて眺めながら言った。
「ごめんなさいねウラキさん、お仕事中にお話ししちゃって。帰りに主人ともう一度ここに寄るから、その時には主人の話し相手になってあげて」
「帰り、ですか。これからどこまで? 」
 帰りと言う事はどこかへ出かけると言う事なのだが、ヘンケンと一緒にもう一度立ち寄るとはどういう意味なのか。彼は今基地に出向いていて話し合いの真っ最中、そしてここから基地の間には集落どころか民家らしい物すら存在しないと言うのに。
 待ち合わせる場所も思い当たらず訝しげに尋ねるコウに向かってセシルはいかにも当然と言わんばかりにあっさりと答えた。
「基地まで行くの」
「え …… ? 」
 驚いたコウは思わず辺りを見回してそれらしき車の影を探した。ここからオークリー基地まではオベリスクを挟んで直線距離で四十キロ、遥か地平線の向こうになる。車無しで辿り着ける距離では無い、しかしセシルが近寄って来た事に気付かなかったという事はよっぽど遠くに車を止めてあると言う事なのか?
 しかしコウの視界に入って来た物は遠くに見える車の影では無く、ほんのすぐ先の畦道の間に置かれた自転車の影だった。それも長い距離を走る為に作られた仕様の物では無く、セシルが近所を行き来するのによく使う町乗り用の小さな物だ。驚くコウの表情を見留めたセシルが不思議そうに小首を傾げてコウに尋ねた。
「? どうして? 何か変かしら」
「ま、まさかセシルさん、アレで基地まで行くつもりなんですか? 」
「だって、ここから基地まで四十キロくらいでしょう? 陸上の選手だって三時間もあれば走り切るんだから自転車だったらもっと早く辿り着くでしょ、うん大丈夫」
 胸を張ってそう言い切るセシルをしげしげと眺めながら、コウは彼女の美徳とも言える天然さに心の中で頭を下げた。万事物事を卒無くこなす様でいながら、こういう所の発想の甘さは実にチャーミングだと思う。
「残念だけど、セシルさんの自転車よりも彼らの方がもっと早く走りますよ。それにそれじゃあ基地で待たされるヘンケンさんが可哀そうだ。 …… 分かりました」
 ほんの一瞬だが見えない葛藤がコウの心を締めつけた。自分がそこへ行く事の危険性を誰よりも理解しているのは、予備役として誓約書にサインをした自分自身。しかし今のコウを支配しているのは純粋に隣人に対しての心配りでしか無かった。オークリーに行った所で見知った顔に出逢わなければ、誓約条項を破った事にはならないだろう。
 行って、戻ってくるだけなら。

「俺のバイクで良ければ基地まで送って行きます。少しここで待ってて貰えますか? 」
 コウはそう言うと麦の並びを掻き分けながら畦道へと進んだ。仕事の手を止めてまで自分の為に動こうとするコウに向かってセシルは困惑した表情を浮かべた。
「え、でもまだお手入れの途中なんじゃないの? そんな、お仕事の手を休めてまで ―― 」
「いいんです、もう大体終わりましたから。それにこいつの ―― 」
 コウが畑の段差に足を掛けると、そのすぐ脇に立つ麦の影から黒い影が顔を覗かせた。エボニーはコウに先んじて畦道へと駆け上がると優しい隣人に向かって円らな瞳を持ち上げて一声鳴く、しゃがみ込んで差し出されたセシルの手に顎を擦り付けると目を細めて喉を鳴らした。
「あら、エボニー。ご主人様のお手伝いしてたんだ? 」
「こいつの餌もやらなきゃいけないンで、ついでです」
 そう言うとコウはエボニーと肩を並べてセシルの脇をすり抜けた。追いかけるセシルの視線の先でコウは自転車に手を掛けて、既にスタンドを倒している。コウから差し向けられた好意に困惑した顔を収めて、笑顔を浮かべたセシルが遠ざかろうとするコウへと声を掛けた。
「じゃあ、私はここで待ってますから。もうちょっとここの景色も眺めていたいし」
 背中に掛かるセシルの声に小さく右手だけを上げたコウが、セシルの自転車と小さな同居人の影と共に遠ざかる。セシルは少しの間その後ろ姿を見送ると、踵を返して再び目の前に広がる金色の麦畑へと向き合った。
 景色を眺める為では無かった。
 眉間に小さな皺を寄せて何かへと想いを馳せる深刻な表情は、コウが知るセシルの物では無い。静かに目を閉じた後に小さく首を振って何かを否定するセシルの前を、再び金の波が風の輪郭を象って通り過ぎた。
 
 
 薄暗い部屋に置かれた15インチのモニターは四角形のカーソルを点滅させたまま、次の文字の入力を待っている。もう既に数多くの文字をそこに刻んで久しい筈なのだが、未だに対象となる人物達の会話が途切れる事は無いらしい。AとBと言う無機質な記号で区分された二人の人物の会話は全ての記録が終了した後に、自動的に本隊であるキャリフォルニアベースのメインサーバーへ転送される事になっている。盗聴の片棒を担ぐオークリーの電算機は暫しの中休みにも似た沈黙にその記録を中断していたが、電気信号として流れ込んで来た言葉の奔流に驚いた様に作業を再開した。
 カーソルが文字を刻んで矢の様にモニター上を駆け抜ける。
” だから、小麦の値段が上がってるんだって何度言やあ解るんですか。他の所の取引価格が上がってうちだけそのままじゃあこっちだって割に合わんでしょうが ”
 コンピューターに言葉の抑揚や感情を表す表現など存在しない。ただ手元へと届く単語を解析してメモリへと記録するだけの作業を延々と続けるだけだ。だが声紋分析によって違う人物の声が発した言葉だと認識した瞬間に、点滅するカーソルは改行した。
” いや組合長。君の言う事ももっともだが、主食の値段を上げるというのは基地の予算的にもちょっと ”
 文字の走る早さから、意見を交わしている二人の人物の感情は徐々に昂りを見せている事が分かる。もっともそれを監視する人物が存在しない以上、機械にそれを判断する事は出来ない。再び改行。
” 予算 そんな物軍なんだから幾らでも理由は付けられるでしょうに。モビルスーツの予備部品一つ余分に水増しして請求するだけで、どれだけの農家が助かる事か。こっちは連邦の政策の一環としてあの荒地を耕してるんですよ。それに陸の孤島みたいなこの基地へうちが品物を納入しなくなったら、司令は兵站部に対してどう責任を取るつもりですか ”
 会話を監視するメインコンピューターが犯罪の可能性を匂わせる文言に対して下線を引いて、警戒の為の点滅をその部分へと走らせた。『水増しして請求』と言う要求に対して基地側がどういう風な対応を取るかで監視員の行動は決定する。メインコンピューターが直ちにその文章を転送して軍警察の出動を要請すると、軍の金を横領しようと画策した哀れな犯罪者は確固たる証拠と共に拘束されると言う仕組みだ。確かにジャミトフの考えた内部告発システムは一時期蔓延していた軍の不正を暴き出す事には成功したが、常時監視を受けていると言うその風潮を歓迎する基地などどこにも無い。不正を全く行った事のない基地であればあるほど、である。
” 君、私を脅す積もりかね。仮にも過去に軍に在籍した者が、その言い草はなんだ ”
 その文言が記録された瞬間に前の男が放った会話の一部分に引かれた下線が消えて、点滅が終了した。犯罪の誘因に対して抵抗したと言う事実が記録されたメモリは判断を下すメインコンピューターと共に、再びその後に続くであろう小競り合いへとその耳を研ぎ澄ませた。

「 …… 全く」
 ぽつりと呟いたヘンケンが銜えた煙草に火を点けた。すかさずテーブルを挟んだ反対側に座る初老の男が小さく笑いながら、クリスタルの灰皿を手で勧める。肩章に二つ星を刻んだその男は代わりにヘンケンから勧められた煙草を小さく手で制して苦笑いを浮かべた。
「何だ、止めたのか。煙草」
「今時流行りませんよ。それにドクがうるさくて。お陰で太りましたけどね」
 それほど飛び出している様にも見えない腹を叩きながらウェブナーは笑った。ヘンケンは一口煙草を吸い込むと、振り向きざまに壁に掛けてある大きな絵画に向かって紫煙を吹きかける。表面に張り付けられた小指大ほどの大きさのICレコーダーは漂う煙の真ん中で未だにヘンケンとウェブナーの小競り合いを垂れ流し続けていた。
「ここまで猜疑心が強いとその内ティターンズ内部でも反勢力が生まれかねんぞ。まあ俺達の立場としては是非ともそうあって欲しいもんだが」
「奴にとって『軍』とは『ついて来る物』ではなく『従える物』なんでしょうな、現場知らずの文官上がりにはよくある傾向です。理想と現実が同じ物だと思い込む、厄介な持病とでも考えれば」
 言い含める様なウェブナーの物言いにヘンケンは小さく鼻を鳴らして抗議した。ヘンケン自身は別にティターンズと言う存在を憎んでいるのではない、ただその主義を利用して再び勢力を拡大しようと言う不届きな輩が嫌いなだけなのだ。そう言う連中が大勢の将兵を戦場へと誘い、枯らせる様に殺していく様を彼は一年戦争の前から知っている。
「だがその持病持ちが率いている『ティターンズ』が今や連邦軍の主力となりつつある。奴の抱える理想は現実への道を歩み始めた。 …… このまま行ったら『軍閥政治』どころか『恐怖政治』に成りかねんぞ。そんな物の為に何人の人間が死ぬ事か」
 嫌悪を込めて吐き捨てたヘンケンが手の中の煙草を灰皿で揉み消した。名残惜しそうに棚引く紫煙がゆっくりと二人の間を通り抜けて上へと舞い上がる、その先端が天井に到達しようかという時に突然ドアのノブが大きく回った。建て付けの悪さを物語る様に軋みながら開いたドアの影から室内へと足を踏み入れた小柄な老人は、小脇に抱えたファイルの束で大きく空気を掻きまわしながら、ヘンケンを睨みつけた。
「また軍の施設内で煙草を吸いおって。何人の人間が死ぬかを思案する前に自分の体を心配したらどうじゃ? 」
「なんだ、聞いてたのか。ドク」
 肩越しに投げつけられた毒舌に苦笑いを浮かべて片手を上げるヘンケンの脇を通り抜けたその老人は、ウェブナーの隣にどっかと腰を降ろすなり、再びヘンケンの顔を真正面から睨みつけた。
「いずれお前さんの定期健診の結果を改ざんしてセシルに見せてやろうと思っとるわい、なんなら肺の所を真っ黒に塗り潰そうかともな。何時までたっても宇宙での悪癖が直らんのじゃったらそれ位の事は許されるじゃろう。」
 ヘンケンの組合に属する農夫にしても、健康診断を受ける為の一番近い公共施設はここ、オークリーしかない。医に従事する者の発言とは思えない暴挙に目もくれずにヘンケンは笑った。
「勘弁してくれよドク。『スルガ』からの長い付き合いじゃねえか。」
 そう言うと再び煙草の箱を取り上げて上蓋を開く。真黒なパッケージに金のアルファベットが三つ重なる健康の敵を、まるで親の敵の様な眼で見つめる老人の目に気付いたヘンケンはその中の一本を抜き取ろうとする指を止めた。
「 ―― わかった、分かったよ。明日からはドクの言いつけを守って本数を減らす様に努力はする。だから今日だけは勘弁してくれ、な? 」
「努力『は』する、じゃと? 」
 ヘンケンの物言いに大きな目をぎょろりと剥いて眉を顰める老人は、まるで子供の嘘を片っ端から見抜いた教師の様に小さく鼻白んで毒づいた。
「出来もせん約束なんぞに興味なんかこれっぽっちも無いわい、なんじゃ、年寄りの戯言じゃと馬鹿にしくさって」

 ヘンケンの口から再び紫煙が撒き散らされる、しかしヘンケンもさすがに老人にそこまで言われては気にしない訳にも行かず、出来るだけ部屋の上へと煙が行く様に顎を少し上げて煙を吐き出した。そこまでして吸いたいのか、やれやれと言った表情でその仕草を眺めていたウェブナーは苦虫を噛み潰した老人とは別の、深刻な表情で会話の口火を切った。
「穀物相場の取引金額の上昇、ですか。数値だけを見れば確かに異常な伸びを見せている …… これだけ値動きが大きいとやはりどこかの組織なり機関が買い占めに走っていると考える方が妥当でしょうな」
 ヘンケンから手渡されたチャート表を一瞥したウェブナーはその折れ線グラフを分析する。右肩上がりになったそれは確かにこの半年の間に商社間での取引が増大している事を示していた。人口が少なくなった地球上で大した復興策も無く推移する現状を考えると、これは確かに異常な事態だと言える。
 どこかに消えている大量の穀物の行方を組織や機関と限定したウェブナーの顔をちらりと見ながら、ヘンケンは言った。
「確証はない、ただここの所の香港(香港先物取引市場)やドバイ(産油国価格協議委員会)も同じ様な形を描きつつある、軍需に関する商品だけが伸びてるって寸法だ。出所を分散させてファンド連中の投資にも見えなくもないが、それにしては特定商品だけに限定され過ぎているし、余りに大掛かりで節操がない」
「では、やはりこれは巨大な資金を背景にした組織と仮定した方が良さそうですかな? …… 例えば『連邦軍内部の一勢力』とか? 」
 不特定の表現で敢えてその存在を浮き彫りにしようとするウェブナーの慎重さに、ヘンケンは満足して笑った。確かに確たる証拠もない以上ここで『ティターンズ』の名を上げる事は不穏当だ、現実に即した的確な表現で事態を言い表すウェブナーをヘンケンは信頼している。
「お前がその事実を掴んでない以上、そう考える方が妥当だろう。備蓄が十分な所へ加えられる余剰な物資、これは明らかに国家機関による『備蓄準備』のプロセスを踏んでいる。それにルオの所にも軍から打診があったと言う事実も見逃せない、アジア地域の商取引の独占権をちらつかされてな」
「それで、あ奴はその話に乗ったのか? 」
 口を挟んだのは老人だった。ウェブナーの表情が伝染した様な深刻な顔は見た目以上に強面だ、だがヘンケンは小さく頭を振ってその杞憂を否定した。
「奴は華僑だ。ルオにとって国家は最も信用の出来ない連中らしい、「あんたらの手は借りなくても十分このままやっていける」と言い返して電話を叩き切ったんだと。ま、少し商売はし辛くなったとはぼやいていたが」
 いかにも奴らしい、と老人は呟いて背凭れに体を預けて呟く。天井の模様を眺める様にぼんやりとした彼から、再び問題定義が二人に齎された。
「となると、相手はどこじゃ? 今の状況ではアクシズしか対抗出来る勢力は無さそうなんじゃが」
「そうとも限らん。いかにも与し易しと見せかけてもっと別の狙いがあるのかの知れん。第一張本人のジャミトフは元財務局次官だ、数値に関する戦略には一日の長がある。あからさまに動きを起こす事で俺達の様な反勢力を焦らせて燻り出しに掛かっているのかも知れん、となれば、この動き自体が罠と言う事も考えられる」
「姑息な事を。そんな事で物価を上げられたんじゃ生き残った地球の連中はたまったもんじゃない」
 困窮する人々の生活をただ一人肌で知る老人はそのやり口の汚さに思わず毒づく。薬品の調達は軍需品に含まれてない事が多い故に、近隣の病院までヘリを飛ばして調達に向かうと言うのがその老人の月に一回の外出理由だった。向かった先の病院で満足に治療費も支払えない患者が、何の処置も施されずに ―― 勿論当人はその事を知らない ―― 飲み薬だけで追い返されると言う様を何度も老人は目にしていた。しかしその事が病院側の責であるとは老人は思わない、病院側とて政府の打ち出した医療保険の減額制度によってその経営を圧迫され始めていたからだ。

「もし、これの大本を『ティターンズ』の連中がやっているとして ―― 」
 ここでヘンケンははっきりと敵の姿について言及した。意外な顔をしてヘンケンの顔を眺める二人に向かってヘンケンは言葉を続けた。
「 ―― その資産規模の割に買い占め量が少なすぎるとは思わんか? 連邦政府の中枢に食い込んでいる連中だ、もし本気で戦争を始める気ならもっと大掛かりに大手を振って買い占めに走る様な気がするんだが。例えば俺達の畑を土地ごと買い占める位、派手に」
 自分の組合が算出する農作物の収穫量は、全体に比べれば微々たる物だがその品質に関しては決して劣る物では無い、とヘンケンは自負している。量を求めれば確かに有象無象の輩が作った物でも事足りるだろうが、奴らの中にも特権階級はいる。そう言う連中が自らの地位を誇示する為に必要とされる物が『品質クオリティ』だ。 選民思想で自分達の立場を正当化しようと言うのならば、当然ヘンケン達の出荷する農作物に目をつけない訳が無い。
「俺達にお声が掛からないと言う事は、まだそれほど本格的には動いてないと言ういい証拠だろうな、例えば『戦争の準備の為の準備』と言った、曖昧な戦略だと位置付けられる」
「それはまた気の長い話ですな。来るかどうかも分からない泥棒を捕まえる為に用の無い縄を何本も編んでいる様な物です、で、その意図は? 」
 小さく笑いながらティターンズの戦略を評するウェブナーに向かって、ヘンケンは小さく眉を顰めて言った。
「俺にもそこまではよく分からん。ただセシルがこのチャートを見てこんな事を言っていた。 …… 今の『ティターンズ』には切り札が無い。だから彼らはその切り札が到着する、あるいは出来上がるまでの時間稼ぎをしているんじゃないんだろうか、とな」


 被験者に襲いかかる危機的な状況を知らせる赤い点滅が狭い分析ブースを染め上げる。事態の急変に慌てたオペレーターが目の前に置かれたキーボードを狂った様に打ちまくる、しかし彼らの前を埋め尽くしたモニターと計器類、そして被験者のバイタルをリアルタイムで表示する生命維持装置は既に心房細動の兆候を示していた。
「プロカインアミド一単位静注っ! それでダメならピルぺノールを投与しろ、何でもいい、被験者の心臓を止めるなっ! 」
 五人のオペレーターの中でただ一人、一番真ん中の席で唯一ヘッドセットを装着したその男は冷や汗に塗れながら矢継ぎ早にオペレーターに檄を飛ばした。ブースとの間に張られたガラスの向こうで目の下まで機械仕掛けの帽子で覆われた一人の少女が、全身を痙攣させて絶叫する。指示を受けたオペレーター達がすかさずキーボードを叩いて彼の指示をコンピューターへと伝える、少女の生命維持を監視する役目を持つそれは命令通りの薬品を命令通りの量、正確に彼女の腕に繋がれたチューブから体内へと送り込んだ。
 祈る様な一瞬の空白の後に途絶える警報と徐々に下がり始める数値、だが彼らが沈静化する事態にほっとするのも束の間、すぐに状況は元の位置へと収まった。再び鳴り響く警報と上昇する数値はこれ以上の医療措置が通用しなくなった事を意味する、主幹研究員たるそのオペレーターはしとどに濡れたヘッドセットのマイクに向かって、その先でじっと成り行きを見つめている男に向かって叫んだ。
「所長、お願いですっ! これ以上の実験の継続は不可能です、直ちに回路を閉鎖して ―― 」
「 ”そのまま続行しろ” 」
 耳朶につららを突き刺される様な声が彼の鼓膜を震わせる、その震えは彼の全身へと伝播する。恐怖と怒りが混然となったその気持ちを必死で抑制しながら彼は尚もその男に向かって、祈る様な気持で言った。
「しかしっ! これ以上は被験者の生命維持に重大な問題が ―― 」
 男の血走った目がモニターに表示されるバイタルサインに向けられる。心拍数280、血圧300、呼吸回数180という数値は一瞬後に心臓が爆発してもおかしくない程の状況が被験者の肉体に発生している事を示している。問題どころでは、無いのだ。
 目の前でステンレス製の実験用医療ベッドに縛り付けられているいたいけな少女は今まさに死の間際にいる。さっきまでこの研究所の中庭で自分と一緒に本を読みながら笑っていた、あの少女がっ!
「彼女が、死んでしまいますっ! どうか ―― 」
「 ”死ぬ? …… フン” 」
 その声は実験の中止を懇願するオペレーターの言葉を一気に霧散させた。まるでそんな事など路傍の石の行く末に言及する様に他愛もない事だと言わんばかりの所長の声は、冷ややかに男の願いを一蹴する。
「 ”『それ』の代わりなど。構わないから死亡するまでの全てのデータの記録収集に努めろ、その為にお前達はそこにいる。もしここで手抜かりがあればそれだけで被験者の死が無駄になる。これ以上犠牲者を増やしたくないのなら、お前達の仕事を全うしろ” 」
 その瞬間にブース内を駆け巡った音にオペレーター達は戦慄した。人の発する事の出来る全周波数が大音響で轟き渡って彼らの全身を凍らせる、断末摩と呼ぶにはあまりに生々しく、そして人の絶望をその小さな体で表現しようとする少女は何度もベッドの上で全身を跳ね上げる。手足を固定した金属の枷の間から鮮やかな緋色の液体が零れ始めた。
 
「せんせいのこと、しんじてるから」

 脳裏で囁くその可憐な声と面影を掴む様に、男は目の前のパネルに設置された大きなレバーへと手を伸ばした。実験棟内の全ての電源を一瞬のうちに遮断する緊急停止レバーは、そこで研究に従事する研究員にとっての諸刃の剣だ。被験者の命を救う事は出来るが収集するデータが失われる可能性もある。だがそこへと手を伸ばした男の心に躊躇いなど微塵も存在しなかった。
 自分を信じて命を失おうとする少女を助ける為なら、たった一つの被験者データなど取るに足らない物ではないかっ!
 男の手に力が籠る、他の四人が見守る中で男の手がそのレバーをいよいよ引き倒そうとした瞬間。
「 ”馬鹿が” 」

 冷たく言い放った所長のその言葉が、男がこの世で聞く事の出来た最期の言葉だった。鳴り止まぬ少女の咆哮に紛れて響く小さな音は男の背後で起こり、そして次の瞬間には男の後頭部を穿って額へと抜けた。
 射出口から吐き出された脳漿と柔らかな彼の人格は勢いよく少女の最期を見届けようとするモニターへと吐き出されて液晶の文字を滲ませる。そしてただの塊になり果てた彼の肉体は、舌を震わせながら最期の息を吐き尽す少女の臨終の数値を隠す様に、自らの体液の上へと崩れ落ちた。勢い余ってパネルから滑り落ちたその身体が酷く湿った音を分析ブース全体に響かせて、そして生き残った他の四人はその音を耳にした瞬間に実験室にいた少女の心臓が、永遠に刻む事を止めてしまったと言う事に初めて気が付いた。
 抑揚とリズムを失ってただ鳴り続ける四つのブザーを耳にしながら、呆然と男の亡骸を見つめる四人の前にティターンズの制服を纏った大柄な男が現れた。ゴーグルを嵌めたその男の手には硝煙を棚引かせる自動拳銃が握られている。
「 ―― 貴様らの代わりも幾らでもいる事に気付かんかったか、馬鹿め。俺の手を煩わせおって」
 バスクはそう言うと残った四人のオペレーターに向かって歪んだ笑いを向ける。踵を返して分析ブースを立ち去るバスクの背中が見えなくなるまで、彼らはその場から一歩も動く事は出来なかった。


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