「あの筒の蓋を開けて尾栓をこれで思いっきり叩けばいいンだっけ?」その言葉を耳にしたアストナージは愕然とした。誘われるがままに話した野戦カートリッジ起動のための最終手段、今まで幾度となく交わした他愛もない会話のたった一言にしか過ぎないその内容を彼女がはっきりと覚えていた事に。
「そ ―― そんなンおまえがやるこっちゃねえ、アレの起動を任されてンのはこの俺だっ! お前はおとなしく ―― 」
「あの子の担当は、あ・た・し」
背後の炎に浮かびあがる細身のシルエットの輪郭が儚く揺れる。
おどけたように告げるその言葉の正しさで彼女以外の大の大人が声を失い心を挫かれた。そこに集う誰にも同じようにそれを行使する資格もあるし彼女の代りにその役目を取って代われる権利も持っている、だが彼女以上にそれを『しなければならない』義務を持つ者は、どこにもいない。
「じゃ、いってくる」
そう言って炎目がけて踵を返すその少女を止めるすべはなく、それでも誰もが自分の心の中の葛藤と戦って呼びとめようと口を開こうとした。彼女が今から向かおうとする場所はまさに死地、紅蓮の先にあるその場所はすでに敵の手が及んでしまった。無事でいる事も ―― 生きて帰れる保証など、さらに。
「それでもあんたを行かせられない、ジェス」
先頭へと進み出たモウラだけが彼女に対して唯一声をかける事ができたのは彼女の上官で、彼女の素質を見出してこの隊へと招き入れた責任感からによるものなのか?
違う。
「敵はハンガーの物理破壊を始めた、いつまた砲撃が襲ってくるかもわからない。そんな所にあんた一人で ―― 」
「でも伍長とニナさんはまだあきらめてない。きっとあの子をなんとかしてくれるって、信じてる」振り返りながらモウラに向けるその目をアストナージは生涯忘れる事ができないだろう、いたわりや慈しみ、あきらめと悲しみ ―― 言葉では表現すら届かない相反する様々な別れの要素を湛えた瞳を向けるその少女に秘められた強い決意に彼は。
驚き、喜び。
しかし同時に自分がこんな風になるまで育て上げてしまった事を後悔した。
「それでも ―― あんただけは絶対にっ!! 」
モウラの口から悲鳴がほとばしった。
母親だ。
誰もがそう思った。
「いかせられるわけないだろう、あたしらみんなが死んだってあんただけはっ! 」
理不尽で傲慢。公平も善悪も建前すらも全部かなぐり捨てて自分の欲するままに叩きつけるその感情は誰しも覚えがある母親の姿だ。「なんであんたがあたしらに付き合わなきゃならない!? あれを動かさなきゃならないのはあんた以外のあたしたち『軍人』だ、民間人で一番ひよっこのあんたがどうしてっ!? 」
今日はなんて日だ。
どうしてあたしの大事な物が次から次へとこんなにひどい目に会うんだ?
もし神様がいるっていうんならせめてこの子だけは止めてくれ。
もうこれ以上、なにも失いたくはないんだ。
こみ上げる涙とともに心の奥で泣きわめくモウラはその事に気づかなかった。ジェスは困ったような顔で笑いながら小さくため息をつくとトコトコとモウラの下へと歩み寄り、そっとモウラの顔を見上げた。
「 …… きょうは。泣き虫なんだね、モウラさんは」
そう言うと彼女はモウラの両頬の涙をそっとぬぐってそのまま両手で彼女の体を、そのぬくもりを確かめるように抱きしめた。
「 …… だいすきだよ、モウラさん」
抱きしめたくなる衝動を。
手放せなくなるその思いを。
モウラは涙を流しながら必死でこらえた。
「もうあたしの目の前で知ってる誰かが死ぬのはイヤ、なんだ」
知ってる。
「あんたはあたしを止めたくせに …… どうしてあたしは」あんたを止められないんだ?
「たぶん、それでいいんだよ」
あたしがあんたを止められないのは。
あんたなら必ずやり遂げるってわかってるから。
誰かが声を上げられないのは。
みんながあんたの事を愛してるから。
あんたの身を案じるよりも。
あんたの意志を。
あんたの決意を大切にしたいというみんなの優しさがそこにあるから。
「あたしが最後までやり遂げるって信じてくれた二人のためにも。必ずそうするって決めたあたしにも嘘つけない …… だからあたしがやンなきゃ、だめだよね」
ジェスはそう告げるとモウラを解き放ってゆっくりと後ずさりする。彼女を見つめる全員の眼に涙があふれて止まらない、彼女はもう一度困ったような笑顔を浮かべて小首をかしげながらそっと呟いた。
「アストナージ」
呼ばれた彼女の相方だけはその眼に涙の欠片すらも浮かべてはいなかった。ただ無言でじっと、彼女の姿を瞳に焼き付けるかのように凝視している。
「 …… あたしがもしだめだったら、あとよろしく。それと ―― 」
それはいつもの、人懐っこいジェスの笑顔だった。ニッと笑った彼女は手にしたハンマーを肩にかつぎながら言った。
「心配しなくても、大丈夫。アストナージがやろうとした事はもうみんなから教わってるから」
* * *
炎の向こうへと走り去る少女の背中にすすり泣く声が追いかける。自分達が育てた若き天才の顛末を見届けることなくただ手をこまねいているしかない自らの身の上に不条理を感じながら、しかしただおろおろとこみ上げる悲しみに打ちひしがれる事しかできない自分達の弱さに歯ぎしりしながら。
「 …… ヤロ、餓鬼ぃ。ふざけた事いいやがって」
震える声でそうつぶやいたのはモウラの後ろで拳を堅く握ったまま仁王立ちになったアストナージだった。「なに手前勝手に突っ走ってやがるっ! お前に教えた事なんぞ小指の先ほどもねえってンだ、バカ野郎がっ! 」
炎に向かって吠えまくるアストナージを慰めるように振り返るモウラ、だがそこで怒りに震える先任士官は吐き捨てた言葉の通り、これっぽっちも諦めてはいなかった。「班長、次のカートリッジの準備を。野郎が勝手にするってンならこっちも勝手にやらせてもらう、このままおっ死なれたんじゃあ俺ァ末代までの恥っさらしだ」
「アストナージ、あんた一体どうする ―― 」
「俺は奴の相方です、たとえ奴のおかげでハンガークイーンが動いたって単独行動なんて許さねえっ! ―― 誰かっ! 消火ホースをありったけ持ってこいっ! それとカッターとケーブルタッカーっ! 」
* * *
「コウ、あそこっ! 」炎の海をジグザグに躱しながらハンガークイーンの下へと駆け寄ってくるジェスの姿を先に見つけたのはニナだった。十文字に開いたドムの顔面で目まぐるしく動くアイカメラがやっと少女の姿を捉えた時、コウは操縦桿につけられたトグルを操作してその姿をモニターへと大写しにした。「アリスト二等兵、君ひとりで来たのかっ!? 」
「 “ んー、その呼び方なんか固っくるしいなぁ。やっぱジェスでいいです、反論はなしで。今からカートリッジを緊急作動させます、もうすぐ動くようになりますからちょっと待っててくださいね ” 」
「緊急作動って …… ジェスっ、あなた一人じゃ危険だわ。誰か他の人も呼んでから ―― 」
「 “ だったらなおさら早く動かさないと。それにこの子の担当はあたしですからあたしが責任もってやるってのが筋ってモンでしょ? ” 」
「それはそうだけど、もしあなたに何かあったらあたしはモウラになんて ―― 」
「 “ ―― ねえ、ニナさん ” 」
なんとか彼女を引きさがらせようと説得するニナがその声を耳にした途端に言葉を詰まらせた。画面の中に映る少女はハンマーを肩にかついだまま今まで見た事もない真剣な表情でじっとドムの顔を見上げている。
懇願ではない、不退転の意志をありありと映しだすその瞳が分厚い装甲を貫いてニナの下にまで届く。
「 “ …… おねがい ” 」
眼力に押し切られそうになりつつも戸惑うニナがコウへと助け船を求めるように目を向ける、だが彼は瞬きもせずにその表情を見つめると厳しい表情のままで口を開いた。「わかった、アリス ―― いや、ジェス。緊急作動の実行を許可する」
状況は最悪に近い。重砲だけではなく地上部隊がこのハンガーへと押し寄せたらどれだけの損害が発生するのか? そうなったらもうモビルスーツ云々の話ではない、自分が立てた誓いすらも守れるかどうかも怪しくなる。千載一遇のチャンスを逃してしまった自分達の命運はたった一人でここまで辿り着いたこの少女に委ねられたのだ。
「最後にもう一度確認する、ジェス …… やれるな? 」
短く尋ねるコウに向かってその赤毛の少女は、吹き付ける熱風に目を細めながらしっかりと左手を大きく掲げてうなづいた。
一目散にバケットへと駆け込んだジェスの右足が操作盤のパネルを蹴りあげて羽目板を外すと中から手動操作用のロッドが飛び出した。両手でそれを掴んで回し始めると複雑に絡み合った歯車がかみ合って、彼女の乗ったバケットをゆっくりではあるが確実に持ち上げていく。
はやる気持ちを空回りさせないように大きく深呼吸を繰り返すジェスはかすかに笑みを浮かべて自分の頭上に見えるステンレスの筒を見上げる、近付いてくる銀色の輝きに胸をときめかせながら叶えようとする願いは、二つ。
一つは自分が大好きな人を乗せるこの子を戦場へと送り出せるという事 ―― そしてもう一つ。
自分の大好きなみんなをこの子が守れる、という事。
* * *
「トーブ1からハンプティ、弾着延焼をこちらでも確認した。だが燃焼程度が予想以上に弱い」
MPIのモビルスーツハンガーに撃ち込んだ時は建物の出口にまでその火が吹き出したほどだった。しかし虎の子を一撃を喰らったにもかかわらずこの基地のハンガーはその燃焼範囲をハンガー内の一部分に留めている。
「 “ 命中部分の破壊口が思ったよりも小さいようです、ですから外部の酸素がハンガー内に十分に引き込めなかったんじゃないかと。ひなびた所とはいえさすがは軍基地、敵の攻撃に対する備えは怠っていなかったって事ですか ” 」
「こちらの読みが甘かった事は作戦立案者の俺としても十分に反省すべき点だ、だがこのまま手をこまねいている訳にもいかない ―― エキスパートの意見としては? 」
「 “ そうですね …… 通常弾の精密射撃でAPIの開けた穴を広げるくらいしか現状手はないです。それでも空気の流入量は上がりますし、被弾衝撃でもろくなった部分が崩落するかもしれない。対象の安全な確保を優先するなら最後のHESHを使うよりもより効果的で確実だと思いますが ” 」
「了解した、貴様の意見を採用しよう。ただちに射撃の準備にかかれ」
* * *
上るごとに熱くなる空気が中から体の温度を上げ、いよいよ空気が取り込めなくなって彼女の意識を薄めようかという頃にとうとうバケットは目的地へと到達した。酩酊しつつある脳を再び活性化させようと息を荒げながら、しかし動きはとても酸欠の初期症状を見せ始めた人間とは思えないほど素早い。自分の眼の高さにあるカートリッジの天辺へと素早く視線を送ると彼女の手は腰にぶら下げたツールベルトからラチェットを引き抜いてポケットから一個のソケットを選び出した。先端に取り付けて蓋を固定してあるボルトへと嵌めるとそれを一気に回しだす。
「今カートリッジに到着、これからヘッドを開けてボルトの撃針を露出させます」
「 “ 急ぎなさい、ジェス。いつまた敵の砲撃が ―― ” 」焦るニナの声を耳にしたジェスがニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あたし伍長の二号さんになるの諦めてないですからそんなに心配しなくてもだいじょうぶですよーだ。もしこの子動かせたら後でなんかご褒美おねだりしちゃいますから覚悟してて ―― よし、開いたぁ」10本のボルトを瞬く間に外し終えた彼女の手がステンレスの蓋を持ち上げてそっとバケットの床へと下す。急いで中を覗き込んで機構の仕組みを把握しようとする彼女の耳に、聞きなれた相方の声がここぞとばかりに飛び込んできた。
「 “ …… カバーが開いたら中央に炭素芯の突入ボルト、右端の方にダイヤルがある事を確認しろ。融合炉の型番によってレーザー放出の出力を調整する摘み、数字は3。重モビルスーツならそれが最適値だ ” 」
「ナイス、アストナージ。ありがとね」
いつもぶっきらぼうだが要点を的確に告げるその声にジェスはにっこりと笑いながら摘みへと手を伸ばす。「実は今中見て、ちょっと困ってた」
「 “ 気持ち悪いから礼なんかやめろ、それよりとっとと終わらせてさっさと戻ってこい。帰ってきたら班長と俺でこっ酷い目に遭わせてやっから覚悟しとけっ ” 」
えへへっと笑いながら摘んだダイヤルを電話の声の通りに合わせたジェスは指をさしながら全ての工程をチェックして、床に置きっぱなしのハンマーを取り上げた。
「起動準備完了。今から ―― 」
南の山でこだました重くて鈍い音は誰の耳にもはっきりとわかった。
「ダメっ! ジェスすぐにバケットから降りてっ!! 」血相を変えたニナが画面の端にかろうじて映り込んだジェスに向かって叫び声を上げる、しかし歯ぎしりをしながらニナと同じ目線で彼女を見つめるコウの視線の先で。
彼女は微笑みながらハンマーを振りあげた。
神様。
これが最後のチャンスなんだ。
あたしとおんなじみなし子だったこの子のために。
あたしの好きなみんなのために。
―― おねがい。
「 ―― っつ! いっけえぇぇっっ!! 」
ハンプティの放った徹甲弾は寸分の狂いもなくAPIの残した被弾跡の小さな隙間をこじ開けてハンガー内部へと侵入した。突入角度のずれによって生じたわずかな針路変更、劣化ウランの切っ先は今まさにハンマーを振りおろそうとする少女を目指す。
インパクトの瞬間に巻き起こる轟音と噴き上がる土煙がモニターに映っていたハンガーの景色を全て覆い隠す。至近弾による衝撃圧の数値と積極的回避を文字と音でパイロットへと知らせるAIの警告も無視して二人は必死にモニターの隅を凝視し続け、やがてその煙が薄れ始めたその時。
「 ―― ジェスっ!? 」
バケットの縁から宙へと投げ出された掌からゆっくりとハンマーが零れ落ちて抉れたばかりのハンガーの床へと横たわる。口元から少女の物でしかない真っ赤な血を流しながら、しかし彼女はうつろな目で天井を見つめながらぽつりとつぶやいた。
「 …… へへっ、手ごたえ、ありィ 」