爆薬の残り香と煙の中に沈んだままの大きな影に向かって幾人もの整備員が工具を手にして駆けだした。状況は明らか、敵の投げ込んだ手榴弾の爆発からハンガーを守る為にアンドレアが身を挺して防いだ。だがそのかわりに ―― 。
「手のあいた奴全員いけっ! 機体を起こしてアンドレアをコックピットから引きずり出すんだ、早くっ! 」ドムの足元でアストナージが血相を変えて指示を出す。彼が今まで辿ってきた戦場でも何度かその現場に出くわした事はある、しかしその全てのケースに置いてパイロットが無傷で運び出された事は、ない。
「 “ アストナージっ! アンドレアが中に突っ込んでった、何がどうなってるっ!? ” 」発砲音まじりのマルコの悲痛な叫びが彼の耳に届く。「 “ 敵は手榴弾の届く距離まで肉薄してきてる、もし無事ならすぐに戻るように言ってく ―― ” 」その時彼の声が炸裂音と共に一瞬途絶えた。次に聞こえてきたのは損傷を示す盛大な警告音。「マルコ、おいっ!? 」
「 “ くっそ、敵の手榴弾で右脚バーニア損傷、俺一人じゃ止めるだけで精一杯だ、なんとかアンドレアを早くっ! ” 」
「 “ ―― わかった、マルコ。すぐ戻るから ” 」そのつぶやきが聞こえた途端にタキシングに突っ伏したままのゲルググは両手で上体を持ち上げた。「 “ ああ、超痛え。俺はこんな目にあったのに機体は頭が潰れただけかよ、ほんと無駄に頑丈な機体だな ” 」
今にも機体に取りつこうとしていた整備員が愕然として足を止め、腹の下で爆発を受け止めたゲルググが再び立ち上がろうとするさまをなすがままに見送る。「お、おいアンドレアっ! お前大丈夫なのか? 怪我は ―― 体は何ともないのかっ!? 」そんなばかな、と不審な顔で煙の向こうに浮かびあがる大きな影へと目を向けるアストナージに向かってぼんやりとした声が返ってきた。
「 “ ぶつかったショックで頭がふらふらする以外は、なんとも。メインは潰れちゃったけどサブカメラで外の様子もばっちり、火器管制も問題なし ” 」
「アンドレア上等兵」
外部スピーカーを通じて呼び掛ける凛とした声にアストナージは頭上を見上げた。「自分はコウ・ウラキ予備役伍長だ。君の機体はパイロットを含めて現状重篤な損傷を負っている可能性がある、速やかに機を止めてコックピットから降りて先任の指示に従うんだ」
立場的には上官、そしてこの隊の創設者たる彼の命令にアストナージは従うものと期待し、ぴたりと動きを止めたゲルググを見て誰もがそう確信する。だが彼はそのままじっとハンガーの出口を向いたままで呟いた。「 …… コウ・ウラキ伍長、ですか? 自分はアンドレア上等兵であります、兵曹長からあなたのお話はよく ―― 」
「アンドレア、ニナ・パープルトンよ。『ハンガー・クイーン』は現在最終調整に入っているわ、もうすぐ発進する。だからあなたはすぐにコウの言う事を聞いて機体から降りて。機体のチェックにそんなに時間はかからないから」
コウのヘッドセットに顔を近づけて暗に戦線離脱を呼びかけるニナの眼が険しくなる。チェックに時間がかからないなんてただの言葉のあやだ、もし私の推測が正しければ、アンドレアはもう ―― 。
「 ―― マルコが呼んでるンで、行きます」外部スピーカーでそう言い残したアンドレアの機体がゆっくりと足を前へと踏み出した。
「 出るんじゃないアンドレアっ! いくら切羽詰まってるったってあんたは ―― 」「 “ モウラ ” 」その一部始終を電源車のそばで見届けながらコウやニナと同じ見解を共有している ―― それは歴戦として長く戦場を渡り歩いてきたアストナージも同じだ ―― モウラの耳にニナの声が届いた。アストナージと同時に見上げたコックピットの縁から差し出されたコウの左手がコックピット閉鎖のサインを送っている。
「コックピットを、閉鎖? 」確かに敵の攻撃がハンガーのすぐそばまで近づいているのなら退避壕とモビルスーツのコックピットが一番安全だ、しかし外部機構の最終点検をパイロットが確認もせずにコックピットハッチを閉鎖するケースはごくまれだ。敵との最前線で砲火を交えるサラミスの簡易ハンガーで応急修理をする時ぐらいしかモウラの記憶にはない。
「 “ アビオニクスの調整終了、現時点を持ってこの機は待機状態へと移行する。モウラ、融合炉の起動を急いでくれ ” 」
「コウ ―― 」
傍らに寄り添ったままタキシングを歩いていくゲルググの背中を見つめるニナの声が救いを求めるようにコウへと向けられる。だが彼は彼女の予感が正しい事を小さく首を振って肯定した。
「コックピット前面の装甲は全て削り取られていた。多分床に滑り込んだ時の摩擦と至近距離で起こった手榴弾の爆発によるものだろう …… 彼は、もう長くは持たない」
唇をかみしめた彼女の眼の前でまた仲間が一人、死んでいく。
やり切れない思いと助けられない悔しさと、自分の世界を削るようにむしり取っていく敵に対する怒りがもたらす熱。震える声はそれを吐き出さなければどうにかなってしまいそうだという心の発露によるものだ。「アンドレアを、よくもっ」
「彼の命を。託した思いを俺たちは無駄にはできない、だから ―― 」
ニナと並んで煙の向こうへと消えていくアデリアの予備機を睨みつけながらコウは握ったままの操縦桿を力いっぱい握りしめた。
* * *
「左側の奴はハンガーに引っ込んだっ! タリホー1・2、そっち側の火力が薄くなったはずだ、一気にバリケードに突っ込めっ! 」トーヴ2のいなくなった最右翼で前線を指揮するラース2がマルコの威嚇射撃から身を隠しながら怒鳴ると、モニター上のIFFを示す光点が一斉に動き始める。長く膠着していたこの戦いにもようやく終結のめどがついたと安堵のため息を漏らした彼の平穏は、その瞬間に背後から差し込んでくる膨大な光によって再び緊張を強いられる羽目になった。
「な、なんだ一体っ!? 」
「 “ トーヴ1よりハンプティ、敵の管轄する照明が全て点灯している。砲撃を持って速やかに排除せよ、滑走路を照らしている分だけでもいい ” 」
「畜生っ! ブージャム達は何やってんだっ!? もう地上施設は占拠してる筈じゃあねえのかよっ!? 」即座に毒づくラース2の眼に再び元の位置まで後退するタリホー達の光点が映る。「 “ ハンプティからトーヴ1へ、命令は受領するが鉄塔を潰すためにはHESHを使用しなければならない、何発か残して予備はなくなるがそれでもいいか? ” 」
「これで敵は照明塔を全部破壊するまで身動きが取れない。少しでも時間稼ぎになればいいが」モニターに表示されるインフォメーションを見ながらヘンケンが呟くとすかさずセシルが今後の展開を訪ねてくる。「通電した個所は6か所、敵が重砲を使ったとして約二分、その後は? 」
「まず山向こうで戦っている二機を何が何でもハンガー前まで撤退させる、敵の背後から牽制しながらそのまま最短距離で進めるルートが最も効果的だ。バリケードまで戻ってきたらこちらの作戦完了まで敵のモビルスーツを足止め ―― なんなら一機が外に残って敵に1ON1をしかけてもいい、敵との戦力比はかなり拮抗するからな。牽制込みで守備を固めたこちらの反撃で敵が縮こまってる間にこちらはハンガーを放棄して食堂に集合 …… 大まかな段取りはそんなところか」
そう言うと彼は携帯のチャットへと指を伸ばしてアクセスした。敵への陽動と誘導も含めて時間的にはそろそろだと思う、荒事に関しては専業とは言えないまでも決して引けを取らない砲雷班の長に向かってヘンケンは尋ねた。「バンディッドからグレゴリー、そちらの進捗を訪ねたい。こっちはそろそろ手詰まりになってきた、合流する段取りを ―― 」
突然黙った上司の反応に指揮を続ける二人の耳だけが傾いた。話好きの彼が戸惑ったように息を詰まらせるその反応に二人は思わず息を潜めたが、その後口をついて出たその言葉は耳を疑うものだった。
「 ―― ウラキ君が …… モビルスーツに? 」
* * *
「ばっか野郎っ! アンドレアお前持ち場を離れて何やってン ―― 」マルコはそこで言葉を失った。ズタズタに引き裂かれた腹部の一次装甲板、裂け目からは絶え間なくオイルが吹き出しているし伝達パイプは隙間から引きずり出されて外部にだらりとぶら下っている。何よりもコックピット前面にある最も頑強な装甲は全て削れて真っ白な緩衝剤だけが明かりに照らされて浮き出たように見える。まだ動いているのが、動けるのが ―― 信じられない。
「 “ 悪りい、マルコ …… でも何とかなった、もう大丈夫 ” 」
体から生え出たようにいくつもの大きなくさびがアンドレアの体をシートに縫いつけている。頭につけていたはずのヘルメットは割れて両脇に転がっていた。零れてくる血が彼の両頬を真っ赤に染めて胸元からくさびの付け根へと流れていく。
痛みのかわりに絶え間なくしびれが。
寒気とともにものすごい睡魔が。
なんでこんな事になっちゃったんだろう、明日の予定も昼間のうちにしっかりと組んでたのに。どうして俺はあの時、ハンガーに投げ込まれた手榴弾なんか追っかけて行っちゃったんだろう?
ばかだなあ。知らないふりをしとけば、こんな、事には ―― 。
「 …… みんなが、そこに、いたんだよ」
途切れ途切れに聞こえてきた彼の言葉がマルコから声を奪い、そして彼に残されたわずかな時間と示された運命を受け入れた。こみ上げた涙が彼の頬を一筋つたって汗とともに顎からしたたる。
「 ―― そうだよアンドレア、みんながそこにいるんだ。俺たちがみんなを守らなけりゃ …… だからもうちょっとだ、もうちょっとがんばれっ! 」叫ぶ声の向こうで足元のバズーカを拾い上げる首なしがいる、彼は硝煙弾雨が降り注ぐバリケードの上に機体を乗りあげるといきなり初弾を吐き出した。火柱を上げるブラストの向こうへと消えるアンドレアの声だけが涙をぬぐって再び正面を睨みつけたマルコの耳に届く。
「 “ ―― まだ、しんで、ないから ” 」
* * *
「調整終了、修正値を全適用」早口でニナが呟いてエンターキーを押すとOSは再起動のために小さく唸って画面を閉じた。キーボードを元の場所へと押し込んで立ち上がろうとする彼女の体をコウの両手が支える。
「ありがとうコウ、後ろへ行くわ」
「すぐにパイロットスーツに着替えて …… コックピット閉鎖、出撃準備」声とともにシートの横にあるハンドレバーを引くと油圧の抜けた重い装甲板がゆっくりと上下に閉じてからメインスクリーンが立ち上がる。徐々に消えていく外の光と入れ替わるように点灯するモニターはニナの要求したカスタマイズが正しく認識された事を示していた。「アストナージ、あとは融合炉の起動だけだ。そっちの状況は? 」
はやる気持ちを抑えて尋ねるコウの眼の前のモニターが点灯して外部の状況を映しだしたがそこに彼の姿は見当たらなかった。「モウラ、どうなってる? 」
「 “ ベランダにいる奴は防塵用のケブラーコートを機体にかけてから急いで退避しろっ! もう敵はすぐそこまで迫ってる ―― 悪いコウ、もう少しかかりそうだ。今アストナージとジェスがトラブルシュートに入ってる ” 」
「なにをもたもたしてンだっ! さっさと終わらせて避難しねえと敵の攻撃がすぐそばまで来てンだぞっ!? 」
「脚部のスラスター閉鎖バルブがどうしても開かねえンだっ! 向こう側は回ったがこっちは硬くて回らねえ、今ジェスがバールを持って潜り込んでるっ! 」怒鳴り返すデニスの腕は小さなハッチに体を滑り込ませたジェスの繋ぎを渾身の力で握りしめている、ロドニーは足の裾を引っ張ったままアストナージへと振り返った。
「先任は早く避難してくださいっ! もうここだけなんだっ、ここさえ終わりゃあこの機体の整備は完了します。俺たちもすぐ後を追っかけますからっ! 」
「下のモンに言われてはいそうですかとケツ捲る責任者がどこの世界にいるっ!? ―― ジェスっ! あとどれくらいで終わりそうだっ!? 」
「 ―― あと半回転っ! もうちょっと ―― 」そう叫びながら足をじたばたさせて奥へと潜り込もうとする彼女の体を後の二人が歯を食いしばって必死で抑え込む。「もうっ、なんでこんなにかたいのよおっ!? 」
* * *
「ハンプティ、そろそろ頃合いだ。一気に敵の本丸を落しにかかる ―― 特殊弾頭は残してあるか? 」戦況を見つめていたケルヒャーはもう恐らく照準のど真ん中にハンガーの屋根を納めているタンクに向かって問いかけた。煌々と光を放っていたオークリーじゅうの投光器は彼の見事なまでの精密射撃によってことごとく朽ち倒されて無残な姿を野に晒している、多分これで敵が披露する手品も品切れだろう。
「 “ HESHは残弾2、あと虎の子のAPIが一発。通常弾は残り30パーセントという所ですか ” 」
「これで一気に使い切るぞ、作戦ルーティン通りに目標へと叩きこめ」
「1番HESH、次弾API。装填」ハンプティが命令すると台車後部の弾薬庫が開いて左右のユニックハンドが指示された弾頭を掴みあげた。最初の弾に比べてまるで腫れ物でも扱うかのようにそろりと持ち上げられた2発目は大口径弾としては破格の破壊力と殺傷効果を持つ徹甲焼夷弾、キースが持っていたルーファスの役割の半分を担う特殊弾頭だ。
「装填、完了 …… しかしいいんですか? こんなの使わなくても敵の出城は十字砲火のど真ん中、それにもしハンガー内に人でも残ってたらただじゃ済みませんぜ。その中にもし対象が混じってたとしてもこっちは忖度のしようがない」
「 “ かまわん ” 」その時耳に聞こえてきたのはケルヒャーではなく常勝無敗を誇る特殊戦隊の総指揮をとるダンプティの声だった。「 “ ここまで俺たちと真っ当に渡り合える連中が民間人である彼女を最も危険な最前線に置いておくとは考えにくい、もしかしたら裏をかいて置いている可能性もあるかもしれないがそれはそれでこっちにとっては好都合だ。少なくとも彼らは彼女を戦火に晒すような事だけはしないはずだ、敵ながらその点だけは信用できる ” 」
「壊滅させるだけで俺たちは彼女の身柄を確保しやすくなる、と ―― いいでしょう、信用しましょう。中佐の読みのおかげで俺たちは今まで生きてこられたんですから」
ニヤリと笑ったハンプティの眼がヘッドセットのバイザーを通して映しだされるハンガーの屋根を睨みつける。中央にある小さな三角はもうとっくに目当てを終わらせていた。「では始めます。AI、射撃準備」
* * *
喧騒に紛れて遠くで轟いたその発砲音をアストナージは直感で直撃弾だと判断した。「直撃弾っ! 全員退避、間にあわない奴はハンガークイーンのそばに隠れて耳を塞げっ! 」
地上戦でモビルスーツの整備のために数多くの戦場を渡り歩いてその全てを目の当たりにしてきた古参の整備士は久々に耳にした甲高いその音に背筋を凍らせずにはいられなかった。仲間の間での隠語として使われる『墓場鳥』、その声を聞いた連中の多くがあの世へと連れて行かれた。エルアラメインでは味方の誤射で野戦ハンガーの一棟が整備士もろともに丸々吹き飛ばされ、オデッサでは捨て身で突撃してきたジオンの陸戦部隊に壊滅寸前にまで追い込まれた自分達をそれが救ってくれた事もある。二つは相反する状況と結果をアストナージにもたらしたが共通している事実はたった一つだ。
どちらも自分の命が助かっているという事と、砲撃跡には退避用にしつらえた頑丈なタコつぼ以外に何も残らなかったという事。
「先任、こっちだっ! 」ドムの陰で必死に手を振るモウラに向かって駆けだしたアストナージは彼女を庇うように背中で覆うとすぐに耳と瞼を両手で押さえて爆発の際の急激な気圧の変化に備えた。同じような態勢を取って頭を小さくする彼女も同じ事を考えているだろう。あとは神様に必死で祈るしか、ない。
しかし祈りの言葉を思いつく前にそれは来た。タキシングラインの屋根の上で響く、いくつもの空のドラム缶を一気に叩きつぶしたような音。
屋根へと張り付いた弾頭に仕込まれたC-4がその勢いごと指向性破壊をコンクリートの屋根へと叩き付ける。だが連邦軍の規格で定められた耐爆構造は想定される内外での爆発被害を最小限にとどめるために特殊セメントの粗骨材にセラミックを練り込んだモルタルで鋼板を挟み込んだ建築材を使用している。500キロ爆弾の直撃やタンクの徹甲弾すら弾き返すそれはMPIの研究所を襲った時とは異なり、確かに重砲の放った弾頭の効果を表面上は防ぎきった。
だがその後で叩きつけられた爆薬の威力を殺すには素材そのものが持たなかった。ひび割れた鋼板の隙間目がけて吐き出された破壊の息吹は内壁をいとも簡単に吹き飛ばして大小の石片を研ぎ澄まされた刃物に変え、無秩序に荒れ狂うそれらは手当たり次第に行く手を邪魔しようとする全てを根こそぎになぎ払った。
「うわわっ! 」
耳鳴りのような高音と周囲で響く残響音、その次に自分を引っ張っていた力がなくなって体が奥へとずり落ちる。慌てて体を支えるためにバールを掴んだとたん、今まで頑として動かなかったバルブが突然開いて正常位置で固定された。「!? やったっ! 」
だがそこからが問題だった。真っ暗な脚部フレームの中をきょろきょろと見回しながら額につけたLEDで照らしてどこかに自分の体が支えるものはないかと探すが、とりあえず手が届きそうな所にあるのは銀色の太いパイプが一本だけ。それを伝って上体だけを上げればサブフレームのハニカム構造が見える、なんとか自力でも上がれそうだ。
「 …… てかデニスさんとロドニーどうしたのカナ? 声ぐらいかけてくれてもよさそうなモンなんだけど? 」こんな狭くて暗い所に若くてピチピチした女子を一人でおいてっちゃだめでしょ、とほんのちょっと不満を覗かせながらよっこいしょと目当てのパイプへと手を伸ばす。余裕なようでいて腰から下を支えている両足は足首だけでハッチの縁に引っ掛かっているのでほんの少し気を抜いただけでも滑り落ちそうなのだ。
「よいsy ―― ひゃあっ! 」掛け声とともにそのパイプを掴もうとしたジェスの手はいきなり足を引っ張られた事で見事に空を切る、そのままハッチの縁までずるずると引っ張りだされた後に見えたのは彼女の相方の顔だった。
「バカヤロ、それは液体水素の送管路だ。もし掴んでたらお前の掌はそっくりそのまま張り付いてたところだぞ? 」彼女より上背のあるアストナージは険しい顔でジェスを睨みつけるとそのままメンテナンスハッチに上半身を差し込んで内部をライトで照らした。「バールは? 忘れモンはないか? 」
「持ってるからだいじょぶ。バルブも完全に開いたからこれで整備は完了っと …… あれ? デニスさんとロドニー ―― 」そう尋ねてあたりをきょろきょろと見回したジェスの視界に人だかりが目にとまった。何人もの整備士が輪を作って口々に何かを大声で叫び、その中央には衛生兵のミカが、いる?
「ねえ、なにかあったの? 」押し寄せてくる不安が彼女の声を曇らせ、それに応えようともしない彼の態度がそれに一層拍車をかける。思わず握ったままのバールを手放して立ち上がろうとするジェスの肩をアストナージの手ががっしりと掴んだ。
「 …… 見るんじゃ、ねえ」
ガシャンというバールの音とともに輪になって集まっていた整備士たちが一斉に振り向き、人垣の隙間から血まみれで横たわっている二人の姿が見える。「ね、ねえ。なんで二人ともそんなトコで寝てンの? さっきまであたしの体を一生懸命 ―― 」
心の底からこみ上げる得体のしれない気持ち悪さに脅えるように全身を震わせて口元を押さえるジェスの背後でアストナージが悔しそうに呟く。「敵の攻撃で飛び回ったコンクリートの破片からお前を守る為に、あいつらは逃げなかった」
「敵 …… 攻撃、って」そういわれて彼女は初めて見慣れたハンガーをゆっくりと、怯えた目で見回した。見慣れたはずのその建物の屋根は大きく欠けて、思い出がしみ込んだ壁や柱はまるで痘痕のように無残な傷跡を晒して。変わり果てた我が家を映し出す残り少ない照明の光に泣き顔を向けたジェスはあふれる慟哭を声の限りにほとばしらせた。
「なんでよぉっ!? 」
絶叫する彼女にそこにいる全ての仲間の目が ―― それはコックピットでモニターから状況を見つめている二人もだ ―― 同情をこめて向けられた。
「もしハッチに潜り込んでるのがあんたじゃなくても。もしそれを支えてるのがデニスやロドニーじゃなくても …… ここにいる誰もが、多分二人と同じことをしたさ。それが ―― 」二人の枕元で跪いたままじっと頭を垂れるモウラはそうつぶやくとそっとジェスに向かって手招きをし、呼ばれるがままにふらふらと歩きだした彼女がモウラのそばへとたどり着くとそこには血まみれのまま穏やかに笑って息絶えている二人の亡骸が見えた。
「 ―― あんたの知ってる、あたしらだ」
ごめんなさい、と大声で何度も繰り返しながら二人の遺体へと体を投げ出して泣きじゃくる少女をそっと見守りながらモウラの大きな手が彼女の乱れたままの赤い髪を撫でつける。「見てみな、ジェス。二人とも笑ってるだろ? …… きっとあんたなら最後までやり遂げるってデニスは言い残して笑って逝ったよ。多分ロドニーもさ …… だからあんたは二人のために最後まできっちりやり遂げるんだ、二人の期待に応える事が、今日からのあんたに課せられた宿題だ」
* * *
「モウラ ―― 」悲劇を目の当たりにして気のきいた言葉の一つも思いつかないコウはそのまま押し黙ると、その耳にモウラの声が流れ込んできた。
「 “ ロドニーはアストナージが直々に目をかけていろいろ鍛え上げてきたいい整備士だった、デニスは ―― あたしがルナツ-にいた頃にいっしょに働いた …… 仲間だった ” 」
自分の知らない戦争のさなかから今日に至るまでにどれだけの仲間を彼女は失ってきたのだろう。ドムの足元でじっとタキシングラインへと目を向けるモウラにいつもの陽気な整備士の姿はない、だが部下を失った事への悲しみをこらえながら、こちらの都合などお構いなしに次々と押し寄せる難局ともたらされる悲劇にも敢然と胸を張って立ち向かうその姿こそ彼女の強さなのだと二人は思う。
「 “ 幸いな事に電源車はまだ生きてる、次の攻撃を食らう前にカートリッジを作動させる。あんた達はあたしの ―― いや、シャーリー隊の名誉にかけてかならずここから送り出して見せるから ” 」
「もう十分だモウラ。ここから先は俺とニナだけで何とかする、起動リモコンを渡してくれれば俺が中から ―― 」
「コウ」
必死でモウラに訴えるコウのそばで苦渋に満ちたその表情を眺めたニナが小さく首を振って彼の提案を却下した。その言葉がどれだけ彼女の決意に対して水を差すものであるか ―― そして誇りを蔑にするものであるかという事を彼女は無言で彼の目に語りかける。
「 ―― なにか、他に俺が手伝えることはないのか? 言ってくれればすぐにここから出てなんでもするから」
ニナに諭されてもなお収まりがつかないコウはモニターへと身を乗り出して画面の隅に移るモウラに向かって問いかける。画面の向こうでじっとたたずむ彼女は何かを思いついたかのように腕組みを解いてヘッドセットに手を当てた。
「 “ …… できる事、あるよ ” 」
「なんでも言ってくれ、俺は何を手伝えばいい? 」コウの視線の向こうでモウラはタキシングラインから視線を外すと吐き出すようにその言葉を口にした。
「 “ ―― 勝ってくれ、コウ ” 」
何かを気遣うようにそっと視線を上げてコックピットを見つめる彼女の瞳に浮かぶ、一度は兵士として生きてきたコウにしか分からない悲しみの色。
―― まさか、モウラももう。
「 “ 誰かの仇を取ってくれなんて言わない、それにあんたのブランクを考えると無茶な頼みだって事もよくわかってる。命を落とすのは戦争の常識、だから今日まであたしはその日の覚悟を決めて生きてきた、つもりだった ” 」
―― キースの事を、知っていたのか …… その事を知っていて、そんなそぶりをおくびにも出さずに。
あえてみんなのために知らないふりをしていたのか。
「 “ でもこんな無理はあんたにしか頼めない ―― もうみんなの命を救えるのはあんたしかいないんだ。だから …… 頼む ” 」
「わかった」
傍にいるニナには決して悟られないように ―― だがその一言に万の気持ちをこめてコウは強く頷いた。
「約束するよ、モウラ。必ずここに二人で帰ってくるから」心を締め付けられるような悲しみを押さえてコウが答えると彼女は視線をタキシングへと戻してから再び腕組みをした。
「 “ ―― ありがとう …… 二人の遺体を収容次第、融合炉の点火に移る。ニナ、リアクター制御の値をミニマムに。そのままの状態で稼働すると初爆で起こる過電流でジェネレーターが焼き切れるかもしれない、安定に時間はかかるけどその方が安全だ ” 」
「わかったわ。こんな闘い早く終わらせてまた四人で飲みましょう。コウも飲めるようになった事だし」
なんとか元気づけようと殊更に明るい声で希望を口にするニナの前でモウラはかすかに肩を震わせながら無言で頷いて踵を返した。
「班長、早くっ! 」全力で退避壕を目指すモウラの眼の前で気ぜわしくアストナージが手招きを繰り返す。硬いソールがいくつものコンクリートの破片を踏みしだき、目視での最終点検を終えた整備班の責任者はその勢いを一気に殺して先任の肩を叩きざまに後ろを振り返った。「最終チェックOK、退避完了 ―― さあここからが正念場だ。アストナージ、もしあれで動かなかった時の対策は? 」
「作動不良を含めてそこの壁に交換用の予備が二本、でももしこれで動かなかったらよっぽどの事がない限り二の矢はないと思ってください。オデッサでも何回かやってみましたが一度も正常に起動した試しがない」
「どっちにしても再装填の時間はない、きっと動くさ …… そう信じよう」
肩を叩いて退避壕へと下がるモウラを見送ったアストナージは再び仄かな光の中で屹立する大きな黒い影へと視線を向けた。怪しげな経歴を携えてこの忘却博物館へと送られてきたハンガークイーンが今夜起こったいくつかの奇跡によって遂に蘇る、不可能だと思われたそれを可能にしたという事実に彼は今まで味わった事のない深い感慨に包まれていた。このボタンを押すだけであの巨人は動き出し、そしてこの部隊の創設者であり二つ名を持つ撃墜王が再び彼らの前にその姿を現す。その瞬間を思い浮かべるだけでも整備士冥利に ―― 。
ドン、という鈍い音が再び。
それが重砲の発砲音だという事も、ここを狙って放たれたという事も彼の頭の中では分かっている。だが ――
“ 体が、動かないっ? ”
頭の中でリフレインするさっきの出来事、デニスとロドニーの亡骸。見た事もないジェスの泣き顔と大きな叫び声。過去に見たいくつもの悲惨な光景が走馬灯のように脳裏を過ぎる。
それはもしかしたら自分に起こりうる未来の景色だったのかもしれない、誰かが代わりに犠牲になっただけで、本当は ―― 。
「なにやってるアストナージっ!? 次が来る、早く起動ボタンをっ! 」死の恐怖に囚われた彼の背後で異変を察知したモウラが大声で叫ぶ、しかし背中を押されて我を取り戻しかけた彼の体を再び硬直させたのは今まで聞いたこともない音 ―― 大きな鉄の板をハンマーで殴りつけたような異様な打撃音。
その砲弾こそが『スレッジ・ハンマー』の作戦名を象徴する必殺の一撃だった。
APIという略号で呼称される徹甲焼夷弾は被覆された先端部が目標に命中すると弾芯部に仕込まれた三種類の可燃性粉末が混じるように設計されている。フッ素とマグネシウム ―― 二つのナノ粉末にRDXと呼ばれる爆薬、それは点火された瞬間にテルミット反応を起こして対象物の内部へと噴き出す。
天井の一角から吐き出される強烈な熱と炎が一瞬にしてハンガー内部の酸素を食らい尽くして地獄絵図へと変えていく。凍りついたアストナージが死の拘束のくびきから逃れる事ができたのはまさに彼らの命運を握る命綱ともいえる電源車が炎の渦に呑まれた瞬間だった。脳が命令を発して親指が動き出すまでの刹那の刻、しかし。
彼の眼の前で希望に満ちたはずの未来は絶望に塗り替えられた。
炎の中で翻弄される電源ユニットに破片が直撃してランプが消え、燃料タンクから漏れた軽油が気化して車体を内部から粉々に引き裂く。狂ったように何度もボタンを押しこむアストナージの眼に最後に映ったのは断線して宙を舞う、起動カートリッジのケーブル。
「! アストナージっ ―― 」
背後のモウラが渾身の力でアストナージのベルトを掴んで室内へと引きいれようと試みた。ありったけの酸素を贄として自らを肥大化させる焔に取り込まれる空気によって閉じられようとする内開きの扉を何人もの男達が渾身の力で固定する、だがその勢いは宇宙空間で与圧が破れた時に匹敵する、何秒も持たない。
「 ―― こっちに、来いぃっッッ !! 」
叫んだモウラの上腕が一気に膨れ上がって袖がはち切れそうになる。だがその力は一瞬だけ物理法則を凌駕して彼の体を中へと引き込むことに成功し、そこで扉を支えていた整備士たちは力尽きた。引きずられたアストナージの足先を掠めるように轟音を立てて閉じた扉はそれ以上の空気の流出を遮断し、分厚い設えは外で荒れ狂う炎の奔流から全員を守る。
「アストナージ、起動はっ! 」
一息つく間もなく呆然と座り込んだままのアストナージの両肩を揺さぶって必死の形相を向ける、だがモウラの声に顔を上げた彼は次に手の中に握りしめられたままのリモコンへと視線を落とすと硬く目を閉じて全身を震わせた。
「 …… なんて、ザマだ。俺の …… おれの、せいでこんな ―― 」
ふらりと立ち上がって部屋の隅へととぼとぼと歩いていくアストナージに憐れみの視線を向け、それでも責任者として事態の復旧を画策するモウラは耳に飛び込んできたコウの声に耳を済ませた後に強い口調で全員に告げた。
「全員聞けっ、伍長と技術主任は機体を放棄しないと言っている」
絶望に打ちひしがれそうな彼らの心を奮い立たせるその言葉に全員の顔つきが変わった。「炎の勢いが弱まり次第、もう一度点火作業を開始する。起動用の電源はここから引く、電源ドラムをハンガーの倉庫から ―― 」
「だめだ、班長」
それは焼けた扉の取っ手を繋ぎの袖で覆いながら回して外の様子を覗いた整備士の声だった。「火の勢いが弱まりそうにない、多分電源車から漏れたオイルのせいだ。とてもじゃないが倉庫まではたどり着けそうにないし、行けた所でそこからどうすりゃいい? あんな細いのすぐに熱で焼き切れちまう」
「それに」
その声は部屋の片隅で佇んでいるアストナージからだった。「あのカートリッジの定格は220V、そもそもソケットの規格が合わないし仮に変換ソケットを使っても非常用電源の出力であれが正常にレーザーを発振できるかどうか …… 申し訳ありませんがその提案は却下です」
続けて彼の足元で鳴ったドスン、という鈍い音でモウラはアストナージの計画を悟った。「これは仕事を任された自分の責任です、電源を喪失した以上起動する手段はひとつしかない ―― 自分が、いきます」
手にした20ポンドハンマーを肩に担いで思いつめた表情で人だかりをかき分けて進むアストナージを止めたのは扉の前で立ちはだかったモウラだった。驚いて顔を上げる彼に向かって彼女は言った。
「あんたをここから先にはいかせられない、それはあたしの役目だ」
抗う目を向けるアストナージを厳しい表情で彼女が見下ろした。「あたしはあの二人に必ず出撃させると約束した ―― 整備責任者としてあんた達の身の安全も含めてそれらを守る責任があたしにはあるんだ」
そう告げると彼女は右手をアストナージの前へと差し出した。「さあ、それをあたしによこせ。これは命令だ、先任少尉」
みんなに取り囲まれた輪の中心でアストナージの頭が静かに垂れ、誰もがそのハンマーの行方に注目した瞬間に突然決意に満ちた叫び声が響いた。「 …… すんません、班長っ! 」
全体重をかけたショルダータックルに不意をつかれたモウラの体がよろけて、その間隙をついたアストナージが外に駆けだそうとするのをすんでの所で何人かの手が阻止した。幾人とのもみ合いを振り返ったモウラが大声で怒鳴る。「全員止めろっ! 絶対に先任をここから出すなっ! 」
「やめろお前らっ! 黙って俺をいかせてくれ、じゃないとデニスやロドニーにどんな顔で謝れって ―― 」まとわりついてくる大勢の手をかいくぐって必死の形相で出口を目指すアストナージは退避壕の出口の縁へと手を伸ばし、もう少しでハンマーを持つ手がそこに届こうかというタイミングでモウラの手がそうさせまいとハンマーの頭をがっしりと掴んだ。
「班長っ!? 頼むから俺にやらせてくれっ! なんで止めるっ!? 」
「あたしがここを出たらお前はみんなを連れてここを放棄しろっ! 『バンディッド』に指示を仰げば必ず助けてくれる、それはあたしがいなくなった後のお前の任務だアストナージっ! 」
「それはあんたがやってくれ、俺はっ! 絶対に何があってもちゃんとやり遂げるって事をあいつに教えなきゃ ―― 」
言い争うわずかな ―― ほんのわずかな隙だった。
二人の脇からすり抜けた小さな影がまるでひったくるようにその柄を掴むとあっという間に二人の手からハンマーを奪い去る。一瞬の出来事にびっくりした二人や整備士たちが影の飛び去った方向へ目を向けると、その人物はあろう事はすでに退避壕の外でハンマーを肩に担いで穏やかに微笑んでいた。
「これは …… あたしの仕事だよ? 」
「「 ジェスッ !? 」」