耳をつんざく叫び声と追いかける爆発音 ―― 聞いた事がある。忘れもしない三年前、アクシズの戦艦グワンザンの艦橋で。
命が、魂が。
もし人の心に宿るのならその全てを吐き出してしまうような、絶叫。
やっぱりあなたに会いたかった、とニナは少し気配の変わった空気の中でそう思った。瞼を透かして明るくなった目の前と頬に感じる生温かい風は自分が違う所に行ってしまった証拠。今でも信じられない ―― 信じたくない。もう二度と彼に会えないなんて。
張り裂けそうな胸の痛みをなんとかこらえながらニナは、せめてこの先の事は自分の眼で確かめなければならない ―― 自分が作り出した物で死んでしまった大勢の兵士や自分のために命を落とした仲間が一体どこへ向かうのか、はからずも彼らの未来を奪ってしまったあたしはそれを見届けなければならない。
一番後ろからでごめんなさい、と心の中で謝りながら硬く閉じたままの瞼をそっと開いた。
目の前の廊下に深く刻まれた一本の深い溝、そして強い覚悟で閉じたはずのドアが蝶番をねじ切られて少し離れた所に歪んだまま転がっている。夢から覚めない瞳がぼんやりとその惨状を眺めてうろうろとあたりを彷徨い、やがて彼女はそこから自分に向かって伸びてくる小さな輝きを見つけた。
粉々に砕けたすりガラスの破片が廊下のあちらこちら至る所に。自分の前を通り過ぎる星の屑のような光の流れは視線を奪ったまま上流へと自然に誘う、その源流にある大きな光へと。
めらめらと燃え続ける紅蓮の炎があった。地獄の業火のようで、浄化の焔にもみえる ―― ただあまりにも現実味のある姿に彼女は瞬きもできずにその揺らめきを呆然と眺めている。放たれる熱が焦点の合わない瞳をあっという間に乾かして、焦げた匂いが鼻孔をくすぐって少しづつニナの意識を確かな物へと変えようとする。
それでも夢と現実の狭間でいまだに迷う彼女の眼に飛び込んできた黒い影 ―― それは自分の命を奪いに来た兵士の物とは明らかに違う。背景となる炎にその輪郭を溶け込ませるほど朧げで、たった一人で炎と向かい合う人影は彼女の視線に気づいたようにゆっくりと後ろへと振り返った。
―― ガトーだとニナは思った。
やっぱりあなただったの、私を迎えに来たのは。
でももうあなたの助けはいらない、とニナはガトーを拒絶した。あの日あの時、その声を聞いた私は ―― あなたの最期を伝えられた私は涙を流せても後を追う事はできなかった。
なぜなら私は彼と出会ってしまった。あなたよりも幼くて弱いかもしれない、でも本当の私にきちんと向き合って愛してくれた。
だから私はそんな彼を誰よりも心の底から愛した。コウ・ウラキ ―― かけがえのない一人の男を。
さようならガトー。もう私はあなたに手を引いてもらわなくても大丈夫、私はこの先もずっと一人で ―― 。
心の中で静かにガトーへと別れを告げるニナの眼に映った男の顔が少しづつ変わっていく、それは少し収まった炎の輝きのせいかもしれない。銀髪だと思っていた髪は黒く、何よりもまだ塞がって間もない瞼の傷が彼女に影の正体を思い出させた。彼は踵を返すと険しい表情で彼女の名を口にした。
「 …… ニナ」
どうして?
そんなはずない。彼は今頃あの小屋で。
あたしが死んだ事なんて知らずにまた明日を夢見ている。
もしかして、これは気まぐれな神様があたしに見せている、ただの幻なの?
コウの方へと座り直しながらそれでも現実を受け止めきれない彼女の眼は焦点を失ったままその影へと注がれた。動き出したコウの足がひそやかに廊下を踏みしめ、一歩一歩ニナの下へと近付いてくる。眉間にしわを寄せたまま肩を震わせて歩み寄る屈強な体は傷だらけになっている。
ううん、幻でもいい。
あなたにちゃんと謝りたかった。
もしあなたにあの時出会わなければこんな事にはならなかったのかな? あたしは今でも月にいて、あなたは今でもモビルスーツに乗って。大事な物を何もあきらめずに済んだのかな。
ごめんなさい、コウ。
もしもう一度生まれ替わる事ができたなら、今度はもっと平和な所に二人で ――。
無表情なままで乾いた目をコウへと向けるニナ、わずかな時を経てコウはニナの目の前に立つと静かに膝をついてじっとニナの顔を覗き込んだ。溢れてくる強い ―― そして様々な感情がコウの眼を堅く閉じさせて、傷だらけの両腕が彼女の体を包み込む。
あ。
触れ合った肌から伝わる熱と確かな鼓動 ―― 忘れていたその感覚と記憶がニナの瞳にかすかな光を灯した。身動きもできないほど硬く閉じられた輪の中で体ごと捕らえられたニナの両手が、確かめるように何度もコウの背中を叩く。
何と言えばいいのだろう、今。
君をこの手に取り戻したその喜びを。
もう二度と手放せないこの思いを。
「 ―― そばに、いてくれ」
肩に乗せられた彼の口から零れた声がそっと彼女の耳に忍び込む。ほんの一瞬の間をおいてニナの脳裏に蘇る月での記憶。
恩人と繰り広げた殺し合いの果てにたどり着いた二人の答え。
月の砂漠を漂うあたしに差し出された彼の手を、自分は確かに握りしめてそれを誓った。
巨人が見守るあの丘で。
探していたニナの両手がコウの背中に触れたままパタリと止まる。コウは両腕に力をこめ、体の底から絞り出すように今まで言いだせなかったその一言を呟いた。
「 …… たのむっ」
痺れたように力が抜けた。
訳の分からない感覚と感情と感動と感激。次にどうなったかすら分からない。はっきりしているのは自分がワアワアと大声を上げながらコウの体にしがみついている、ただそれだけ。
あっという間に景色が揺れて見えなくなった。もっと彼の顔が見たいのに。どうして。
―― あたし、泣いてるの?
もう一生分泣いたと思った。
もう泣く事なんかないと思った。
早くコウの顔が見たい。
早くあなたと話したい。
でも止まらない、止め方が分からないの。どうしよう、コウっ!
子供のように泣き続けるニナの声が赤い世界を取り戻した廊下を駆け抜けて溢れる涙がコウの肩を大きく濡らす。大きく息を継ぐたびに頬をくすぐる金色の髪の感触を右手で確かめながら、彼は彼女の命を救ってくれた全ての存在に感謝した。
そして彼女が背負った運命も。
自分が背負うべき宿命も。
今この瞬間だけは忘れていたいと震え続けるニナの体を精一杯の思いをこめて強く抱きしめた。