いなしたはずの刃が重い。操縦桿を通して伝わる予想外の何かにガザエフの心はさざめいた。ドイツで遭った手だれも、他の戦場で手にかけてきた奴らも攻撃という手段の中に必ずと言っていいほど怒りとか怯えとかいう負の感情が混じっていた。そして相手がそれに支配されればされるほど自分は負ける気がしない、生に執着するあまりに普段通りの力が出せない相手は死を見つめている自分にとっての敵ではないと分かっていたからだ。
だが今向かってきたものは一体何だ? 旧式のザクから繰り出された一本の突きがまるで装甲の奥にいる自分にまで届いたような気がする。純粋で、穢れがない。
我に返ったガザエフは踵を返してマークスと正対した。今の自分にそんなものを向けられたところで何が変わると言うのだ、という憤りがガザエフの語気に怒りの火をともした。
「どういうつもりだ、坊や」 ガザエフのマチェットがゆっくりとマークスへと向けられた。たとえアデリアに背を向ける事になってもこれ程不愉快な相手を後回しにはできない。
「あくまでも邪魔をするというのならばまず貴様から血祭りだ …… 俺もお前のバディも後から行くから先に川のほとりで待っていろ」
* * *
二枚目の非常ハッチの端末の前でニナは戸惑いを隠せなかった。どういうきっかけであの現象が発生するのか、それを確かめるために自分の一挙手一投足に意識を凝らす。ラップトップから伸びるUSBソケットをゆっくりと端末のスロットへと押し込み、その瞬間に発動する過程を無視した結果の表示。
「 …… 繋がった瞬間に動き出すのね。やだ、なんか」私がネットワークの一部に取り込まれてしまったみたい、と。再び頭の中に表示された6ケタを打ち込むとさっきと同じアナウンスと共に閉じた扉が動き出す。自分の中で起こった理解不能な変化に軽く嫌悪感を覚えるニナだったが、今はそれについて何かを考察している暇はない。ただふっと思い出したのはかつて二十世紀にその名を残した物理学の巨人、アルベルト・アインシュタインの伝記だった。
まず答えありき。頭の中に浮かんだ数式が定義された問題に対する解であり過程は不明。自分に今起こっている現象とは比べようもないが、少なくとも広義においてよく似てはいる。論理的に考えるなら今まで培った知識が無意識のうちに膨大な過程を構築しそのゴールだけが明確な文字として導き出されている、それならば自分がガンダムを作った時に起こした「始まりの言葉」の現象もなんとなく説明がつく。
「仮説に答えを求めるなんてプログラマー失格だわ」
ニナはそう言うと扉の向こう側にある大きなボタンを掌で叩いた。一度上がった非常ハッチが再び油圧の音を響かせてゆっくりと降りてくる。
そんなはずがないだろう。物理学とはその対象が一体何であるかという事を自然界の法則に従って突き詰めて考える事だ、自分に今起こっている事をあてはめるなら「プログラムに従ってその解へとたどり着くこと」という事になる。メインコンピューターの能力だけではなくその思考ルーチンやプログラムまで完全に理解できる事など、人間のなせる業じゃない。
創造者の予想を超えた動きを創造物はしないと言うのがニナの持論である、たとえどんなに予想外の動きをしてもそれは発想の限界値内に絶対に収まっていなければならない。ただ一つの例外はコウが初めて一号機でガトーと戦った時で、その時に記録された数値の振れ幅に驚かされはしたがそれはあくまで初見で乗ったという条件を加味しての事だ。ただし彼は戦いを経験するごとに自分が想定した機動限界値を更新して実際にプログラムを最適化する自分の頭を悩ませていた。
故に作られた一号機改の起動ディスク ―― あの日二号機と共に宇宙の塵と化した ―― はアデリアやマークスが今使っている『インテリジェント・レコード』のひな型になった物だ。アルビオンに帰還してからデータを解析して次に備えていたのでは間にあわないというジレンマを解消するための苦肉の策として考案した『リアルタイムデータ更新システム』は開発者としての自分の大きな転機となった。創造物の起こす様々なアクションを記録しながら上書きしてその過程と現状を創造者にフィードバックする、その繰り返しが積み重ねる未来への可能性は後に生み出されるであろう技術革新の先駆けとなってモビルスーツという機械の概念を一変させる。
過去と現在と未来を一つに繋ぐための道しるべ、それはモビルスーツだけの世界だけではなく他の分野にも大きく貢献でき得る考え方だとニナは思う。ここから枝分かれする無数の分岐の先にあるそれぞれの未来、混在する正と誤の解があるのだろうがそれでもいくつかの淘汰を経ていずれは一つの帰結を見る世界がそこにはある。
だがそんな未来でも自分という人間の発想から生み出された思考の範疇の中に存在する。「神は絶対にサイコロは振らない」のだ、結論は変わらない。
それでもなおこの現象について考えるとしたら、それは膨大に刻まれた過去データから精査極まりない確度で類推されるピンポイントの未来予測。つまり何十兆もある分岐から解へと到達するたった一本の道を的確にたどる事ができるようになったという事。それはかの物理学の巨人と同じ領域に到達したという事になる。
「ばかばかしい、そんな事 ―― 」呆れたように呟くニナ。生まれも育ちも環境も何から何まで違う偉人と自分が同列に肩を並べるなんてそんな恐れ多い事考えるだけでもおこがましい。こんな小娘が自分と同じ人種だなんて思ったらきっと彼は一生枕元に立って長い舌で怒鳴り続けるに違いない。本当にユダヤ人は執念深いから ―― 。
思わず緩んだ口元がはたと何かを思いついて小さく開く。 …… 何十兆もの組み合わせからたった一つのキーを拾い出す、もしそんな事が今の自分にできるのだとしたら? ―― いや、多分できる気がする。
あのハンガークイーンの封印も一目で解けてしまうのでは?
ソケットを差し込んだ瞬間に頭の中へと流れ込んでくる文字を何気なく打ち込むニナ、しかし彼女はリターンキーを押す寸前にその衝撃で指を止めた。床を伝わってくる振動と今通り過ぎてきた廊下から聞こえる爆発音、それは自分が間近に味わった物とは程遠いほどささやかなものではあったが悪意に満ちているのが分かる。再び早鐘のように打ち出した心臓の鼓動が彼女の指を震わせて、しかし慌ててリターンキーを押して非常ハッチを動かす。開き切る前に体を屈めてくぐりぬけたニナは急ぐ通りすがりにバンと掌を閉鎖ボタンへと叩きつけた。
* * *
「俺の大事な子分をふっ飛ばした爆発は? 」 不機嫌なブージャム1は隣にいる兵士に尋ねた。
「被害の範囲は五階から四階、三階の一部まで。死体は全部は確認できませんが多分隣の棟へと制圧に向かった分隊全員かと」調べに行った兵士からの報告を静かな口調で正確に伝えるその兵士は、こういう時のブージャム1が実は一番安全だという事を知っている。窮地に陥れば陥るほど冷静な指揮官というもう一つの顔が彼の表情に浮かびあがる。
「ふうん、6人もいっぺんにもってかれたかぁ。 ―― 原因は? 」
「可能性としては援護のクラスターに巻き込まれたことから敵のブービートラップに引っかかった事まででおよそ四通り、ただし報告ではセムテックスの爆発臭がすると」
「C-4? さっすが軍基地、そんなものまで持ってやがるとはなぁ」とぼけたように呟くブージャム1だったが実はそうではない。軍の施設 ―― とりわけモビルスーツを扱っている基地であればそれぐらいの物は持っている、問題なのはそれを的確かつ正確に扱える人材がいたという事だ。
確実に高脅威目標を壊滅できるだけの爆発のタイミングと自施設への損害を最小限に留めるだけの爆薬の量、もしあそこで起こった爆発がC-4による物だと仮定するならそこで一緒に吹っ飛んだ分隊長と同じだけの爆発物の取り扱いができたという事だ。敵の生死は分からないがもし生きているとしたら厄介な存在になる。
どうする? と爪を噛みながらひたすらに思考を巡らせる。こっちの建物は予定通り前線橋頭保にはできたがあっちの方は一階の部分だけを掃討してそのまま隣の建物で全滅してしまった、その隙に残った階の連中は一気に後退して残存兵との合流を果たしているだろう。女といえども武器を手にすれば立派な戦力、それを侮って過去には手痛い思いをした事だってある。
「 …… どうします? 」
「足止め喰ってる連中は一旦後退してこっちに合流させろ、もう一度部隊を編成し直して今度はダンプティ達の侵攻に合わせて攻撃を始める ―― クソ、あののろまどもがっ! このツケは高くつくぞっ! 」
「了 ―― 隊長、調査に行った班から連絡」一斉通信でブージャム1の命令を発信しようとした隣の兵が片耳を押さえながら通信を無言で聞き取る。「爆発箇所の隣の建物から非常ハッチが開閉する作動音が聞こえるそうです、追撃許可を求めていますが? 」
「この状況で非常ハッチを上げ下げ? …… どういう輩だ? 」非常ハッチの仕組みは当然理解している。一旦閉じられたあれを勝手口よろしく好きに開けられる人物が一般兵にいるとは思えない。
「追撃を許可する。どうやらそいつはこの基地でも重要なポジションを任されている人物のはずだ、追っかけンなら必ず仕留めろ。終わったら指示があるまでその場で待機と伝えろ ―― アレは奴らに持たせてあるな? 」
* * *
USBのソケットはターミナルに差し込んだまま、そして頭の中にはすでにあの数列が浮かんで打ち込まれる時を今や遅しと待ち構えている。しかしニナは指をテンキーに添えたままピクリとも動かない。自分の背後に迫っている敵に対して物音ひとつ聞かせる訳にはいかない、それはまるで駆逐艦に狙われた潜水艦の中で息をひそめる乗組員のようだ。しかしニナの努力も空しく背後の敵は彼女が想像もしなかった手段でその距離を縮めてきた。
油圧ジャッキが作動する低い音と重い物が持ち上がる際に発せられる鈍いきしみ、それが非常ハッチの持ち上がる音だと察知したニナはすぐさまキーを連打して自分の前に立ちふさがったままの重い鉄の扉を持ちあげた。これでもかと姿勢を低くしてくぐり抜けた先にある閉鎖ボタンを思いっきり叩くとすぐに次の扉へと向かおうとして、だがその瞬間に脳裏を過ぎった危機が足をその場に張りつけた。
「どうして敵がここの非常扉の暗証を ―― 」
ランダムに選ばれる暗証コードを見つけるには合法な手段では絶対にムリだ。自分のように自作の解読プログラムを使うか、または ―― 。
「まさか …… ここのマスターコードっ!? 」
彼女の危惧を裏付けるように足の裏から振動が届く、フラッシュメモリの形状をしたそれは差し込むだけで全ての扉を開く魔法の鍵だ、この基地でそれの所持が許されているのはウェブナー指令とドクの二人だけ。
「うそ、そんな事が ―― 」その鍵はどちらの手から奪われた物か? ドクはまだこの先にある医務室で怪我人の治療に奮闘しているに違いない、では指令が ―― いや、それよりもそんな物を敵が持っているという事は。
ハンガーまでの通路が全て敵の手に落ちたと言ってもいい。
扉をくぐり抜けた先には階下へと通じる階段と次の建物に繋がる連絡通路を閉ざす最後の扉。だがニナは自分を追いかけて来ると言う望みに賭けて迷わず階段を駆け降りた。このまま敵をハンガーへと案内する訳にはいかない、なんとか引き付けて別の場所へと連れて行かなければ。
たとえ自分がどうなってもそれだけは絶対にさせないっ!
* * *
夥しい血の海に横たわったままの連邦軍の兵士。目を開いたままこと切れている兵士の顔をコウの手が撫でて消えた光を瞼で閉ざした。「レオン、どうして君が」
見知った顔の冷たい体をいとおしむように眺めたコウが目を閉じてそっと掌を合わせるとその向こうからパットが手を血だらけにして歩いてきた。「向こうの歩哨もダメだった。喉から頸動脈までざっくりと斬られてる、あれじゃあ ―― 」
医療の心得が少しはある彼でもその凄惨さは目に余るものらしい、険しい顔で拳を震わせながらキャンベルへと視線を向ける。キャンベルはすでに小さな聖書を片手にイザヤ書の一節を小さな声で朗読していた。エイメンという締めの言葉の後に訪れた沈黙を破ったのはやはりヘンケンだ。彼は燃え盛る炎に沈むオークリーへと目を向けた。
「モビルスーツだけじゃなく地上部隊まで投入されてるとは。こんな僻地にそんなに大勢で押し掛けて一体何が望みだ? 」
「敵は …… ティターンズ」
絞り出すように呟いたコウの言葉に対しての四人の反応は驚くほどあっけなかった。「そういう連中だとはうすうす感づいてはいたが、いかんせん動きが早すぎる。こっちはまだ何の準備のできちゃないのに …… で、そのティターンズとかいう無法者の輩の目的は? 」キャンベルが後頭部を掻きながらため息まじりに尋ねる。
「ニナ …… いやニナ・パープルトン技術主任の殺害が目的だと。その為にドイツのMPI研究所を占拠したテロリストを鎮圧した部隊を投入したと」
「ウラキ君はその話を誰から? 」コウを慮るようにヘンケンが言った。彼を再び戦火の渦中へと飛び込ませる理由としてはこの上ない、彼女に訪れる危機が昔の彼を呼び覚ましたと言うところまでは百歩譲って容認してもいい。しかしその為の交換条件が慎ましい平和と穏やかな未来というのは彼の人生にとって等価だと言えるのだろうか?
「分かりません、聞き覚えのない声でした。ただ電話の相手は自分の事を『ディープ・スロート』と名乗っただけで」
「ハン、そんな古風な名前を持ち出して自分の罪を少しでも薄めようとでも言うのかしら? 」冷たく響くセシルの声。
「どうあがいても所詮は敵ということね。偽善者風情が何様のつもり? 」
「俺達は反ティターンズを目的として結成された組織の一員だ、まだ産声を上げたばかりの小さなモンだが」
炎の揺らめきがイーグルのそばに立つ二人の横顔をゆらゆらと照らす。真っすぐに向けられたその瞳が放つ強い輝きを見たヘンケンはここが潮時だと感じた。これ以上彼に嘘をつき続ける事はできない、と。
「すまない、黙っているつもりはなかったんだが」
「どうして今になって? 」
「本当はイヤなんだよ、隠し事が。指揮官としてはあるまじきだがそんなバカがこの世界のどこかに一人ぐらいいても困らないだろ? …… で、ウラキ君はこれからどうする? 」
本当の彼はとてもいい男なんだな、とヘンケンは思った。友達には辛い顔一つ見せずに、しかしその声には強い覚悟が少しだけ。
「ニナを探します。彼女は絶対にどこかにいる、だから必ず助けます」
「そうか、なら ―― 」どんな言葉も今の彼には無意味だ、と小さく笑ったヘンケンは腰に手を回した。「これを持っていけ」
預けられた物にコウは覚えがあった。それはかつてガトーを撃った時と同じ物。「俺の私物だ、戦場に丸腰はいかにも心もとないからな」
「それとこれも」いつも間にか背後に歩み寄っていたセシルがコウの背中に手にしたタクティカルベストを背負わせた。素早く前に回るといくつかのスナップを留めて左右のベルトで固定する。「右の胸ポケットに予備弾倉が二個、左にはアドレナリンのインジェクターとモルヒネが入っています。防弾チョッキは差し上げられませんがこれはヘンケンは使わないので」
「そんな、ただでさえ貴重な装備を俺に ―― 」
「俺はそういうのが昔からからっきしでな、セシルの方がよっぽどうまく的に当てる。それに俺がそんなものを使った時点で ―― 」そう言うとヘンケンはセシルに着せられた防弾チョッキのジッパーを上げながら笑った。
「 ―― 負け戦だ」
「ではここでお別れだ」ヘンケンはそう言うとスッと右手を差し出し、握り返したコウはその掌の感触に彼の本当の姿を見た。ゴツゴツとしたいくつかのマメと硬くなった皮は彼が農夫という職業を全身全霊を込めていたと言う証で、決して自分達のカモフラージュのためにおざなりな気分で勤めていた訳ではないという事を教える。
「君は君の望みを果たせ、俺は ―― いや俺達は君がそれを叶えて生きて明日を迎える事を心から願っている」
「ありがとうございます …… ヘンケンさんも」
おう、と言いながら踵を返してイーグルへと向かうヘンケンの傍でセシルが小声で指示を出す。その背中を眺めながらコウは初めて他人がうらやましいと思った。今まで夫婦と言われても何の疑いも持たなかった、たとえ上司と部下と言う関係であれその二人の姿は描くべき明日に向かって希望を持たせる。
自分もニナとそうなりたいと願っているのだ、そしてきっと本当にあるべき未来を今日ここで取り戻して見せる。
「ウラキ君! 」モタードに跨ってセルを回そうとしたコウに向かってヘンケンが振り返った。
「このドタバタが終わったら明日は生き残りを集めて俺の家でパーティーだっ! この前買ったバーボン忘れンなよっ! 」
拳を掲げて大声をあげるヘンケンに向かってコウは微笑みながら右手を掲げて応えた。
灯火を消して基地の裏手へと立ち去るイーグルの後ろ姿を見送りながらコウはセルを回した。再び蘇る獣の鼓動は驚くほどスムーズだ、彼はタンクをポンと叩くと修羅場へと突入する前とは思えないほどやさしい声で腰の下で武者震いをする今の相棒へと声をかけた。
「いくぞ、モタード …… 覚悟はいいか? 」
この世に一号機が生まれて以来見た事もない世界へと足を踏み出す恐怖、だがコウのモタードはゴウッと息吹を上げて主人の意思をくみ取った。 ―― そうだ、冷たい鉄の塊にも意思はある。コウはそれを何度も感じ、幾度となく助けられた。
クラッチを繋ぐと音もなく路面を滑りだして鉄火場となった基地の敷地内へと前輪を乗り入れる、コウとモタードはそのまま敵に気取られないようにそっと最後の舞台へと足を踏み入れた。
* * *
山頂まであと一息というところでライフルに接続されている夜間照準器の動態センサーが作動した。キースはそっと身を伏せてそのまま周囲の気配を探るが感知したのは近距離に迫った高脅威目標に対する反応ではなく、もっと遠くで動き出した物に対しての反応だった。
「あれは …… 敵? 」
システムのセンサーがモニター上に赤い矢印で目標物の方向を示すとキースはスナイピングゴーグルを下して顔を動かした。システムが接続された機器とシンクロしたジムはそれだけの動作でもパイロットと同じ首の動きを再現する事ができる。
スッと視線の右端から中央へと訪れる影、スコープのスターライト機能が反射するわずかな光を拾ってキースの目に確かな実体をもたらす。そこには殊のほかゆっくりと動き出す何機かのモビルスーツの影が映っていた。
「あれが、敵か」確かに連邦軍の機体、それも最新型のジム・クゥエル。だが全身を非反射属性を持つ黒で塗りつぶされて頭部には何本ものセンサーが突き出ている、美しいとは言えないがどう見ても夜戦特化型の機体でありキースはそんな物が連邦軍に配属されたという噂すら聞いた事がない。
しかしそれにしても送られてきた対物ライフルの威力はすごい。この距離でセンサーが反応すると言う事は対象が確実に射程圏内にいる事を意味している。見てくれこそ個人携行装備だが性能は野戦重砲に匹敵する ―― もちろん特殊弾頭込みでの話だが ―― と言うのならこれ一丁でも十分に戦える。「三人に感謝、だな」
だがスコープを見つめるキースには違和感があった。敵の部隊が動き始めれば当然そこにマークス達が突入して敵の進行を妨害撹乱していなければならない、その手筈なのになぜかそこに二人の気配はない。それは敵の部隊が全容を現して基地のフェンスを乗り越えて滑走路の敷地内に侵入しても変わらなかった。
「まさか。あの二人に何かあったのか? 」
モビルスーツが二機とも故障 ―― いや、そんな事はうちの機体に限って一機たりとも考えられない。イエローコーションはあの電文を見た時から発動していたし、モウラの陣頭指揮で動き出したそれ以降の整備班がそんなヘマをする訳がない。いざとなったら自分が打って出るしかないのだが、それではこちらも重砲の餌食になる。自分が敵を射程に収めたのならここはすでに相手の射程内だろう、口径の大きさではこちらが断然不利だ。
この作戦の成否はあくまで自分の奇襲が鍵になる、せめて二人の状況だけでも分かれば ―― 。
スナイピングゴーグルを顔から外したキースの目に焦りの色がありありと浮かぶ。二人と連絡を取る方法、なにか …… 何か手段はないか? 二人とだけじゃない、もう一度無線を回復して基地全体のネットワークを繋げる方法は ―― 。
―― あ。 ――
* * *
「おいっ!そこの動けるヤツ、目の前の戸棚にある青いビンを持ってこいっ! 」モラレスの怒鳴り声が響くそこは最前線の野戦病院のようだ。黒いピンがつけられた兵士は黄色いピンをつけた怪我人が部屋の外へと運び出して、開いた場所には赤いピンがつけられた兵士が優先的に運び込まれる。だがドクの他には夜勤で待機していた看護婦が二人だけ、これでは押し寄せてくる怪我人のトリアージすら間にあわない。
「だいたい戦争でもないのにそんなにピンがある訳ないじゃろうがっ! 誰か動けるヤツっ! 向かいの部屋から段ボールを持てるだけここに持ってこいっ! 」怒鳴りながらも彼の手は着実に患部を覆う軍服にはさみを入れて斬り開く、今見ている兵士は重度の火傷を負ってはいるが歩行に支障がない。早急に治療を済ませて現場へと復帰させるというモラレスの判断だった。平時と違い戦時では治療の順番が逆になる、戦えそうな者を一番最初に治療してすぐに戦場へと送り返すのが野戦救急医療の常識だ、人命は優先しない。
「ドク、青いビンを持ってきた。 …… 悪い事は言わない、あんたも早くここから逃げたほうがいい。敵は恐ろしく腕が立つ上に容赦ない、ここだっていつまでもつか」
「おお、すまんな、と言いたいとこじゃが臆病風を治す薬はここにはないぞ? それに余計な心配するくらいならさっさと自分で赤チンでも塗ってとっとと敵と戦ってこい、また怪我したらお前さんが死ぬまで直してやるから。医者舐めんな」独特の罵声を浴びた男の右手首はきつく縛られたまま先がない。それでも苦笑いを浮かべたその兵士は右手を押さえながら看護婦たちの手助けに向かった。
「とりあえず皮下に麻酔してから感染症予防の抗生剤を塗って油紙じゃ、包帯を巻くから少し動かしづらいがまだいけるな? 」モラレスに治療を施されている男はニヤリと笑って頷いた。
「片手のない奴が赤チンで戦線復帰なら自分はまだ五体満足なうちでしょう、大丈夫。まだやれます」
「その意気じゃ、さすがに陸戦隊の若手じゃのう。覚悟が違うわい」包帯をクランプフックで止めるとその兵士はおもむろに立ち上がってすぐに医務室を出ていき、その背中を何とも言えない表情でモラレスが眺めて見送る。
傷ついた兵士が簡単な治療で戦線に復帰しなければ現状を維持できないと言うのではすでに負けが目に見えている、そして今の医務室の現状にもモラレスは不安を覚えている。もしウェブナーが指揮を執っているのならこんな事は絶対にあり得ないのだ。
自分のチェスの仇敵にして鉄壁の守備を誇る奴がここまで怪我人を輩出するような下手を打つはずがない。それは軍の救急救命部の部長から一介の船医として赴任してきた時からの彼らに対する評価だった。いまだにはびこる派閥制度に嫌気がさして戦艦に乗り込み、ルウム戦役の撤退戦中に奴らと出合い。たった二隻のサラミスで敵の真っただ中へと飛び込んで行ったかと思うと何事もなかったかのようにケロリとした顔で帰ってくる。常識外れの艦隊運動と防御に優れたあの二人が、たとえ片割れといえどもそうやすやすと敵にしてやられるとはどう考えても思いつかない。
「宇宙と地上では勝手が違うじゃろうが …… まさかウェブナーに何かあったんじゃあるまいな? 」
嫌な気分に胸がざわめき始めた瞬間に突然彼の白衣のポケットから勇壮な音楽が流れてきた。「なんじゃ、もう片割れの方か」
取り出した携帯から流れるフォイクトの『騎兵隊行進曲』を通話ボタンで消すとモラレスは人の悪い笑みを浮かべた。「なんじゃい、今頃のこのこと現れおって。大方キャンベルあたりを呼んでおっとり刀で駆けつけて来たんじゃろうが、戦況は取り留めもなく劣勢じゃわい」
「 “ 文句はチェンに言ってくれ。状況把握ができないままで「なんかおかしい」と言われてもこちらも対応に手間取る。ところでウェブナーは? ” 」
「まだここには来とらん。怪我はしとらんようだからいるとすれば管制塔の下の指揮所か前に喧嘩した司令官室か。最悪の場合機密書類を自分の手で破棄しなきゃならんからな」
「 “ わかった。じゃあ俺達はとりあえず司令官室の方に行ってみる、ウェブナーと落ち合ったらまた連絡する ” 」
「何を呑気な」はあっとモラレスがため息をつく。「そんな事言っとらんでお前さんが指揮をとればいいじゃろう? どうせセシルもそこにいるんじゃろうし。ここまで来てまーだ民間人と軍人の垣根を気にしとっても始まらん。ウェブナーだってお前が相手なら喜び勇んで熨斗つけて、はいどうぞと手渡すに決まっとる。時期が早いか遅いかの違いだけなんじゃから」
「 “ …… いや ” 」電話口の声がモラレスにはなぜか重く感じた。「 “ 現役を差し置いて「元」が口出しすべき事じゃない。それに『准将』からはカモフラージュの間はウェブナーに任せろときつく言われてるしな ” 」
「お前さんたちの派手目が裏目に出たんじゃろう、身から出た錆じゃ。謹んで受け取っとけ。 …… じゃあ早いとこウェブナーに会って医療班からの苦情を届けてくれ、このまンまじゃ医務室にキャンベルを十人ぐらい連れてきてもらわにゃいかんとな」
さりげなく現状をほのめかしたモラレスだったが返って来たのはヘンケンの憎まれ口だった。どうやら「身から錆」の余計なひと言にカチンと来たらしい。「 “ よーかったじゃないか商売繁盛で。今までこんな僻地でぬくぬくとしてきたツケだと思えばそれくらいの患者、いっくらでも相手できるだろ? まあ俺だったら今のドクに見てもらうのは丁重にお断りするがね、リタイア寸前の腕利きの救命部長を信用しなきゃならないってシチュエーションがどうも。有無を言わさずそこに運び込まれた同胞兵士諸君に俺は心から同情するぜ ” 」
「おお、よう言うた。もし貴様が掠り傷を負って儂に泣きついて来たらハンマー持って出迎えてやるわい、ひと月ほどベッドの上で身動き出来んじゃったらその減らず口もちっとは静かになるじゃろうて」 携帯に向かって叩きつける物騒なモラレスの物言いに足元で横たわる兵士の何人かが苦しい息の下で微かな笑い声を上げる。悲壮感が蔓延する場所だからこそそんな軽口が僅かな心の慰めになる、モラレスは足元で笑う兵士の顔を見下ろして悪戯っぽい表情で笑い返した。
「じゃ、もう切るぞ? 早いとこウェブナーを見つけて何とかする様に言ってくれ。もし怪我をしているんなら儂がそこまで行って声の一つも出せる様にしてやるとな」
「 ” 分かった、ドクもくれぐれも用心しろよ。また後で連絡する ” 」
「誰からですか? 」ニヤニヤが止まらないモラレスに向かって横たわった兵士が尋ねる。彼の胸には赤いタグがつけられて呼吸も脈拍も生き延びるには心もとない、だがモラレスはその兵士の頭の傍にしゃがんでにこやかに笑いながらささやいた。
「援軍じゃ、それも一個師団に匹敵する」そう告げると兵士の表情にみるみる生気が蘇る。医療の限界と人の持つ可能性、その両方をモラレスは自分が生涯携わった生業の中でしみじみと噛みしめて来た。千の機械や万の薬をもってしても助けられないかもしれない患者がたった一言で死の淵から這い出して来るその光景を見て。
「生きて明日を拝むんじゃ。そうすればおもしろいモンが見られるかもしれんからな」
* * *
「これで ―― いいのか? 」ヘンケンは血の海から離れた場所まで引きずり出したウェブナーに声をかけた。顔色はすでに青を通り越して真っ白になって体のどこにも温かい場所がない ―― もう手の施しようのない事は誰が見ても分かった。
「ありがとう、ございます。これで …… ドクは治療に ―― 」声を遮って喉から湧きだす血の塊が上半身を抱き上げたままのヘンケンの胸元を真っ赤に染めた。始まりだした震えを抑え込むようにヘンケンの手に力がこもる。
「私は、みんなを守りたかった。 …… 彼らは来たるべき時に備えて貴重な戦力となる為の大事な兵士、一人も欠けることなく万全の状態で『准将』の下へとお届けするのが私の役目。だから ―― 」
「敵との取引に応じたのか? ニナ・パープルトンの身柄と引き換えに基地への襲撃をやめさせるという」
早口で呟かなければもう意識が持たないのだろう、震える唇が何度も言葉を紡ぎ直しながら必死で自分の心を伝えようと試みる。「たった一人の命と兵士たちを天秤にかける事は、私にはどうしてもできなかった。 ―― 中佐」
ウェブナーの手がなけなしの力を振り絞ってヘンケンの二の腕を掴んだ。「私は間違っていたんでしょうか? 指揮官として、あなたの部下として! 私の選んだやり方はっ!? 」
聖書を取り出そうとするキャンベルをセシルが小さく頭を振って押しとどめる。沈痛な面持ちでウェブナーの脈をとるパットは涙目をヘンケンに向けた。
「そんな事はない、お前は正しい事をしたんだ」ヘンケンの左手が二の腕を握りしめたウェブナーの手を覆った。少しでも自分の温かさが伝わればいい、と。「部下を預かる指揮官として。俺の部下として。 …… 間違ってなどいない、お前は正しいやり方を選んだんだウェブナー。いつも通りに」
ヘンケンの言葉に子供のようににっこりと笑った ―― それがウェブナーの限界だった。力を失った手がヘンケンの二の腕から滑り落ち、表情からスウッと生気が抜ける。
「少佐っ! 」叫んだパットが慌てて腰のポーチから強心剤を取り出してアンプルの先をへし折った。震える手でシリンジを突っ込んで中の液体を吸いだし、命だけは何とか取り留めたいと二の腕を捲りあげたパットの手はそれよりも遥かに力のないウェブナーの手によってそっと押しのけられる。涙を溜めながら視線を送るにわかの救急救命士に向かって、かつての仲間は小さく頭を振って彼の願いを拒絶した。
「中佐、まだ、そこに …… いらっしゃいますか? 」開き切った瞳孔が宙を彷徨う。「あとの事を、お願い、しま …… す。みんなを ―― 私たちの部下を、たすけて …… くださ、い。夜明けには、敵の航空 ―― 機がここを爆撃します。そのまえに …… どうか」
ふわふわと空に差し出された血まみれの手をヘンケンがしっかりと握りしめる。そのまま自分の額へと押しあてて硬く目を閉じた。「約束する。必ずお前の部下は俺達が助け出してやる ―― 必ずだ」
ブージャム1が言った事に間違いはなかった。こと切れる最期の瞬間まで続く激痛がウェブナーを襲い、どこにそんな力が残っていたのかとヘンケンが思うほど激しくもがき苦しんだ。別れを惜しむ事が今の彼にとってどんなに残酷な事かヘンケンには分かっている、それでも握りしめた手がどうしても離せない。
だがその葛藤に終止符を打つきっかけを作ったのは一番後ろに控えて立っていたはずのチェンだった。彼はデスクに近づいて引き出しの中から取り出したウェブナーの拳銃をヘンケンの目の前に差し出すと顔をそむけたまま小さくうなずいた。
「 …… ウェブナー、今楽にしてやる」
握りしめた指を一本ずつ引きはがしてそっとウェブナーの体を床へと横たえ、苦渋に塗れた声と共に立ち上がったヘンケンは何度もためらいながら ―― だが遂にその決意を固めてゆっくりとスライドを引いた。かちりと撃鉄が上がる音が聞こえたのか、ウェブナーは最後の力を振り絞って敬愛する上官からの最後の情けを受け取った。
「 …… お手数、を、かけます。 ―― みんなに、謝っておい、て、くださ、い。無能な、指揮官で …… 申し、訳、なかった ―― と 」
不規則に動く胸の真ん中へと狙いを定め、少しづつ右手の人差指に力を籠める。指の腹が白くなり始めた時に目の前で息絶えようとする戦友はにっこりと笑って呟いた。
「 …… うまれかわっても、また、あなたの …… したで、はたらきた、い」
放たれた一発の弾丸がもたらす悲しい結末と一瞬の光芒。照らし出された参列者は去来する様々な感情をそれぞれの表情で表した。初老の機関長は聖書を取り出すこともなく弔いの言葉を呟き、助ける事が叶わなかった先任航海士は小さな嗚咽を決して広いとは言えない部屋の片隅に振りまいている。上官の希望を翻意させた東洋人のオペレーターはうつむいたまま眼鏡を押し上げて何かを呟き、そして彼を苦痛から解き放った上官とその副官は瞬きもせずにその一部始終を脳裏へと焼きつける。
たなびく硝煙の下で穏やかな笑みを浮かべて一生を終えた戦友の顔を凝視したまま身動き一つしなかったヘンケンはギリ、と奥歯を鳴らすと振り向きざまにセシルへと拳銃を手渡し、そのまま足早に彼女の横をすり抜けると両肩を震わせながら目の前にある頑丈なドア目がけて怒鳴リ声を上げた。
「チェンっ! 」俯いていたチェンが見事な身のこなしでヘンケンの背中へと答礼する。「指令室以外にこの基地の全機能を乗っ取れる場所はどこだっ!? 」
「ハンガー直近に置かれた予備電算室、現在自分のパスワードで機能封鎖中。いつでも解除してすぐにでもこの基地の全機能を制御できます」
「キャンベルとパットは直ちにグレゴリーと合流して残存兵力を掻き集めろっ! 敵の地上部隊が息を潜めている今しか戦線を立て直す機会はない、籠城しながらカウンターの機会を狙うぞっ ―― 副長っ! 」
敬礼をしたまま小さく頷くパットとキャンベルの前に立つセシルだけは手を身体の前に置いたままじっとヘンケンの背中を見つめている。「機能掌握までに反撃のプランを立案、以降のオークリーにおける全オペレーションをお前に一任するっ! 」
「艦長 ―― 」
セシルにとってそれは大事なことだった。
密命を受けてからこの三年間、仮初めとはいえ夫婦という幸せな役回りを頂いた彼女にとってそれは夢の終わりを意味している。
「軍務への復帰を …… ここで宣言なさいますか? 」
彼女が放ったその言葉の重みにヘンケン以外の三人はビクッと肩を震わせた。それを口にしてしまえばもう後には戻れない、戦火に塗れながら誰しもが夢見たあの平和な日常がまた鮮烈で過酷な過去へと舞い戻る。復讐心に駆られていた彼らを落ち着かせるのにそれ以上の物はない。
セシルにとってもそれは同じ。彼と共にこの先を歩むと言う事はその能力の全てを勝利のために残らず費やすという事、たとえそれがどれだけ非情な選択を迫られるような事であっても、だ。
「 …… あいつの願いを叶えるために今それが必要だというのなら、そうするしかない」背を向けたまま呟いたヘンケンがセシルの方を振り向いた。二人の顔に宿るかすかな悲しみとかつての光を取り戻し始めた両の目が、お互いにしか分からない様々な感情を行き来させる。
「反地球連邦暫定政府宇宙軍所属、ヘンケン・ベッケナー中佐。地球連邦軍北米方面軍所属オークリー基地司令、クリス・ウェブナー『大佐』の遺志を継ぎこれより軍務に復帰する事をここに宣言する」
「艦長に、敬礼っ! 」
戦いが、また始まるのだ。
いつ終わるとも知れない歓喜と絶望に満ちたあの日々が。