キーの乱打から紡ぎだされるプログラムは恐らく最強のハッカーの一人であるチェンが考えうる最良かつ最強の対抗策。しかし彼が今まで積み上げてきた実績と経験を否定するかのように遠く離れた南半球のジャングルの地下で、数多の彼の同胞を葬り去って来た鉄壁のプログラムは構築間際のその策を青いウインドウの画面と共に一瞬で雲散霧消させている。
息を呑むその攻防が何度も何度も繰り返される景色の中でマークスはふと画面の片隅に小さく置かれた大勢図の数値へと目をやった。処理速度という点に関してはほんのわずかチェン側のスキルに軍配が上がりつつあったがそれは相手がチェンと同等の能力をもったハッカーを何十人も相手取って戦っている事から生ずる利得にすぎない。そしてその優位性は時間の経過とともに徐々に失われつつあるようだ。
「ここいらが限界か」
肩越しにチラリとサーバーへと目をやってため息交じりにつぶやくチェン、6台置かれたサーバーのうち3台が押し寄せる危機のプレッシャーに対抗するために自律起動を始めている。これ以上電力を消費すると異変に気がついた誰かにログを追いかけられかねない ――
“ 足がつくようなへまをするわけにはいかないからなぁ、今回だけは ”
「アデリア、よろしく」チェンが声をかける前に古くから彼を知る友人は行動を起こしていた。髪から抜き取ったヘアピンをトレイの下にある小さな穴に突き刺して強制解放させ、処理済みのディスクをいつの間にか手にしていたディスクと交換して無理やり元の位置へと押し込む。何秒かのローディング音の後に解凍されたプログラムはモニターの隅に幾重ものDOSVウィンドウを立ち上げた。
プログラム実行、パージ。
エンターキーを叩くと同時に消え失せるウインドウの束、同時に警報は解除されてモニターは元の静けさを取り戻す。呆気にとられたマークスが気付いた時にはすでにサーバーの一台は電源を自動的に落としていた。
「ふう、どうやらうまく喰いついてくれた」小さくため息をついたチェンは割と落ち着いた風情でアデリアからディスクを受け取るとトレイの物と交換する。
「今 …… 何をしたんだ?」
「今回ジャブローに侵入したプログラムのβ版をマスターとすり替えてパージしました、今頃攻性プログラムは替え玉とも気付かずムシャムシャと」物を食べる仕草を左手で真似ながらチェンは悪戯っぽい笑顔で答えた。「容量もデカイし内容も奴が喰いついた侵入プログラムとほぼ同じ、全部食べきるころには私はデータを持ってそっとおさらばっと」
「でもそのプログラムって今使ってるマスターの元プログラムだろ、そんな大事な物を ―― 」
「そりゃ大事な物ではありますが命と引き換えにできるものじゃない。ここが無事なら ―― 」チェンは自分のこめかみをコツコツと二度叩いた。「何度でも、それ以上の物も作れますから ―― 」
「えーっと、二人で盛り上がってるトコ悪いんだけど」 穏やかになりつつある薄闇にとげを忍ばせるようにくぐもったアデリアの声がした。
「チェン、サーバーから一向に出らンないんだけど」アデリアの細い指が何度もエスケープキーを叩き、それによって変化するはずの画面は微動だにせず。すなわち自分たちはいまだにレベル5の虜になっている事を示していた。
チェンとマークスから笑顔が消失する、チェンはアデリアから操作を受け取るとウィンドウの上隅にあるXボタンをクリック。しかし画面はフリーズ。
「 ―― くそったれ、『ちょい見ない』間にあざとい知恵付けやがって。出口に外からカンヌキかけるとは小癪なまねを」
雑な言い回しにマークスが驚き、アデリアがへえ、とチェンの横顔へと視線を送る。ここまで乱暴な物言いをする彼の姿をアデリアはここ何ヶ月かお目にかかっていない。「んじゃ、ここから出られないってこと? 」
言葉の意味にマークスの背中がぞくっとする。出られないという事はいずれあの貴重なプログラムを喰い尽くした奴がここを突きとめて襲いかかり、同じようにプログラムの解体を始めると言う事。そしてその中にはチェンが不正に取得した彼の大将の認識番号やら経由したサーバーの痕跡やら何やらありとあらゆる指紋や足跡が残っているはず ―― つまりはこのオークリーに連邦軍のMPが大挙して押しかけるのは間違いないという結論だ。
酸っぱい物をごくりと喉を鳴らして胃の腑へと収め、罪人の持つプレッシャーに押しつぶされまいとしたマークスが思わず口を開きかけるがそれよりも早くチェンはさっきよりも大きなため息を一つついてから、カチャカチャとキーボードを叩いた。
「まさか最後の最後にこの仕掛けを使うことになるとはねぇ」
立ち上がったウィンドウは一枚、打ち込まれた10ケタの数字とY/N。チェンがYのキーを押した瞬間にモニターは侵入前のメルカトル地図へと描き変わり、それは三人がジャブローのメインサーバーからの脱出に成功したことを意味した。タネのわからない脱出ショーを目の当たりにして言葉を失うアデリアとマークス、彼らはモビルスーツを扱うという点で決してプログラムの素人ではない。だが熟練のサーファーよろしく危険な波をかいくぐってプカプカとネットの凪へと帰還を果たしたチェンの技を目にしてしまった後では自分たちの技量が子供だましのようにも思える。残ったものは ―― やはり子供じみた、好奇心。
「唯一無二の、バックドア」二人を制してチェンが口を開いた。「今までここを攻略しようとして負けたハッカー達の命懸けの罠です。レゴを組むように少しづつ、敵に気取られないように仕掛けた針の穴のようなプログラム。まさか僕が使う羽目になるとは」
「そんな貴重な物を俺たちのために ―― 」
「奴に勝つためです」かすかに声音を沈ませたチェンの目はじっとモニター上に表示されている大勢図へと注がれている。最後まで彼らを逃がすためにジャブローのサーバーへと攻撃を続けたハッカーは残り5人 ―― 1万人いた腕っこきがあれからの攻撃の間に、たったこれだけ。
「明日のお昼のニュースは多分今晩の事で持ちきりでしょう、『世界中のネット犯罪者、ジャブローを攻撃』っとか何とか。でも僕らが無事に帰りつけさえすればあの『サンダーバード』が無敵じゃない事を証明できる、彼らはそのために危ない橋を渡る事に同意してくれたんです」
チェンの声にほんの少しの悲壮感がある、しかしマークスはその理由がなんとなくわかる。ここで敗れたチェンの仲間の大勢はこの何日かの間に当局の手で拘束され、そして行き着く所は重大な犯罪者が拘留される連邦軍アンデス刑務所 ―― 通称シャンバラ。
「それにこの無茶にはまだ望みがある。『サンダーバード』が無敵でなくなった理由は攻撃に参加した彼らや捕まっている仲間にしか分からない、もしかしたらそれを解明するために拘束されている仲間も含めて処断されない奴らが出るかもしれない。 ―― 軍曹やアデリアの希望とは別に僕には僕の目標があったんですよ」
「だからと言って君の仲間を大勢犠牲にして得るには、戦果が小さすぎるんじゃないか? レベル5にまで潜ったんだ、もっと連邦軍を告発するために効果的な証拠も握れたはずだろう? 」
マークスの問いかけに対して返って来たのはチェンのうっすらとした笑みだった。薄闇の中に浮かぶそれは短い付き合いのマークスが寒気を覚えるほどの凄味がある。
考えてみれば彼にはどこか不思議な気配がある。アデリアの友人とはいえいつも作られたような微笑みを張り付け、いともたやすく人を信用させるその人となり ―― 事実マークスも今回の事で彼を頼った ―― はマークスの危機管理の逆鱗をいつもどこかで逆なでする。加えて第一級犯罪ともいえる国家機密への不正侵入を図るために準備された手筈と世界中に散らばる協力者、そして脱出のために用意された様々な手段。
―― たった一人の人間にそれだけの物がこの何日かの間に用意できるものなのか?
「チェン、君は一体」
* * *
「 ”作戦開始まであと5分” 」
カナル型のイヤホンから忍び込む観測車からの報告。ブージャム1は手にしたグルカナイフをそっとシースに収めながらおぞましい笑みを隣の通信兵へと向けた。
「内通者に連絡、パーティーまであと5分。手筈通りに。予定の変更はない」
* * *
「失礼」
答えの代りに差し出されたのはチェンの右手と短い言葉だった。デスクの上に置かれた彼の携帯は着信を知らせる赤ランプが点滅している、チェンはそれをおもむろに取り上げると周囲をはばかるようにそっと情報ホログラムを展開し、今しがたまで浮かんでいた笑みを封印しながら耳にかけた。
「 …… 僕です、 ―― 5分後?」そう告げたままじっとモニターへと視線を向ける。「わかりました、ええ。 …… そちらも気をつけて」
通話を終えたチェンの表情が硬い。いつも余裕綽々の笑顔しか見た事のない二人には、その電話の内容が今までに訪れたどの危機よりも深刻な物だという事を言外に察した。
「くそっ、どこのどいつだっ! とんでもないシステム作りやがって! 」眉間に険しいしわを寄せたチェンがデスクの上で両手を思い切り握りしめた。
固唾を飲んで見守る二人に向かって告げた彼の声には明らかな怒りが混じっている。何が起こったのかは知らない、でもチェンが今どういう立場に置かれたのか、どんな気持なのかという事ははっきりとわかる。
―― これほどのスキルを持つ彼が自分の戦場で、あっさりと敗れたのだ。
「外でモニターしてる僕の友達からです、僕のプログラムに接触した時に、『銛』を打ち込まれました。撒く事は ―― いくつかの手段を除いて多分不可能です」
「5分後って?」アデリアが間髪いれずに問いかける。
「追手が僕の持ち出したデータに噛みつくまでの時間。ダウンロードが終了するかしないか―― 多分ほぼ同時」
そこからのチェンの作業は多忙を極めた。少しでも時間を稼ぐためにありとあらゆる手段 ―― 帰投ルートを変更してより容量の多い回線を選ぶ、または分岐にデコイを放って敵の走査能力を分散させて速度を削ぐ ―― を試しはしたが一旦紐の付いた目標からよそ眼をくれる輩ではなかった。彼が言うには過積載のトラックが警察のヘリに追いかけられているくらいに深刻な状況なのだと言う。
逃走を続ける自分たちのデータは青いライン、対して追いかけるサンダーバードの送り狼は赤いライン。いっそのことデータを捨ててはと提案したマークスだったが捨てたところでこの状況が変わらなければただの捨て損だと、いかにも商売人の論理でそれを一蹴するチェン。とはいえ後ろから追いすがる連邦軍の間の手はいよいよ指呼の間に迫りつつある。
かくなる上はとチェンが実行した手はそれを手もなく眺めている二人の度肝を打つほど凄まじい手段だった。
「こうなったらしょうがない、僕と付き合いのある会社のサーバーを使わせてもらおう。何十社か使えばそれでなんとか少しは引き離せる」
「えっ? でもそんなことしたらその会社 ―― 」 聞きとがめたアデリアが尋ねるとチェンはふっと小さなため息を漏らした。多分その未来は二人の中で同調しているのだろう。
「ハッカー対策の防壁はもちろんあっという間に奴に喰い尽くされる、ベニヤかトタンほどの役に立たなくてもそれで何秒か稼げるなら御の字だ」
果たして彼らの予想は正嫡を得ていた。世界中の主だった都市にあるアパレルメーカーやIT企業をかけずり回ってなんとか時間を稼ごうとするチェン、追いすがる送り狼の速度は確かにそれぞれの企業のサーバーに侵入したとたんにせき止められたようにもみえる。しかしその変化もつかの間の事にすぎない。自社の権利と極秘資料を決して外部に漏らさないように立ちはだかるその障壁を奴はまるで古代の肉食恐竜よろしくむしり取ってあっという間に咀嚼している。
「この一瞬で、会社の内部情報が、全部、まる裸? 」枯野の野火を思わせる圧倒的な突破力にアデリアは声を詰まらせた。それは声を失ってただモニターを見つめるマークスにしても同じ心境 ―― いや事の提案を持ちかけた当事者としては忸怩たる思いだった。自分の好奇心から始まった些細なミスがまさか世界中の企業の防壁を壊滅させることになるなどとは想像もしなかった。
「あと、一社。 …… 頼むぞ」つぶやきながらチェンが香港にある企業へと一目散に突っ走る。そこから先にもう都市は存在しない、広大な太平洋の海底奥底を突っ走る海底ケーブルが一直線にハワイを経由してキャリフォルニア基地へと続くのみ。純粋な時間との闘いが待っている。
その会社はチェンが取引をする物の中でも特別なものだった、かすかな期待を込めたつぶやきと共に青いラインはその先端を迷わず南シナ海上へと吸い込まれる。後に続こうとする赤いラインは確かに他の物よりは長くそこにとどまってはいたのだが、チェンの予想よりははるかに短いものだったのだろう、再び動き出すその先端をねめつけながら彼は腹立たしげにつぶやいた。
「 …… ちぇっ、ベルトーチカめ。更新さぼったな。ちょっとは僕の苦労がわかればいいんだ、ったく」
「 …… これでもう打つ手は最後の手段しかありません」椅子の背もたれにドカッと体を預けながらチェンが言った。向けた視線の先 ―― すぐ手が届く所に大きなサーバーの筺体があり、彼はその薄闇にぼんやりと浮かぶ『緊急』と書かれた文字をじっと見つめている。
「みんなの尊い犠牲によってなんとか時間は稼げた、あとは僕たちが正体を眩ませればどうやら助かる」
この期に及んでどうやって、などと言う野暮な質問はご法度だ。それはチェンの視線の先に目をやった二人にもなんとなく理解できる。「サーバーの電源を落とすだけで大丈夫なのか? 」
「ネットとの電気的接続が遮断されれば自動的に繋がってる紐も切れる、もちろん奴は跡を探してその辺をしばらくの間うろうろはするでしょうが。でもこの基地は地勢状奴のねぐらに比較的近いからすぐに帰り支度を始めるでしょう。そういう意味では連邦軍らしい淡白で傲慢な攻性プログラムだと思います …… まああくまで期待値込みですけど」
「チェン、本当にすまない。俺が余計な好奇心で触ったばかりに ―― 」
「まったくです」しかしマークスの謝罪を受け取るチェンの声には微塵の憤りも感じられない、むしろどこか楽しげなようにアデリアは思う。「いつか今日の恩返しは軍曹自らお返ししていただかないと。商売人から何かを借りるという事はそれなりのリスクを伴うという社会的通念をよく勉強していただきます」
「ねえ、チェン。マークスの事はあたしからも謝るわ、だからあまりひどい事しな ―― 」そこまで告げたアデリアの声がチェンの表情ではたと止まった。薄闇の中で向けられた彼の顔はとても穏やかで、しかもあろうことかウインクまで添付された極上品だ。そしてそれがどういう時に向けられるものかという事をアデリアは長い付き合いの中で知っている。
「 “ こんにゃろ、まさかまた何かあたしがらみでよからぬことを ―― ” ―― あんたまさか」
「ま、それについてはここを解決してからゆっくりと考えましょう。時間を稼いだと言ってもほんのタッチの差だ。 ―― アデリア、カウントダウンよろしく」
それはおそらく正しいであろう抗議を遮ってチェンはモニターへと視線を移す。すでに青と赤のラインはほんのわずかの差を残したままキャリフォルニアベースを通過したところだった。
* * *
「 “ 10秒前 ” 」
声と同時にブージャム1は単眼仕様のスターライトゴーグルを額からずり下す。前回のドイツで使ったIR仕様ではなく周囲の光を増幅して像を捕らえる暗視装置を選択したのは基地の構造から判断したものだった。地下部分がほとんどなく上部構造物には窓が多い、たとえ人が感知できないほどの光でもそれが差し込んでくるのならばガリウム素子を組み込んだこのタイプが最も、人の姿を捉えるのに有効。
今回の指令はめんどくさくなくてわかりやすい。対象は殺してからでも確認すればそれでいい。
「皆殺しだ」心の声を漏らすようにブージャム1がつぶやき、それに賛同するような忍び笑いが周囲に拡散する。
* * *
「5秒」
アデリアの緊張。ダウンロードは終了してプログラムは最終処理に入っている。データの大きさから推測するに掛かる時間は多分1・2秒。
「4 …… 3」 処理終了。データをフォルダへと格納と同時にプログラムのシャットダウン。チェンが素早く緊急と書かれたレバーに手をかける。「緊急閉鎖、サーバーダウン」
「2」チェンがレバーを引くと同時にサーバーからは低周波の間の抜けた音が響き、それは点灯していたLEDの輝きと共にすっと小さくなっていく。
「 …… 1 …… ゼロ」真っ暗になった部屋の中にアデリアのかすれた声だけが流れた。
* * *
「 ”コマンド。『イーリオス』スタート、現在GMT0100 ” 」
「始めるぞ」ブージャムの声と共に夜間迷彩をまとった兵士はオークリー正門の正面にあるくぼみから音もなく立ち上がる。だがそこに隠れていると知っている人物が周囲にいたとしてもその姿を容易に見る事はできない。
―― オークリーはそのすべての明かりを失って漆黒の闇夜の中で沈黙した。
* * *
真っ暗な予備電算室の中で小さなシュアファイヤがぽつりと点灯する。個人装備のそれから放たれる光で無機質に立ち並んだまま沈黙した機械の壁を次々に照らしだしながらアデリアが言った。
「うまく …… いった、の、かナ? 」
「検証はできないけど間にあったとは思う。そうじゃなければ今頃奴に権限を乗っ取られたサーバーが再起動して、こっちのコマンド全無視でわっさわっさと情報を吐き出しているはず ―― 何にせよここはひとまず解散してしばらく様子を窺ったほうがよさそうだ」チェンの提案にこくりとうなずくアデリアとマークス。
「チェン、今日は本当にすまなかった。君の大事な物を何から何まで使い潰させてしまって」神妙な声で頭を下げるマークスにチェンが、いつもの微笑みを浮かべた。
「まあ先行きどうなるかは不安ですが今日のところは無事に帰ってこれたというところで良しとしましょう。それに ―― 」デスクの上に鎮座するタワー型の筺体に目を向けながらチェンは言葉を続けた。「もしかしたら軍曹がパクッたこのデータがとんでもない代物かもしれないという可能性も無きにしも非ずで」
「あのデータが? 」
「レベル5にあったとはいえ仕掛けてあった迎撃システムが大げさすぎる。あんな『絶対殺すマン』な攻性防壁がもし今日みたいになんかの拍子に外部へと漏れたら、それこそ被害は世界中のインターネットへと拡大しかねない ―― 今日の損失はこれでも僕の考えられる最小限だったわけで」
敵の性能を想定し、可能な限り考えられる最大の対抗策をとった結果が焼け野原。しかしもしこれが何の予備知識もなく民間のネット上へと放出されていたら今頃世界中のオンラインがすべて停止して社会的な空白を生み出す羽目になっていただろう。経済と言う命脈を絶たれた連邦がそれを復旧させるのにどれだけの時間と労力がかかる事か ―― そんな恐ろしい物が軍の最高機密とはいえ誰かが閲覧できる場所に仕掛けられているというのは、万が一にも危険すぎる。
追いかけてきた敵のポテンシャルに背筋を凍らせながら言葉を失ったマークス、そのあとを引き継いだアデリアは沈滞する空気を吹き払う役を担う事に決めた。
「ま、それもこれもめんどくさい事は明日か明後日に考えましょ。宴もたけなわではございますが今日のところはこれにて中締め、と言う事で」
「えっ、何? 何事? 」予備電算室のドアを開いた、それがアデリアの第一声。夜間点灯している筈の赤色灯が灯っていない廊下 ―― すなわち真っ暗闇の空間を左右に照らしながら彼女は呟く。
「ねえチェン、あんたなんか余計なことやった? 」
「まさか。僕がしたのはただサーバーの電源を落としただけ、これで施設内の電源が全喪失するなんてこたぁない」怪訝な声で答えるチェンの声を背中で受けるマークス。「それにしても非常用の発電所も動いてないってのはどういう事だ? 」
* * *
暗闇の中で自分の血に身を浸したその兵士は自分が今死んだ事にも気付いてないのだろう、とブージャム1は思う。先鋒を担う彼のククリは音もなく歩哨の兵士の喉笛を真一文字に掻っ切り、晒された喉笛から漏れるヒュウヒュウという呼吸と死の痙攣を体に感じながら彼は獲物からすべての力が失われるわずかなひと時を楽しんだ。
一線を抜くまでは仕方ない、本当は刺した相手のみっともない死にざまや悲鳴を味わいながら進みたいのだ。しかし今回は今までと違って一応軍の施設、武器もあれば兵士もいる。油断は禁物。ある程度の損耗も視野に入れて慎重に行動しなくては ――
残念、それも俺なりの建前か。
「 ”二手に分かれて展開。合図と同時にそれぞれの建物内に侵入 ―― 全部ぶっ殺せ ” 」ハンドサインで指示を送るブージャム1に操られるかのようにふわりと動き出す黒い影の塊。血に濡れたままのククリを元に収めながら彼は笑ったままの口の端をさらに釣り上げた。
* * *
「じゃあいくわ」そう言ってドアの向こうへと身を躍らせるアデリアに向かってチェンは言った。
「アデリア …… 気をつけて」含んだ声の重みに一抹の不安を感じさせるアデリアの間、しかし彼女は「ん」と答えながら予備電算室の重い扉を静かに閉じた。
真っ暗になった室内でチェンはデスクの足元をごそごそとまさぐる。そこに隠してあった非常用電源のスイッチを入れるとデスク上の筺体とモニターは電力が供給されたことを示す青いLEDを光らせた。OSを立ち上げて彼はダウンロードしたばかりのファイルを用心深く展開する …… どうやらさっきのアラートセンサーはスタンドアローンの状況では機能しないようだ。
何個かのコマンド入力でそこの部分だけを引っぺがしてさっさとゴミ箱へと投げ捨てたチェンは筺体のトレーのディスクをより容量の多いDVDへと交換した。閉じた途端にコピー開始を知らせるモーター音がほんの少し明るくなった部屋の中に鳴り響く。
進捗状況へと視線を向けながら彼は机の上に置きっぱなしだった携帯を手に取った。再び情報ホログラムを展開して何回かのスクロールを繰り返し、お目当ての数字が現れたところでそれをクリック。チェンは相手が出るまでの間に携帯を耳にかけて、静かに席を立った。
「 …… はい、僕です。ええ、ちょっと気になる事が ―― 」入口のドアへと歩を進めるチェンは今までとは全く違う者だった。引きしまった表情と眼鏡の奥に見え隠れする鋭い眼光、もう隠す必要のなくなったその貌をたたえたまま彼はそっと予備電算室のロックを内側から閉じた。