「お探しの物は? 」
チェンの声を聞いた時マークスは動揺を押し隠すのが精いっぱいだった。尋常とは言えない申し出に対して全く表情を変えずにその先へと話を進めようとするとはマークスには思いもよらなかった、しかし目の前に座る彼は眼鏡の奥にある瞳をじっとマークスの色違いの目に固定して微動だにしない。心の底まで見透かされそうな ―― いやそれは多分本当にそうなのだろう、詭弁や弁解の類を許さないとするチェンの圧力にマークスは用意してあった全ての問答集を棄てて彼の目に対峙した。
「二つある。一つは『PI4キナーゼ・タイプⅣ』という薬品に関するデータ、そしてもう一つは『ヴァシリー・ガザエフ大尉』というティターンズの尉官の現在についてだ」
びっくりしたアデリアが大きく眼を見開いてマークスに顔を向ける、マークスはチェンを呼ぶ理由を彼女には一言も話してはいなかった。初めて明かされたその真意は彼女にとっても望外の物で、しかしそれがどんな結果を齎すのかも十分に理解出来る代物だ。最高刑は銃殺というリスクを持ちかけるマークスにも驚いたがその内容が明らかに自分の為に設定された物だと言う事に彼女は言うべき言葉を失ってしまう。
「アデリアは彼の事を『元』だと言っていたが俺にはそうは思えない、スタンガンを発砲して来た男や俺を嵌めた男に関して言うなら傭兵やジオンの類ではなく同じ連邦軍の臭い ―― それもティターンズの匂いを感じたんだ」
「軍曹にそれが分かるのですか? 」
「俺はここに来るまでいくつもの基地を転々として来た、だから連邦軍の兵士の雛型と言うべき物は大体分かっているつもりだ。少なくとも敵に銃を突き付けられて唾を吐く様な根性の持ち主は今の連邦軍にはいない、みんな負け犬根性が染みついているからね」
「つまりあなたは敵のその態度にティターンズ特有の傲慢さを見た、と」
小さく頷くマークスはアデリアをちらりと見た。彼女はまるで石像の様にベッドの上で固まったままじっとマークスを見つめている。
「もし彼が今もティターンズの兵士だと言うのなら上層部は直ちに彼を逮捕して、今後こう言った事が起こらない様に軍の綱紀を粛正する為の何らかの行動を起こすだろう。でも実際に行われた事は報道管制と改ざんした事実のリーク ―― あれだけの被害を出した事件の割には早いタイミングでそれが実行されている。これは事件を隠蔽しようとした部署が焦るあまりに勇み足を踏んでしまったのではないかと俺は考える」
「その部署がティターンズのどこかに設置された特殊部隊である、と …… 大胆な推理ですね、しかも確たる何の根拠もない」
「そう、これはあくまで俺の推理だ。だからチェン、その根拠を君に探してほしいんだ」
それまで冷静にマークスを観察していたチェンの目が突然大きく見開かれて、そしてすぐさま普段の眼差しへと変化した。無茶な申し出を受けた彼としては相手の論法の矛盾を突いて何とかこの話を断ろう、そしてマークスにも思いとどまらせようという魂胆だったのだが逆にマークスの策略に引っ掛かった様な形になった。意外に手強い商談相手を前にチェンは呆れた様にクスクスと笑い始めた。
「さすがは士官学校幻の総代、どうやら僕は貴方という人間を見くびっていたようです。 ―― 確かにガザエフ大尉がティターンズに所属していると考えれば彼の行動を隠蔽しなければならない勢力が存在する、軍曹が考える通りそれが特殊部隊群だと仮定するならばその人事データはレベル5にしか存在しない」
「もし彼が特殊部隊に所属しているのならなぜ小隊規模の人数で民間人を巻き込んだ破壊工作をしてまでアデリアを拉致しようとしたのかが知りたい。アデリアは彼が正気を失っていたと言っていたけど少なくとも軍を動かす以上は何らかの建前が必要だ、特殊部隊が何の為に動いて彼らをサリナスに派遣したかが分かればその線上からアデリアの存在を外す事が出来る」
「偶然か必然かは分からないがそれさえ掴んでおけば彼女を無駄な争いに巻き込まなくて済む …… そう言う事ですか」
チェンの言葉を聞いたアデリアが思わず声を上げて反論しようとする、だがマークスは彼女を横目で一睨みするとそれ以上の横やりを挟む事を禁じた。二人の間でしか成り立たない無言の意思の疎通を眺めていたチェンはデスクの上で両手を組んで上体をマークスへと傾けた。
「ではもう一つの『PI4キナーゼ・タイプⅣ』という薬品は何故? 」
興味深々で尋ねて来るチェンに対してマークスは明らかにそれまでの強気な態度を失った。逡巡と葛藤が彼の声帯をこじ開けて今にもその答えを零そうとしているのが分かる、だがマークスは息と共にそれを一呑みするとチェンの方へと視線を戻した。
「 ―― それを今ここで君に教える訳にはいかない。ただある目的の為にその薬品の化学式と臨床データがどうしても必要なんだ」
「畑違いの資料を持って専門家に預ける …… さしずめドクも巻き添えにしようというところですか? 貴方の熱意には脱帽しますがそれは些か度が過ぎているのではないかと僕は思うのですが」
チェンの忠告はマークスが掲げた目的の唯一の弱点だった。コウを犯し続ける薬品の正体を知った所で自分達に出来る事はそこまででしか無い、彼を完治させて元の通りにするにはどうしてもドクの協力が必要なのだ。そしてもしそのデータを渡したとしても彼がその魂胆に協力する保証は、無い。
「では僕からも軍曹に質問があります」
口を噤んでしまったマークスに向かって真剣な目を取り戻したチェンが言った。
「僕は軍属として貴方がしようとしている事、そして軍紀違反に関して告発する権利があります。もちろん貴方もその事を十分理解した上で僕にその事を打ち明けたと思うのですが、なぜそうしようと思ったのですか? お互いが信用するには出会ってから間もないし、貴方は僕の事に関して知らなさすぎると言うのに」
「 ―― 誰よりもコンピューターに詳しい君だからこの話を頼んだ訳じゃない。俺はアデリアの友人である君を信用したんだ」
チェンの眉尻がピクリと上がる、マークスの告白を聞いて彼が起こした唯一のリアクションだった。相手の心の底まで見透かす様な鋭い眼差しがマークスを襲う、だが彼はそれを跳ね返す瞳の輝きでチェンを見た。もとより心の底に隠しておける物など何も持ってはいない。
「アデリアが友人として認めている君だからこそ俺も君を信用する、俺は上官として彼女に降りかかるかもしれない身の危険から守る事と彼女の手が届かないその願いをどうしても叶えてやりたいと思った。君はアデリアの友人としてもし彼女がそう言う立場にいたとしたらどうしてやりたいと思う? 」
手の内を全てさらけ出してマークスはじっとチェンの反応を待つ、彼は暫くの間無言でマークスを見つめていたが唐突に溜息を吐いて視線を逸らした。
「 ―― 商談の駆け引きとしてはあまり上手とは言えませんね。そんなに手持ちのカードを晒してしまっては相手の興味が薄れてしまうし自分の価値観を相手に押しつけるやり方は商人としては禁忌です、取引の落とし所を探ろうとする以前に御破算になる可能性すらある」
チェンの辛辣な物言いで生まれるマークスの失望、思わずアデリアが「ねえ、チェン」と助け船を出した瞬間に彼は固い表情を崩してクスリと笑った。
「 ―― でも、真っ向勝負は嫌いじゃない」
暗い表情だったマークスの顔に輝きが蘇る、安堵と喜びを隠す事無く面に表したマークスに向かってチェンはしょうがないと溜息をつきながら普段通りの笑顔で言った。
「友人をだしにされた事の是非はともかくとして貴方の言う通りアデリアの為になる事ならば僕は何でもしようと決めている、ですから今度もそれは変わらない。軍曹の依頼をルオ・チェン個人としてお引き受けしましょう、ですが ―― 」
手を差し出そうとしたマークスの動きを目と言葉で牽制したチェンはゆっくりと上体を起こして椅子の背もたれへともたれかかった。既に彼の頭の中ではデータバンクへ忍び込む為の戦略が練り上げられ始めているのだろう、宙をぼんやりと眺めながら彼は言った。
「最低限レベル5へ無条件に入れるだけの資格を持った人物のパスを入手する必要があります、手を尽くしてはみますがそれには少し時間が掛かるでしょう。それに連邦圏最強のセキュリティ『サンダーバード』に挑む訳ですからそれなりの準備もしないと」
「『サンダーバード』? なにそれ? 」
聞き慣れない言葉にアデリアがすかさず尋ねる、チェンはうつろだった視線を彼女の方へと向けると凄みのある笑いを見せた。それが隠してあるもう一つの顔であると言う事をアデリアは知っていた。
「メインサーバー全体を守護しているセキュリティの渾名さ、僕達ハッカーの間ではそう呼んでる。侵入者をありとあらゆる手段で追い詰め完全に破壊するだけでなく、その痕跡を追いかけて根こそぎ叩く。国際救助隊に追いかけられて無事だったハッカーはほとんどいない、だからこそ腕に覚えのある連中が挑み続けるんだけどね」
事もなげに概要を説明するチェンとそれに聞き入りながら表情を曇らせるアデリアとマークス。本当に自分達はこんな事を彼にお願いしてよかったのだろうかと後ろめたく思う顔をチェンは交互に眺め、フウと鼻で息をつきながら静かに立ち上がった。
「軍曹とアデリアの働く場所が戦場だと言うのならそこは僕にとっての戦場です、ですからそんなに心配しないで。出来る限りの準備を整えてからやれるだけの事はやってみましょう。 ―― あさっての夜消灯後に管理棟一階の予備電算室に来て下さい、それまでには何とか」
* * *
手にした受話器を静かに戻しながら奇妙な笑顔を浮かべたハイデリッヒはそのまま顔を上げて、巨大な机の向こう側に立つ白衣の青年に向かって言った。
「どうやら彼は取引に応じたようだ。オークリーの全ての資料が連中の手に渡った事で作戦は滞りなく実行へと移される」
「しかし所長、それでは彼らの思うがままに事が運んでしまいます。大佐の思惑が彼女の殺害だとしてそれは所長の目的には反するのではありませんか? 」
心配顔の青年をよそにハイデリッヒは悠然と腕を組んで笑った目を彼に向けた。
「それを阻止する為の準備と道具は既に手配はしてある、だがそれが100パーセント確実に機能するかどうかは神のみぞ知る所だ。それに間違って欲しくはないのだが私の目的は彼女を生き残らせる事ではなく彼女の中に眠る資質を覚醒させる事だ、形はどうあれ彼女が生命の危機に瀕する事は私にとっても歓迎すべき物なのだよ。それだけのお膳立てが揃っていながらなお覚醒しないと言うのであればそれは私にとってはただの『雌』だ、いっそのこと死んでしまえばいい」
矛盾に満ちたハイデリッヒの回答に絶句した青年は小さく口を開いたままその場に立ち尽くして言うべき言葉を探す、だが彼の頭の中にある豊富な言語野から適切な語句を掻き集めるより先にハイデリッヒは言葉を続ける。
「生命の持つ大きな特徴を進化と定義するなら科学はまさにそれだ、そして被験者や科学者はその生命を進化させる為の要因に過ぎない。彼女が死んでしまう事で科学の進化は一時的な停滞を余儀なくされ、私の存命中に『究極』を完成させる事は難しくなるかもしれないがそれはいつかまた違う彼女と違う私の手によってきっと創り上げられる」
「それは科学者としての使命が為せる業だと言う事ですか? 」
至高の硬直からやっと立ち直って言葉を捜し出した青年が尋ねるとハイデリッヒはまるで世界を嘲笑うように不気味な笑みを浮かべて小さく鼻白む。
「そんな綺麗事ではない、人が抱える原罪と度し難い業がそれをつき進めるのだ …… 『好奇心』という名の生命の本能が、ね」
吐き捨てるように呟いたハイデリッヒはおもむろに立ち上がると青年に背を向けて白みかけた窓の外へと切れ長の目を向けた。僅かに覗く灰色の瞳が黎明の暁光をまるで穢れた物でも見る様に険しくなる。
「その輪廻を繰り返して人類はここまで辿り着いたのだ、そしてそれは種が死に絶えるまで繰り返される。たとえその果実が『禁断の林檎』であったとしてももぎ取って口にする誘惑を抑え切れない ―― だからこそ私はこの研究に酷く心惹かれるのだよ」
その顔を見なくても青年は彼がどんな顔をしてその台詞を言っているかがよく分かる、笑っている、いや嗤っている。
創世記以来人という存在が手にしたまま拭い去る事の出来ない原初の罪を嘲りながら。
* * *
「 ―― うわっ、酒くせえ」
聞き覚えのある声にコウは目を覚まして何とか起き上がろうと試みる、だがラッパ飲みしたテキーラの効果は思いのほか凄まじくこめかみを撃ち抜く様な激痛が彼の意思を妨げた。干した事のない湿ったシーツの海に意識ごと埋没しそうな自分の身体を無理やり引き剥がして上体をやっとの思いで持ち上げるコウの体たらくを笑いながら眺めるヘンケンは、テーブルの上に置き去られたままのボトルを目の前に翳して呆れた様に言った。
「全く、頼んでおいた俺の分まで飲み干しちまったのか? 人のうわ前まで撥ねるからそんな目に遭うんだ」
内容とは裏腹にヘンケンの声には少しも非難の色が見えない、恐らく全ての事情を既にセシルから聞き及んでいるのであろう。しかめっ面でやっとベッドに腰掛けたコウは両手で頭を押さえながら床を見るのがやっとだった、その額にひやりとした感触が押し付けられてコウは反射的に顔を上げる。ものすごい激痛が目に映ったヘンケンの笑い顔の輪郭を滲ませた。
「痛うっ …… 」
呻きながらコウはヘンケンの手からよく冷えたボトルを受け取る、こめかみにそれを当てると少し痛みが和らいだ ―― そんな気がした。
「セシルから昨日の夜の話は聞いた、あいつ怒ってたぞ」
普段はどちらかと言えば天然で突拍子もない事をさらりと言ってのける彼女、しかし昨日一日だけに限定するならコウが知らない彼女の一面を見せつけられた様な思いがある。単身で敵が潜んでいるかもしれないショッピングセンターの地下まで下りて来る大胆さといとも簡単に解錠する手際、そして脱出路を予め探してある周到さ。その他怪我の治療からオークリーへの連絡の手筈まで ―― ニナが来た事はさすがに予想の範囲外だったのだろうが、それでも一連の行動がいつもの彼女の人となりからは全く予想のつかない物であると言う事には変わりがない。
自分に背を向けて迎えに来た車に向かうまでそんな素振りの一つも見せなかった彼女がヘンケンの前では怒っていたと言う事にコウは少なからず驚いた。返す言葉もなくやっと目を開いたコウはそのまま手の中のボトルへと目を落とす、コーラの瓶だった。
「『彼は心まで機械になってしまっている、そんな人が誰かと一緒に未来を歩こうなんて高望みもいい所だ』とか何とか。 ―― 宇宙軍時代からの付き合いだが個人の事に言及する事は少ないんだがな。だからと言って君を見捨ててる訳でもない、セシルはセシルなりに似合わぬ心配をしてるんだ。らしいっちゃあらしいんだけどな」
心まで機械か、とコウは黙ってセシルの言葉を思い返す。それならばいっその事壊れてしまってくれないか、とも。心がまだ動くからこんなにも彼女の事を考えてしまう、二度と手にする事のない未来を夢見てしまう。彼女の為に必要な物を失ってしまった自分が彼女の為にしてやれる事は二度と会わない様にする事しかない、それを自分に無理やり言い聞かせる為に酒の力を借りなければならなくなるとは。
「 …… セシルさんにも謝らなきゃいけませんね、俺達の事でそんなに心配させて ―― 」
「『俺達』ねえ」
意味深な復唱を返したヘンケンがふふんと笑いながら倒れたままの椅子を起こして前後ろに腰かけた。背凭れに両手を重ねて顎を預けた彼は彫の深い顔に少しの憐みと心配を覗かせながらコウの傷だらけの顔を眺めていた。
「未練がまだあるならそれに自分を委ねてしまえばいい。心をがんじがらめに縛って後悔をしないふりをしている ―― そんな卑怯さがセシルは許せないんじゃないか? あれだけの事を言いはなってこれだけ自分を傷付けて、それでもまだ彼女の事を忘れられない。本当に好きな物、かけがえのない物を忘れたり手放したりする事は人間には難しい、もちろん俺もだ ―― と」
少しづつ険しくなっていくコウの表情を見たヘンケンはそこで言葉を止めた。後頭部をゴリゴリと書きながら自分の迂闊さに気付く、馬鹿めヘンケン、そんな事は当人達が一番知ってる事じゃないか。
「お説教なんて俺の柄じゃないしそんな資格もないな、悪かった。ところで罪滅ぼしと言っちゃあ何なんだが ―― 」
言い含める様に話していたヘンケンがそこで何かを思い出して時計を見た。お気に入りのパネライの文字盤をじっと眺めていた彼はぱっと顔を上げるとものすごくうれしそうな笑顔でコウを見た。
「 ―― モビルスーツに乗れなくなったとしても、見たいよな? 」
椅子から立ち上がったヘンケンは腰のポケットからツールナイフを取り出しとコウに手渡して、コーラの栓を開けるように促した。
「実はもうすぐ『トーテムポール』で面白いショーが始まる、それでウラキ君を誘いに来た」
「面白いショー、ですか。一体何が ―― 」
「オークリーのモビルスーツ隊とティターンズの模擬戦だ。今朝基地司令から電話があって「こんな事は二度とないかもしれないから近所の人と連れ立って観戦に来ませんか、軍の敷地内への入場は安全確保の為許可はできませんが」だと。どうだ、君も見に行かないか? 」
『トーテムポール』とはオークリー基地での演習に使われる『アイランド・イーズ』の残骸の事で、部隊では位置座標で示されるが地元ではその威容から別名を冠されている。『アイランド・イーズ』の落着によって大勢の命が失われた、それを弔う為の意味合いとして屹立する墓標柱だがそこにはもう一つの意味がある。
―― 『辱めの柱《ディスクレジットポール》』 ―― 特定の個人、グループに対して償いを請求するために立てられた彫刻柱、辱める事で相手に義務の履行を要求する呪いの彫刻。コウがその意味を知った時あまりの皮肉な表現に思わず苦笑してしまった。
言い得て妙な渾名をつけたどこかの誰かに言ってやりたい、まさにその通りだと。
「あ、いえ、俺は ―― 」
「と断っても無駄だ、俺はセシルから是が非でも連れて来るように頼まれてるんでね。もうすぐ収穫に入ればそんな暇はしばらくなくなる、組合員に派手な余興を提供するのも組合長の仕事って訳だ。という事でこれは組合長からのお触れだ、組合員は全員参加」
有無を言わさぬその物言いにコウは思わず苦笑いをした後に再び痛みで顔を顰め、ツールを開いて栓の縁にかけてそれを跳ね上げようとした時コウはふとあることが気になってその手を止めた。
「 …… そう言えば、なぜコーラなんですか? 」
少し首を傾げて手の中の瓶を見つめるコウに向かってヘンケンはさも当たり前の事の様に言った。
「なんだ、そんな事も知らないのか? 二日酔いにはコーラが一番だ、普段から愛用している俺が言うんだから間違いない」
* * *
水平線から登った朝日に舷側を染めながらティターンズカラーのミデアは悠然とカリフォルニアの空を泳いでいる。鳥たちのさえずりがかまびすしくなりつつあるオークリーは恐らく夜通し掛けて飛んで来たと思われるその機からの一報で一日の始まりを迎えた。コウが目覚める四時間前の事だった。
「 ” こちら連邦宇宙軍第三軌道艦隊旗艦オラシオン所属『ヘリオス13』、参謀本部からの物資の緊急搬送の為にオークリーに到着した。滑走路への着陸を許可されたし、繰り返す ―― ” 」
すでに当直の隊員から機影接近の報を受けていた管制官はぼさぼさの頭で首を傾げながら、目の前のスイッチを押す事を躊躇った。航空機を使っての物資の緊急搬送は原則的に戦時以外は禁じられている、それがよりにもよって大本営のジャブローから ―― それも畑違いもいい所の宇宙軍所属旗艦から発進したミデアだと言うのだから訝しがるのも当たり前だ。昨晩からの申し送りの書類を ―― と言っても二枚しかない ―― ぱらぱらとめくってそれらしい記述を見つけられない管制官はとにかく事情を確認しようと意を決してマイクのスイッチを押しこんだ。
「こちらオークリーコントロール。ヘリオス13、もう一度貴官の来訪目的を述べてくれ。こちらではそういう報告は受けていない」
「 ” 了解、当機は昨晩参謀本部の緊急の要請によりジャブローに入港中のオラシオンより当該物資を積んで離艦、移送命令書は同乗した士官の手によってそちらへと届けられる手筈になっている。 …… 手順が大事だと貴官が思うのならジャブローへと問い合わせをしてもらってもいい、ただしこの時間じゃああのだらけ切った連中はまだ夢の中でお休みだとは思うけどな ” 」
任務だとは言え徹夜でこんな辺境までの輸送任務を受け負わされた兵士の不満を聞かされた管制官はシニカルな笑いでその言葉に同意した。管制塔の窓から外へと目を向けると星とは違う小さな輝きが目に映る、明るくなった空の色に目を細めた彼はその光を凝視しながら苦笑交じりに言った。
「了解した、ヘリオス13。オークリー基地への進入を許可する。三番デッキに着陸後許可が下りるまで機内で全員待機しててくれ、全員蒸し焼きになる前には基地司令がそちらに出向くと思う」
「 ” なんてこった、こっちは宇宙暮らしで地球の環境には全く慣れていないんだ。乗員全員が地球嫌いになる前によろしく頼む ” 」
「それも基地司令に伝えて早くそちらに向かわせるから安心してくれ。 ―― オークリーコントロール、ヘリオス13のオークリー到着を歓迎する。繰り返す『ロスト・スミソニアン』へようこそ」
大きく地面に描かれた『3』という数字の上に巨体を降ろしたミデアは静かに機関を停止した。アイドリングを続けていた三基のローターが停止するとミデアを覆い隠していた砂埃が晴れ、ようやくその特徴的な外観が露わになる。三脚の足が挟み込んだ巨大なコンテナの後部が金属のきしみを上げてゆっくりと開き始める、鈍い油圧の利きに業を煮やしたかのように人影が扉の縁まで走り出て眼前に広がる殺風景なオークリーの大地に目を細めた。
「 ―― なんだァ、どっかで見た光景だなぁおい」
ティターンズの制服を着たその男は昔の記憶を辿りながらそう言った。たった一度しかそこには行かなかったが忘れもしない、そこから始まった何カ月もの戦いは彼のキャリアの中でも最も稀有で印象深い物だったからだ。扉が開き切るのを待ち切れなくなったその男はそのまま一気に地面へ飛び降りると乾き切った大地の上で辺りを見回し、しきりに建物の影を探している。
「大尉、パイロットに叱られますから余り勝手な事をしないで ―― というかもう怒鳴られてますけど? 」
ハッチに姿を現したもう一人の男は浅黒い肌と彫の深い顔を苦笑いで歪めながらゆっくりとハッチのスロープを下って来る、その後から姿を現した金髪の男は彼と同じ心境を別の言葉で男に伝えた。
「モンシア、気持ちは分かるがそうはしゃぐな。ウラキやキース達は逃げやせんさ」
三人がトリントンに赴任したあの日、基地はただの戦場だった。変わり果てた建物と撤去し切れない瓦礫の隙間に置かれたモビルスーツの残骸、痛いほど照りつける太陽の下でただ黙々と敗北の後始末を続けるその人々の中に彼らはいた。戦争が一体どういう物であるかを始めて知り、そして自分の大切な物がいとも簡単にそして理不尽に失われてしまう事の意味を噛み締めながら。確かに目の前に広がる光景はあの日のトリントンとは全く違って平和に見える、だがベイトはモンシアの言う通りその景色がやはりあの日初めて目にしたトリントンに重なり合うのだ。
それは多分彼らがここにいるからなのかも知れない。心をよぎる郷愁はベイトの足を止め、懐かしさに知らず顔を綻ばせた彼の隣ではアデルが同じ顔で立っていた。
「ばっか野郎、そんな事わかンねえじゃねえか。こんな所でぼやぼやしてたらウラキの野郎はニナさんを連れてどこかに逃げだすに決まってる、そうなる前にあの日の決着をきっちりつけなきゃ腹の虫がおさまらねえってモンよ」
「全く。あの日の事をまだ根に持ってるんですか? それに『大尉』はあの時ウラキ中尉とニナさんの関係を艦隊通信で大っぴらに認めたんじゃなかったんでしたか? 」
「あン時ゃそうでも言わなきゃ埒があかなかったからそうしたまででぇ、それが恋の駆け引きってモンよ。それに『生きてる限り負けはない』ってえのが我がベルナルド家の家訓だ、一度や二度勝ったからってでかい面してるあンにゃろうに俺様の諦めがデラーズやガトーよりも悪いって事を骨の髄まで教えてやらにゃあよ」
「だからてめえの家は貴族じゃねえって言ってンだろ? それにその名前は禁句だ ―― 基地司令だ」
ベイトがコンテナのハッチから地上へと足を降ろした時、滑走路の向こうにある管理棟の扉が開いてウェブナーが姿を現した。単身で三人の元へと歩き始めるその姿を見てモンシアは小さく口笛を、そしてその声を代弁する様にアデルが呟いた。
「なんと将官が随伴無しでお越しとは。それにあの居住まいと雰囲気、ただ者じゃなさそうですね」
「残念ながら腕のいい奴ほど出世しないってのが今の連邦軍の常識だ、アマゾンの奥地で世捨て人みてえにじっと縮こまってやがる臆病者達に彼の爪の垢でも煎じて飲ませてやりてえぜ全く」
毒をはいて自分達を事あるごとに締めつけようとするジャブローの上層部に心の中で唾を吐くベイトに同意する様に肩をすくめるアデル、二人がモンシアに追い付いた所でウェブナーは三人の前へと歩み寄って流れる様な動作で軽く右手を掲げる。それだけで三人には彼がどれだけの戦火を潜り抜けてきたかが十分に分かった。肩を並べた三人がウェブナーの過去に敬意を表する様に同時に右手を額の横へと掲げる。
「連邦宇宙軍第三軌道艦隊旗艦『オラシオン』所属、モビルスーツ隊の指揮をしておりますアルファ・A・ベイト大尉であります。オークリー基地への滞在を許可願います」
「北米方面軍オークリー基地の指揮を任されておりますクリス・ウェブナーと申します。『博物館』へようこそ ―― 宇宙軍、ですか。またなぜ急にこの様な畑違いの場所へ? 」
自分の疑問に果たして誰が答えてくれるのかとウェブナーは代わる代わる三人の顔を眺める、それもそのはず彼らの襟章は全て大尉の階級を表す物だったからだ。言外の問い掛けにいち早く気づいたベイトは隣に並ぶアデルとモンシアに視線を送りながら苦笑した。
「所属艦『オラシオン』は現在ドック入りの最中でありまして私達には特別休暇が与えられておりましたが、艦隊司令部からの緊急招集で今回の命令書を受領したのが昨晩の2100時。直ちに出立の命を受けてここに至っております」
ベイトが差し出した封筒を受け取り、注意深く表裏へと目を走らせたウェブナーはおもむろに封を切って三つ折りになった紙面を開いた。視線の動きと速さがそれを眺めるベイト達にこの将官の出自が艦隊の幕僚であったであろう事を教える。
「モビルスーツ用試作支援火器の搬送及び基地戦力練成度並びに向上の為の視察とありますね …… 支援火器というのは? 」
「同乗したミデアのコンテナ内に格納してあります、何でも一年戦争時に試作された実包式長距離対物ライフルだと聞いておりますが諸元・概要共に未確認であります」
「今時実弾仕様の対物ライフルとは。またうちの整備班が小躍りしてイジリまくるでしょう、なにせうちの連中はそう言う物に目のない連中が揃っていますから」
部下の喜ぶ顔をそのまま表情に表したウェブナーは開いた命令書を丁寧に折り畳んで再び封筒へと仕舞い込んだ。胸のポケットへとそっと忍ばせると日に褪せた帽子のつばを摘まんで角度を整える。
「貴官らの滞在を心から歓迎します。物資の搬出に関しては恐らくもう当直の士官から整備班に連絡が届いているでしょう、モビルスーツ隊の連中にも ―― 来たようです」
ウェブナーが振り向いた先にあるハンガーの出口は既に人で溢れかえっていた。めったに来ない連邦軍輸送機の正体を確かめる為に飛び出してきた面々はティターンズ色の三人の士官の影に驚きを露わにし、その先頭に立つキースは一瞬お化けでも見たかのような顔を三人に披露した後慌てて滑走路をかけ出した。
全速力で駆けてきたキースはウェブナーと肩を並べて三人の前に立つ、息も切らせずにすっと右手を掲げるその姿を見てベイト達三人はさも当然と言う顔で微笑みながら返礼した。
「当基地のモビルスーツ隊の指揮をとっておりますチャック・キース中尉であります、隊員を代表して皆さんの来訪を心より歓迎いたします」
「よろしく頼む。任務遂行の為の積極的な支援に期待する」
形通りの挨拶を交しながらでもその表情に溢れる郷愁は隠せない、キースとティターンズの将校三人との間の深い因縁を悟ったウェブナーは果たしてそれを問い質す事無く何気ない口調で言った。
「では私はこれで。陸の個島ゆえに何かと不便かもしれませんが出来る限りの便宜は図らせて頂きます ―― キース中尉、あとは君に一任する」
言い残してその場を立ち去るウェブナーの背中に向かって一斉に敬礼の姿勢を取るキース達、しかしその影がドアの向こうへと姿を隠した瞬間にウェブナーが感じ取っていた郷愁の正体が歓声となって爆発した。
「 ―― どうしてここにっ!? みんなお元気そうで! 」
破顔してベイトの差し出した右手を思いっきり握り返すキース、その行動をきっかけに四人の距離は一気に縮まった。
「まっさかお前がここの隊長だったとはなっ、連邦の人材不足もここに極まれりってやつか!? 」
「まったくだ。手前のようなひよっ子が隊長だと部下が気の毒で仕方ねえ、何かと苦労が偲ばれるってモンよ、あァ? 」
髪の毛をわしづかみにしてもみくちゃにするモンシアがキースの肩に手を廻す、アデルはベイトから引き継いだキースの右手をしっかりと握り締める。
「いえ、これもキース中尉の素質と努力の賜物です。あの戦いを自分達と一緒に生き抜いたのですからそうなってもおかしくない、自分はそう思います」
まるで久しぶりに出会った友人同士が交わす会話と光景を遮る様に、嬉しさを隠しきれないモウラの声が華々しさを交えて鳴り響く。
「お三方ともお久しぶりです、随分とご出世なさいましたね」
「おお、『でっかい姉ちゃん』も元気そうで何よりだ。相変わらずキースの野郎を尻に敷いてのさばってんのか? 」
「 ―― 『でっかい姉ちゃん』だけ余計だ、こらァッ! 」
怒鳴り上げたかと思うとずんずんと三人の前へと歩み寄るモウラ、だがベイトの差し出した手をしっかりと握った彼女はとんでもないほど朗らかな表情で笑った。アルビオンではベイトの機体を担当した主任整備士とパイロットが交わしていた挨拶だと言う事はその時そこに居合わせた者たちだけが知っている真実だ。
「一体どうしてここに? ここだけの話ですが私達の接触は禁じられている筈では? 」
笑顔のままで辺りを憚る様に尋ねるモウラ、彼女が確認している事はデラーズ紛争が終結した際に連邦軍との間で交わされた宣誓書の最初にあげられていた禁則事項である。サインをした者はティターンズに編入されそうでない者は一生軍の監視下に置かれる、お互いが選んだ道とは言え隠蔽すべき軍の謀略を知る彼らが接触を果たすなどという事は通常ではありえない事だった。
「さてねぇ。俺達は軍人だから受領した命令は迅速かつ正確に遂行しなきゃならねえ、無論今回の事に関してもな。ま、あれから三年もたったんだ、どっかのボケた参謀あたりが人選を誤って発令しちまったんじゃねえのか? 」
「私達もせっかくのチャンスですからこの機会を逃す手はない、と大急ぎでミデアを発進させたのです。普段ではとても近づけない場所ですのでね」
アデルが言葉の中に今のオークリーの立場を忍ばせながら言った。陸軍の一基地とは言え元々オークリーは反乱分子を隔離する為の施設である、大義名分がなければ補給の為にすら立ち寄れないのがアイランド・イーズ落着前から存在したオークリーの意義である。
「そう言う事だ、おおっと断っておくがなにも俺ァお前達と会うのを愉しみにしてた訳じゃあないぜ? 千載一遇のこのチャンスにウラキの野郎とあン時のリベンチマッチとしゃれこもうって寸法 ―― て、そういやウラキの野郎はどこだ? 」
たった一人だけ見えない仇敵の影を探してモンシアが辺りを見回す、その言葉を耳にしたオークリー組の表情が一斉に曇ったのを見たベイトが笑顔を収めて真顔になった。
「おい、どうしたキース。ウラキに何かあったのか? 」
尋ねるベイトの背後から心配そうな目を向けるアデル、しかしその目は不意に流れた柔らかな声によってキースの元から滑走路にぽつりと立つ人影へと向けられた。
「ウラキ伍長は一身上の都合で当基地所属の予備役に編入、既にこのオークリーから退去しました」
「 ―― おおっ! ニナさん! 」
まるで吸い寄せられる様に駆け寄ったモンシアはいきなりニナの両手を握り締めると自分の胸の前へと引き寄せて自慢の髭を彼女へと近づけた。
「まさかこの様な辺境の地で再び貴方に巡り合えるとは何たる偶然、いやこれは神様が俺達二人に与えた恵みによる必然ッ! このベルナルド・モンシア、今度こそ貴方を悪の手から奪い返す為に参上つか奉りました。 ―― て、今何て言いました? 」
不遜なモンシアの態度にも、そして質問にも動じることなくニコリと微笑むニナ。モンシアの後から歩み寄ったベイトが複雑な頬笑みを浮かべながらゆっくりと右手を差し出した。
「久しぶりです、ニナ・パープルトン。元気そうで何よりだ …… ウラキがこの基地にいないって、それも『伍長』ってどういう意味だ? 」
「『予備役に編入』ってどういう事です? それじゃあ退役軍人と同じ扱いじゃないですか」
「理由は彼にしか分かりません。そして現在どこに住んでいるのかも ―― ただ予備役の編入は本人の強い意志で申告された事で、ジャブローで審議された後いくつかの条件付きで認可されたと言う事です。彼と接触しない事もその一つです」
淡々と事実だけを口にするニナの態度にベイトとアデルは絶句し、そしてキース達はニナの変化に驚いた。彼女の生きざまをここまで変化させた当人の名を何の動揺もなく平然と告げるその雰囲気にモウラは在りし日のニナの姿を重ね合わせる、そう。
それはコウとまだ知りあう前のニナの姿だ。
「 ―― なるほど」
ただ一人モンシアだけが声を発した。いつものにやけた笑いを険しく寄せた眉根で歪ませ、彼はじっとニナの頬笑みへと目を向けた。だがその声には心の底から湧きあがる怒りと無念がそこはかとなく滲み出している。
「そンじゃああン時の仕返しはもうできないって訳ですね? 」
その声にキースは妙な違和感を覚えた。コウがいなくなった事はモンシアにとってニナとの間の邪魔者がいなくなったと言う事を意味する、喜色満面でニナに迫った所で誰に咎めだてされる物ではない。だが彼は目の前にぶら下げられたニンジンに飛びつくどころかコウに会えなかった事に対して憤慨し、その拳を振り上げた先はニナへと向かっているような気がする。「なぜあんたがここにいながら奴を手放したんだ」と。
恐らくニナ自身もそう感じたのだろう、だが彼女は一つも表情を変えずにモンシアから視線を逸らして後ろを振り向いた。ハンガーの人混みからおっとり刀で飛び出して来る二つの影を目を細めて眺めながら呟く。
「キース中尉、彼らが来ました」
呼ばれたキースは我に帰るとすぐにベイト達から距離を開け、ちょうどニナとの中間地点に移動した。直立不動の体制を取って彼らと対峙するとすぐさま遅れて駆け付けたアデリアとマークスが彼の背後に辿り着いて同じ姿勢を取る、興味深々の顔を浮かべるベイト達にキースは二人を紹介した。
「紹介します、オークリー基地のモビルスーツ隊の隊員で自分の部下です」
「マークス・ヴェスト軍曹であります」
「アデリア・フォス伍長であります」
連邦軍のカーキ色の夏服をきっちりと着込んだ二人が形式通りに右手を掲げるとベイトとアデルは優しい笑顔で二人に臨み、同じ様に右手を掲げて小さく頷く。だがアデリアは解ける緊張も束の間迫り来る邪悪なオーラを肌身に感じ、ぶるっと身震いをしてその元凶となるいやらしい目を険しい目で睨みかえした。
「ふーん、坊ちゃんとお嬢ちゃんかい。男にゃ興味はねえンだがそっちのお嬢ちゃんは気になるねぇ」
じろじろと値踏みをするようにアデリアの顔を眺めるモンシアを彼女は「それ以上寄ってくンな」とばかりにキッと舐めつけている、しかしモンシアはアデリアの憤りに委細構わず目尻を垂らし、彼女が飛びあがりそうなほどいやらしい口調で言った。
「どうでぇ、今晩俺達と一緒にブラジルに飛んでサンパウロの夜でも楽しまねえか? 俺ァこう見えても女の子の事にかけちゃあ百戦錬磨だ、お前さんを一晩できっちり仕上げる自信はあるんだがねぇ」
「ごっご厚意は心より感謝いたしますが辞退させて頂きます、自分は任務の為当基地を離れる訳には参りませんので」
吐き捨てた途端にものすごい目つきがマークスへと飛んだ。「あんたもなんか言い返しなさいよ」と言う無言の圧力がマークスをたじろがせる、だがモンシアは強烈な拒絶の態度を示す彼女に対して全然怯む態度を見せない。
「そんなつれない事言うなよ、せっかく上官が誘ってンじゃねえか。こーんな埃臭え場所に閉じ籠ってたんじゃあせっかくの色気も台無しだ、たまには思いっきり羽目を外してストレス解消しねえと可愛いボディが干からびちまうぞ? 」
じりっと。
アデリアの足が少し開く、それは至近距離の相手に上段を叩き込む為の準備動作だと付き合いの長いマークスには分かる。相手の顔を見ない様に固く眼を閉じてわなわなと震えながら、それでも必死にハラスメントに耐えるアデリアをからかうようにモンシアは畳みかけた。
「んんー? 返事はどうなんだい? ここで言い辛れえッてンならあとで聞いてやってもいいんだぜぇ? なーに考える時間は今日一日ある、お嬢ちゃんさえその気になれば明日の今頃にゃ常夏のリゾートだ。一人で淋しいッてんなら隣の彼氏も含めてここにいる全員をご招待してやってもいい」
「 ―― この、クソ」
決して女の子が口にしてはいけない四文字言葉が炸裂する前にマークスは二人の間へと身体を捻じ込んだ、葉巻臭いモンシアの髭が自分の顔を擦りそうになる。
「部下の非礼をお詫びします大尉殿、しかし彼女は現在病み上がりで体調がすぐれません。もしご都合がよろしければ後日、大尉の所属する部隊に書簡をもってご返答とさせて頂きたいのですがよろしいでしょうか? 」
「ああ? なんで手前がしゃしゃり出て来てンだ、よたよた歩きのくせしやがって。俺にゃあ坊やの方がよっぽど病み上がりに見えンだが、そんな事でこれから一日俺達とやりあえンのか? ―― キース中尉っ! 」
突然マークスから顔を離したモンシアが大声でキースを呼ぶ、今までこの方一度も彼からきちんと呼ばれた事のないキースは驚いて姿勢を正した。人を喰った様な笑いは健在だがその目の光だけは真剣だ、そしてキースはこれと同じ目をトリントンで見た事がある。息を呑んでモンシアの言葉を待っているキースに、言葉を継ぎたすベイトが背後から肩をぽんと叩いた。
「俺達が持ってきた命令書には『基地戦力練成度並びに向上の為の視察』が目的と書かれてある …… つまりはそういう事だ」
耳を疑ったキースが思わず振り向くとそこに嬉しそうな顔をしたベイトとアデルの顔がある、アデルが無言で頷くと今度はモンシアが彼独特の恩着せがましい口ぶりを披露する。
「言っとくがこれは模擬戦なんて手ぬるいモンじゃねえ、れっきとした『軍事教練』だ。こんな片田舎で身内同士せこせこやり合うしか能のねえひよっ子の手前らに宇宙軍きってのエース様が三人も胸を貸してやろうって訳だ、断りやがったら罰があたるぜぇ? 」
思わぬ展開にきょろきょろと主役たちの顔を交互に眺めるアデリアとマークス、そこへ穏やかな笑顔のアデルがすっと近づいて二人の目を引き付けた。浅黒い肌の黒髪の男は三人の中では最もまともな人格の持ち主の様に二人には見える。
「失礼、フォス伍長。バシット中尉から後で話を聞いて頂いても結構なのですがこの人は昔からこうなんです。女性に対する挨拶だと思って聞き流して下さい ―― いい部下たちですねキース中尉、お互いの意思の疎通が実によく通っている。これなら面白い事になりそうです」
「 ―― ぜひお願いしますっ」
事態が掌握できない三人の代わりに大きな声を上げて頭を下げたのはニナだった。前で手を組んで頭を下げる彼女の姿に和やかな雰囲気のベイト達は思わず彼女の姿を注視した。
「こんな機会は ―― 歴戦で鳴らした連邦のエースチームと模擬戦が出来るなんてここでなくても滅多にない機会です、当基地の技術主任として是非お願いします」
そんな態度を取ったニナの姿の記憶はあの日に離れ離れになったベイト達の記憶には無い、ヒュウと口笛を吹いたベイトがキースへと視線を向けると彼はそこで初めてニナと同じ様に頭を下げた。
「過分な申し出ありがとうございます、是非胸を貸して下さいっ! 」
声に合わせて思わず頭を下げるマークスとモウラ、アデリアだけは頭を下げながら凄絶な笑みを浮かべて拳を小さく握り締める。ベイトはそんな彼女の仕草を盗み見ながら苦笑した。
「礼なら後だ、終わった後に「やるんじゃなかった」と後悔するかも知れんからな。 ―― あの時みたいに手加減なしでヤルから覚悟しとけよ? 」
「ちょっとなによ、あれ」
モウラとニナに連れられてハンガーへと姿を消した三人の背中に向かってアデリアは敵意むき出しの目を向けた。意見を求められたマークスは困惑顔、それに対してキースはいかにもと言った風情で頬笑みを浮かべている。
「あんなのがティターンズのエース様? って言うんならあたしの友達にちょっかい出してる野郎モデルの連中は全員歴博殿堂入りよ、ほんっとムカつくったら」
「自分の持ってるエースのイメージとはずいぶんと違います。どことなく凄みって言うか圧力みたいな物が少しはあってもいいんじゃないかって思うんですがあの隊長さん達からは ―― 」
マークスの脳裏にコウの面影が浮かび上がった。規定交戦時間内撃墜記録保持者、連邦軍初のモビルアーマーを駆って『悪魔払い』の二つ名を欲しいままにした伝説のエース。温和な態度の影にちらつく暗い影と凛とした敬礼の仕草、そのどれをとっても今の三人とは全く違う。マークスが訴える様にキースを見ると彼はまるで二人の反応を愉しむかのように薄らと笑いを ―― それも二人が今まで見た事もない凄みを帯びた笑みを浮かべていた。
「彼らはあの一年戦争を全くの無傷で生き残った数少ない小隊のメンバーだ、『不死身の第四小隊』と言う通り名を聞いた事はないか? 」
さすがにその名前を耳にして表情を変えない連邦軍の士官はいない。損耗率七割以上と言われた『チェンバロ(ソロモン攻略戦)』と『星一号(ア・バオア・クー攻略戦)』を一名の戦死者も出さずに生き延びた小隊は数えるほどしかいない、しかも最前線で最後まで激戦を繰り広げた彼らの名はある種の奇跡として畏怖をもって語り継がれているほどだ。コウと言い彼らと言い、自分達の周りにはどれだけの生きた伝説が闊歩しているんだと呆れる二人にキースの鋭い視線が向けられた。
「歴戦中の歴戦、そして全員がエース。確かに俺達が束になってかかっても勝てるかどうかは分からない相手だがこんなチャンスはもう二度と来ない ―― 」
そうだ、こんなチャンスはもう二度とない。
コウを失った自分がこれからここでできる唯一の事。甘えを捨て、誰にも頼ることなく生きていく為の目標。そして未来へのたった一つの希望。
コウの代わりに与えられた若い二人の隊員を擁して見出した小さな光。まだ完全とは言えないけれど、それでも自分の思い描いた理想がどこまで彼らに近づいたのかを知る絶好の機会。
アルビオンで追いかけた彼らの背中にどこまで近付けたのか。
そして夢の中で自分の手を振り切って宇宙の闇へと姿を消すあの白い背中を今度こそ捕まえる事が出来るのか。
言葉を止めてじっと三人の背中を追うキースの目に憧憬と羨望が入り混じる。自分達には一度も見せた事のない穏やかな表情を食い入るように見つめるアデリアとマークスの視線を受けた彼は小さく苦笑いをして、先行きへの不安を露わにした二人へと向き直った。
「こら、やる前からそんな事でどうする? 確かに勝つには難しい相手だが勝負はやってみなきゃ分からない、自分が今までやってきた事を全部相手に叩き付けるつもりでやるんだ。例え負けたとしてもそこから得る物は大きい」
「だってその口ぶりじゃああの三人がまるで隊長より遥かに強いって言ってるモンじゃないですか。あんなセクハラ野郎がそんなに強いなんてあたしは認めたくない」
「当たり前だ」
憤慨するアデリアにもやはり昨晩のコウの面影が過ぎっていたのだろう、背後でハラハラしながら話を止めさせようとするマークスの慌てた表情と頬を膨らませたまま抗議するアデリアを見比べたキースは顔を大きく綻ばせて彼女の危惧に同意した。えっと言う表情で驚く二人を尻目に彼は再びハンガーへと姿を消そうとする三人の小さな影へと目を向けた。
「彼らは俺の元教官で」
その言葉をもう一度口にする事が出来るとは。
「 ―― 戦友だ」
僅かに洩らしたその言葉はアデリアとマークスが初めて知るキースの過去の一端、目を見開いて振り返った二人の視線はキースが向けた場所で再び一つに混じり合った。