SS投稿掲示板




No.32711の一覧
[0] 機動戦士ガンダム0086 StarDust Cradle ‐ Ver.arcadia ‐[廣瀬 雀吉](2013/08/23 00:17)
[1] Prologue[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:00)
[2] Brocade[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:01)
[3] Ephemera[廣瀬 雀吉](2012/05/06 06:23)
[4] Truth[廣瀬 雀吉](2012/05/09 14:24)
[5] Oakly[廣瀬 雀吉](2012/05/12 02:50)
[6] The Magnificent Seven[廣瀬 雀吉](2012/05/26 18:02)
[7] Unless a kernel of wheat is planted in the soil [廣瀬 雀吉](2012/06/09 07:02)
[8] Artificial or not[廣瀬 雀吉](2012/06/20 19:13)
[9] Astarte & Warlock[廣瀬 雀吉](2012/08/02 20:47)
[10] Reflection[廣瀬 雀吉](2012/08/04 16:39)
[11] Mother Goose[廣瀬 雀吉](2012/09/07 22:53)
[12] Torukia[廣瀬 雀吉](2012/10/06 21:31)
[13] Disk[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:30)
[14] Scars[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:32)
[15] Disclosure[廣瀬 雀吉](2012/11/24 23:08)
[16] Missing[廣瀬 雀吉](2013/01/27 11:57)
[17] Missing - linkⅠ[廣瀬 雀吉](2013/01/28 18:05)
[18] Missing - linkⅡ[廣瀬 雀吉](2013/02/20 23:50)
[19] Missing - linkⅢ[廣瀬 雀吉](2013/03/21 22:43)
[20] Realize[廣瀬 雀吉](2013/04/18 23:38)
[21] Missing you[廣瀬 雀吉](2013/05/03 00:34)
[22] The Stranger[廣瀬 雀吉](2013/05/18 18:21)
[23] Salinas[廣瀬 雀吉](2013/06/05 20:31)
[24] Nemesis[廣瀬 雀吉](2013/06/22 23:34)
[25] Expose[廣瀬 雀吉](2013/08/05 13:34)
[26] No way[廣瀬 雀吉](2013/08/25 23:16)
[27] Prodrome[廣瀬 雀吉](2013/10/24 22:37)
[28] friends[廣瀬 雀吉](2014/03/10 20:57)
[29] Versus[廣瀬 雀吉](2014/11/13 19:01)
[30] keep on, keepin' on[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:50)
[31] PAN PAN PAN[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:25)
[32] On your mark[廣瀬 雀吉](2015/08/11 22:03)
[33] Laplace's demon[廣瀬 雀吉](2016/01/25 05:38)
[34] Welcome[廣瀬 雀吉](2020/08/31 05:56)
[35] To the nightmare[廣瀬 雀吉](2020/09/15 20:32)
[36] Vigilante[廣瀬 雀吉](2020/09/27 20:09)
[37] Breakthrough[廣瀬 雀吉](2020/10/04 19:20)
[38] yes[廣瀬 雀吉](2020/10/17 22:19)
[39] Strength[廣瀬 雀吉](2020/10/22 19:16)
[40] Awakening[廣瀬 雀吉](2020/11/04 19:29)
[41] Encounter[廣瀬 雀吉](2020/11/28 19:43)
[42] Period[廣瀬 雀吉](2020/12/23 06:01)
[43] Clue[廣瀬 雀吉](2021/01/07 21:17)
[44] Boy meets Girl[廣瀬 雀吉](2021/02/01 16:24)
[45] get the regret over[廣瀬 雀吉](2021/02/22 22:58)
[46] Distance[廣瀬 雀吉](2021/03/01 21:24)
[47] ZERO GRAVITY[廣瀬 雀吉](2021/04/17 18:03)
[48] Lynx[廣瀬 雀吉](2021/05/04 20:07)
[49] Determination[廣瀬 雀吉](2021/06/16 05:54)
[50] Answer[廣瀬 雀吉](2021/06/30 21:35)
[51] Assemble[廣瀬 雀吉](2021/07/23 10:48)
[52] Nightglow[廣瀬 雀吉](2021/09/14 07:04)
[53] Moon Halo[廣瀬 雀吉](2021/10/08 21:52)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[32711] No way
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/08/25 23:16
 小さな明かり採りの窓から差し込む月の光が小さな部屋の片隅を青く染めていた。小さな寝息の輪唱を聞きながらコウはじっと壁際の暗闇に身を潜めて外を眺めている、どこまでも続く麦の海原は風の無い月夜にぼんやりと佇んで幻想的な輝きをコウの視界へと届けた。
 二人を無事に運び込んだ後セシルはマークスの応急処置を手早く済ませて自宅へと戻っている。着弾の衝撃で裂傷を負ってはいるものの弾頭自体にはそれほどの威力がないので表面的な外傷に留まっているとセシルは説明しながら無菌パッチを何枚も貼りつけ、コウは命に別条がない事を知るやいなや思わずしゃがんでしまう程疲れきっていた。緊張が解ければ全身を殴られた痛みがコウの身体に襲いかかり、セシルはヘンケンに事情を話して組合保有の医療キットを持ってくるために置いてあった自転車をひったくるようにして家路を急いだのだ。
 自分の身体の具合は自分が一番よく分かっている事とは言え彼女のそうした心遣いにコウは思わず甘えてしまう ―― いや寧ろそれは彼女の有無を言わさぬ不思議な力による物だったのかもしれない。
 腫れた顔が熱を持ってちくちくと痛み、まんじりともしない彼はそのまま窓の傍に立ってじっと外の様子を窺う事にした。万が一ここの所在が奴らに知られたとしても麦畑のど真ん中にぽつんと立つあばら家へと辿り着けるルートは一本しかないし、それを外れて麦畑に押しいれば乾燥した麦の穂がたちまち鳴子の役目を果たして人の接近を知らせる仕組みになっている。コウはほんの少しの変化も見逃さないように外の景色へと目を凝らしていた。

 闇の中で腕時計を見るとルミノールの小さな点と針が一本の線になる、日付が変わったところでコウはそっと身体を壁から離してそっと部屋の真ん中にあるテーブルへと足を向けた。
 脇にある自分用のベッドにはアデリアを、そして急ごしらえの台の上にはマークスを寝かせてある。まだ痛むのだろうか、眉を顰めたまま苦しそうに横になっている彼の姿を見てコウは怪我人にこの様なもてなししか出来ない自分の部屋の現状を心苦しく思っていた。人と極力会わない様にしていた彼の家に余分な寝具などある訳がない、怪我人を寝かす必要に迫られたコウは急遽ガレージの奥で埃を被っていた脚立に板を差しかけて簡易ベッドに仕立てたのだが、いくらなんでも女の子をそんな場所へ寝かす訳にはいかない、と敢えてマークスに貧乏くじを引いてもらったのだ。もっともそれはセシルの意見が大勢を占めたのだが、連邦軍の士官ともあろう者がこんな傷ごときで気を長々と失っている事に対する彼女なりのお仕置きなのかも知れない。
 足を忍ばせて向かった先にある椅子へと静かに腰掛けて、コウはほう、と深い溜息をついた。蒼い光にぼんやりと浮かんだ自分の部屋に目を閉ざし、もう昨日になってしまった波乱の一日を振り返る。
 いろんな事があり過ぎた。瓦礫の下に埋まった人を助けようとして叶わなかった事、モビルスーツとは似ても似つかない二足歩行の産業機械ですらも扱えなかった事、そして正当防衛とはいえまた人を自分の意思とは関係なく傷付けてしまった事。基地を出る前と何も変わっていない自分の症状に絶望すら感じる、自分はもう元に戻る事は出来ないのか?
「元に、戻るだって …… ? 」
 心に浮かんだその言葉だけが何故かコウの口を動かした。愕然として目を開いた彼はそれが自分の奥底にある取り返しのつかない望みだと知っている、そしてそれに縋ろうとする自分をどうしようもなく軽蔑した。今更何を言っているんだ、自分が自ら手放しておいて、と心の中で毒づいた彼は衝動的に机の上に置いてあるスピリッツへと手を伸ばした。
 マークスの傷を消毒する為に使ったそれはれっきとした飲み物だ、だがコウはガレージで使う明かり用のランプの燃料としてそれを使っている。度数の高い液体を一口飲めばそれだけで今晩の確実な眠りと明日の猛烈な頭痛は確実だ、だがそうする事でしか今日の出来事の憂さは晴らせない ―― そんな気がする。
  
 しかしコウがそのキャップを捻る事は出来なかった。オークリーからの迎えがもうすぐ来るだろうと言う事実が一つ、そしてその時にみっともない真似だけはキースの手前出来ないだろうと言う事が一つ。自分がモビルスーツ隊の隊長の友人である事など古株の人間しか知らない事だし、自分が嘗てオークリーに在籍していたなどと言う事実を知られる訳にはいかない。それでももう二度と会う事の無い友人の名誉を自分が傷付ける事だけは避けたかった。
 思い直した様にテーブルの上へとボトルをそっと戻すコウ、その彼の耳に丁度いいタイミングで車の近づく音が遠くから聞こえてきた。
 じっと聞き耳を立てながらその車が自分のいる小屋からどれくらい離れた場所で停まるかを探る、さっきの奴らの仲間ならば音の決して届かない離れた場所で車を止めて徒歩でここまで来るだろう。しかし大排気量を示す鈍い低音はコウの家の隙間だらけの壁板から眩い光を忍び込ませながら玄関の前で停車した。
「 …… 来たか」
 ほう、と大きな溜息をついてコウが静かに立ち上がると、車のドアが大きな音を立てて慌ただしく人が走り出る足音が聞えた。その人物は建物の前で一瞬躊躇したかのように立ち止まると ―― 多分こんな所に人が住んでいるのか訝しがったのだろう ―― そろりとポーチの階段を上がって玄関の前へと近づいた。辺りを憚る様に遠慮がちなノックが二度響く。
「夜分に失礼します、連絡を頂きましたオークリー基地の者ですが」
 静かな月夜に染み透るような女性の声にコウは一瞬たじろいだ。自分がいた時から慢性的な人員不足に陥っていたオークリーには夜間に常駐する隊員数が少ない、だからてっきり手が空き気味な司令部付きの人間が警備部の兵士が来る物だと思っていた。こんな夜中に女性を一人で来させるなんて、とコウは慌てて返事をしながらドアへと手を掛けた。
「こちらこそ夜中にお呼び立てして申し訳ありません。本当は自分がオークリーへ連れて行こうかとも思ったのですが訳あって ―― 」

 幻想的な蒼い光に色を染める豊かな髪と同じ色を湛える両の瞳が驚きに揺れながら見開かれてコウを見る、一時も忘れた事の無い記憶の実体はコウの喉から声を奪い言葉を消し去った。微かに震える唇が小さく動いて、あの日と同じ声で彼の名を呼ぶ。
「 ―― コウ」

 それは長い間だったのか刹那だったのか、お互いが顔を見合わせて凍りつくその間に去来する過去が時の流れを見失わせる。うたた寝から目覚めたエボニーが小さく泣きながら二人の間に身体を割り込ませ、ニナの足へと歓迎の頬ずりをしなければそれはいつまでも続いた筈だ。だが普段はヘンケンやセシルにも見せない親愛の仕草を初対面のニナへと送った事に驚いたコウの時はそれを境に動き始めた。
「なぜ、君が」
 たどたどしい口調で尋ねるコウの声がやっとニナの時間を目覚めさせる、彼女は二度ほど瞬きをして目の前の現実をやっと受け入れてから口に当てた手を降ろして小さく微笑んだ。
「き、キースとモウラはアラート勤務、整備班は新しく来た予備機の整備にかかりっきりなの。連絡を受けた時に私が一番手が空いてたからここに ―― それより二人は? 」
 気を取り直したニナの声に緊張が走る、コウは無言で自分の身体を脇に寄せて二人の寝姿が見えるようにした。足早にニナが二人の元へと駆け寄るとコウは開いたままのドアを静かに閉じて彼女の背中を眺める、明かり取りから差し込む月明かりに浮かびあがる金の髪がとても神秘的だった。
「彼女の方は気を失って眠っているだけだ。彼のほうは脇腹に傷を負っているが見た目よりも大したことはない、たださっき目覚めた時にパニックを起こしたんでモルヒネで眠らせてある」
 自分の置かれた状況が分からずに暴れようとしたマークスの首筋に、暗殺者のように一瞬でモルヒネの針を撃ち込んだセシルの手際を思い出す。ニナはコウの声を背中で受けながら大きな安堵の溜息を洩らした。
「臨時ニュースでショッピングセンターの爆発事故の一報が流れてから慌ててアデリアの携帯に電話したんだけど全然繋がらなくて。間が悪い二人の事だからひょっとしたら巻き込まれてるんじゃないかってモウラが言ってたのがまさか本当にそうなってたなんて ―― てっきり暢気な顔で帰って来るもんだとばかり」
 まるで血を分けた姉の様な口調でぼやくニナの後ろへと手元にあった椅子を置き、座る様に促す為にコウは頭上の電気のスイッチを引いた。フィラメントが焼けて黄色い光が蒼い光を退ける、骨董品の生み出す仄かな光に驚いたニナが思わず後ろを振り返った。
「? ニナ ―― 」
 気の抜けた彼女の表情がコウの目の前で見る見るうちに驚きへと変化してそれは次第に怒りへと辿り着く、まるで昔に戻った二人の距離を突然ニナの怒声が迸った。
「コウっ! どうしたのその傷っ!? 」
 はっとしたコウは慌てて後ろへ下がって光の下から自分の顔を遠ざける、まるで岩の様に腫れあがって熱を持ったままの顔を彼は冷やす事すら忘れていた。コウの目の前であの日の顔を取り戻したニナはたじろぐコウに向かって鋭い口調で問い質した。
「なんで怪我してるって早く言わないのよっ! 薬箱はどこ、それくらい持ってるでしょうっ!? 」
 尋ねながらニナはあたりをきょろきょろと見回すと、コウの答えを待たずに流しの上にある水屋へと足を運ぶと扉を開いて救急箱を取り出した。なんで置いてある場所が分かったんだと驚くコウを尻目にニナは、自分の為に差し出された椅子をドンと床に置くと睨みつけてそこへ座る様に無言で促す。あまりの迫力に断る決心さえ退けられたコウは言うがままにゆっくりと腰を落としてニナの横顔へと視線を向けた。テーブルの上に置いた薬箱の中身をごそごそと探っていた彼女は突然はたと手を止めて一瞬何かを考えている。
「 ―― 髭そり用の剃刀は? 」
「? …… さっきの流しの棚の上だけど」
「ライターは? 」
 何を始める気だと言おうとしたコウに背を向けてニナは再び流しへと足早に向かうとコウの髭そりを手にとって戻ってくる、それをテーブルの上に置いた彼女はすぐ傍にあったスピリッツの瓶底でプラスティックのカバーを叩き割って小さな刃だけを取り出した。冷静な彼女のやる事とは思えない狼藉にコウはびっくりして思わず尋ねた。
「ニナ、一体何を ―― 」
「すこし黙ってて」 
 一蹴したニナが真剣な面持ちで刃を取り上げると、コウがテーブルの引き出しから取り出したヘンケンの忘れ物に火をつけていきなり刃先を焼き始めた。真っ赤に焼けた刃が摘まんだ彼女の細い指先を焦がす、苦痛の表情で火を消したニナはそのまま注意深くコウの傍へと近づくと腫れて潰れたコウの左の瞼へとそれを押し当て一気に引いた。
「痛うっ! 」
「いいから我慢なさい」 
 切開した瞼からどす黒い血が一気に溢れだす、ニナはそれを自分の袖で受け止めると血塗れの刃を捨てて薬箱の中にある僅かなガーゼを取り出した。溜まっていた血を少しづつ押し出すとコウの左目は急に視界が開けて遠近感を取り戻す、真剣な表情で治療に勤しむニナの顔がすぐ傍にあった。
 
 ワセリンと止血材の粉を混ぜて瞼に開いた傷口へとやけどした指で擦り込む、まるでボクシングのトレーナーのような鮮やかな処置にコウは驚きつつも感心した。
「いつの間にこんな事を覚えたんだい? 」
「誰かさんがいつもいつもケンカばかりしてるから、そのうちもっとおっかない人にいつかこてんぱんにされるんじゃないかと思って。応急処置くらい私が覚えてないとあなたにもしもの事があったら嫌でしょう? 」
 どうやら彼女の師はドクらしい、なるほどそれならこの手際の良さも頷ける。自分の知らないニナの特技に揺らぐ心の天秤が、しかし彼女が何の気なしに漏らした二人の過去で再び元の位置へと針を戻した。それは自分のだらしない過去が生み出した予期せぬ産物、本来ならば彼女にとって必要のなかった物ではないか。
 コウの心の揺らぎがニナにも伝わり、彼女は自分の言った言葉がその原因だと言う事に気づいた。後悔する様に表情を僅かに曇らせ、しかし治療の手は止めたりしない。殴られた衝撃で切れた個所へと次々に医療用の接着剤を搾った彼女は指でつまんでそれを無理やりくっつける、コウの顔はその度に痛みで歪んだ。
「 …… 何かの役に立つだろうと思って買っといたんだけど、やっぱり滲みるから …… 無菌パッチを張り付けるだけじゃ駄目かい? 」
「もう少しこの傷が深かったらドクをたたき起こして来てもらう所よ、針と糸持参でね。赤ずきんの狼さんみたいに縫われたくなかったら黙って大人しくしてて」
 聞き分けのないコウをあやす様に言い含めるニナの声が温かい、束の間に浮かびあがる切ない想いが何度も何度もコウの喉を鳴らして胸を掻き毟る。
 どうして自分はこの時間を手放してしまったのだろう、自分が自分である事の意味を教えてくれる大事な人との大事な世界を。
 ニナの指の温もりを、微かな吐息を感じながらしかしコウには分かっていた。二人にとって大切な世界でありながらそれはお互いが共に並び立って初めて共鳴する二つの鐘の様な物、どちらかがひび割れればそれは醜く酷く耳障りな世界しか二人の元へと齎さない。
 そしてその二つの鐘のどちらが誰かなどもう言うまでもないではないか。

「ふう、やっと終わったわ」
 やれやれと言う表情で顔を離したニナはそこでコウの堅い表情に気が付いた。遭遇した思わぬ事態に興奮した心が冷め、置かれた現実へと目を向けたニナが慌てて散らかった薬箱の中身を元に戻した。出した時よりも丁寧に片づけたその箱のふたをパタンと閉じると元の水屋へと仕舞い込む。
「顔の腫れは多分二三日で取れると思う、傷もあんまり派手に動かなければ開かない筈だわ」
「 ―― ありがとう、ニナ」
 心の底から込み上げてきた本心は水屋の扉を閉めようとする彼女の手を一瞬だけ止めた、ニナは静かにそれを閉じると小さく笑いながら頷いてコウの向かい側へと座った。会えない日々が積み上げた数えきれない話の中からどれを選べばいいのかとお互いが口籠る中、ニナはふと自分がテーブルの上に置いたスピリッツの瓶へと目をやった。それはニナが知るコウの人となりで最も大きな変化だった。
「 ―― お酒」
 ぽつっと呟いたニナの声にコウは慌てて同じ瓶へと視線を注ぐ、中を通り過ぎた光がゆらゆらと黄色いモザイクをテーブルの上に描いている。
「 …… 飲むようになったのね、どうして? 」
「たまに来る組合長がお酒が好きで。それに組合の集会になるとどうしても最後は宴会みたいになってしまう、無理やり勧められている内にいつの間にか」
 押しの強い相手にはどうしても逆らえない、少しも変わらないお人よしな性格にニナは思わず笑った。新しい生活はどう? と何度も何度も心の中で繰り返してしかしそれを口にする決心が彼女にはできない、それを自分が口にした途端に最後の手がかりさえ失ってしまう様な気がするから。

 私は何を考えてる ―― ニナの心に鈍い痛みが走った。もう一度彼とやり直したいと心のどこかで考えているのか? 心の底でコウの新しい未来を認められない自分の愚かさに辟易しながらニナはそっと話題を変えた。
「私の方は相変わらず、キースとモウラも仲良くやってるわ。あなたが基地を飛び出してから配属されたのがこの二人、キースに毎日みっちり絞られてるわよ」
「あいつの部下なら上達も早いだろう。キースはアルビオンにいた頃は一番練成訓練に出てたからな、バニング大尉やモンシア中尉に鍛えられたあいつならきっと俺よりうまく教える事が出来るさ」
「そうかなあ? モンシア中尉が教官じゃあろくでもない事まで教わってたような気がするんだけど。大体あの最中にモウラをナンパしてた辺りがもうね」
「それについては俺もあいつの事を言えないな」
 困った顔で呟いたコウの顔をきょとんとして眺めたニナが思わず声を殺してクスクスと笑った。小さく吹き出したコウが同じ様に笑いながら傍で眠り続けるマークスの顔を眺める。
「で、どうなんだい? オークリーの技術主任の目から見てこの二人の実力は? 」
「素材と素質に関しては申し分なし、雛にも稀なとはこの二人の事を言うのね。でもまだ全然 ―― 最近のモビルスーツってOSが何でもかんでも一元管理するからパイロットが過保護になるのよ。昨日だってOS切らせて演習やらせたら棒きれ持ったキース相手にもうさんざん、私がせっかく講義したのに何の役にも立ってないんだから」
「そりゃ手厳しい ―― でもその素質が開花する日や機会がない事を俺は心の底から祈るけどね」

 暗に彼らがいる間に戦争が起こらない様にとほのめかすコウの横顔は厳しい。しかしコウが知らない事をニナは知っている、彼の願いはとっくの昔にあのアイランド・イーズの中で潰えてしまっている事を。
 星の屑は跡かたもなく消え、その戦端を開いたガトーは戦争が始まる事を預言してこの世から姿を消した。彼が語ったその後に生み出される『Cradle』が戦争を意味しているのか、それを知る一端がコウの中に眠っている事を分かっているニナは密かに眉をひそめた。
「大丈夫、もうジオンは負けたんだし前線の小競り合いも少しづつ下火になってるわ。万が一アクシズと戦争になっても彼らが戦場に駆り出される事なんて有り得ない、だってここは『忘却博物館』なんだから」
 自分に言い聞かせ、その嘘を信じ込ませようとニナはしている。だがコウの表情から安穏とした雰囲気が顔を覗かせる事はなかった。彼もニナやキースやモウラと同様にあの紛争を体験した当事者だ、そして自分の預かり知らぬ所で事態は進展し、気が付いた時にはどうする事も出来ないほど悪化していくのを身を以って体験している。ニナのその言葉が気休めにもならない事など言った本人が一番よく分かっていた。コウは今日彼らに降りかかった災難を振り返りながら、まるでニナの言葉に弓弾く様に呟いた。
「彼らの事を組合長さんからなんて聞いた? 」
「何て、って。二人がショッピングセンターの爆発事故に巻き込まれて怪我をしてるから急いで迎えに来てって。そりゃ何で連絡が病院からじゃないのかって不思議には思ったけれど、きっと基地の人間だから病院よりこっちの方が手当てが早いと思ったんじゃないかってドクが」
「 ―― 彼らはどこかの軍に拉致されようとしていたんだ」

 ええっ、という驚きの言葉よりも得体の知れない恐怖がニナの肌に鳥肌を立たせて息を詰まらせる。信じられないと言う言葉よりも目の前に置かれたコウの腫れあがった顔がその根拠を裏付けている、彼がオークリーにいた頃に引き起こした乱闘騒ぎのそのどれにおいても彼がここまで負傷する事態など一度もなかったからだ。 ただならぬ状況下からの生還を果たしたと思われるコウの言葉だからこそそれは盤石の重みを持ってニナの心へと圧し掛かった。
「理由はたぶん二人に聞いてみれば分かるかもしれない、でも軍人としての規律の在り方は良くも悪くもしっかりしている。どちらかと言うとジオンと言うよりも連邦、いやティターンズに近い感じの印象だった」
「どうして、分かるの? 」
「俺が両方の『彼ら』と戦ったからさ。デラーズフリートの連中は少なくとも部下をけしかけて自分が後ろでナイフを突き付けていると言う事は、しない」
 それはあの悲惨な戦いを生き延びた彼にしか言えない言葉だった。しかし頭の中にある二人の経歴をいくら思い返してみてもそんな騒ぎに巻き込まれる様な前科持ちとは思えない。
 確かに素行不良でこの基地に送られはしたけれども少なくとも彼らが犯した罪はこの基地への転属と言う事で清算されている筈だし、ましてや拉致されてその後の何らかの陰謀に利用されるほど彼らの存在価値は華々しくない。
「とにかく ―― 」
 頭の中の考えが一向に纏まらなくて呆然としているニナへと表情を和らげたコウはどことなく嬉しそうだった、と後になってニナは思った。彼は自分の掌へと目を落としてぽつりと呟く。
「 …… 助けられて、よかった」

 二人の間に流れた沈黙を破ったのはコウだった。必死に二人が攫われようとした理由を考え込んでいるニナに向かって彼は助け船を出したつもりだった。
「二人が拉致された理由に心当たりがないんだったら他には何かないのか? オークリーに最近何か変化があったとか誰かが来たとか」
「ないわ、何もない。来たって言えば得体の知れないドムが一機、それも厳重なロックが掛かって融合炉にアクセスする事も出来ない。どこかにでっかい床の間があるんならそこに飾ってそのまま放っておきたいくらいよ、動けるようになるにしても相当の時間と手間は覚悟しなきゃ ―― って」
 基地の機密を思わず漏らしてしまったニナが慌てて手で口を塞ぐ、その仕草を見たコウは笑って小さく頭を振った。
「大丈夫、一応俺は予備役なんだし軍の守秘義務は有効化されてる。それに『あれから』の一切の情報は決して外部に漏らさないって言うのが軍と結んだ契約の条件だ、そうでなきゃとっくに ―― 」
 その後に続く言葉を容易に理解出来るニナは顔を強張らせた。基地を離れて予備役になった今でもあの契約が効力を残している、『生死を問わず』の文言がちりばめられた彼らだけに与えられた特別な契約書はその条項の一項目でも破った途端に行使される拘束具だ。コウが出て言った日にウェブナーから見せられたあれ以外にも恐らく膨大な量の制約が記された契約書をコウは読み、そして受け入れてサインをした。
 自由に出歩く事すらままならない虜囚のような生活に彼は一体何を求めたのか。
「ねえ、 ―― コウ? 」
 ニナの心の奥底で蟠っていた何かが突然具体的な形と言葉を持って姿を現した。 昨日の夜にアデリアから否定された自分の決意、そして彼女から示されたたった一つの光が彼女に勇気を与える。瞼を閉じたニナは暗闇のどこかで見守る彼女の願いに魂を震わせて祈りを捧げた。

 ―― どうか私に、力を。

「 …… どうして私を置いて行ったの? 」

 目を開けたニナの目に映るコウの顔から穏やかな笑みが消え、代わりに浮かびあがったのは猛烈な悔恨を湛えた苦悶の表情だった。彼女の質問が不意を突いたと言うのがその原因だったのだろう、抉られた心の痛みを我慢する事も出来なかったコウは目を伏せてその顔をニナに見られないようにした。
「あなたがモビルスーツに乗れなくなってるって事はドクから聞いた、でもなんで私に一言相談してくれなかったの? あなたがモビルスーツに乗れなくなったって言うのなら私だってモビルスーツを捨てても構わない、どうして私を連れて行ってはくれなかったの? 」
 ひたむきなニナの蒼い瞳が真っ直ぐにコウへと向けられる、逸らす事なんてできない。一度は途切れた繋がりをもう一度縒り合す為にどれだけの勇気を振り絞った事か、あの日の真実を知る為の微かな手がかりを求めてニナは必死で訴えた。蟠っていた不条理の解を求める為に。
 ニナの一言一言に打ちひしがれる様にコウは苦悩の色を深めた。躊躇いと戸惑いが長い沈黙の時を二人の間に刻み、それは離れた場所で眠っていたエボニーにも伝わった。彼は目を覚ますと身体を大きく伸ばしてあくびをしたかと思うとすぐ傍にある皿まで歩いて湛えられた水に舌を伸ばした、微かな喉鳴りが静けさに彩りを与える。
「俺は」
 俯いたままのコウの口から絞り出す様な声が零れる、彼がこれから洩らす一言一句に耳を塞ぎたくなる自分を叱り飛ばしてニナは目を見開いた。ただ握り締めた両手だけが何かを恐れてぶるぶると震える。
「もう君の傍にはいられない ―― 彼の代わりにはなれないんだ、ニナ」

 自分の元から去った理由がモビルスーツに乗れなくなった事だとニナは今まで信じていた、だからコウの言った『彼』という言葉の対象がすぐには思い浮かばなかった。それがガトーの事を指しているのだとやっと分かったニナは、彼が決して自分の事を嫌いになったから離れて言ったのではないと言う事を知って、心のどこかでその事実を喜んだ。まだ取り繕える余地が自分とコウの間には残っているのではないか、と。
「何をいってるの? あなたはあなたよ、コウ・ウラキはガトーなんかじゃない。そして私にはあなたしかいない、なぜそんな事を言うの? 」
「君はまだガトーの事を愛している、俺は彼がいなくなった後に君に選ばれただけの道化だ。モビルスーツを動かすパイロットとしての素質だけを買われて」
「バカな事言わないでっ! 私がいつあなたの事をそんな風に扱ったっていうの? あなたが一号機に初めて乗った時にはあなたの事をそういう風にしか見なかった事もある。でもあなたが宇宙で傷付いた時に私ははっきりわかった、あなたがいなければ私はもう二度と自分でいられなくなるんだって。あなたがいなくなってからの私はどうやって生きていけばいいのかも分からない、ただ必死でモビルスーツに取りすがって ―― あなたとの絆にしがみついて生きているだけなのよ。なのになぜ ―― 私はあなたにそんな風にずっと思われてたのっ!? 」
「じゃあなぜ俺の所に戻って来た? 」
 余りに筋違いな思い込みに憤慨するニナをコウの冷たい目が襲いかかる。まただ、その目がいつも私の心にいいようのない痛みを与えて彼を遠ざける。でももう私は負けない、ここで負けたら私は彼を永遠に諦めなくてはならなくなる。
 だがニナの不退転の決意は彼の一言によって呆気なく砂上の楼閣と化した。それはニナが彼の為に残さざるを得なかった忌まわしい過ちだった。
「君はあの時ガトーを守る為に俺へと銃を向けたんじゃないのか? 」
「あれはっ ―― 」

 ” ―― 彼の様な男がこの先にもきっと現れるはずだ。連邦、ジオンを問わず私達が命を賭けて成し遂げるこの『星の屑』の未来に起こる動乱を目の当たりにして、志を同じくする者達が。 …… 彼を通じてその希望を見出せただけでも、今の私に後悔は無い”

 ニナの脳裏に突然響いたその声が言葉を詰まらせた。

 ” ―― どうしたコウ・ウラキ、私を撃て。ここで撃たねば貴様は一生罪の意識に苛まれて生きて行く事になる。貴様がこの先宇宙で生きようとするのならば迷うな。そうしてこそ貴様は初めて私の ―― ”

 自分がコウを撃った理由を説明するには彼にガトーの語ったあの真実を告げなければならない、そしてそれはガトーが最後に望んだ彼への呪い。もし解けてしまえばそれはコウがガトーの後を継いで『星の屑』の続きへと身を投じなければならない、彼の意思がどうであるにも拘らず。
 なぜか分かる、逆らえないのだ。ガトーは万難を排しておよそ誰も為し得なかった「狙った場所へのコロニー落し」を成し遂げた、そして世界は全て彼の予言通りに戦争へと歩みを進めつつある。ティターンズの台頭、連邦の対コロニー政策、圧政に苦しむスペースノイドの中から嘗てのジオンのような勢力がいつ立ち上がってもおかしくない情勢になっている。それを阻止する為にティターンズは更なる戦力の増強を繰り返して連邦での勢力と発言権の強化を増しているのだ。
 その彼がコウに託した物をどうして絵空事と片づける事が出来る? 目の前に現れた自身の後継者へとその襷を手渡す事がガトーにとってのゴールだったのだとしたら、それはコウにとっての ―― いえ、私にとっての悲劇の始まり。

 それをここまで封じ込めている物が、私とコウの間にあの日生まれた誤解だったなんてっ!

 握り締めた手の中から何かが零れてしまうのを恐れるかのように、指の間が白くなるほど強く握り締めたニナの首が遂にがくりと折れて俯いた。喉まで出かかった言葉を気道を詰まらせる事で押し留める彼女の動きに、コウは肯定の意思と受け取って失望の色を満面に浮かべて溜息をついた。
「言えないのか、やっぱり。…… でも君がそんなに苦しむのなら言わなくても構わない、聞かないほうがいい事も人にはある」
「 ―― 違うっ!! 」
 俯いたままで心の叫びを床へと叩きつけたニナが激しく頭を振った、豪奢な金の髪が汚れた黄色い光を受けて大きく揺れる。どうすればいいのかを必死に模索する彼女だがもう為す術がない事は分かっている、一度踏み込んでしまった禁忌を回避して誰しもが納得できる終わりを迎えられる訳がないのだ。彼に真実を告げる事が出来ないのなら、もう私は彼に誤解されたまま身を引く事しか出来ない。
 今度こそ、本当に私はコウを失ってしまうのだ。
「 ―― 本当はあの日、ニナの顔を見るまで俺は迷っていた。でも君にまたモビルスーツに乗るのかと尋ねられた時に俺はガトーの代わりでもいいと決心したんだ、いつの日か君が俺の所へと戻って来た事が間違ってなかったと思って貰える日を信じて。でもその僅かな希望も今日、俺は失った」
 まるで死刑宣告だ、とニナは思う。自分の半身から零れる過去の記憶の全てが自分との決別の為に使われている、抵抗も反論も、弁解すらも出来ないこの状況で私は何に縋ればいいのか、ありもしない神の御加護を期待してただじっと彼の言葉に耳を傾けていればいいのか。
「だからもう俺は君の為にガトーを演じる事は出来ない。俺にはもう、何も ―― 」
 もうやめて、コウっ!
 息が詰まる。
 胸が苦しい。
 誰か、誰か助けてっ!

「あたし帰る」
 唐突に響いたその声は全身を震わせて硬直したニナの背後のベッドからだった。上半身を起こしたアデリアはまるで何事もなかったかのようにぶすっとした顔でベッドから足を降ろすとすぐ傍に横たわっているマークスのベッドの脚立をコン、と爪先で蹴った。
「痛ってえっっ! ―― おまえなんて事するんだ、こっちは怪我人なんだぞっ!? 」
「ふん、それだけ元気に喋れてどの口が。ほらあんたも一緒に帰るのよ、せっかくニナさんが迎えに来てくれたんだから ―― て、あれ? 」
 痛む身体を押してしぶしぶシーツを肌蹴たマークスの着衣を見てアデリアが首を傾げた。モルヒネのお陰でアデリアと同じ体勢を取るのにも一苦労なマークスはやっと足をベッドに下ろしてから彼女の訝しげな表情に気付く。
「どうしてあんたの服がそんなにきれい? 確かあたしが見た時は脇腹に弾を食らって血が出てたと思ったんだけど」
「それは自分の服です」
 アデリアの疑問に答えたのはそれまでの険しい表情を隠して立ち上がったコウだった。彼はゆっくりとテーブルを回り込むとマークスの表情を確認して安堵の笑みを浮かべた。
「それだけ動けるのならもう大丈夫、軍曹の服はあまりにひどい状態だったのとどこから奴らに足がつくかも分からなかったので勝手に処分させて頂きました。申し訳ない」
 確かに言われてみればマークスの着ていた物に比べてあちこちがくたびれている、しかし同じカーキ色の ―― 明かりの加減でよく分かんないけど多分そう ―― 夏服の肩に張り付けられた部隊章は間違いなくオークリーに所属するモビルスーツ隊の物。ネームタグこそ外されてはいたが確かに連邦軍から支給される正規品だ。
「いえそんな。こちらこそあなたの貴重な物をお借りして申し訳ない、これは後日綺麗にしてお返しに上がります」
「その必要はありません、それは軍曹に差し上げます。 …… 自分にはもう必要のない物ですから」
 ニナの顔が苦痛に歪む、マークスとは違ってコウの顔には目もくれないアデリアはじっとニナの様子を窺っていたが、それを見た瞬間にすっと立ち上がってニナの傍へと歩み寄る。動けない彼女の手を取っていつものように明るい声が狭い室内に響いた。
「さ、いこ? 早く基地に戻んないとみんなが心配しちゃうから」
 いつものアデリアらしからぬしおらしい態度もそこまでだった。彼女はグイッとニナの手を引っ張ると無理やり立ち上がらせ、余りの豹変ぶりに驚くニナを尻目にずかずかと入口へと向かった。まるで家出して来た我が子を連れ戻す親の様だとその光景を眺めるコウの前から、勢いよく扉を開いたアデリアは一気にニナを外へと押し出して姿を消した。後に一人残されたマークスはよっこらしょと立ちあがりながら困った様に後頭部を掻きあげた。
「あいつめ、怪我人にしんがり任せてどうするんだ全く。 …… 部下が失礼しました、ウラキ伍長」
 自分の名前を呼ばれたコウが驚いた顔をして、しかし穏やかな顔でマークスを見た。その表情の豊かさにマークスは本当にこの人物が伝説の撃墜王なのかとその真偽を問いたくなる。しかしその必要はなかった。緩やかに掲げられた右手が創りだす敬礼の形は自分が今まで見た誰の物よりも上品で、しかも歴戦を語るにふさわしいだけの風格を表していた。
「こちらこそ自己紹介が遅れて申し訳ありません。自分はオークリー基地所属、コウ・ウラキ予備役伍長であります」
「北米方面軍オークリー基地モビルスーツ隊所属、マークス・ヴェスト軍曹。お会いできて光栄です、伍長」
「 …… アデリア・フォス伍長です」
 小さな声は開きっぱなしのドアの影から。コウが振り返るとそこには顔だけ突き出して敬礼をしているアデリアの姿があった。コウが改めて自分の名を告げようとしたその機先を制してアデリアの鋭い声が飛ぶ。
「いいですか、ウラキ伍長。今日はお互い色々な事があり過ぎました、ですから疲れてますっ。大事な話や要件は後日日を改めて、もう一度話し合った方がいかがかと存じますがどうでしょう? 」
「お、おいアデリア。お前なに言ってんだ? 仮にも個人のプライバシーに口出しする権利なんて俺達に ―― 」
 大体アデリアが必要以上に丁寧な言葉遣いをするときは怒り心頭に達している時だ。先行きに慌てたマークスが嗜めようとすると彼女はいーっと歯をむき出して抵抗の意思表示を示してからおもむろに言った。
「そんなのある訳ないってのは分かってる、超でっかいお世話なのもね。でもね、いくらなんでもこんなのってないわよ。どさくさ紛れに結論を出すべき話じゃない、だってニナさんにとってすごく大事な事だもの」
 ギン、とコウを睨みつけるアデリア。おいおい、それじゃあ今まで二人の話を全部盗み聞きしてたって白状したも同然じゃないか、と額に手を当てるマークスをチラリと横目で覗いたコウはしょうがないなあと言う表情で再びアデリアへと向き直った。
「フォス伍長、あなたのお気持ちは大変うれしいがこれはもう済んだ事なんです。ですからこの事についてもう一度話し合った所で導かれる結論は同じだと思う。それに自分は軍との契約上有事以外でのオークリー基地関係者との接触は禁止されている、後日と言うお約束はできないんですよ」
「へーそーですか。そーいうことなら今日マークスがお借りしたあなたの思い出の品をきれいに洗濯して差し上げて、後日当基地で一番暇なパープルトン技術主任に意地でも届けて頂きますのでそのつもりで。ご都合のよろしい日にちを教えていただければ何が何でも即日お伺いいたしますからっ 」
「ですからこれは軍曹に差し上げると ―― 」
「い・い・で・す・ねっ! 」
 反論許すまじと言い放ってドカンと力いっぱいドアを閉めるアデリア、その威力は安普請の小屋がギシギシと抗議の悲鳴を上げるほどだ。びっくりして首をすくめるコウと彼女の怒りの表現方法に呆気にとられるマークス、柱の軋む音が鳴り止んだ時にコウが言った。
「軍曹も伍長もとても優しい方の様ですね、彼女の為にこんなにして頂けるなんて。 …… 頼みごとが出来る権利も資格もない自分ですが」
 コウはそう言うとゆっくりと振り返って照れくさそうな笑みを浮かべた。
「オークリーを …… みんなの事をよろしく頼みます」
 
 マークスの去り際にコウはありがとうと呟き、彼にそれを問い質されるとコウはその言葉の持つ意味を語った。コウが初めて自分の意思で誰かを助けようと思い、それが叶えられた事の感謝だと言うと彼はまるでコウの身の上を案じる様な悲しい顔をした。
 暗闇の中へと遠ざかる赤いテールランプを見送っていたコウは、それが遥か向こうの幹線道路を曲がった瞬間に踵を返した。やるせない気持ちを月明かりへと投げかけてその足をポーチへと載せた時、不意にガレージとの間の暗がりからセシルの声がした。
「彼女との間にあった出来事とはそういう事だったんですね」
 驚いて目を見開いたコウの前にセシルがついと月明かりの下へと身を滑らせた。一瞬他言無用と釘を刺そうとしたコウだったが、よく考えればセシルが立ち聞きした話をよもやまついでに他人へと洩らす事なんてありえない。彼女の表情に浮かんだ微かな後ろめたさがその根拠を十分に裏付けていた。
「俺は一度、彼女に拒まれました。でも彼女の選んだ男が死んで、彼女が戻って来た時に俺は未練にも彼女の為にその男の代わりを演じようとした。でも、もう俺にはそれを演じる事は永久に出来ない。彼女の為に必要な物を失った俺はそれを取り繕い、ごまかしてそれでも傍に居続けたいと願い、自分の中との矛盾に敗れた結果がこのザマです。二度とモビルスーツに乗れなくなった俺など、彼女にとって何の価値も無い」
「自分の事をモビルスーツの為の部品か何かの様に言うんですね。壊れた部品はもう用済みだと? 本当に彼女があなたの事をそう思っているとでも? 」
「そう思わなければ」
 セシルにはその時浮かんだコウの表情がたまらなく哀れに見えた。どれだけの負の感情を折り重ねればそんな顔が出来るのだろう、戦場の廃墟の中でぼろぼろに朽ちて主を失ったモビルスーツの様だ。
「彼女の事を諦める事が出来ない。 …… 自分勝手で女々しい人間です、俺は」
 嘲る様にそう言いながらコウはゆっくりとセシルの傍を通り過ぎる、コウが扉に手を掛け、部屋の中へと足を踏み入れた瞬間にセシルはぽつりと呟いた。
「 ―― 私は、撃てますよ」

 コウの足が止まった。
 それが何について言った事かを瞬時に理解したコウは、次いで耳を疑った。思わず振り向いた先にあるセシルの顔には今まで見た事のない強い感情が籠っていた。
「私はあの人を撃てる」
「なぜ? 」
「愛しているから」
 何のためらいもなくコウにそう告げるセシルの瞳に宿る秘めた決意がコウの胸を強く打つ、彼女の真理に触れたコウの心にあの日のアイランド・イーズでの出来事がまざまざと蘇った。
「私の未来はあの人と共にある。あの人の未来が消えてしまうと言うのなら私の未来もそこには無い。だから私はヘンケンを撃てる」
「セシルさんも俺が間違っていると」
「さあ? 」
 答えをはぐらかす様にセシルは笑うとずいと前に進み出てコウの顔を見上げた。今まで一度も見た事のない挑発的な瞳の輝きが心の奥まで見透かされた様な錯覚に陥る、セシルは手にしていた薬箱をコウに手渡すとくるりと踵を返した。
「それは私に聞くよりも彼女にもう一度会って直に聞いてみた方がいいんじゃないかしら。それよりも私はあなたが彼女の全てを受け入れる事が出来るかどうかにかかっていると思いますけど」
 意味を詳しく尋ねようとするコウに背を向けてゆっくりとポーチを降りるセシル。オークリーへと続く道とは別の畦道に赤いテールランプが小さく灯っている、ヘンケンの燻らす煙草の火口が蛍の様に小さく灯った。
「 ―― 彼女はその時どうだったのかしらね」

 万が一の時の為に医務室の電源を立ち上げて待機していたモラレスはニナから二人の状態を聞かされると「じゃあ明日でもいいわい」と言い残して通話を切った。オークリーに到着するまで車内で交わされた会話はたったそれだけ、正面ゲートを通過して敷地内を通り抜け、ハンガーの明かりが見える様になった頃にアデリアはここでいいとニナに告げた。自分で後部のドアを開けて助手席からよろよろと降り立ったマークスの隣に立った彼女は暫くの間ニナの顔だけを見つめていたが、ニナが不思議そうに首を傾げた瞬間に意を決してその言葉を口にした。
「きのうはごめんなさいっ! 」
 深深と頭を下げたおかげでアデリアの長い髪は今にも滑走路に届きそうだ。ニナは彼女の突然の謝罪に心の底からびっくりした様な顔をし、マークスは不覚にも全財産をショッピングセンターの駐車場に残して来たツケがそれか、と彼女の不器用さに思わず苦笑した。ハンドルに軽く手を添えたままニナは小さく笑うとアデリアに頭を上げるように頼んでから言った。
「いいのよ、もう。あなたはなにも間違ってなんかいなかった、多分間違ってたのは私の方。あなたに昨日叱られたおかげで私は今日コウから本心を聞く勇気が持てた、私の方があなたにお礼を言わなきゃ」
「それは彼がオークリーを離れた理由を聞けたって事? 」
 深刻な顔で尋ねるアデリアに向かってニナは小さく首を振って応えた。
「それだけじゃない、もっと多くの ―― 私と彼の間にある取り返しのつかない過ちについて。でももうそれを償う事もやり直す事も出来ない、今となっては彼がこのまま一生農夫として生き続ける事が私の心からの願い。もし彼がその過ちの理由に気がついてしまったら私はきっと今以上にその事を後悔する、だからもうこのままで、いいの」
「で、でもそれじゃニナさんはこれからどうやって ―― 」
「生きていくわ、たとえどんな事になってもどんな目に遭っても。思い残す事がなくなるまで」
 それは遠い未来かもしれないし今この瞬間に訪れるのかもしれない、でもニナはアデリアの前で切ない笑顔と共にその思いを吐露した。胸が痛くなるほどの儚さに溢れたその表情の前ではアデリアもマークスも何も言えない、ただ一つはっきりしている事はもうそれがいつ訪れても彼女は受け入れる準備が出来ているのだろうと言う事だった。その想いに触れたアデリアがうつむいて何かを呟く、だがそれは彼女自身にしか聞く事の出来ない心の叫びだとマークスは知っていた。
「今日は遅いからハンガーに言って報告を済ませたらすぐに寝るのよ。明日は朝一番にドクが手ぐすね引いて待っている筈だから寝坊しないようにね」

 月明かりの元へと置き去りにして遠ざかっていくテールランプをマークスはじっと見つめたまま動けなかった。自分が知りたいと思っていたニナとコウの物語がまさかこんな顛末になってしまうとは夢にも思っていなかった、ただの色恋事や痴話喧嘩、修羅場の類で済んだのならばどんなに楽だった事か。
 愛しているからこそ別れなければならないと言う不条理な選択を余儀なくされた二人にとってそれがどんなに辛い事であるか、だが頭の中では分かってはいてもそれを理解するには自分は余りにも幼すぎると思った。それがたまらなく悔しい。
 道に迷っている旅人がすぐそこにいる、自分は彼らに道順を教える事も行き先を示してやる事も出来ない。哀れな姿に可哀そうだと思いながらも何一つ報いてあげる事も出来ない自分の無力さが恥ずかしい、傷の痛みすら忘れて彼は両の拳を握り締めたまま月闇に仄かな明かりを放つハンガーを睨みつける。
「 ―― さ、今日はもう終わり終わり。色々あったけど無事に帰って来たという事で」
 マークスの背後から急に能天気なアデリアの声がした。さっきまでニナへと向けていた深刻な表情はどこへやら、彼女は両手を腰に当ててそれを自慢する様な態度でマークスを見つめていた。
「 …… なにはともあれまずは隊長に今日の事を報告しなきゃ、明日の朝一にはドクの所へ行って報告書を書いて指令に提出して ―― ああ忙しい忙しい」
 アデリアの足が動き出すのを待ってマークスは何も言わずにハンガーへの長い道のりへと足を踏み出す、頭の中で何度も反芻される今日の記憶が生々しい痛みと共に蘇って彼の足を滞らせる。庇う事でゆっくりとしか歩けないマークスは必然的にアデリアに追い越される形となる筈だった。
「 ―― 痛ってえっ!! 」
 それは突然に襲って来た激痛だった。思わず悲鳴を上げたマークスの身体に背後からしがみつくアデリアの姿がある、彼女はマークスの胴体に両手を廻して顔を背中へと押し当てていた。マークスの悲鳴を聞いても彼女はその手を解く事も、力を緩める事すらしない。
「い、いたたたっ、お前さっきからなんて事するんだ、いくら無事に帰って来た事が嬉しいからって ―― 」
「 …… ごめん」
 驚くほどか細い声で謝ったアデリアはそれでもマークスの背中に顔を押し当てたままじっとしている。歩く事もままならなくなったマークスが困惑しているとやがてその背中に彼女の震えが伝わって来た。
「 ―― ほんのちょっと …… ちょっとの間でいいからこのままでいて。お願い」

 絶え間なく吐き出される彼女の熱い吐息が涙と共にマークスの背中を濡らす。何度も身体をびくつかせながらそれでも終わらない悲しい嗚咽は傷の痛みよりも激しくマークスの心を打った。コウに借りた制服を憎むように鷲掴みにして自分の力の無さを悔しがるアデリアは、振り絞る様な声でマークスの背中に向かって呟いた。
「 …… なにも ―― なにもできないよう。おねえちゃん ―― 」
 子供の様に泣きじゃくる彼女の姿が、そして心に負った傷がマークスには辛かった。姉のように慕うニナの為に出来る事が自分達には見つからない、ただこのまま彼女が今までの様に笑う事も出来ずに過ごす日々を共に見守る事しか出来ないのか。一昨日までの自分達ならばそれでもよかった、出口を見失った複雑な迷路の存在など知りもしなかったのだから。
 背中で泣くアデリアの声と共に湧き上がる歯がゆさに耐えかねたマークスが青く輝く月へとその目を向けた。見上げた空から降り注ぐ愁霖の様な光の束を色の違う瞳に映して彼は己の心に問いかける、コウが自分にありがとうと言ったその訳を。
 無力である事を認め未熟である事を恥じる、だがそれでも自分達に出来る事はどこかにまだある筈だ。彼に救われた事で自分達は彼の心を助ける事が出来た、結果論でもいい、無力だと思っている自分達は偶然にも彼の為にそれだけの事を今日成し遂げたのだ。
「まだだアデリア、諦めるにはまだ早すぎる」
 力強く告げたマークスの声にアデリアは思わず涙でびしょぬれの顔を上げて空を見た。銀色の髪が月の光に煌めく、影になって見えない筈の彼の表情がアデリアにはよく分かる。
「確かに俺達には二人を元に戻す力なんてないのかも知れない、でもやっぱりこのままじゃ俺は嫌だ。俺もお前と同じ様に、お前とニナさんが笑っている顔が見たい」
「でも …… でももうあたしどうしていいのか分かンない。あたし達に何が出来るっていうの? 」
 縋る様に問い掛けるアデリアを背にマークスは頭の中に浮かんだ一つのアイデアを必死で形にし始めていた。ウラキ伍長がニナさんから離れた大きな理由はモビルスーツに乗れなくなった事が一番の原因だ、その理由は彼の中で発生している薬品による拒絶反応による物だ。ドクはもしウラキ伍長がモビルスーツに乗る事が出来たら複数の理由で確実に死に至ると説明したがその大本にある物もやはりその薬品によって引き起こされる生体反応。
 じゃあ、その薬品の正体さえ分かればドクに頼んで対抗策を考えてもらう事が出来るんじゃないのか?

「アデリア、頼みがある」
 それはあまりに危険すぎる賭けだ、恐らく見つかればコウやニナよりも先に軍法会議に掛けられて一生日の目の見ない生活を送る羽目になるかもしれない。だがそれでも何もしないでこのまま時を過ごすよりはましだ、何より今日の事を後で振り返って後悔する様な生き方だけはしたくない。
 無力である事は認めよう、だが無能である事だけは断じて認めたくない。自分は今までそうやってここまで来たのだから。

 凛としたマークスの声に驚いたアデリアは涙を拭ってもう一度マークスの頭を見上げた。微動だにしない彼はまるで手の届かないその存在へと戦いを挑むかのように月を睨んで夜空へと告げる。
「明日の夜、チェンを俺の部屋に連れて来てくれ。 …… 彼に頼みたい事がある」

 負けたくない。
 どんな運命が待ちうけようともどんな結果になろうとも、それでも自分達の思い描いた未来を勝ち取る為に人は進む。足を止めてしまった彼らの代わりに今度は自分達が手を伸ばそう。
 それは決して無意味な事なんかじゃない、きっと何かの価値がある事なんだと。
 ―― 信じるんだ、マークス・ヴェスト。


前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.026948213577271