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No.32711の一覧
[0] 機動戦士ガンダム0086 StarDust Cradle ‐ Ver.arcadia ‐ 連載終了[廣瀬 雀吉](2023/07/03 19:06)
[1] Prologue[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:00)
[2] Brocade[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:01)
[3] Ephemera[廣瀬 雀吉](2012/05/06 06:23)
[4] Truth[廣瀬 雀吉](2012/05/09 14:24)
[5] Oakly[廣瀬 雀吉](2012/05/12 02:50)
[6] The Magnificent Seven[廣瀬 雀吉](2012/05/26 18:02)
[7] Unless a kernel of wheat is planted in the soil [廣瀬 雀吉](2012/06/09 07:02)
[8] Artificial or not[廣瀬 雀吉](2012/06/20 19:13)
[9] Astarte & Warlock[廣瀬 雀吉](2012/08/02 20:47)
[10] Reflection[廣瀬 雀吉](2012/08/04 16:39)
[11] Mother Goose[廣瀬 雀吉](2012/09/07 22:53)
[12] Torukia[廣瀬 雀吉](2012/10/06 21:31)
[13] Disk[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:30)
[14] Scars[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:32)
[15] Disclosure[廣瀬 雀吉](2012/11/24 23:08)
[16] Missing[廣瀬 雀吉](2013/01/27 11:57)
[17] Missing - linkⅠ[廣瀬 雀吉](2013/01/28 18:05)
[18] Missing - linkⅡ[廣瀬 雀吉](2013/02/20 23:50)
[19] Missing - linkⅢ[廣瀬 雀吉](2013/03/21 22:43)
[20] Realize[廣瀬 雀吉](2013/04/18 23:38)
[21] Missing you[廣瀬 雀吉](2013/05/03 00:34)
[22] The Stranger[廣瀬 雀吉](2013/05/18 18:21)
[23] Salinas[廣瀬 雀吉](2013/06/05 20:31)
[24] Nemesis[廣瀬 雀吉](2013/06/22 23:34)
[25] Expose[廣瀬 雀吉](2013/08/05 13:34)
[26] No way[廣瀬 雀吉](2013/08/25 23:16)
[27] Prodrome[廣瀬 雀吉](2013/10/24 22:37)
[28] friends[廣瀬 雀吉](2014/03/10 20:57)
[29] Versus[廣瀬 雀吉](2014/11/13 19:01)
[30] keep on, keepin' on[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:50)
[31] PAN PAN PAN[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:25)
[32] On your mark[廣瀬 雀吉](2015/08/11 22:03)
[33] Laplace's demon[廣瀬 雀吉](2016/01/25 05:38)
[34] Welcome[廣瀬 雀吉](2020/08/31 05:56)
[35] To the nightmare[廣瀬 雀吉](2020/09/15 20:32)
[36] Vigilante[廣瀬 雀吉](2020/09/27 20:09)
[37] Breakthrough[廣瀬 雀吉](2020/10/04 19:20)
[38] yes[廣瀬 雀吉](2020/10/17 22:19)
[39] Strength[廣瀬 雀吉](2020/10/22 19:16)
[40] Awakening[廣瀬 雀吉](2020/11/04 19:29)
[41] Encounter[廣瀬 雀吉](2020/11/28 19:43)
[42] Period[廣瀬 雀吉](2020/12/23 06:01)
[43] Clue[廣瀬 雀吉](2021/01/07 21:17)
[44] Boy meets Girl[廣瀬 雀吉](2021/02/01 16:24)
[45] get the regret over[廣瀬 雀吉](2021/02/22 22:58)
[46] Distance[廣瀬 雀吉](2021/03/01 21:24)
[47] ZERO GRAVITY[廣瀬 雀吉](2021/04/17 18:03)
[48] Lynx[廣瀬 雀吉](2021/05/04 20:07)
[49] Determination[廣瀬 雀吉](2021/06/16 05:54)
[50] Answer[廣瀬 雀吉](2021/06/30 21:35)
[51] Assemble[廣瀬 雀吉](2021/07/23 10:48)
[52] Nightglow[廣瀬 雀吉](2021/09/14 07:04)
[53] Moon Halo[廣瀬 雀吉](2021/10/08 21:52)
[54] Dance little Baby[廣瀬 雀吉](2022/02/15 17:07)
[55] Godspeed[廣瀬 雀吉](2022/04/16 21:09)
[56] Game Changers[廣瀬 雀吉](2022/06/19 23:44)
[57] Pay back[廣瀬 雀吉](2022/08/25 20:06)
[58] Trigger[廣瀬 雀吉](2022/10/07 00:09)
[59] fallin' down[廣瀬 雀吉](2022/10/25 23:39)
[60] last resort[廣瀬 雀吉](2022/11/11 00:02)
[61] a minute[廣瀬 雀吉](2023/01/16 00:00)
[62] one shot one kill[廣瀬 雀吉](2023/01/22 00:44)
[63] Reviver[廣瀬 雀吉](2023/02/18 12:57)
[64] Crushers[廣瀬 雀吉](2023/03/31 22:11)
[65] This is what I can do[廣瀬 雀吉](2023/05/01 16:09)
[66] Ark Song[廣瀬 雀吉](2023/05/14 21:53)
[67] Men of Destiny[廣瀬 雀吉](2023/06/11 01:10)
[68] Calling to the night[廣瀬 雀吉](2023/06/18 01:03)
[69] Broken Night[廣瀬 雀吉](2023/06/30 01:40)
[70] intermission[廣瀬 雀吉](2023/07/03 19:04)
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[32711] Expose
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/08/05 13:34
 セシルはモラレスと言う医師の能力と実力を高く評価している。彼が下す診断や患者や怪我人の症状に対する分析にはほとんど間違いがなく、それは一種の予言のようだと感じることさえある。
 一年戦争も含めて彼自身が積み上げた救急救命のスキルと知識はその分野でほぼ頂点に位置し、しかし彼はティターンズのやり口に異を唱えて今ではオークリーの一軍医に甘んじている。本来ならばダカールにある行政特区の中にある邦立記念病院のどこかの長にでも収まっていてもおかしくない階級と経歴の持ち主であると言うのに。
 その彼がコウのスカウトに懐疑的だった理由は戦闘時における無反応状態の発生とその要因となる体内麻薬の存在による物だった。確かにあのデータはその事実を裏付けているしモラレスが反対するには十分な根拠となる、彼の医師としての心情やスタンスを知るセシルやヘンケンがそれに対して徹底的な反論を試みる事ができなかったのは彼を信頼するがゆえの事である。
 だが、これは何だ?
 瓦礫の上に突っ伏したまま嘔吐を繰り返す ―― いやそれはもう嘔吐となど呼べる状態ではない。全身の力を総動員して体の中の物を全て吐き出そうとしているようにも見える、空気すらも残らず吐き出してしまったコウの顔色は蒼を通り越して今では紫色に変わっている。チアノーゼによる筋肉の痙攣が全身へと伝わって彼の身体は高熱に浮かされた患者のようにカタカタと震え、全身から噴き出した油汗が白いTシャツを重く濡らしてぽたぽたと地面に滴り落ちる。あまりのコウの姿に一瞬声を失っていたセシルが我に返ったのは、彼の頭上で未だに大きな鋼板を支えていたパワーローダーがみしみしと嫌な音を立て始めた時だった。
「ウラキさんっ! 」
 慌てて傍へと駆け寄ったセシルの手がコウの腕を掴む。並の女性よりは遥かに強い彼女の力でも大の男を引き摺るには手に余ると思われたがコウは彼女の力に抗えないほど弱っていた。ぐらりと動く身体を力いっぱい引っ張って何とかこの危険な場所から連れ出そうとするセシル、しかし彼女の試みはあと一歩のところで思わぬ抵抗によって阻まれた。
 パワーローダーの脚部フレームをしっかりと掴んだコウの右手だけがセシルの救いを頑なに拒み続けている。
「ウラキさんっ! 手を離して、早くっ! 」
 思わぬ事態に叫びながら必死でコウの手を引くセシル、しかし彼の身体は微動だにしない。意を決した彼女がフレームを掴んだままのコウの右手に取り付いて固く結ばれた指を一本一本引き剥がしに掛かった。既にモーターの焼け焦げる匂いと不安定な騒音が辺りに充満して、そのパワーローダーの耐久限界が差し迫っている事をセシルに教える。
 もう時間が ―― っ!
「えいっ! 」
 最後まで食い下がったコウの指をやっと外したのと同時にローダーの駆動モーターが火花を上げて息の根を止めた。邪魔者を排除した何十トンもありそうな鋼板が遂にその牙をむいてコウとセシルに襲いかかる、ミシミシメキメキと言う身の毛もよだつような破砕音は徐々に二人の頭上へと迫っている。コウの身体をその場から遠ざけようと全ての力を足に籠めて引きずるセシル、だがその瞬間逃げ出そうとした彼女の片足が何かの力で地面に縫い止められた。
「!? 」
 異常な事態に足元を見下ろしたセシルの目に血だらけの手が飛び込んで来た。瓦礫の隙間から伸びる様に生え出たその手は彼女のパンツの裾を千切りかねないほど強い力で握りしめている、一瞬で全ての状況とこの後に起こるであろう悲劇の未来の選択肢を思い描いた彼女の瞳がその手を凝視して僅かに揺らめいた。
「た、たすけて ―― 」
 男の声か女の声かも分からないうめき声は瓦礫の奥深くから、耳を埋め尽くすほど大きくなった破壊音に負けない生きる事への渇望。セシルの目に浮かぶ焦りと悲しみと苦悩、だがそれは刹那にも至らぬ微かな刻みの間合いに過ぎなかった。
 全身の力をその足に溜めた彼女は次の瞬間、思いっきり足を引き抜いてその救いの手を振り切った。

 額に置かれた冷たいタオルの感触はコウの意識を急速に混沌から引きずり上げつつある、僅かな身動ぎからそれを感じたセシルはベンチの脇に置かれた花壇のレンガに腰を降ろしながらそっと声をかけた。
「なぜあんな事に? 」
「 …… 駄目だったんですね」
 セシルの問い掛けには答えずにコウはそう言ってゆっくりと重い瞼を開いた。彼の内から込み上げて来る悔しさと悲しさ、それを覆い尽くす様に黒い瞳へと現れる空しさがその表情を鈍く曇らせる。その表情を何も言わずにじっと見下ろすセシルを避ける様にコウは再び目を閉じた。
「もう俺はモビルスーツには乗れないんです、モビルスーツどころかあんな簡単な作りの産業用機械にまで。身体がそれを感じると必ずさっきみたいな症状が襲ってきて自分ではどうしようもなくなる …… それが俺が軍を辞めた理由です」
 セシルはコウが予備役として軍に残っていると言う事実を知っている、しかし彼が自分に向かって吐いた嘘をただ黙って聞き流した。
「セシルさんはあの時、機械も使わずに麦を育てている俺をすごいと言った、でも違うんです。本当は …… 機械を使う事が怖かった。リハビリの為に買ったあのバイクも最初は手を触れる事も出来なかった」
「でも今では誰よりも上手にバイクに乗る事が出来る。 …… リハビリはうまくいったと思っていいんじゃないですか? 」
「俺もそう思っていました、誰かが乗り捨てたあのローダーに手を触れるまでは」
 コウがベンチの上でゆっくりと上体を起こそうとする、支えようとするセシルの手を目で拒んで彼は自分の掌を何もない目でじっと眺めた。
「俺の手はいつも取りこぼしてばかりだ、誰も、何も …… 救う事すら出来ないのか」

「 ―― だからまだ中に人が残ってるんだって」
 喧騒の中からその声を二人が耳にしたのは周囲の雰囲気にそぐわぬ異和感からだった。同時に視線を向けたその向こうで一人の男がレスキュー隊員と押し問答をしている、オレンジの作業着を身につけた隊員は困惑した表情で男の抗議に耳を貸しながら反論していた。
「もう一階から上の上層階に至るまで私達がくまなく探しましたが、少なくとも自分で歩けるだけの軽傷者はいませんでした。後は地下区画だけですが ―― 」
「だからそっちに三人降りてったんだよ、超可愛い女の子とごっつい男と若い兄ちゃんと。若い兄ちゃんは大きい鳥の部隊章の付いた軍服を着てたから多分軍人だ、嘘じゃねえよ」
「ですからそっちの捜索は私達じゃなく警察の特殊部隊の管轄になります。テロリストが立て篭もってる可能性がある場所に武器も持たずに進入できる筈がないでしょう? 」
「じゃああんたの言うその特殊部隊とやらはいつ到着して、いつあの三人を助けに行くって言うんだ? 」
 噛みつく男の物言いに辟易した様にレスキュー隊員は、肩にかけたロープの束を担ぎ直して男の脇をすり抜けた。無視された男はそれがまるで公務員の怠慢だと言わんばかりに後を追って、糾弾の声を浴びせ続けながら遠ざかっていく。セシルが気の毒そうな表情でその光景へと目をやっていると、その彼女の耳に突然靴へと足を通すガサガサとした音が飛び込んだ。
「ウラキさん? 」
 その音がコウの足からしていると分かった時には既にコウはブーツの紐を手早く締め上げている最中だった。彼の決断を読み取った彼女がそれを止めようと次の言葉を探す前にコウは、未だに震えている膝で両手を支えて無理やり立ち上がった。
「俺が地下に降りて彼らを探してきます。セシルさんは警察が来たら地下に人が残っている事を知らせて下さい」
「そんな体で? それにそんな危ない真似を何もわざわざウラキさんがしなくても ―― 」
「俺もそう思います。でもさっき誰かを助けられなかったからその罪滅ぼしに今度こそ、と言う訳じゃない」
 コウは買い物袋の一番上に飛び出していたバーボンの首を掴んで引っ張り出した。
「その部隊章をつけているのなら彼らはキースの部下だ、もしあいつがここにいたらきっとそうする ―― 代わりに俺がするのは当然の事です」
 何かを確かめる様に一度足を踏み下ろしたコウはよし、と呟いてベンチから離れた。もう一度思い止まらせようと口を開きかけたセシルは彼の向けた背中から放たれる熱量に声と言葉を失う、座ったまま不安そうな瞳を向ける彼女を振り返ったコウはいつものように儚い笑顔を浮かべた。
「大丈夫、きっと二人を連れてここへ戻ってきます。セシルさんはここで待っていてください、約束ですよ」

                                *                                *                                *

 この状況下で不敵にも提案を持ちかけると言う事は腕ずく絡みの事に違いないと誰もが想像するだろう。挑発とも取れるコウの言葉に身構える男達は反射的に自分の腰へと手を伸ばす、だがそこで彼らは自分達が犯した致命的なミスに気がついた。
 ラース1の執った行動に慌てた彼らは油断したままぞろぞろと彼の後に続いて取調室へと入って来てしまった、コウによって鍵をかけられた事で近接用も含めて全ての武器を隣室へと置いて来てしまったのだ。一瞬にして余裕を無くした彼らがそれを悟られない様に威嚇の面持ちでコウを睨む、しかしコウはそんな彼らの動揺を見透かした様に平然と言った。
「俺はもう不必要に人を傷付ける事をしないと心に誓っている、だからここで君達に対して何かをしよう等とは思っていない」
 真っ白な袖から生え出た浅黒い両腕をズボンのポケットに差し込んで、悠然と顔を上げたコウは彼らを上目づかいに睨みつけた。
「彼らをここから連れ出したいのならば力づくで俺を排除する事だ。ただし武器を使ってはいけない、あくまで君達の腕力だけでだ」
「 …… 随分とおもしれえ事言うなァ、あんた」
 コウの正面で対峙していたタリホー1の影からいかにも好戦的な目つきをした男が顔を出した。背丈はコウと同じ位だがその体つきには無駄な贅肉がない、モビルスーツに乗る為だけに鍛え上げられたその身体を肩から前面へと押し出して、タリホー3のコールサインを持つその男は凄んだ。
「どンだけ自分の体力に自信があるのか知らねえが大の男五人、それも軍人に袋叩きにあって無事に済むとでも思ってンのか? 粋がるのはそンくらいにして早く道を開けた方が身のためだぜ」
 タリホー1を押しのけてずいっと前に出たその男はコウの胸板にドン、と自分の身体をぶつける。だが揺らぎもしないコウの身体を上から下まで舐め上げた男は小さく口笛を鳴らすと、歪んだ笑いをコウの目前で見せつけた。
「ヒュウ、マジかよあんた。マッチョな体に似合わずそう言うご趣味がおありだとはな。ま、長い戦争があったんだ、中にはそういう変態野郎が出てきても ―― 」
 タリホー3の身体が僅かに沈んで重心が下がる、大きく引き絞った右腕が彼の怒鳴り声と共にコウの顔面目掛けて勢いよく解き放たれた。
「おかしかねえけどなあっ! 」

 陸軍の兵士がモビルスーツパイロットを敵視しているのには理由がある。自分達が多大な犠牲を払って勝ち得た戦果を事によってはたった一機で手に入れられる火力と機動力を保持している事が一点、その他に自分達が過酷な環境で作戦に従事しているその頭上を涼しい顔で跨いでいくその姿に遣り切れないほどの妬みを感じるのだ。「椅子に腰かけたままで人殺しをする」と言うやっかみ文句は嘗て陸軍の兵士が空軍の兵士に喧嘩を売る時に使われた常套文句、今はその対象がモビルスーツの兵士に禅譲されているに過ぎない。
 だがモビルスーツを動かすという事は只ならぬ体力を必要とするという事を、当事者以外の者は知らない。絶え間なく全身を襲う振動に揺さぶられる脳、戦闘行動によって発生するGはパイロットの体をまるで洗濯機に放り込んだかの様に蹂躙し、しかし彼らはその過酷な環境の中で常に考え、行動し、成果を上げねばならない。大昔に『パイロットの六割頭』と表現されていた戦闘行動中の思考能力は現在に至っては五割に届くかどうか、だがその有効領域を拡大する為に  ―― 敵よりそれが劣る事があれば、それは即ち自身の敗北に繋がる ―― 彼らは日々過酷なトレーニングを続けて、どの軍の兵士よりも強靭な肉体を手に入れるのだ。モビルスーツパイロットの門戸が他の兵科よりも異様に狭いと言うのはそれが根拠になっている。
 渾身の一撃に会心の手応え ―― タリホー3の経験上その二つが同時に発生する事は数えるほどしか経験がない、どちらか一つの要件を満たせば少なくとも相手を戦闘不能へと追い込めるそれを二重に重ねた自分のパンチが目の前の男の意識を刈り取るには十分過ぎる。思わず不敵な笑みを浮かべた彼は大口を叩いた民間人の後悔に塗れた表情を眺めてやろうとその顔を目で追った。
「 ―― な、なんだ? 」
 その右フックは最も威力のある場所でコウの左頬を捉えている、あとはその力を残らず伝える為にその手を撃ち抜けば事は足りる。だが ―― 
「 ―― ゲーム、開始だ」
 相手の拳をそこに置いたまま、歪んだ顔でコウは告げた。笑みを失い驚愕に小さく口を開けるタリホー3、しかしそれ以上に無抵抗の民間人が放つ強烈な眼光にたじろいだ彼は思わず後ずさりしてコウから距離を取る。拳に残る熱と痛みを覆うように片方の掌で押さえた彼は顔を顰めて呟いた。
「冗談じゃねえ、どうなってンだこいつの身体? 」
 腕自慢のタリホー3が弱音を吐いた事で腰が引けたのは他の隊員達だった。事の重要性を理解している筈のタリホー1ですら目の前に立ちはだかった男の異常な肉体の耐久力にこれ以上の任務の遂行が困難になったのではないかと疑う。だが彼らの中に生まれた惰気を振り払ったのは一番後ろで手首を押さえたまま殺気に満ちた瞳で障害を睨みつける、彼らにとっての悪夢だった。
「殺れっ! 」
 狂犬の様に顔を歪めたラース1がものすごい声で全員の背中を罵倒した。
「邪魔する物は全て実力で排除する、それが俺達の流儀だ! たとえ民間人でも容赦はするな、それともお前達は今ここで俺の邪魔をして仲間の様に殺されたいか!? 」
「 ―― それが君の流儀か? 」

 歴戦の兵士をたじろがせるだけの裂帛の気迫、絶対にただの民間人ではないと彼らに信じ込ませる殺気はラース1の命令を跳ね返してしまう威力があった。コウの鋭い視線がタリホー達の間隙を貫いてラース1ただ一人に注がれた。
「部下を恐怖で縛り上げた上に倫理を捻じ曲げる、そしていいなりになって自分の行いの是非にさえ目を背ける。それが君達の間でまかり通っていると言うのならそれはもう軍じゃない、ただのテロリストの集まりだ」
「貴様などに軍の何が分かる!? 綺麗ごとを並べていくら自分の行いを正当化しようとしても所詮は人殺しの集まりだ、そんな汚い場所に正義や倫理などあるものかっ! 勝った者が、生き残った者だけが死んだ者を貶める事が出来るんだ、自分の罪を正当化する為にっ! 」
「そんな事をして生き残った男を俺は知っている。その男は自分の犯した罪を抱えていた物全てを使って清算する羽目になった、これからも奴は何も手に入れる事が出来ないまま後悔ばかりを繰り返す人生を歩むのさ。そして君にも同じ運命が待っている、自分の命が世界のどこかで閉じてしまうまで」
 自嘲の浮かぶ瞳が激しい気迫を僅かに緩める、まるでラース1の未来を予言するかのように告げるコウの頬をその時一つの拳が襲いかかった。再び猛烈な首の力でその威力を全て受け止めたコウが、自分に拳を向けた相手の顔をじろりと睨む、そこには必至の形相で彼の預言を阻止しようとするタリホー1の顔があった。
 たとえどんな恐怖を植えつけられたとしても自分達が選んだ行動をテロリズムと蔑ませる事は出来ない、ショッピングセンターの爆破も連邦軍兵士の拉致も拷問も全ていいなりになって嫌々行った訳ではない、全て自分達がそれが正しいと信じて行った事なのだ。それを通り一辺倒の正論で論破されては自分達の存在意義を疑う事にまで発展しかねない、そうなる前にその口を二度と開かなくなるまで叩き潰さねば。
 タリホー1の行動は他の隊員の心の中で巣食っていた善悪のたがを外した。突き動かされる様にコウへと駆け寄った兵士達は声にならない叫びを上げながら火の出る勢いで襲いかかった。

 数えきれない蹴りや拳がコウを削る為に放たれる、だが彼らの渾身の一撃は全て鍛え抜かれた筋肉の鎧によって阻まれた。無論顔は腫れあがり瞼は切れ、夥しい血が頬を伝って彼の白いTシャツを真っ赤に染める、しかしその両足は根が生えた様に白い床を捉えたまま離さない。腫れあがった瞼から覗くその眼光は何者にも穢されぬまま気高く、そして鋭利な刃物の様に鋭く彼らの姿を睨みつける。
 防御を捨てたコウの剥き出しになった急所へと何度も何度も拳を叩き付けるタリホー達は自分達が彼に与えている以上の苦痛を自分達が被っている事に既に気付いている。関節は熱を持ち、手の甲は腫れあがって痺れたまま感覚がない。だがそれでも彼らは憑かれた様に同じ事を何度も繰り返した。そうしなければ自分達のここにいる意味がなくなってしまう事を知っているからだ。
 タリホー3の会心の一撃がコウの脇腹へと炸裂する、それは彼が自分の痛みの限界を超える事と引き換えに放った拳だった。だが肝臓の上へと間違いなく突き刺さった筈の手にはまるで鉄板を殴った感触と衝撃だけが残り、彼の最後の攻撃がコウには遂に通じなかったという事を教えた。苦悶の表情で痛んだ手首を押さえて蹲るタリホー3へと視線を落として、コウは僅かに残る瞼の隙間から光を残す瞳を覗かせる。
「もうそれでおしまいか? 」
「まだだっ! 」
 怯えて縮こまるタリホー3を庇うようにタリホー1が殴りかかった。ガツっという鈍い音がコウのこめかみから鳴り響く、それがコウのやせ我慢が限界へと到達した瞬間だった。屈しなかった首が大きく曲がって頭を揺らす、瞳の輝きを瞼の裏側へと隠して膝を揺らしたコウを見てタリホー1は叫んだ。
「見ろっ、いくら頑丈でもこいつは化け物でも何でもない、ただの人間だっ! 一気に畳み込め、さもないと ―― 」
 呼びかける前に最後の勇気を振り絞った隊員達がコウに目がけて群がった、もうそこにラース1に対する恐怖はない。
 自分達が兵士である事の証明、それを否定した男を討ち倒して取り戻さなくてはならないと言う義務感が彼らを突き動かすたった一つの糧だった。負ける訳にはいかないのだと言う執念が彼ら手足を無我夢中で動かし、それに屈する様にコウの身体は少しづつ、しかし着実に床までの距離を縮めつつあった。
 
 遂に朽木が斃れる様にコウの身体は床へと横たわった。目の前に差し出された結果を疑うように見下ろすタリホー達は、しかし勝利者としての高らかな鬨の声も歓喜の雄叫びも上げる事は出来ない。代わりに上がった息を必死で整えながら身動ぎもしなくなったコウの肉体へと怯えた目を凝らした。
「や、やったのか …… ? 」
 誰ともなくそう告げる声は白い部屋の中で空しくこだまする、身体の中の大事な何かを抜かれた様に呆然と佇んだままの彼らの背中に突然ラース1の蔑んだ声が届いた。
「いくら粋がっていても結局はそんな物だ、どんなに強い意志も力もそれを上回る暴力には耐えられまい。力など最後までそこに立っていた者だけが口に出来る権利だ、負け犬はそこで大人しく転がって夢でも見ている事だ」
「 ―― ばかな」
 タリホー1の呟きがただ一人勝ち誇るラース1の表情を曇らせた。彼らの足の隙間から僅かに覗くコウの身体は微かに痙攣している、それは殴り続けられた事によるショック症状が齎した物だと彼は信じていた、いや信じ込もうと自分に暗示をかけ続けていたのか。
 しかしコウの身体はじりじりと動き始める、最初は誰も気づかないほど僅かだった物が呼吸が起こす喉鳴りと共にはっきりと意思を持った動きへと変わる。悪夢を眺める彼らの視界の中でコウは上半身を起こして膝を立て、今にも壊れそうな骨組みを必死の形相で支えながら再び彼らの前に立ち塞がった。
「 …… ま、だだ。まだおれはやれる、この通り立ってる、ぞ」
 真っ赤な血をよだれの様に垂れ流しながらコウは顔を上げて瞼を開いた。腫れあがった両の目が何かを見る事など出来るのだろうか? だが彼らはそんな疑いよりももっと根本的な事実を疑って自問自答を繰り返す、果たしてこいつは ―― 本当に人間なのか?
「ルールを思い出せ、そして続けろ、俺の息の根を止めるまで。それが出来ないのならここから立ち去れ。 ―― 俺は最初にそう言った筈だ」
「 ―― やれ、殺せっ! 殺してしまえっ! 」
 狂ったようなラース1の雄叫びが戦意を喪失したタリホー達の背中へと叩きつけられた。薬物を撃ち込まれた様に一瞬ビクッと身体を反応させた彼らは一様にコウに向かって身構える、だがそこまでだった。
 彼らの心は満身創痍でタリホー達の前に立ち阻む、一人の青年の粉々に打ち砕かれてしまったのだ。距離を詰める事も後ずさりも許されない彼らに出来る事、それはただそこに立ち竦んだまま時が流れていくのをじっと待っている事ぐらいだ。
「どうした、貴様らっ! 殺せと言ったら殺せっ! 俺の命令が聞けないのかっ!? 」
「 ―― 残ったのは君だけだ」
 コウの声の圧力で左右に分かれたタリホー達がラース1までの花道を作る、手を押さえて跪いたままのラース1は呪い殺さんばかりの形相で自分の前に立ちはだかるコウの顔を睨み上げた。
「君達の負けだ、彼らの事は諦めてすぐにここから立ち去れ。俺は彼らさえ無事に基地に帰す事が出来ればそれ以上の事に干渉しない、約束する」
「干渉しない、約束する、だと? 」
 吐き捨てる様に言ったラース1は目にも止まらぬ速さで身体を翻すと壁際で光を放つダガーを掴んだ。刃を上に向けて握り締めた左手が彼の懐に折り畳まれて痛む右手を身体の前に掲げる。
「これから死ぬ奴にそんな事ができるかっ! 」
 彼我の距離を一足長で飛び縮めたラース1のナイフが横薙ぎにコウを襲う、そしてコウの反応は僅かに遅れた。腫れた頬を掠めた光が一筋の血を伴って弧を描く、連撃で繰り出された刃はコウの胸板に大きな裂け目を刻みつける。不意に訪れた痛みに苦悶の表情を浮かべながら、コウはそれでもルールを犯して目的を得ようとする敵の顔を凝視した。
「ラース1っ! 」
 タリホー1は思わず呼んではならない彼のコールサインを口走る、だが殺意に塗り固められた彼の世界をそれが打ち破る事は難しかった。盲執に捕われたその瞳はギラギラと音を立てて、ただ自分の邪魔をするコウに向かって焔を上げる。彼が教わった近接格闘術の全てを使って操るダガーは止まらない、きっとその民間人を殺すまで。

 もう二度と味わいたくないと思っていたあの感覚と予兆、死を予感した瞬間に訪れる悪寒と相反する興奮が稲妻のようにコウの身体を駆け巡る。彼の自我を幾度も奪い、そして気が付いた時にはこんな事を誰がやったんだと思わせるほどの酷い光景を彼の目に焼き付けるあの前兆。刻一刻と止まっていく時間と景色は火のついた導火線の様にそこに至るまでの残り時間をコウに教えた。
 剥き出しになる生への渇望は彼の殺意に火を灯す、更なる成果を求める為になおもその熾き火へと息を吹き込む得体の知れない何かにコウは必死で叫んだ。
 ” ―― やめろっ!! ―― ”

 光の帯を纏った刃がコウの喉元目掛けてひた走る、長い切っ先はそのまま行けばコウの喉笛を頸動脈ごと断ち切って確実な死を与えるだろう。だがそれが彼の皮膚を切り裂こうとした刹那、誰にも予想の出来なかった衝撃がラース1へと襲いかかって軌道を変えた。刃は予想のルートを大きく外れてコウの首にも届かないまま空しく空を切って遠ざかる。
 その右フックは誰にも予想が出来なかった ―― いやそもそもそれがいつ放たれたのか、動きを止めたままの二人の成り行きを見守るタリホー達には分からなかった。必死の間合いに一歩踏み込んだ完璧な右フックは理想的な形でラース1の左頬を捉えて顔形を変えている、カウンターの衝撃をまともに食らった彼の首は身体ごと大きく後ろにずれて一瞬の内に意識を断ち切られている。惰性で振りまわされた右手が大きく肩に廻されたかと思うと力の無くなった掌からダガーが飛んで再び壁際へと転がった。
 まるで糸の切れた操り人形の様に膝を落とすラース1、だがコウは彼がそのまま崩れる事を許さなかった。自分の目の前を滑り落ちようとする首に左手を掛けたかと思うとその一点だけで身体を支える、絞首刑を受けた罪人の様にぶらりと垂れ下がった身体を片手で宙に持ち上げるとコウは止めを刺す為の右の拳を大きく身体の後ろへと引き絞った。
「 ―― もう、いけっ!! 」
 目の前の悪夢に心を奪われて動けないタリホー達に向かって振り絞る様なコウの声が届いた。圧倒的な力の差を彼らの前に示したその処刑人は全身をわなわなと震わせながら用意した最後の一撃を必死で抑え込んでいる、コウの言葉が理解出来ないタリホー達に向かってコウはもう一度、今にも放たれそうな右手を大きく震わせながら叫んだ。
「はやくこの、おとこを、おれからとおざけろ。だれでも、いい、はやくっ!! 」
 それが殺意に憑依された彼に残されるたった一つの理性だと理解したタリホー1が慌てて床を蹴り飛ばす、同時に点火したコウの拳は世界から消える様に構えた位置から放たれた。タリホー1がラース1の身体にタックルするのとコウの拳が彼の顔に届くのとはほぼ同時、衝撃でねじ曲がった頭を抱きしめてタリホー1は上官の身体と共に白い床へと倒れ込んだ。

 それは人の形をした悪魔の様だった。血塗れの口を大きく開けて声にならない咆哮を迸らせる民間人は宙に置かれたままの右手を掴んで自分の胸元へと押し当て、自分の血が滴る床へとゆっくり跪いて全身を震わせる。振り撒かれる狂気が眩く照らす部屋の明かりを翳らせるようにも感じる、その忌まわしい何かに抗うその男は顔を伏せたまましわがれた声で言った。
「たのむから、いけ。早く俺の前から消えてくれっ! そうしないと ―― 」
 後はもう言葉としての機能を果たさない、意味不明の雄叫びを何度も迸らせながら頭を床へと打ちつけるコウの姿を見たタリホー1はそれに続く彼の言葉を想像して身体を起こした。意識の無いラース1の身体を肩に担いですぐさま呆然自失のままコウの背中を眺める仲間達に命じた。
「撤収だっ! 」
 まるで雷に打たれた様に全身を震わせてその叫びに反応する隊員達、注視の目が一斉に集めてタリホー1は立ち上がった。
「これ以上の作戦の続行は無意味だ、退路を民間警察に押さえられてしまう前にここを離脱して拠点に戻る。急げっ! 」
 弾ける様に走りだしてたった一つしか無い出入り口へと駆け出す隊員達が次々に赤い光の射す廊下へと消えていく。ラース1を肩に担いだタリホー1は部屋の扉を潜った後に再び中へと視線を向けて、たった一人で自分達の作戦の全てを水泡に帰した民間人の姿を見た。
「 …… なんて奴だ、このばけものめ」
 頭を押さえて悶絶するコウの姿に侮蔑交じりの捨て台詞を投げかけると急いで仲間の後を追う。一人そこに取り残されたコウの咆哮が彼の背中にいつまでもラース1が倒された時の恐怖と寒気を刻み込み続けていた。

 彼らの撤収ルートはもう時間的に被災者に紛れこんでの逃亡方法しか残されてはいなかった。邪魔が入らなければ彼女の協力を取り付けた後で拠点へと戻り、そこかで本格的な情報収集へと移る予定だったのだが撤収を決断するまでに予想外の事が起こり過ぎた。時間の経過と共に捜索の手は館内全域に及んで、いくつか予定していた脱出ルートには既にレスキュー隊なり警官なり何らかの目が及んでいるに違いない。だが体中に汚れを擦り付けてよたよたと階段を上がっていけばとりあえずは被災者として外部へと連れ出してくれる、そこから先は自分達の力量でどうにでもなるとタリホー1は踏んでいた。
 コウの咆哮が木霊する赤い廊下をひた走るタリホー1の向かう先は非常階段の出入り口、だが彼の足は明らかにその手前で足を止めて固まった仲間達の背中に止められた。
「おい、どうしたっ! 早く非常階段を上がって上の階に行かないと ―― 」
「 ―― 貴様が指揮官か? 」

 それは背後で泣き叫ぶ男の声よりもはっきりとタリホー1の耳に届いた。驚いて男達の背中を肩で押し退けると、非常階段の扉の前で立ち塞がる様に立つ女性の姿がある。両腕を胸の前に組んで遥かに高い上背の彼らを睨み上げたままのセシルはその眼光だけで彼らの足をその場に縫い付けたのだ。
「な、何の話です? 俺達は駐車場で生き埋めになりそうな所をやっと抜け出してここまで逃げてきたのに」
「下手ないい訳だ、それに ―― 」
 作り笑いで嘘を並べ立てたタリホー3へとセシルの冷たい声が飛ぶ、竦み上がる様な殺気を放つその目と指揮官特有の強い口調が彼の口を無理やり閉めた。
「坊やには聞いてない」
 一蹴されたタリホー3の顔色が変わる、だがセシルはそんな事は歯牙にもかけずに一歩前へと足を踏み出した。まるで見えない壁に押されたかのように後ずさるタリホー達を尻目に彼女は、ただ目の前に立つタリホー1に向かって声を放った。
「大人しく質問に答えろ、ここに来た民間人はどこにいる? 」

 ラース1が持っている物とは違う強制力、しかしその声には抗い難い力があった。軍人である限り命を賭けても守らなければならない命令を伝える為に特化した声音と百人単位の兵士が束になって掛かっても敵わないと思わせるだけの圧倒的な気迫は紛れもなくあの一年戦争を戦い抜いた兵だけに許された物、そして彼女はきっと戦史に名を残す戦歴の持ち主に違いない。幾度も主を変えて戦場を渡り歩いたタリホー1は彼女の命令に必死で抗いながらそう思った。
「し、しらないっ、俺たちはたった今 ―― 」
 締め上げられるような声で本能に逆らってそう告げるタリホー1の顔をセシルの眼光が槍の様に刺し貫く、見えない痛みに耐えかねて目を閉じそうになる彼に向かってセシルはそれまでにない低い声で唸る様に言った。
「この声の主が、彼か? 」
 ずい、と踏み出す更なる一歩に彼らは彼女との距離を開かざるを得なかった。全員でかかれば他愛もなく捻じ伏せられそうなその華奢な身体は鋼鉄の壁となって彼らの心へと押し寄せる、数の力という拠り所に縋っているタリホー1が肩に担いだラース1へと目をやった。彼ならばこういう時にどういうアクションを選択するのか、服従か、否か?
「 ―― どけ」
 
 セシルから放たれたそのたった一言がタリホー1に残されていたプライドをへし折った。よろめく様に壁際へと身体を寄せた彼の傍を、肩まで伸びた髪を揺らしながら颯爽と歩み過ぎる彼女の横顔は妖しいまでに美しい。鳴り響く靴音に耳を奪われながら後ろ姿を見送るだけの彼らが、何故か命拾いに安堵する溜息をついた瞬間にセシルが突然足を止めた。
「もし彼に何かがあったとしたら、貴様らは私の前に二度と現れない方がいい」
 思わず息を呑んだ彼らに向かってセシルがその細い首をゆっくりと廻して振り返る、そこに浮かんだ凄絶な表情に彼らは心まで凍らせた。それはさっきの男に勝るとも劣らぬ殺意を秘めて、まるで命の値踏みをするように彼らの顔を一人一人順番に見据えている。お前達の顔はもう覚えたと言わんばかりに一つ瞬きをしたセシルはその顔を元の位置へと戻してからコウの叫びが漏れ聞こえる廊下の先へと目を向けた。
「今まで生きてきた事を心の底から後悔するくらいに」
 その声は人の声には聞えなかった。原初の罪を暴く断罪者しか持たない非情な声は、百戦錬磨を標榜していたであろう彼らの過去を蔑むように嘲笑う。大事な物を抜き取られた様に呆然と佇む彼らは魅入られた様にその声に耳を傾けざるを得なかった。
「 ―― 切り刻んで、殺してやる」

 揺さぶられる自我と殺意の板挟みに翻弄されたコウは自らに与えた痛みによってようやく我を取り戻しつつあった。額を何度も床に打ちつけたおかげで顔の腫れは酷くなったが、その代わりに暗い淀みに絡め獲られていた自分の意思がはっきりと自覚できる状況にまで回復している。途端に襲いかかって来るダメージによる痛みに顔を顰めて上体を起こした時、コウは自分に向かって歩み寄る足音に気が付いた。
「まさか無抵抗とは。ずいぶんと男前にされましたね」
 どうして一人でここへ、とコウが問いかける前に彼女は呆れた口調でコウの行いを評価しながら腫れた部分を優しくなぞった。人は何らかの危機に瀕した時先ず反射的に頭を守る様に行動生理学上出来ている、それは恐らく遺伝子に刻みこまれた防衛本能から由来している物なのだが、セシルはコウの顔に刻まれた打撲跡を見ただけで当たり前のその事を拒絶したのだのだと悟った。でなければここまで顔形が変わる事など考えられない。
 セシルの洞察が図星である事を証明する様にコウの顔が歪んだ。多分笑ったのだろうが顔中の筋肉がうまく連動していない、顔を汚している血をそっとハンカチで拭おうとするセシルの手を止めたコウは腫れあがった瞼を僅かに開いて辺りを見回した。
「連中は? 」
「慌てて逃げて行きましたよ、一人担がれたままでしたけど」
 コウにそう告げながらセシルは壁際に転がっているナイフへと目を向けた。どうやら完全に無抵抗と言う訳ではなく自分の命を守る為にやらなければならない事を最低限行ったらしい、モラレスが語った「無自覚の自殺願望」は彼の深層心理に刻まれた物ではなくもっと浅い部分にあると言う事実にセシルは胸を撫で下ろした。パワーローダーの傍で倒れていた彼を見た時にはいつか自分自身で死の選択をしてしまうのではないかとその身を案じたが、本当の危機に直面した時に彼のとった行動はそれが杞憂である事を彼女に教えている。
 しかしコウはそうではなかった、セシルの思惑に反してコウは自分が取った行動に恐怖と嫌悪を抱いている。殺意と共に鎌首を擡げる甘美な誘惑は彼の良心をたちまちの内に焼き焦がして別の物へと変貌させた、それの生み出す結果はいつも同じで他人が傷付くか自分を傷つけるかの立場の差異でしかないのだ。今回はたまたまうまくいったが、もし同じ事がもう一度起こったのなら ―― いやそもそも彼らがゲームの続きを続けようとしていたなら自分はどうなっていたのかさえ分からない。知りたくもないと言うのがコウの心境だった。
 悪寒に打ち震える心を押し隠す様にコウは痛んだ身体を押してゆっくりと立ちあがると、唖然と見上げるセシルに背を向けると彼の足は何かを思い出した様によろよろと隣の部屋へと続くドアへと向かった。肩を貸そうとするセシルの勧めを断ったコウはドアの前で立ち止まると静かにドアをノックする、だが意識があった筈のアデリアからの反応は帰ってこなかった。
「 …… まずいな、こっち側には鍵がない。彼女の意識が残ってたから何とかなると思ってたんだが ―― 」
 困惑するコウは望みを託してドアノブに手を掛けて思いっきり捻ってみる、しかし頑丈な金属製のロックはさすがのコウの力でもびくともしない。途方に暮れたコウの背後からセシルがつい、と歩み寄ると目配せを一つしてドアの前にしゃがみこんだかと思うと髪の毛を止めていたピンを抜き出して器用に曲げ直した。伸ばした先端を鍵穴に差し込んで感触を指先で確かめながら奥まで押し込むとそっと手首を返して指先を廻す、ほんの一挙動で堅牢を誇るドアロックはセシルの手品の前に陥落した。
「これくらいできなければ、あの人ヘンケンと一緒になんていられません」
 唱えたジョークに唖然とするコウを尻目にセシルは隣の部屋へと足を踏み入れた。慌てて後を追ったコウはすぐに意識があったまま運び込んだアデリアに何かあったのかと足を向けたが、そこには既にセシルの姿があった。彼女はアデリアの頸動脈に指を当て、次に胸の動きをじっと観察していたかと思うと溜息をついた。
「どうやら気を失ってるだけみたいですね。ウラキさんが助けに来て張りつめてた気が一遍に緩んだんでしょう。 …… そちらの方は? 」
「脇腹の辺りに酷い裂傷がありますが、出血の割に傷はそう深くない。何かのショックで気を失ってるんだと思います」
「まあ」
 ぽつっとそう言うとセシルはすっと立ち上がって、足元ですやすやと眠っている二人の顔を交互に見比べてからぽつりと呟いた。
「連邦軍の士官が、なんて情けない」
 どうやら彼女の物差しの中にはこの程度のピンチなど物の数ではないようだ、コウは顔色一つ変えずにてきぱきと二人の戒めを解くセシルを眺めながらそう思った。一年戦争の経験者とそうでない者との間には全く違う世界観が存在する、とコウは以前アルビオンの戦闘指揮官であったバニング大尉から聞いた事がある。事実一号機の専属パイロットの座を掛けてモンシア中尉と模擬戦を行った際には彼の仕掛けた柔軟の戦略に悉く翻弄されたものだ、そういう意味では自分もセシルから見ればここで気を失っている二人と同じ様に映るのかもしれない。
「さて、これからどうしましょう」
 アデリアとマークスの手足を全て解き放ったセシルが立ち上がりざまに尋ねた。
「多分彼らはこのまま上の階で被災者のふりをして救助を待つつもりですね。わざわざ後を追う事もないでしょうし下手に見つかって後でもつけられたら意味がない、帰る場所が分かってるのなら道順だけでも変えないと」
「しかし軍の行動だと言うのなら恐らくオークリーまでの帰路も彼らは把握しているでしょう。いったんはどこかで匿って基地のほうから迎えに来てもらった方が安全じゃないですか? 」
 コウの言葉を受けたセシルが一つ頷いてそのまま視線を宙へと飛ばした。一見ぼうっとしている様に見えて、しかし彼女の頭の中は演算装置もかくやと言う速度で思考がフル回転している。彼女と長く付き合って来たヘンケンやドクならばその後に彼女が下す判断の正当性が理詰めのロジックで構成されて一分の隙も見当たらないと言う事を知っている。
「 …… 基地に向かわなければ、いいのですね? 」

 上目づかいで尋ねて来るセシルの表情には人をどきりとさせる要素が多分に含まれている、そしてそれは思いこみではなく事実だとコウは身をもって思い知る事になる。彼女の意見に思わず頷いたコウはその後に続いた彼女の提案に慌てふためいた。
「ではウラキさんの家に」
「ええっ? 」
 思わず自分がオークリーに出入りしてはいけないと言う契約内容が喉まで出かかって、慌ててコウは口ごもった。あたふたとしている彼に向かってセシルはさも当然と言わんばかりにその理由を説明する。
「理由は貴方の家がどこにも登録されていないからです。私の家も考えましたが万が一の事を考慮するならウラキさんの家が一番適している、例え衛星を使っても貴方の家に表示されるデータは農機具の倉庫の筈ですから。人の住んでいない場所なら彼らがわざわざ調べに来る事もないでしょう」
 基地を後にしてからの足取りを誰にも知られない為にヘンケンからその倉庫を借りて転がり込んだ事が隠れ家として絶好の条件を満たしているのは皮肉な話だ。それを逆手に取られた形で出された提案には反論の余地すらない。
「 …… 分かりました、じゃあ俺の家に連れて行きます。基地への連絡は? 」
「ヘンケンに任せます。組合長から基地への電話ならば傍受されても仕事の話としか思わないでしょう、基地の誰かを家まで呼び出した上でウラキさんの家まで案内させます。もっとも携帯の電波は変調周波スクランブルがかかっているのでそう簡単には傍受出来ないでしょうけど」
 一瞬で弾き出したセシルの方針に対抗できる代案をコウは一時間時間を与えられても用意する事が出来ないだろう、コウは彼女に全てを委ねて横たわったままの二人の身体に手を掛けた。全身の痛みでさっきの様に軽々と持ち上げる事は厳しいが、それでも何とか担いで歩くぐらいの事は出来そうだ。未だにぐんにゃりとした二人の身体を両肩に担いだコウは、先に出口へと向かうセシルの背中に尋ねた。
「でもセシルさん、彼らの後を追わずにここから出られる方法なんて ―― 」
「彼らの向かった反対側の駐車場の先に地下街へと通じる作業員出入り口があります、そこから地下街に出て車の止めてある場所の傍まで行きましょう。あそこなら現場からかなり離れているから人目にはつきにくいでしょうし、市街地を抜けてしまえば幹線道路を使わなくても家には帰れる ―― 私達の勝ちです」
 何から何まで首尾一貫して周到に立てられた彼女の計画にコウは目を見張ってまじまじと背中を眺める、痛いほどの視線に気が付いたセシルは緊迫した場面に縁遠いほどゆっくりと振り返って、穏やかな笑顔でコウの疑問に答えた。
「どこに行ってもまず最初に非常口の場所だけは確認しておく様に、とご両親から教わりませんでした? 」



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