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No.32711の一覧
[0] 機動戦士ガンダム0086 StarDust Cradle ‐ Ver.arcadia ‐ 連載終了[廣瀬 雀吉](2023/07/03 19:06)
[1] Prologue[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:00)
[2] Brocade[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:01)
[3] Ephemera[廣瀬 雀吉](2012/05/06 06:23)
[4] Truth[廣瀬 雀吉](2012/05/09 14:24)
[5] Oakly[廣瀬 雀吉](2012/05/12 02:50)
[6] The Magnificent Seven[廣瀬 雀吉](2012/05/26 18:02)
[7] Unless a kernel of wheat is planted in the soil [廣瀬 雀吉](2012/06/09 07:02)
[8] Artificial or not[廣瀬 雀吉](2012/06/20 19:13)
[9] Astarte & Warlock[廣瀬 雀吉](2012/08/02 20:47)
[10] Reflection[廣瀬 雀吉](2012/08/04 16:39)
[11] Mother Goose[廣瀬 雀吉](2012/09/07 22:53)
[12] Torukia[廣瀬 雀吉](2012/10/06 21:31)
[13] Disk[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:30)
[14] Scars[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:32)
[15] Disclosure[廣瀬 雀吉](2012/11/24 23:08)
[16] Missing[廣瀬 雀吉](2013/01/27 11:57)
[17] Missing - linkⅠ[廣瀬 雀吉](2013/01/28 18:05)
[18] Missing - linkⅡ[廣瀬 雀吉](2013/02/20 23:50)
[19] Missing - linkⅢ[廣瀬 雀吉](2013/03/21 22:43)
[20] Realize[廣瀬 雀吉](2013/04/18 23:38)
[21] Missing you[廣瀬 雀吉](2013/05/03 00:34)
[22] The Stranger[廣瀬 雀吉](2013/05/18 18:21)
[23] Salinas[廣瀬 雀吉](2013/06/05 20:31)
[24] Nemesis[廣瀬 雀吉](2013/06/22 23:34)
[25] Expose[廣瀬 雀吉](2013/08/05 13:34)
[26] No way[廣瀬 雀吉](2013/08/25 23:16)
[27] Prodrome[廣瀬 雀吉](2013/10/24 22:37)
[28] friends[廣瀬 雀吉](2014/03/10 20:57)
[29] Versus[廣瀬 雀吉](2014/11/13 19:01)
[30] keep on, keepin' on[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:50)
[31] PAN PAN PAN[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:25)
[32] On your mark[廣瀬 雀吉](2015/08/11 22:03)
[33] Laplace's demon[廣瀬 雀吉](2016/01/25 05:38)
[34] Welcome[廣瀬 雀吉](2020/08/31 05:56)
[35] To the nightmare[廣瀬 雀吉](2020/09/15 20:32)
[36] Vigilante[廣瀬 雀吉](2020/09/27 20:09)
[37] Breakthrough[廣瀬 雀吉](2020/10/04 19:20)
[38] yes[廣瀬 雀吉](2020/10/17 22:19)
[39] Strength[廣瀬 雀吉](2020/10/22 19:16)
[40] Awakening[廣瀬 雀吉](2020/11/04 19:29)
[41] Encounter[廣瀬 雀吉](2020/11/28 19:43)
[42] Period[廣瀬 雀吉](2020/12/23 06:01)
[43] Clue[廣瀬 雀吉](2021/01/07 21:17)
[44] Boy meets Girl[廣瀬 雀吉](2021/02/01 16:24)
[45] get the regret over[廣瀬 雀吉](2021/02/22 22:58)
[46] Distance[廣瀬 雀吉](2021/03/01 21:24)
[47] ZERO GRAVITY[廣瀬 雀吉](2021/04/17 18:03)
[48] Lynx[廣瀬 雀吉](2021/05/04 20:07)
[49] Determination[廣瀬 雀吉](2021/06/16 05:54)
[50] Answer[廣瀬 雀吉](2021/06/30 21:35)
[51] Assemble[廣瀬 雀吉](2021/07/23 10:48)
[52] Nightglow[廣瀬 雀吉](2021/09/14 07:04)
[53] Moon Halo[廣瀬 雀吉](2021/10/08 21:52)
[54] Dance little Baby[廣瀬 雀吉](2022/02/15 17:07)
[55] Godspeed[廣瀬 雀吉](2022/04/16 21:09)
[56] Game Changers[廣瀬 雀吉](2022/06/19 23:44)
[57] Pay back[廣瀬 雀吉](2022/08/25 20:06)
[58] Trigger[廣瀬 雀吉](2022/10/07 00:09)
[59] fallin' down[廣瀬 雀吉](2022/10/25 23:39)
[60] last resort[廣瀬 雀吉](2022/11/11 00:02)
[61] a minute[廣瀬 雀吉](2023/01/16 00:00)
[62] one shot one kill[廣瀬 雀吉](2023/01/22 00:44)
[63] Reviver[廣瀬 雀吉](2023/02/18 12:57)
[64] Crushers[廣瀬 雀吉](2023/03/31 22:11)
[65] This is what I can do[廣瀬 雀吉](2023/05/01 16:09)
[66] Ark Song[廣瀬 雀吉](2023/05/14 21:53)
[67] Men of Destiny[廣瀬 雀吉](2023/06/11 01:10)
[68] Calling to the night[廣瀬 雀吉](2023/06/18 01:03)
[69] Broken Night[廣瀬 雀吉](2023/06/30 01:40)
[70] intermission[廣瀬 雀吉](2023/07/03 19:04)
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[32711] Scars
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/11/15 19:32
 モウラの部屋に置いてあるスリムなロッカーと金属のナイトテーブルは、モビルスーツの廃材を利用して作った物だ。殺風景な壁にはお気に入りのレゲエ歌手の巨大なポスターと軍から送られたいくつもの賞状が飾られている、それが一介の整備士から中尉という階級にたどり着いた叩き上げの彼女の努力の歴史と言っても過言ではない。
 だが、ベッドに横になったまま眺めている同じコンクリートの壁にはそれがない。器用なモウラから見ればいかにもブサイクな作りの小さなテーブルに所狭しと置かれた写真立て、そして見慣れたシューティンググラス。
 なんの飾り気もないその部屋が自分の部屋よりも穏やかで暖かく感じるのはなぜなんだろう。モウラがふとそんな思いに駆られた時、不意に隣に横たわるキースの体が動いて枕元のタバコへと手を伸ばした。部屋を彩る間接照明の明かりに彼の青い目がかすかにきらめく。
「ねえ …… 」
 甘えるように尋ねるモウラの目の前でキースの親指が動いて金属の蓋をカチンと鳴らす。軽い残響音が部屋の中でかすかに木霊した後に続く擦過音と共に焦げた芯に炎が灯った。不安定なゆらめきが咥えたタバコに火をつけて、役目を終えたジッポーはすぐにその輝きを蓋の中へと覆い隠した。立ち上る紫煙がうるさいエアコンから吐き出される冷気に紛れて部屋の隅へと消えていく。
「なんで昼間、あたしを止めたんだい? 」
 チチッという小さな火口の鳴き声がキースの顔を仄かに照らす、横顔を眺めながらじっと答えを待つモウラの顔を遮ってキースの手が自分の口へと伸びる。まだ火の着いたばかりのタバコをそのまま枕元の灰皿へと押し付けると小さくため息を吐いてからおもむろに答えた。
「 ―― ガトーと初めて会った日の事を覚えてるか? 」
 
 世界は時として一夜で変貌する。天国と地獄、そして生と死。保障されていた平和はトリントンでのあの日に覆された。失われた命と手に入れた絆、そして甘酸辛苦のもつれ合った遠い記憶。
「  ―― 忘れる訳、ない。 …… 忘れられない」
「ニナさんから聞いたんだけど、あの日基地に帰ってからアレン中尉とカークスの遺品を整理しろって言われて …… コウのやつ、アレン中尉の遺品を泣きながら片付けてたってさ」
 オーストラリア方面軍トリントン基地所属のモビルスーツ部隊が三名だけを残して壊滅したあの日。無傷で帰還したのはコウの搭乗したガンダム一号機のみでキースのザクは頭部を切り飛ばされて辛うじて動く程度、そして彼らを預かっていた指揮官のバニング大尉に到っては敵の重モビルスーツと刺し違えた挙句に右足脛部の骨折と言う被害を被った。 だが彼らが戦った相手の正体からすればそれは奇跡の御技に違いない、とモウラは今でも思う。なぜなら彼らの相手はジオンの中でも最後の切り札エース・イン・ザ・ホールと呼ばれた通称『ソロモンの悪夢』、アナベル・ガトー率いる猛者の集団だったのだから。
「あのガトー相手に生き残った事が奇跡だってのに、コウの奴 …… あいつ昔からそうなんだよなあ。何かな事あるとすぐに自分のせいにしちまう」
「でも自分の出した結果に対していつも真摯に向き合い続けた彼だからこそ、エース足りえた …… あ、ごめん」
 別にその気がなくとも、いつの間にかコウとキースを比較するようなセリフを口に出してしまった事に慌てるモウラの顔を横目で見たキースがクスッと笑った。
「まあ、ね」

 モウラの言葉はコウ達がトリントン基地に帰還した直後にニナから見せられた起動ディスクの初動記録バージンデータに由来する。ガンダム一号機はテスト時の事故による改修作業の後にトリントンでいきなり予期せぬ実戦を迎えた訳だが、その機動性と出力は恐らく当時連邦軍に存在したモビルスーツの中でも別次元の性能を誇っていた。
 テストパイロットのセレクションを実施するに当たりアナハイムは機動核となるバーニアのみを先行して送りつけ、機動特性の最も類似するパワード・ジムである程度慣れてもらってから本試験に入ろうと考えていた。またその際に記録されるそれぞれのテストパイロットのデータが正式採用の基準になる事はクラブ・ワークスで検討された既定事項の一つであった。
 ニナの予想ではそれでも恐らくパワード・ジムと一号機の間には瞬間駆動率と反応速度に格段の差が存在するから、恐らく試験当初の段階ではその性能の半分も引き出せないだろうと予想していた。しかしガトー来襲の混乱が一段落して取り出された一号機の起動ディスクには ――
「あたしも長く整備士やってるから彼が叩き出した数値の異常さはよく分かる …… あんた達はそれまでザクに乗ってたんだろ? 」
「S7(連邦宇宙軍機動兵器学校:Earth Federation Space Force Fighter Weapons School)ではこれでもジムに乗ってたんだぜ、陸戦用ばっかだったけど。俺はトリントンで初めてザクに乗った時「冗談じゃねえ、こんな乗りにくいの」って思ったけど、あいつは子供みたいに喜んでたなあ。動かしてる気がするぅとか何とかわめいて騒いでたっけ」
「それ、何となく分かるわ。コウはパイロットっていうより『モビルスーツマニア』だもんね。ニナもあの時言ってたわ、「何あの人、あたしのガンダムを無断でじろじろ眺めて」って」
 ニナをナンパするキース、呆れるニナ。間に割り込むモウラとその三人のやりとりから遠く離れて少年のような目で一号機を見上げていたコウ。最悪の出会いだったはずが、今ではもっとも微笑ましい記憶となって二人の目蓋に蘇る。ベッドで体を寄せ合ってクスクスと笑う二人の声を、古びたエアコンの騒音がかき消した。
「あいつが不器用なのは知ってるだろ? 」
 薄笑いを浮かべて尋ねるキースに向かってモウラは小さく頷く。同意を得た事に安心したようにキースは、天井を見上げて言葉を続けた。
「人付き合いも生き方も、ニナさんとの事も。そして俺達との事も。 …… でもあいつはなんにも変わってない、一生懸命に何かを伝えたいって気持ちはわかった」
「伝えたい? …… 何を? 」
「不器用だって言ったろ? 」
 呆れたような笑いは察しの悪い自分に向けられたものなのか、それとも再び雲隠れした友人に向けたものなのか。キースは少しむっとしたモウラの顔へと視線を戻した。
「自分でもどうしていいのかわからないのさ。だからあんな冷たい言い方になる、ホントはそんなこと思ってもいないくせに」
 そう言うとキースはモウラの肩ごしに視線を向けた。家族との記念写真、モウラとのツーショット、そしてトリントンへの配属が決まったその日に街へ繰り出して祝杯を上げたコウとの写真。遠い昔に忘れてしまった無邪気な笑顔の二人をジッと見つめる。
「あの目は …… そんな目だ」
 
 逢瀬の時間はまたたく間に過ぎ去った。キースを置いて一人ベッドから降り立ったモウラは椅子の上にたたんで置いてある下着を手にとった。
 モビルスーツの整備士として中尉の座を手に入れたモウラの背中は大の男でも手こずるほどの重さのレンチや器具を扱う為に逞しく鍛え上げられている。およそ女性らしさの欠片も無いその背中や彼女の体躯が、実は彼女の中の女を隠し通そうとする為に生まれた物である事をキースは知っている。モウラ・バシットと言う女性が外見とは裏腹に誰よりも思慮深く、優しく、そして自分の見た目にコンプレックスを持っているという事に気付いた瞬間にキースはモウラが可愛いと思った。
 そしてそれが二人にとって恋に落ちた瞬間でもあった。
「そういえば、モウラ」
 下着に脚を通したモウラの背中に向かって、何かを思い出したようにキースは問いかけた。モウラはなくなる時間と競争をするように着替えを続ける。
「ん? 何? 」
 整備用の繋ぎを手に取りながら眉を顰めて、自分達の置かれている境遇にほんの少しの恨み節を心の中で唱える。本当はキースの部屋へこんな服を着て訪ねる事などしたくない、しかし基地内でも階級的には上位に位置する二人が逢瀬を重ねる事に規律と風紀の乱れを危惧した二人は、互いの部屋を訪れる際には作業着で尋ねる事と決めていた。
 部屋の出入りを基地内の人間に見咎められても整備班長と隊長と言う関係ならばモビルスーツ隊関係の話し合いと言う事で辻褄が合わせられる。自分達の立場を隠れ蓑にこの様な策略を弄す事に後ろめたさも感じるが、それでも会いたいと思ってしまう事が二人の愛情の深さを物語っていた。
「コウとニナさん、本当は何かあったんじゃないのか? 」

 狙撃手としての才能を認められてアデルと同じジム・キャノンⅡのパイロットに抜擢されたキースの観察眼は超一流だ、どんな些細な変化も矛盾も見逃さずに的確に捉える事の出来るその能力は誰もが一目置いている。モウラはキースの問い掛けが二人の何処に掛かっているかを知りつつ、あえてとぼけて聞き返した。
「何かって …… そりゃ何かあったんじゃない? コウはみんなに黙って基地を飛び出してったンだから」

 心の中に去来するニナの告白。デラーズ紛争最期の日にアイランド・イーズの中で起こった出来事の一部始終、そしてニナの本心。
 思い出すだけで胸の奥で切ない痛みがうずき出す。ガトーをコウが撃ち、止めを刺そうとしたコウに銃口を向けた。なぜそうしなければならなかったのか、その理由。
「コウがこれ以上傷付くのを見たくない」からだとニナは言った。コウを愛するが故に自分の嘗ての恋人と ―― モウラはそれをラヴィアン・ローズで知った ―― 同じ咎人にはしたくない、と。

「いや、ここでの事じゃない。もっとその前 …… コウがガトーと相打ちになった辺りから。見た目には繋がっている様でいて、どこか根っこの大事な部分が途切れてる …… そんな気がしたんだ」
 キースの一人言に耳を傾けながら黙々と着替えを続けるモウラの手は震えている、心の中で渦巻く葛藤がその原因だ。愛する者に隠さなくてはならない秘密がモウラの胸を締め上げて、その言葉を吐き出させようとする。
 吐き出してしまえばどんなに楽だろう、ニナはコウの世界を護る為に敢えて汚名を被ったのだ、と。コウに銃を向けなければ彼はきっとガトーをその手で殺して大きな罪を背負う事になる、そうはさせない為にニナは愛する者に銃を向けたのだ、と。
 だがその真実を知ったキースはニナの事を果たしてどう思うだろうか? 自分の親友、いや戦友に向かってたとえどのような事情があるにせよ銃口を向けた者の事を正当だと評価するだろうか?
 彼らは兵士だ。そして兵士である以上戦場へと赴いて命の遣り取りをするのは当然の行為であり、銃を向けると言う事は相手が自分の敵だと認識する事と同意だ。いくら仲間とは言えそんな事をしたニナをキースは笑って許すのだろうか?

「 ―― モウラ? 」
 背後でキースがベッドから起き上がる気配がする。モウラは着替えの手を止めるとたまりかねた様に振り向いた。
「キースっ、あたしあんたに ―― 」
 全てを告げようとするモウラの声が、すぐ傍まで近寄っていたキースの唇で塞がれた。

 肌よりも熱く、暖かな感触に全てが溶けていく。包み込む様なその感覚が離れた後に残されたモウラの泣き出しそうな顔に向かってキースが小さな笑顔を浮かべた。最近では見せなくなったその優しい笑顔だけは確かに自分だけの物なのだと思う。
「言いたくないのなら、言わなくていい。 …… 聞かないほうがいい事もある」
 離れていくほどに溺れそうになるキースの深い愛情に、目尻から涙が一筋。ベッドの上で膝立ちで自分を抱きしめるキースの頭は自分の頭の上にある。モウラは目の前にあるキースの胸板へと甘える様にその頬をうずめた。

                              *                                *                                *

 煌々と照らし出された士官宿舎の廊下へといつもの姿で現れるモウラの背中で閉じていく束の間の愛情。後ろ手に握ったドアノブを自分の身体へと引き寄せて、モウラは自分の愛した男がこれから迎えようとする安らかな眠りを妨げない様にそっと境界の扉を閉じた。

 だがモウラの足はその場所から一歩も動かなかった。告げぬままに赦された罪は人の心により大きな罪悪を植えつける事がままある、今のモウラはまさにその境中にいた。頭上より降り注ぐ強い光が生み出す足元の濃い影へとじっと視線を落としながら、キースの優しさをにべも無く受け入れてしまった自分の弱さを後悔する。
 たまにめぐり来る同じ非番の日にこそこそとお互いの愛を確かめる。それが他のみんなに伝わる事を恐れてなどと言うのは建前だ、本当はニナにこの事が伝わる事を恐れている。コウが黙って基地を出て言ったあの日からニナの時間と共にあたし達の関係も足を止めた、それはまるで今ここで足を踏み出せずに佇んでいる自分と同じ。
 分かっているのだ、このままじゃいけないと。
 わかってるんだ、このまんまでいい筈がない、と。
 でもだからと言って今の自分に何が出来る? この広大なオークリーのどこかで息をひそめて暮らしているコウを見つけてどうしようって言うんだ、あの日のニナの本心をコウに打ち明けてもう一度コウに戻って来てもらう? もしそれでもコウが心変わりをしなかったらどうなる?
 友達の秘密を打ち明ける事で失う物の大きさは分からない、もしかしたら何も失わないかもしれないし、全部失うかもしれない。でも自分は全部失う事を恐れている、それならば、いっそこのまま ―― 。

「 …… 出来やしないよ、そんな事 ―― 」

「 ―― 何がですかぁ? 」
 思いを巡らせたままいつの間にか目を閉じていたモウラは、自分のすぐ傍にまで歩み寄って来ていた人の気配にすら気付かなかった。驚いて目を見開いた彼女の目の前にある赤毛の少女の不思議そうな笑顔に、モウラは思わずたじろぐ。
「うわっ! ジェスっ、あんたいつからそこにっ!? 」
 モウラと同じ色の繋ぎを来た少女はショートカットの赤毛をフルフルと振りながら、やれやれといった面持ちで両手を腰に当てた。
「いつからって、たった今。―― さっきからずっと班長探してたんですよ、部屋にもいないし。きっとここだーと思ってキース隊長の部屋の前まで来て見たら、案の定」
「案の定ってあんた、ここは士官専用の宿舎だよ? それにあんたアラート勤務は? 今夜はあんたとアストナージが当番の筈じゃ ―― 」
「アストナージ上等兵殿は、現在当直の陸戦兵の方と『ジン・ラミー』(二人制のカードゲーム)に夢中であります、班長殿。それより ―― 」
 笑いながら自分の同僚を茶化すジェシカに呆れ顔を向けるモウラ、その顔には訳がある。
 本来アラート勤務と言う物は性質上前線若しくは紛争が起りそうな地域に隣接する基地に限られていた。ところが先日ジオンを名乗るテロリストがハンブルグ郊外の疾病管理予防センターを襲撃して保管してあった細菌などの致死兵器を大量にばら撒くという事件が報じられた。
 幸いな事に鎮圧部隊の手によって空気中への流出は免れた物の『封じ込め』の為に使われた爆弾は付近一帯を残らず焦土に変え、施設内の生存者は襲撃したテロリストも含めて皆無と言う結果と相成っている。事態を受けて連邦軍は宇宙からの渡航者の数を制限し、警戒も強化された。奇しくも『そうしている間にも地球は悪意の危機に晒されている』と議会で演説したジャミトフの言葉を実証してしまった形になった地球上の各基地は、規模の大小に関わらず一年戦争以来の大規模なアラート体制を実施する事を決定した。
「こんな僻地にジオンが来て何する気だ」と言う口さがない兵士達 ―― もちろんその中にはマークスやアデリアも含まれる ―― の不満を他所に基地司令であるウェブナーは直ちにアラート勤務のシフトを通常シフトに組み込む事を決め、指示を受けた各部隊は公平且つ民主的な『ジャンケン』と言う形でアラート勤務の人員を割り振っていった。 もっとも連続しての夜間勤務が無い様に極力士官達が率先して勤務シフトを肩代わりしてはいるのだが、兵数の少ないオークリー基地ではそれも思う様に行かず、時として何日も連続してハンガー内に待機せざるを得なくなる。かくいうモウラとキースも昨日までは三日連続の勤務をこなしたばかりで、今日は久々の休養日と言う事になっていた。
 ウェブナーの決定に何の異論もはさまず、直ちに部下の不満を立場と言う力で封殺したモウラ達には彼の気持ちがよく分かる。戦争と言う名の闇は平和な日常を一瞬にして悲劇に変えてしまうほど罪深く、そして一度起ってしまえばケリがつくまで逃れられないたちの悪い悪夢なのだ。そしてそれがここで起らないと言う保障はどこにも無い。軍歴からも抹消されて事実関係すら隠蔽された『トリントン基地襲撃事件』を経験したモウラ達には尚更の事だった。
 
「今日、ウラキ伍長が基地に来てたんですって? 何で教えてくれなかったんですかぁ? 」
 睨まれた事にも悪びれずに屈託の無い笑顔を向けるジェスが少女らしく甲高い声で尋ねた。まだ幼さの残る彼女は丁度アデリアの二つ下に当たる、まだ未成年だ。だがその腕前と機械に対する洞察力は若手の整備士の中では群を抜き、先任のアストナージが舌を巻くほどの速さと正確さでモビルスーツを次々にロールアウトさせる実力を持っていた。予算上の制約から外部の整備士を雇う余裕の無いオークリー基地に於いては、そして数少ない整備士をやりくりするモウラにとっては貴重な人材と言えよう。
 だからといって好き勝手にさせるほどモウラは寛大な人間ではない。とかく規律を蔑ろにしがちの彼女を上司の厳しさで譴責するモウラであったが、それにも一切懲りる事無く自由を謳歌する彼女の姿は陸戦兵の間でも話題になっている。燃える様な赤い髪と円らな瞳、そして常に濡れた様に艶やかな赤い唇がどうも荒くれ連中のツボに入る様で、彼女の周囲には群がる男の噂が絶え間ない。もっとも「あの子の尻にはきっと尻尾が生えていて先が尖っている筈だ。じゃなければあの年であんなに男あしらいが上手い筈が無い」とは現実に触れ合う機会の多いキースの、ジェスに対する評価である。
「何でって …… コ、いやウラキ伍長はすぐ帰ったからね。それに伍長が有事と訓練の日以外にはこの基地に出入禁止になっている事位あんたも知ってるだろう? …… て、言うか。ジェス、その事誰から聞いた? 」
「警備のハリスさんから。聞いたら教えてくれましたよ? 」
「どうせ色目使ってねだったンだろ? せめて目上には階級をつけな、そうやってすぐに友達扱いにする所があんたの悪い癖だ」
はい班長アイ、マム。 …… で、ウラキ伍長ってば今日は何しに来たんですか? まさかこの基地のだれかさんがお目当てだとか? 」
 上目遣いで見上げるジェシカの瞳は女であるモウラにしてもドキリと思わせるほど魅力的だ、だがそれこそがこの少女の手だと知るモウラはその手にゃ乗らないぞと言わんばかりの眼光で睨み返す。
「はずれ。ウラキ伍長の働いている農協の組合長の奥さんを送って来ただけだよ。とーっても美人の、ね」
 そう言いながらモウラはキースの部屋の扉を後にした。幾ら防音になっているとは言えここでの立ち話は何かと支障がある。それに士官専用 ―― それも男性に限る ―― の宿舎で何時までも立ち話をしている所を誰かに見咎められたらそれこそ整備班の沽券に関わろうという物だ。
 それでなくてもモビルスーツ隊にはニナといいアデリアといい、どう言う訳が美形の女性が揃っている。仕事一途のニナや恐ろしい二つ名を持つアデリアに手を出す奴はいないだろうが、この子は違う。違う所か本人はそれを楽しんでいる節が見え隠れする所が在る故に、モウラの叱責は常にジェスに向けられる羽目になる。向けられるが故に姉が歳の離れた妹を怒る様なその光景は常に男共の同情を買い、いきおい彼女の手元には慰めの言葉と余るほどの贈り物が溢れる様になる。ジェスが入隊してから妙に男連中からのモウラに対する風当たりが強くなったと感じるのは、決して気のせいではあるまい。
「えー、美人って言っても人妻でしょ? 伍長ってひょっとして年上趣味? それとも欲しがりさん? 」
 肩を並べて脇に着くジェシカの言葉に、そう言えばニナもコウより年上だったな、と思いつつモウラは目の前の小娘の無邪気な推測に内心驚く。
「さ、さあ。そこまでは知らないよ。 …… 今日はやけにウラキ伍長の事であたしに絡むねえ、ジェス。どういう風の吹き回しだい? 」

 これだけ男を虜にするジェスがモウラの前でその手の話題に触れた事は今までに記憶がない。モウラやニナとの間では専ら機体整備の内容や日常会話しか行わない彼女が『ガールズトーク』を率先して行おうとする事などモウラには初めての経験だった。尋ねたモウラの進路を塞ぐ様に回りこんで後ろ歩きで歩くジェシカが意味深な笑みを浮かべた。
「だぁって、かっこいいじゃないですか」
「はあ? かっこいいって、コウの事言ってんの? あんた」
 唐突なジェシカの発言に素でコウの名を口に出して意外な顔をするモウラとその反応を満足そうに見上げるジェスの顔は正反対だ、ぽかんと口を開いたままでジェスを見下ろすモウラではあったが彼女が嘘偽りを言っている訳ではないと言う事は理解できる。視界の中で少女らしくない小悪魔の笑みを浮かべたジェシカがいきなり告白した。
「顔はまあまあそこそこだし、体はがっちりしてるし。言葉遣いは優しいし、何より笑顔に影があるとこがいいじゃないですか。それにあのモビルスーツの扱いの上手さときたら」
「まあまあそこそこって …… そういえばあんた、予備役訓練のシミュレーターの担当だったね。コウ、―― いやウラキ伍長とはそこで会ったんだ? 」
 本来であればそれはモウラの仕事である。しかし件の理由からコウが参加する予備役訓練にモウラが参加する事は認められず、事態に窮したウェブナーが急遽抜擢したのがジェスだった。未成年であるが故に世情に疎く、しかし職能に関して高評価を得ているジェシカは一切の結果を他言無用とすると言う誓約書にサインをした上でコウのシミュレータープログラム及びモニタリングを担当した。故にここでモウラにその事を話すジェスの行動は厳密に言うと既に誓約違反に値する。
 しかしそこがジェスのジェスたる所以だ、彼女は恐らく今までの経緯やモウラとの会話の中からモウラとコウに何らかの関係がある事を察知し、そしてモウラの前でならコウの事を喋っても良いと言う事を既に感じ取っているのだろう。ジェスの見た目や口調から小娘等と侮っているとその強かさに痛い目を見る事になる。
 果たしてその強かな小悪魔は珍しく照れくさそうな笑顔を浮かべてモウラに言った。
「えっへっへ。会っちゃいましたよー。なんか運命的な出会いって言うか、こう何て言うかあたしのハートにビビッと電気が走ったというか」
「整備不良の漏電だ、そりゃ。そうでなけりゃあんたの気のせい」
 コウに対する感想を取り付くしまも無く一蹴するモウラの声を聞いたジェスが、小さく舌を出して抗議の意思を示したかと思うとくるりと振り返ってモウラの前を歩き出す。恐らく声音の変化からこれ以上の詮索は危険だと判断したのだろう。この辺の身の振り方がいかにも強かな女であると印象を同姓に印象付けてしまう、彼女の長所でもあり短所でもある。
「あー、でもいいよなあ。好きな人の機体を整備して送り出すなんてどんな気持なんだろう。あたしも一度でいいからそんな事やってみたーい」
「うちにはマークスがいるだろ? あの子の機体で十分じゃないか」
「ダメダメ、あれはアデリアのモンだもん。あたし人の物には興味ないですから」
「自分になびかない奴は物扱いかよ、全くあんたは」
「ね、班長? 」
 前を歩いていたジェスが呟きと共に足を止める。唐突な行動にぶつかりそうになったモウラの寸前で彼女はくるりと振り返り、モウラの顔を円らな瞳で見上げた。
「 …… どんな気持ですかぁ? 」

 問い掛けられたモウラの顔全体に動揺が広がった。自分とキースの関係は公表していないとは言えある程度の公然たる秘密となっている。本人達が上級士官であるが故に規律を重んじ、乱れさせない様に配慮する努力を汲み取って彼らの周囲も気付かない振りをしてくれているのだ。 暗黙の了解にも拘らずその禁忌を口に出すモウラの部下たるその小悪魔は自らの本領発揮と言わんばかりの悪どい笑顔を前面に押し出して、くるくると変わるモウラの表情を愉快そうに眺めている。部下である以前に年下にからかわれたと思ったモウラが、声を荒げて叱った。
「こらっ、ジェス。大人をからかうのもいい加減にしないと ―― 」

 それはジェスの手に握りしめられた起爆装置だったのかもしれない、とモウラはその瞬間に彼女の顔に浮かびあがった悪魔の様な笑みを見て後悔した。しかし時既に遅し、ジェスは真っ赤な唇をいやらしく歪めてポソリと言った。
「 …… 首にマーク、ついてますよ? 」

 パン、と叩いたのはからかったジェスの可愛いほっぺたでは無くモウラ自身の首だった。浅黒い肌に指す赤みはまるで食べごろになったイチジクの様で、そこに現れた表情はとてもジェスより遥かに上の歳とは思えない。自分の秘密を母親に見透かされた時の様にただおろおろと視線を泳がせてうろたえるモウラの様子を一しきり眺めた後、強烈な対人地雷クレイモアの効き目を楽しんだ小悪魔はウインクをしてペロッと舌を出した。
「 …… えへ、今のはうそ。引っかかりましたねぇ、班長? 」
 途端に顔色だけはそのままで表情だけが劇的に変化する、羞恥の感情が冷却される間もなく怒りへと変わり、憤激の蒸気を吹き上げ始める僅かな間隙を突いてジェシカの足は脱兎の如く駆け出した。とっ捕まえる為の大事な一歩に出遅れたモウラがありとあらゆる悔しさを吐き出す様に、駆け去るジェスの背中へと怒鳴った。
「くぉらぁっ!! ジェスっ! 」
 だがその叫び声ですら彼女の逃げ足には届かないだろう、陸戦隊を焚き付ければショットガンを抱えて仕留めに行くんじゃないかと思うほどの逃げ足を披露するジェスはコロコロと笑いながら背中越しにモウラへと捨て台詞を投げつけた。
「じゃあ、班長。あたしはハンガーに戻りまーす。今度ウラキ伍長が基地を尋ねて来たら必ず教えてくださーい」

 夜中の士官宿舎の廊下を華やかな雰囲気に変えてジェスは一目散に去っていく、一人仁王立ちのまま肩を怒らせて怒りのはけ口を探していたモウラはそのまま腰のポケットに突っ込んであった無線機を乱暴に引き抜いてスイッチを押しこんだ。
「こらぁっ! アストナージっ、あんた今何やってるっ!? 」

 アストナージは階級こそ上等兵ではあるがその実績は一年戦争の終結を戦艦の中で迎えた事からも分かる様に一流の整備士の資質を持っている。彼は生き延びる為にモビルスーツのみならず火器、果ては戦艦内の熱核エンジンの整備まで独学で修得し現在ではこの基地でモウラに次ぐ整備班副長の肩書きを担っている男だ。どの様な経緯でこの基地まで流されて来たのかは理解出来ないが本人曰く「何でも出来る奴は何にも出来ない上司に疎まれる」と言う理由で、自らこの基地への赴任を志願したらしい。ただ、先輩の立場として同僚のジェシカの言動や行動を放任していると言う点だけがモウラにとって物足りない部分ではあったのだが。
 久し振りに聞く上司からの叱責に答えるアストナージの声が動揺に揺らめいている。
「 ” ―― はっ、はい、班長。なんでしょう? ” 」
「あんたの相方が士官宿舎を徘徊中だっ! アラート勤務中にあんた達は二人して何やってんだあっ! 」
「 ” へっ? ジェスが? …… あああーっ! あいつ俺の抱き枕身代わりにして抜け出しやがったなぁっ! ちっくしょ俺のマリちゃんに何してくれてんだあっ! ” 」
「あんたの趣味なんざぁどうだっていいっ! あんたら罰として明日からのジムのC整備、二人だけで明日中に終わらせろっ。完了するまで飯と休憩は、抜きだっ! 」
「 ” ちょ、まっ ―― ええっ!? そ、そんなあっ! ” 」
 歴戦の整備士をして悲鳴を上げさせる『C整備』とはモビルスーツの運用を二日から三日休止して行われる完全検査整備の通称である。各部の点検、メンテナンス、消耗部品の耐用期間前交換は言うに及ばず核融合炉の燃料棒の交換、装甲板全体の非破壊検査まで行う重整備だ。エンジンに関しては専用のブースと機械、そしてアストナージはその経験があるので二人でも何とかなるだろう。だが問題は ――。
「 ” いやマジ勘弁してくださいよ、班長。誰が非破壊検査用のUTM(Ultrasonic Testing Measuring instrument:超音波探傷試験測定器)を一日中抱えてろってンですか? そんな事したら俺の明後日の大事な非番は全身筋肉痛で ―― ” 」
「知るか、そんなのっ! 一日中死んでろっ! 」

 失望の叫びを上げるアストナージの声を聞く耳持たないとばかりに通話スイッチで息の根を止めるモウラ、ぜーぜ―と荒く息を吐く彼女の背後から遠慮がちな声が届いたのはその直後だった。
「 …… あー、その、バシット中尉? 」
 低いトーンで周囲を憚る様に掛けられた声にモウラが思わず振り返る、ウェブナーは軍服のネクタイを人差し指で緩めながら困惑の体で自室のドアの隙間から姿だけを現した。
「こっ、これは司令! あっすっすいません、お休みの所をお騒がせして」
「いや、まだ休んではいなかったのだがね …… その、なんだ」
 凍り付く様に直立不動で敬礼するモウラの姿を見て、ウェブナーは咳払いを一つすると窘める様に言った。
「部下の規律を正すのは確かに大事な事だが、時と場合を選ばんと何かと自身に不都合な事が起らんとも限らん。特に彼女は ―― ジェシカ・アリスト上等兵はまだ子供だ。母親代わりに躾けるのは構わんがほどほどに、な」
「はっ! 」
 母親と言われて内心“せめて姉と言ってくださいよ、司令”とぼやきながら敬礼を返すモウラがウェブナーの忠告に対して感謝の意を告げた。
「不肖の私めに過分なご助言、感謝に堪えません。以後この様な事の無きよう奮励努力致します」
「よろしい、では君も早く休みたまえ。アラート勤務のせいで何かとシフトが窮屈になっている昨今だ、休める内に休んでおかんといざと言う時に身が持たんぞ? 軍人とはそういう物だろう」

 ウェブナーの忠告をそのままの姿勢で聞き届けるモウラの目の前で居室のドアが静かに閉じる、それと入れ替わりに今まで自分が過ごしていた部屋のドアが小さく開いてキースがモウラの様子を窺っている。心配そうな目を向けるキースに向かってモウラは苦笑いを浮かべながら小さく手を振って一連の騒動が収まった事を知らせた。安堵の表情と共に再びドアの影へと消えていく彼の姿を確認したモウラが、今度は自分自身の為に大きな安堵の溜息を洩らす。
「 …… にゃろ、ジェスの奴。明日になったらC整備の監督がてらとことんボロ雑巾みたいになるまでしぼってやる」
 大きな鼻息を一つ立てて大股でその場を後にするモウラ、自分が思うよりも速く、そして大きな音を立てているのは一刻も早くここを立ち去らなければと言う義務感による物だ。早足と呼ぶにはあまりにも騒々しい歩調で長い廊下の出口までやっとの思いで辿り着いたモウラは、ふと壁に貼り付けられている姿見の前で足を止めた。
 それはどの宿舎の出口にも必ず備え付けられている物で、元々は各隊員の身だしなみの最終チェックに使用される。軍と言う物に厳密な規律が確立されて以来、兵士には内外とも完璧な様相が求められる様になった。大昔からの風習とは言えAD世紀から続く伝統は現在に至るまで脈々と受け継がれている。モウラは自分の全身が映る大鏡の前へと上体を寄せると、念入りに首筋の辺りへと視線を向かわせた。
「 …… まさか、ほんとに痕残ってンじゃ ―― どうしよう、ボトルネックなんて着たらそれこそだし、あたしこんな濃い色のファンデなんか持ってない」
 首を伸ばして必死でジェスに指摘されたその痕を探し回るモウラ、だが鏡に映った自分の困惑した表情へを目をやった彼女はそこで自分の余りの間抜けっぷりに手を止め、やがて大きな溜息をついて鏡の中の自分に向かって問いかけた。
「 ―― あたし、なにやってンだろ? 」

                              *                                *                               *

 古いエアコンのモーター音だけが支配する小さな部屋の中をリズミカルに駆け巡るキータッチの音。連弾で弾くピアニストもかくやと思わせるその速さはニナのしなやかな指先から生み出されている物だった。
 
 ラヴェルのトッカータにも似たリズムで仄かな明かりに照らされた部屋の中を飛び回るニナの奏楽はハンマーが叩く弦の音色の代わりに無数とも言える記号の羅列をモニターの上に生み出している。恐らくオークリーの基地内では彼女にしか分からない基地内のメインコンピューターとのチャット内容は彼らの流儀に従ってニナの指から話すよりも早く語られ、彼らはニナからの質問に短く二者択一で答えを返す。その繰り返しがニナの動きに変化を齎した。時には微かに笑い、首を傾げて新たな会話に没頭するニナは男物のYシャツ一枚と言うしどけない姿で足を組んで“いつになったらこの石頭は私の発想に屈服するのだろう”と手を変え品を変えて様々な角度からの質疑を繰り返す。それが就寝前の僅かな時間に行われる二ナの儀式だった。
 普段はメインコンピューターのバージョンアップや基地内のシステムについて取り留めのない会話を続けて終わるこの寝物語も今日の夜は一味違う、ニナの発言にも力が入る。なぜなら今日の話題はニナが本領を発揮すべきカテゴリーに属す物だったからだ。モビルスーツのOSのマニュアル化に伴って連動する基本動作システムの介入についての意見交換はそれを開発した研究者に対するニナからの挑戦状に値する物だった。
 デフォルトで設定された基本動作プログラムを書き換えてマニュアル操作の選択肢を追加し、その際に必要最小限の動作パターンを連動させてパイロットの補助アシストに使用する。以前から温めていたその発想を現実の物として検討するには、キースがマニュアル操作で二機のモビルスーツに勝利したと言うレポートを提出したこの時を置いてほかにはない。アナハイムから支給された現状のプログラムではOSを解除しない限りマニュアルへと移行できない、だがそれではキース経験者ならばともかく一度もマニュアルでモビルスーツを動かした事の無いマークスやアデリアにとっては未知の領域になる。その結果手なれた筈の基本動作の保持にまで負担を強いる事になるのは今日の講義を受けた彼らの顔色を見ても明らかだ。
 眉間と額に皺を寄せて一生懸命頭で理解しようとするのは新世代の性なのか。二人の発想にはイメージと言う物が欠けている様な気がすると言ったのは今日実際に戦ったキースの言葉だ。実際に死線を何度も潜り抜け、生存の可否を計るストレスの中で生き延びようと試みたキースやコウにとってはそんな事 ――

 思い浮かんだその名前がニナの軽やかな指先を止めた。焦点を失う蒼い瞳が心と共に電子の世界から遠ざかる。

 モニター上にあるカーソルが点滅して、ニナに会話の続きを要求した。心の中を過る過去に目を背けて再び自分に課せられた作業に没頭しようとニナは入力を再開した。

 ―― ただ二人にはそれを実践する機会も状況も十分に与えられてはいない。唯一キースとの模擬戦がその貴重な機会となる訳だがそれでは足りない。自身の不利な状況を絶対の意志を持って覆そうと言う気力、それが無い以上彼ら二人がこのままマニュアル操縦に挑む事は可能であっても現状以上の機動力を手にする事は困難であろう。結論としては現状搭載されているOSを完全にマニュアル化するのではなく、デフォルトで設定された基本動作720種類を削って必要最低限の動作に絞り込む。その動作をマニュアル時の補助に加える事によって、少なくとも移動や待機状態の姿勢の保持にまでパイロットが神経を割く事は無くなる筈だ。
 あの時もそうだった、デンドロビウムのコクピットで出撃待機状態を保持し続けるコウはその姿勢制御に神経と体力を磨り減らした ――

 吸い込まれる様に遠ざかる現実と共に現れた記憶はまさにあの日に遡る。アイランド・イース落着間近のアルビオンで不退転の全力出撃を敢行しようとするコウが尋ねて来た、阻止限界点到着までの時間。狭い機内に押し込められたままで逃げ出す事も出来ず、苦しげな呻き声と共に問い掛けられた言葉に答えたのは誰でもないニナ自身だった。
 モーリスよりも、シモンよりも、誰よりもコウの傍にいて彼を支えていたかった。もっと他の言葉が ―― コウの力になる真実の言葉がきっとそこにあった筈なのに、彼の呻き声を聞いたニナはそれを口にする事を躊躇った。

「がんばって」
 なぜ言える? その言葉は彼に『死を恐れるな』と言う意味と同じ事。絶望的な戦いを目の前にしてもなお生きて欲しいと願う私がどうしてその言葉をコウに告げられるのか?
 過去の幻影に捉えられて揺れる瞳が彼女に訪れた動揺を表す、その瞳に映るモニターのカーソル。点滅を繰り返す一本のか細い線はニナの回想を遮るように更なる会話を要求した。

 ―― 例えば『歩く』と言う動作一つとっても各部を構成する機器に様々な動きやストレスを与える。足を踏み出すのではなくて『倒れこむ上体を支える為に足を出す』その繰り返しを持続させる為には体幹部に設置されたリアクションホイールによるバランスの修正が欠かせない。 現状のプログラムをマニュアルにするとそんな簡単な動作までもがパイロットの手に委ねられる事になる。計器の水平儀を睨みながら絶えず振動に襲われるコクピット内で手足を微妙に操作してその行動を継続させるには、新OS搭載前のモビルスーツの活動限界時間である二時間が妥当である。ましてやそこに戦闘行動が加わればその操作の煩雑さは想像を絶する忙しさだろう。コウは「モビルスーツの動きなんて所詮は自分の動きの延長線上にあるんだから、そんなに難しい事じゃない」と言ってたけれど ――

 トッカータからソナタ、そしてセレナーデ。やがてニナの指はキーボードの上でゆっくりと止まった。指の動きと連動して画面の上をひた走っていたカーソルは彼女の動きに合わせる様にゆっくりと停滞する。震えるニナの指は必死になってその先の言葉を探し続ける、だが凍えた心から生み出される偽りの会話はそれを書き綴る事さえ赦さなかった。険しい表情で点滅するカーソルを睨みつけるニナの目はまるでこの会話の中断が理不尽な事であるかのように仄明るい画面へと注がれた。
 中途半端な静寂の中にニナの溜息が洩れた。
 吐息の中で霧の様に混じり合う今日と言う日、もう二度と出逢う事がないと、会えないのだと諦めて心の中から痛みと共に引き剥がした自分の半身。世界中の誰が見失っても自分だけは間違える事の無い、焦陽降り注ぐ日差しの中に影を霞ませて佇むコウ。何も理由を告げずに姿を消したあの日とは雰囲気や体の輪郭は大きく違っている。でも自分と合わせた視線で繋がる複雑な感情 ―― 基地を出て行く前の日に投げ掛けた遣り切れなさに溢れる感情を抑えきれない瞳の色 ―― はあの時と寸分も。いいえ、それは多分出会った時から彼の瞳に浮かんでいた、彼自身のジレンマに支配され続ける複雑な感情を秘めたコウの眼。

 ニナの視線がモニターを離れて机の隅へと移動する、几帳面に積み重ねられた三枚の起動ディスクの脇にそっと立てかけられた傷だらけの一枚へと焦点を合わせた。保護ケースの真ん中に刻み込まれた大きな傷がまるで今の二人の様だと取り留めのない感想を思い描きながら、ニナはそれをそっと取り上げる。筐体の隣に置かれた旧式のドライブスロットにコウのディスクを押しこもうとして、不意にその手が止まった。
 それは幾度繰り返しても必ずこの瞬間に始まるいつもの葛藤だった。
 これが最期になるかもしれない、「このディスクを押し込んだ瞬間に壊れてしまったら」 ―― そう考えただけでこのディスクを覗く気すら失せる。もちろんそんな事は起りえる筈が無いと自分で言い聞かせてみたところで、それを蔑ろにして大事な物を全て失ってしまうと言う偶然も偶然以上の確率で起り得る。

 コピーは取れない。コピーを取るにはディスクの持ち主の乗った機体 ―― モビルスーツでなくても、航空機でも船舶でもいい ―― のハードディスクに介入接続してデータを吸い上げない限り複製できない仕組みだ。本人の認証が無ければ動かないモビルスーツのセキュリティを利用したコピーガードの仕組みを、今更ながらニナは恨めしく思った。複製を作ろうにもこのディスクの持ち主はもうここにはいない、それどころか彼は自身の存在意義とも言えるモビルスーツパイロットと言う職業を捨てて別の世界へと旅立ってしまった。
 ―― 彼にとっては掛け替えの無い物だった筈なのに。

 揺れ動く心を抑え込む渇望がニナの手を操って、そのまま手の中にある壊れかけのディスクをスロットへと静かに押し込んだ。
 彼女の指から離れたディスクが何かから逃れる様に深い穴に吸い込まれて消える、僅かに残った後悔がその行方を追い掛ける。閉じる扉とモーターの駆動音が穏やかに響き始めたその時初めてニナはハッチに押し当てられたままの人差し指の腹をゆっくりと引き剥がした。一瞬の間を置いて点灯する緑色のLEDはディスクに異常がなく、読み取りを開始したと言うドライブからの確かな合図。ニナの視線がドライブから送られる情報を表示するモニターへと移動した。
 読み取られた起動ディスクはニナにパスワードを要求した。無機質な文字で浮かび上がる連邦宇宙軍第三種機密事項にこのディスク内容が指定されていると言う注意事項、そしてこのディスクを閲覧している貴方が本人若しくはその関係者に該当するかを詰問する文章。もし悪意の有る第三者がこのディスクの内容を利用した場合には例外無く軍法会議に掛けられる、と言う警告文。だが羅列される文章内容の全てを無視したニナはためらう事無く自分とコウだけが知るパスワードを打ち込んだ。
『 Edelweissエーデルワイス 』

 その言葉はガンダム一号機の空間機動強化型であるフルバーニアンのトライアルが終了した月面のリバモア工場でニナが決めた言葉だった。『尊い記憶』『大切な思い出』という意味を持つこの花が好きになったのはいつの頃からだったのだろう? コウにその花言葉の意味を聞かれて「これは私にとっての思い出だから」と答えたのは苦し紛れの嘘、本当は自分とコウを繋ぐ大切な絆だったから。
 様々な過去の記憶が去来するニナの目の前で、モニターがディスクのデータを展開した。既にジャブローのデータアーカイブには存在しない彼の軍暦、そして階級。
 コウ・ウラキ戦時中尉。
 画面の中のコウはあの頃のまま、固い表情で映っているのは入隊した直後だからだろうか。ぼんやりと眺めていたニナの視界の中で突然その口が動いた様な気がした。眉尻が上がり険しい目で、開く筈の無いコウの唇がニナの脳裏にあの時の言葉を蘇らせる。
 ” なぜだニナっ、どうして ―― ”

 耳を塞いだ。
 目を閉じた。
 聞きたくない、見たくない。
 言いたくても、いえない。

                              *                               *                                *

 靴の裏に仕込まれた磁力に抗う様にニナの足は床を蹴る、核パルスエンジンの咆哮と共に始まる姿勢制御で傾く床を物ともせずにニナは一息で制御盤の前に倒れるガトーへと駆け寄った。自分の思い描いた未来には無いその映像をまるで何かの冗談を見るかのようにただ茫然と眺めていたコウは、ニナの上げた叫び声で初めて我に返った。
「ガトーっ! しっかりしてっ、ガトーっ!? 」
「 …… 何を、して、いるんだ ―― 」
 受け入れられない現実はコウの意識を元の位置へと戻せない。銃をぶら下げたままガトーを膝の上に抱きあげた愛する者の姿に愕然とするコウに向かって、ニナは涙に濡れたままの蒼い瞳を向けた。
「もう止めて、コウっ! 」
 彼女の言葉が自分の名前だと言う事にやっと気が付いたコウの中で渦巻いた理不尽は彼の身体に流れる復讐と言う名の油に火を付けた。あっという間に延焼を始める猛烈な業火は瞬く間にコウの理性を焼き尽くして拳銃を握り締めた掌にまで熱を伝える。
「 …… そいつから離れろ、ニナっ! 君はそいつが誰だか分かっているのかっ!? 」
「この人はもう戦えない、あなたは勝ったのよ! これ以上殺しあう事なんて必要ない筈だわ、だからもう止めてっ! 」
「気でも狂ったのかニナ! そいつはガトーだっ、君のガンダムを奪い、そのガンダムで大勢の人を殺してっ! そいつのお陰でアレン中尉は、バニング大尉は ―― 」
 コウの殺意が震えとなって体中を駆け巡る、彼は自分がここに至るまでの動機となった人物の名を渾身の怒りと共に吐き出して、目の前に座り込んだままのニナと宿敵たるガトーに叩き付けた。
「 ―― ケリィさんはっ! 」
 
 モビルスーツパイロットと言う人種が戦いの中にロマンを求めて止まない特殊な人種である事をコウに教え、そして自分と同じ価値観を持ちながら戦争と言う名の狂気の中で命を奪い合う事しか出来なかった恩人の名前。地獄の釜の淵から零れ出す様に現出した瘴気は彼の背中から噴水の様に飛び散って管制室全体に蔓延する、僅かに生き残っている非常灯の灯火ですら覆い隠すかのようにもニナには見える。
「分かってるっ、そんな事分かってる。でもあなたがこの人を殺してそれでどうなるの? 何かが変わるの? 世界が、あなたが、それともわたしが!? 」
「言うなあっ! 」
 抗うニナの声がコウの自我を苛む、何も変わらないと分かっていながら大義の無い戦いを余儀無くされたコウにとってニナの問い掛けはそのまま彼自身の疑問へと取って代わった。私怨の赴くままに奪い取る命は彼の罪となって手足を枷取り、生き抜く為に血濡れた手足に力を込めて更なる殺戮に身を投じて罪を重ねる。戦士や兵士とは遠く離れた場所に蹲るコウの魂は穢れに満ちたまま救いと贖いを誰かに求めて、そしてその相手は今目の前で自分の愛する者の腕の中で苦しげな息を吐いている。
 ―― この男が俺の全てを変えてしまった。そしてまた変えようとしている。掛け替えの無い、それさえあればこの先何が遭っても生きて行けると信じて止まないただ一人の存在を。
「そんな事は関係ない! そいつさえいなければ、そいつがあんな事さえしなければ ―― 見ろ、俺の手を! 」
 喚きながら差し出された白い手が震えている、コウは怒りと苦悶が綯い交ぜになった顔でニナの泣き顔を睨みつけた。
「これが人殺しの手だっ! この手がケリィさんを殺した、バニング大尉を救えなかった、コンペイ島で、そしてここで大勢の人間を殺して血塗れになった手だ! 」

「全て、そいつのせいだっ! コロニーは止められない、死んだ人は生き返らない。でもガトーは殺せる! 俺はその機会を与えられたんだ。正義や善悪なんかはどうでもいい、それでも俺自身が罪を背負って皆の無念を晴らせるなら俺なんかどうなってもいい、俺はその為にいままで戦って来たんだっ! 」
「正気なの、コウ!? そんな物があなたの戦う理由だと!? 」
 蔑ろにされた自分の願いを耳にしたニナの表情が変わる。それはコウの言った通り正義や善悪など関係の無い、コウに向けられた純粋な怒りだった。そうではないと信じていた者に裏切られた彼女の怒りはまるで断罪する判事の様な勢いでコウへと向けられた。
「なぜそれが自分のエゴだと言う事に気付かないの!? ただ仲間や周りの人達を失った憎しみに任せて大勢の人を『殺した』のはガトーに対する復讐の為だけだったと言うつもり!? 思い上がらないで、もしそうだとしたらあなたとガトーは別の世界の人よ、そしてあなたは決して力を手に入れてはいけない唯の殺人鬼だわっ! 」
 噛みつく様に睨みつけるニナを見るコウの目から邪悪な炎が消え失せた。愛する者に否定される自分の覚悟を胸に抱えたまま、コウはただうろたえた。
「なぜ分かってくれないんだ俺をっ! 俺が殺人鬼だと? そんな …… そんな事を君の口から ―― 愛してくれてると信じていたのにっ! それとも俺への気持は嘘だったのかっ!? 」
「そんな事っ! ―― 」

 どうして分かってくれないの、コウっ!

「 ―― あたしはこの人が好きだった …… 好きだったこの人とあなたが戦う事の結末を見なければとここまで来た。でもそれがこんな事にっ! ―― 」
 心の中で膨れ上がるニナの本心が悲鳴となって制御室の空気をかきまぜた。過去の記憶と今の願い、交雑してその先へと続くであろう未来の結末が楽しい類の物である筈がない事はニナ自身にも分かっている。だからこそニナはコウの代わりにここへとやって来たのだ。ガトーを止めて、コウの罪を少しでも軽くする為に。
 決してこの二人のどちらかが命を失って、二度と埋める事の無い疵が出来ない様に!
「 ―― 二人がこうならない事だけを祈ってきたのに! ましてあなたのそんな変わり果てた姿を見せ付けられる事になるなんてっ! 」
 
 その手が罪で汚れてしまったと言うのなら。
 その手が血に塗れてしまったと言うのなら。
 二人で背負って歩いていこうと思った、そう決意をして乗り込んだニナの前に立ち尽くす、変わり果てた愛する者の姿。
 ―― 私はこんな者の為に命を賭けてここに辿り着いたのではない。

 やり場を失った怒りと向けられた失望。人工的に生成される循環大気の中で相克する二つの感情を再び繋ぎ止めたのは血の海に横たわった男の口から突然に発せられた言葉だった。まるで何かを閃いた哲学者の様な静かな口調で、ニナの膝へと頭を預けていた銀髪の兵士は呟いた。
「なるほど、戦えない者を私怨に委ねて殺してしまえば殺人か …… 一理ある」

 脇腹の銃創に押し当てられていたニナの手をそっと自分の手に置き換えたガトーが身動ぎした。膝に掛かっていた重みが薄らいだ事でガトーの意図を悟ったニナが思わず叫んだ。
「ガトーっ! 」
「何っ!? 」
 驚きを表す事なる叫びが制御室の壁面で残響する、その木霊に応えるかのようにガトーの身体が動き出した。体を捻る度に、腕を、足を動かす度に襲い掛かる猛烈な痛みがガトーの表情を曇らせる。だが敵国の教本にまで名を残した伝説の撃墜王はその口を堅く噛み締めて、呻き声一つ漏らさず上体を起こした。
「どいてくれ、ニナ。ここから先に君は来てはいけない」
 ガトーの血塗れの手がニナの宇宙服に押し当てられる。掠れた血糊が新たな赤をニナの服に上書きして異なった色調のモザイクを織り成した。意志を伝えるその手に加わる力は流れ出た血の量に等しいかの如くにか弱く、だがそこに籠められた強靭な決意はニナの体を一息で押し退けた。
「ガトー、何を ―― だめっ、動かないでっ! 」
 ガトーの強い意志に逆らえなかったニナの体が縋る言葉だけを響かせて血塗れの床の上に残される。傷付きながらも誇りを捨てない猛禽の双眸がコウの姿を睨み付け、宿木代わりに羽を休めたニナの体をどけた手が冷たい床を叩いて上体を支える。掌に残る懐かしい感触と夥しい震え、ニナが愛した嘗ての男は傷の痛みと郷愁の温もりを感じながら全身の力を両足に籠めてゆっくりとコウの眼前へと立ちはだかった。
「だが、コウ・ウラキ。貴様は間違っている」
 苦悶の表情すら噛み殺したガトーが轟然と言い放った。

「 …… 私は、まだ戦えるぞ。私を討って貴様の本懐を遂げられると感じるのならばそうすればいい。誰も貴様を怨みはしない」
「何を …… ガトー、貴様あっ! 」
 千載一遇のチャンスを再び与えられたコウの手がガトー目がけて振り上げられる、だがその構えはおよそ戦闘教則にそぐわない無様な物だった。伸ばした右手はがくがくと震え、支える左手は震えを押さえる為に右腕の肘を握り締めている。狙いの定められないジレンマがバイザーの陰に隠れたコウの表情を焦りに歪める。
「戦いは常に私怨によって始まると以前、私は貴様に言ったな? 嘗ての私もそうだった。ソロモンで散った大勢の仲間とドズル中将の怨みを晴らさんが為に連邦と戦い、大勢の兵士をこの手で葬った。貴様の今はあの時の私と同じだ、何も変わらん …… だがな」
 微かな微笑みすらも浮かべて訥々と語るガトーの声はコウの殺意を見る見るうちに薄めていく、その変化は跪いて呆然と見上げるニナの目にも明らかだった。殺気に満ちた眦が緩んで眉間の皺が消えていく、それはまるで道に迷った破戒の者が新たな悟りを開く瞬間に起る変化にも似ている。自分にもできなかったコウの説得を宿敵であるガトーがいとも簡単に成し遂げていると言う事実にニナは胸を撫で下ろし、そして次の瞬間。
 戦慄した。

 ガトー、あなたはコウに何をしようとしている!?

「 ―― 私は今大義を持って戦いに臨んでいる、そして自らの犯した罪が意味ある物に変わる瞬間は誰の身にも訪れるのだ。貴様はここまで血塗れの手を握り締めて『星の屑』に深く関わった、そしてこの戦いを通じて選択せざるを得なかった自分の行いに対して自戒の念を覚える今この瞬間こそが貴様にとっての唯一の機会だ」
「俺の、罪が …… 意味ある物に、だと!? 」
「そうだ」
 強い肯定の言葉が迷路に落ちたコウの心へと救いの手を伸ばした。鳶色の瞳に宿る強い意志、そして鍔迫り合わせた二人だけにしか判らない信頼感が敵味方の境界を喪失させて繋がる。
「既にコロニーは大気圏突入の最終段階に入った、もう誰にも止められん。だがここで私を討つ事は貴様にとって一つの決着を着ける事になる。―― 私に勝ったと言う事実が貴様を変える。それはこの先に広がる未来への分岐点になる筈だ、罪と大義の。」
「待て、ガトー。貴様が口にする、貴様自身の大義とは何だ。貴様らの目的はコロニーをジャブローに落とす事で連邦軍を混乱に陥れる事ではなかったのか? 」
「違う。だがそれは人それぞれに違う物だ。私には私の大義があり、ここで貴様に語るべき事ではない。それにそれは ―― 」
 揺らめいていたガトーの体が突然静止した。両足を肩幅に広げてしっかりと踏ん張り胸を張ってコウの前に立ったその姿は生気に満ちている。強い威厳を放ちながら、しかしその表情は暖かく。連邦軍が『阿修羅の化身』と信じた男はその非なる意味を掲げてコウの眼前で真の顔を見せていた。
「 ―― 私を討った後に分かる。この戦いを通じて私と戦った貴様こそが手に入れる事の出来る唯一つの物。その時貴様が踏み拉いた万骨の命は貴様に大義を与える筈だ。今の私がそうである様に」

 コウの手に宿った物はもう殺意では無かった。ガトーを撃つ事で与えられる贖罪への渇望は彼の手の震えを止めて、その将星のど真ん中へと敵の胸を収めた。さっきまではあれほど熱を帯びていた人差し指が嘘のように冷たい、それは引き金の温度が正しくコウへと伝わっているからだ。全ての感覚を取り戻したコウがガトーへと向けられた銃を操ろうと一本の指に力を込める、だが彼の人差し指は意に反してピクリとも動かなくなっていた。
 撃つ事によって得られる物と失う物。罪からの解放は確かに得難い機会ではあったが人を殺すと言う罪を自らの手によって犯す事を容認するには、彼は正気に戻り過ぎていた。再び迷い込んだ新たな葛藤との境目を見極めたガトーが言った。
「 ―― どうしたコウ・ウラキ、私を撃て。今ここで撃たねば貴様は一生罪の意識に苛まれて生きて行く事になる、貴様がこの先宇宙そらで生きようとするのならば迷うな。そうしてこそ貴様は初めて私の ―― 」

「やめて」

 今までに二人が聞いた事も無いニナの冷たい声がガトーの言葉を遮った。驚いて視線を合わせた二人の先に立つニナの手にはしっかりと銃が握り締められ、しかしその銃口は敵として君臨したガトー目がけてではなく彼女が心から愛してやまないコウの胸元へとぴったりと定められていた。
「な ―― 」
 その可能性を全く考えていなかったコウの口から驚きの声、そしてガトーの苦々しい視線がニナを襲う。ガトーに狙いを付けた時とは圧倒的に差のある決意が蒼い瞳を支配している、ニナが言った。
「 ―― やめて ―― 」

                              *                                *                               *

「 ―― コウ」
 呟いたニナの唇を伝う一筋の涙がぽとりと。それは今日と言う日の懺悔の始まりだったのかもしれない。
 大きく開かれた蒼い瞳が知らずの内に涙を湛える。ニナの視界を曇らせながら溢れる暖かなそれは、室内の空調によって冷まされた時に初めてニナに存在を気付かせた。その感触に慌てて頬を押さえるニナが思わず呟いた。
「 …… 涙? 何で、私 ―― 」
 ぼやけてしまった視界の中に霞んだコウの顔を取り戻す為にしきりに瞬きを繰り返す、しかしその度に押し出される涙が彼女の求める現実を否定する様に更なる勢いで溢れ出た。一筋でしかなかった物が後から後から伝わって膝の染みを大きく広げる、そこまで来て初めて現実を受け入れたニナが途切れ途切れに呟いた。
「忘れられる、訳 …… ないじゃないっ。」
 迸ったニナの言葉が彼女自身の体中を駆け巡った。
 血が、心が沸騰する。全身に溢れる熱と失った悲しみが手を携えて彼女の全身を震わせている。感情の暴走に耐えられなくなった瞼が強く閉じられて、溢れる涙をこれ以上零さないようにと天を仰いだ。
 あの場所で別れたまま、再び出会わなければ良かったのか? コウがこのオークリーに配属されるかもしれないと風の噂で聞いて、ティターンズから供出された誓約書にサインもせずにありとあらゆる手段を使ってこの基地に辿り着き、彼の帰りを待っていたのは間違いだったのだろうか。
 彼の為に自分が諦めた物を再び取り戻そうとする事は、所詮は叶わぬ夢にしか過ぎなかったのか。
 繰り返す自問自答は狂った様にニナの心を掻き毟った。傷が広がり、言葉が溢れ、受け止める掌の隙間から零れ落ちて行くニナの後悔。後悔は次の瞬間に『罪』と言う名に書き換えられて彼女の心を暗い澱みに変えていく。
 微かな嗚咽がニナの唇から漏れ始めて、涙が目尻の堰を切って闇に沈んだ鮮やかな金の髪を濡らす。そこへと追い打ちをかける様に翻弄される彼女の記憶に焼き付けられたコウの顔が懐かしい声で無情にも問い掛けた。
 ” ―― なぜ、ガトーを選んだんだ。ニナ ”

「 ―― 違うっ! 」
 喉の奥から絞り出す様な悲鳴と大きく見開かれた蒼い瞳が虚空へと飛んだ。声の主を追い求めて殺風景な天井をぼやけた目で追いかける、だがそれは手に入れる事の出来ない幻影だ。小さく頭を振ってコウの声を否定するニナは慟哭を上げた。
「私は貴方を選んだのよ、コウっ! 貴方を選んだから、ガトーと共にあそこを去らなければならなかったのっ ―― 」
 その台詞が孕んだ矛盾を繋ぐ鎖は錆びて朽ちたままニナの心の中だけにある。幾らニナが望んでも、錆びた鎖は繋ぐ端から崩れ落ちて元の形を保てない。そして意味も無い。
 ―― コウがいなくなった今となっては。

 天を仰いだ蒼い瞳が舞い降りて再び目の前のモニターに釘付けになる。潤んだ瞳から流れ出る涙を拭いもせずに画面の片隅に映り続けるコウの顔をただひたすら見つめ続けた。

 私にだけ何かを言って欲しかった。
 例えそれが私を罵る言葉でも構わない。私のした事を詰って蔑まれた方がまだ救われる、私はあなたにそれだけの事をしたのだから。
 でも、でも私は。
 それでも私はあなたの声が、本当の声が聞きたい。

 唇の前で固く組んだ両手が、渇望に震えるニナの唇が心の底で蟠ったまま幾度と無く繰り返されるその言葉を遂にこらえ切れずに吐き出した。
「 …… 何か言って、お願いよ。 …… コウ ―― 」

                              *                                *                               *

 彼女の決意を見間違える訳がない、とコウは信じている。そして今彼女の瞳に宿っている決意の正体を知ってコウは自分の目を疑った。焔の様に燃え上がる殺意と不退転の決意はコウを怯ませ、そして愕然とさせるに十分過ぎる力だ。
「なぜ、だ。ニナ」
 ガトーの為に銃を握った彼女に向かってコウは問い質す、だが言葉の代わりに返って来た物は一発の銃声だった。反動で跳ねあがったニナの腕の先にある銃口から硝煙が棚引く、金属が金属へと食い込む甲高い悲鳴がコウの背後で巻き起こる。凍りついたコウの目の前でニナは再びその銃口を突き付けながら告げた。
「やめて、コウ」
「なぜなんだニナっ!? そいつは俺達を ―― ガンダム二号機をっ! 」
「そうじゃない」
 途端にニナの瞳から殺意がかき消えた。代わりに浮かびあがる深い悲しみと絶望、吸い込まれてしまいそうな心の深淵へと声を飲みこまれたコウに向かってニナが訴えた。
「そう言う事じゃないのよ、コウ」

 砕けていく最後の理性を必死で掻き集めながらコウは寄りそう二人の姿を睨みつけた。湧き上がる猛烈な衝動は紛れも無く殺意、しかしそれを叩きつけるには自分の存在は余りにも矮小で、そして目の前で寄りそう二人は高尚過ぎた。罪人同然の自分に道を指し示そうとした好敵手と失ってはならない筈の者。今もし誰かを殺さなければならないのだとしたら、それは間違い無く自分自身へと向けられなければならない。
 体の芯から外郭へと飛び出そうとする棘の痛みに従う様に鬼相を露わにしたコウの前で二人の身体が浮き上がる、磁力靴のスイッチを切って床を蹴る二人の体がゆっくりとコウの傍を通り過ぎて、非常用のエアロックへと泳ぎだした。
「まて、待ってくれ、ニナっ! 」
 心のどこかで絶対に信じようとはしなかった結末の到来にコウは焦り、声を荒げてその名を呼んだ。呼応する様に振り返るニナ、交錯する互いの瞳。
「ニナ戻れっ、戻ってきてくれっ! 」
 切なる願いを拒絶する様に瞳を伏せる彼女に向かって、彼女の願いに背いた自分の立場も忘れてコウはニナの背中へと叫んだ。
「 ―― 傍にいてくれるんじゃなかったのか、いつも、俺の傍にっ! 」
 届いている。言葉だけではなく紡がれる文字の一つ一つがニナの肩を絶え間なく震わせた。だがまるで未練を断ち切る様に背を向けたニナとガトーは真っ直ぐにエアロックの通路にへとその身体を降ろした。追いかける道理すら見いだせずにただ立ち尽くしたままで二人の影を見上げたコウが血を吐く様に絶叫した。
「ニナァッっ!! 」

 言葉の残滓を締め出すかの様に機械仕掛けのエアロックはその扉をモーターの軋みと共に閉じていく、扉の影に隠れるガトーの背中とそして最後までコウの姿を見つめ続けた彼女の蒼い瞳までもが冷たい金属に遮られて消えていく。エアロックの摘みが回転してロックされた事を無機質なチャイムでコウに教える、それはコウにとっての全ての終わりだった。
 引き裂かれた痛みに耐えかねたコウの口から獣の様な咆哮が吐き出されて全ての音を掻き消した。切なさや愛しさや悔しさや哀しさ、人が持つ人としての全てを否定するコウの痛みはたった一人の空間を敗北した勝者にとっての辺獄へと塗り替えた。

                              *                                *                               *

 夜明けにはまだ程遠い時間だった。
 目を開けた暗闇の先で蒼白く光る二つの目はエボニーだ、コウの叫びに驚いたエボニーは飼い主の異変に驚いて距離を取ったままじっと成り行きを観察している。心配するでもなく、かといって無視する訳でも無い。今のコウにとっては動物の持つ独特の距離感がありがたかった。少なくとも過去の幻影に苛まれる心を覗き込まれる事に抵抗を感じたり、心を砕いて押し隠すような事をしなくて済む。
「 …… ごめんよ、エボニー。驚かせちゃったか」
 ベットに横たわったまま差し出した手が夢の中に消えて行ったニナの代わりの何かを求める。狭い部屋の片隅で蹲っていたエボニーは飼い主の発作が収まった事を確認すると緩やかな足取りで近付いてするりと頬を摺り寄せた。闇に溶け込んだ髭がコウの指に固い感触を残して消える、再び手にした現実がコウに失われてしまった希望と取り戻す事の出来ない貴重な者の存在を知らしめる。
「ニナ …… 」
 失った物はあまりに大きい。知らずの内に洩らした愛する者の名前は溜息と共に黎明の部屋を舞う。エボニーの両目がなぜか舞い飛ぶ言葉の欠片を追う様にコウの頭上を緩やかに彷徨う。やがて目に見えない何かが消えた事を確認したエボニーはおもむろにベットの上に飛び上がってコウの体に身を寄せた。
 丸くなって後ろ足に顎を預ける様を窓から差し込む月明かりで眺めながらコウの手が静かに頭を撫でる。手の動きがエボニーの咽喉鳴りの始まりと共に止まり、コウの目は古ぼけた梁の剥き出しになった冷たい天井を見上げた。
「何故、あんな夢を …… 今まで一度も見なかったのに」
 もし昨日ニナと出会わなければあの夢の続きを見る事は無かったのだろうか? 偶然の邂逅と交わす言葉がコウの記憶のか細い川を遡って悲劇の源流に到達した、ただそれだけの事なのだろうか?
 なのになぜこんなに心がざわめくのだろう、もう一度ニナと共に歩きたいとでも思っているのか? 誰にも知られない様に封印した心の奥底に眠る、自分自身の身勝手な理由を省みることなく。
「 …… 何を馬鹿な。自分から手放しておいて、今更 ―― 」
 呟きはコウの中に隠された願いを退けて、コウ自身に与えられた罪を言葉によって思い知らせる。吐き出された後悔を照らし出す様にニナの瞳と同じ蒼光が、宇宙を駆けた時と変わらぬ冷たさでコウの眠りを誘った。


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