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No.32711の一覧
[0] 機動戦士ガンダム0086 StarDust Cradle ‐ Ver.arcadia ‐ 連載終了[廣瀬 雀吉](2023/07/03 19:06)
[1] Prologue[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:00)
[2] Brocade[廣瀬 雀吉](2012/04/19 18:01)
[3] Ephemera[廣瀬 雀吉](2012/05/06 06:23)
[4] Truth[廣瀬 雀吉](2012/05/09 14:24)
[5] Oakly[廣瀬 雀吉](2012/05/12 02:50)
[6] The Magnificent Seven[廣瀬 雀吉](2012/05/26 18:02)
[7] Unless a kernel of wheat is planted in the soil [廣瀬 雀吉](2012/06/09 07:02)
[8] Artificial or not[廣瀬 雀吉](2012/06/20 19:13)
[9] Astarte & Warlock[廣瀬 雀吉](2012/08/02 20:47)
[10] Reflection[廣瀬 雀吉](2012/08/04 16:39)
[11] Mother Goose[廣瀬 雀吉](2012/09/07 22:53)
[12] Torukia[廣瀬 雀吉](2012/10/06 21:31)
[13] Disk[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:30)
[14] Scars[廣瀬 雀吉](2012/11/15 19:32)
[15] Disclosure[廣瀬 雀吉](2012/11/24 23:08)
[16] Missing[廣瀬 雀吉](2013/01/27 11:57)
[17] Missing - linkⅠ[廣瀬 雀吉](2013/01/28 18:05)
[18] Missing - linkⅡ[廣瀬 雀吉](2013/02/20 23:50)
[19] Missing - linkⅢ[廣瀬 雀吉](2013/03/21 22:43)
[20] Realize[廣瀬 雀吉](2013/04/18 23:38)
[21] Missing you[廣瀬 雀吉](2013/05/03 00:34)
[22] The Stranger[廣瀬 雀吉](2013/05/18 18:21)
[23] Salinas[廣瀬 雀吉](2013/06/05 20:31)
[24] Nemesis[廣瀬 雀吉](2013/06/22 23:34)
[25] Expose[廣瀬 雀吉](2013/08/05 13:34)
[26] No way[廣瀬 雀吉](2013/08/25 23:16)
[27] Prodrome[廣瀬 雀吉](2013/10/24 22:37)
[28] friends[廣瀬 雀吉](2014/03/10 20:57)
[29] Versus[廣瀬 雀吉](2014/11/13 19:01)
[30] keep on, keepin' on[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:50)
[31] PAN PAN PAN[廣瀬 雀吉](2015/02/05 01:25)
[32] On your mark[廣瀬 雀吉](2015/08/11 22:03)
[33] Laplace's demon[廣瀬 雀吉](2016/01/25 05:38)
[34] Welcome[廣瀬 雀吉](2020/08/31 05:56)
[35] To the nightmare[廣瀬 雀吉](2020/09/15 20:32)
[36] Vigilante[廣瀬 雀吉](2020/09/27 20:09)
[37] Breakthrough[廣瀬 雀吉](2020/10/04 19:20)
[38] yes[廣瀬 雀吉](2020/10/17 22:19)
[39] Strength[廣瀬 雀吉](2020/10/22 19:16)
[40] Awakening[廣瀬 雀吉](2020/11/04 19:29)
[41] Encounter[廣瀬 雀吉](2020/11/28 19:43)
[42] Period[廣瀬 雀吉](2020/12/23 06:01)
[43] Clue[廣瀬 雀吉](2021/01/07 21:17)
[44] Boy meets Girl[廣瀬 雀吉](2021/02/01 16:24)
[45] get the regret over[廣瀬 雀吉](2021/02/22 22:58)
[46] Distance[廣瀬 雀吉](2021/03/01 21:24)
[47] ZERO GRAVITY[廣瀬 雀吉](2021/04/17 18:03)
[48] Lynx[廣瀬 雀吉](2021/05/04 20:07)
[49] Determination[廣瀬 雀吉](2021/06/16 05:54)
[50] Answer[廣瀬 雀吉](2021/06/30 21:35)
[51] Assemble[廣瀬 雀吉](2021/07/23 10:48)
[52] Nightglow[廣瀬 雀吉](2021/09/14 07:04)
[53] Moon Halo[廣瀬 雀吉](2021/10/08 21:52)
[54] Dance little Baby[廣瀬 雀吉](2022/02/15 17:07)
[55] Godspeed[廣瀬 雀吉](2022/04/16 21:09)
[56] Game Changers[廣瀬 雀吉](2022/06/19 23:44)
[57] Pay back[廣瀬 雀吉](2022/08/25 20:06)
[58] Trigger[廣瀬 雀吉](2022/10/07 00:09)
[59] fallin' down[廣瀬 雀吉](2022/10/25 23:39)
[60] last resort[廣瀬 雀吉](2022/11/11 00:02)
[61] a minute[廣瀬 雀吉](2023/01/16 00:00)
[62] one shot one kill[廣瀬 雀吉](2023/01/22 00:44)
[63] Reviver[廣瀬 雀吉](2023/02/18 12:57)
[64] Crushers[廣瀬 雀吉](2023/03/31 22:11)
[65] This is what I can do[廣瀬 雀吉](2023/05/01 16:09)
[66] Ark Song[廣瀬 雀吉](2023/05/14 21:53)
[67] Men of Destiny[廣瀬 雀吉](2023/06/11 01:10)
[68] Calling to the night[廣瀬 雀吉](2023/06/18 01:03)
[69] Broken Night[廣瀬 雀吉](2023/06/30 01:40)
[70] intermission[廣瀬 雀吉](2023/07/03 19:04)
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[32711] Disk
Name: 廣瀬 雀吉◆b894648c ID:41c9b9fd 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/11/15 19:30
 見た目より重い音がするのは内部に防弾用の鉄板が仕込まれているせいだ。司令官室と通路を仕切るドアがゆっくりと開いて仏頂面のヘンケンがのそりと廊下に姿を現した。いつ終わるとも知れない民間人との会合に暇を持て余して欠伸をした警備兵が慌ててそれを噛み殺す様を一睨みしてから踵を反して出入り口の向こうを険しい顔で眺めた。
 ヘンケンの視線をするりと躱すようにセシルが退出し、その後に颯爽と続く人影が警備兵の眼前を過ぎる。恐らく激論の最中に乱れたであろう髪を手のひらで撫で付けながらヘンケンと対峙するウェブナーの表情は鏡写のように不機嫌だ。睨み合う二人の背中に密かに目配せした警備兵はこの会合の結果が失敗に終わったという事を想像せずにはいられなかった。
 それは決して彼らにとっても無関係な事ではない。オークリー基地にルートを持つ業者は限られており、その中でも生鮮や主食の半分を引き受ける農場の組合長にそっぽを向かれでもしようものなら、それだけで明日からの彼らの糧食に影響が出る。いくら陸戦部隊の連中が躍起になってウサギを獲って来た所で新鮮な野菜や穀物の代わりにはならないのだ。オークリー基地と言う名の陸の孤島があっという間に難民キャンプの様な状態になる事は間違いない。
 だが喧嘩別れとなった会合の最後に互いが交わす棄て台詞を固唾を呑んで見守る警備兵の視野に映るウェブナーの不機嫌な表情 ―― 彼の記憶でも司令がそんな顔をした記憶が無い ―― が次の瞬間には砂礫の如くに崩壊して笑みが浮かんだ。
「いや、実に有意義な時間を過ごさせていただきました。組合長のご英断に感謝します。」
 きちんと整えられた髭が笑顔で歪む。ウェブナーの方から差し出された右手を見下ろしたヘンケンが、ウェブナーとは違ったシニカルな笑みを浮かべてしっかりと握り締めた。
「まあ、買い掛けを止めて現金取引と言うのでしたら、こちらの方としても条件としては申し分ない。組合員に支払う代金は一日でも早い方がいいですからな、彼らも仕事に張り合いが出るでしょう。その代わり ―― 」
「分かってます。次回の価格協定の見直しの際には必ずベッケナーさんの所を真っ先に協議させていただきますよ。その結果次第ではカリフォルニアベースの入札にも参加し易くなる」
「今日の会合がお互いに利益を齎す切っ掛けとなって欲しい物です。『雨降って ―― 』とは正にこう言う事を言うんでしょう」
 狐と狸のばかしあいを地で行く会話を耳にしたセシルが神秘的な笑みを浮かべて二人の表情を眺めた。
 実際、基地との商品の取引が現金に変った事は事実であるし、それによって開拓地域で働く農夫達の金銭的損失が早期に補填されると言うのは確かだ。ウェブナーがヘンケンに約束する全ての事項は『表向き』のヘンケンの職業には全てプラスの方向へと働くだろう。
 だが、ここに集まった本来の目的と『裏の顔』が携えた議題に関しては何の進展も無かった。コウのスカウトに関する議題の是非はセシルの一言によって混迷の度合いを深め、四人の意見は三つに分かれた。コウの人と形を知るセシルは賛成の立場に廻り、残されたデータを重く見たウェブナーとモラレスは二人と反対の立場を採った。互いが互いを説得すると言う不毛な議論を繰り返した挙句、中立の立場を取ったヘンケンの水入りで会合は物別れになる事を余儀無くされる。
 会話の漏洩を防ぐ為に盗聴器の傍に貼り付けたICレコーダーの再生時間が限界を迎えた事で時間切れとなった議論の結末は、結局保留と言う最も時間を無駄にした形で終了する事となっていた。
「会議は踊る、されど進まず」とかの貴族に揶揄されても言い返せるだけの理由がない、とセシルは自分の弁舌の拙さを歯がゆく思う。もっとも今彼女が手にしている根拠は全てが主観や推測に過ぎず、数字と手数に勝る二人を相手にここまで食い下がることができたのはセシルの並々ならぬ決意によるものなのだと彼女の実力を知る誰もが確信するだろう。少なくとも痛み分けで終わった事はセシルにとっては勝ちに等しい事なのかも知れない。

「奥様には感謝しなくてはなりませんな」
 ウェブナーの意味深な言葉が自分の内へと思考を向けていたセシルを現実へと引き戻した。焦点を合わせる黒い瞳と交差する視線に秘められたウェブナーの感謝がそこにはある、立場上セシルの意見に対して反旗を翻したウェブナーではあったが実は心の何処かで自分の価値観を覆す考えを待ち望んでいたのかも知れない。彼がセシルに告げた言葉は『表』の意味でも『裏』の意味でも共通する感謝の意であった。
「奥様からこの様な提案がなされなければ、話し合いは破談になる所でした。ベッケナーさんはいい伴侶をお持ちだ」
 形式ばった言い方では有るが、ウェブナーにはそれに取って代わる賛辞の言葉を見つける事は出来なかった。事実、強力で新たな戦力の補充は現在反ティターンズを取り巻く勢力に置いては必要不可欠であり、増大する敵戦力と拮抗する為には一騎当千の強兵の存在こそが萎えていく士気を高める起爆剤になる筈なのだ。すんでのところで最悪の展開と結論に落ち着こうとした議論の行く末を見事に崖っぷちに軟着陸させたセシルの洞察力を、ウェブナーは共に宇宙を駆けていた時と同様の尊敬の眼差しで見詰めた。
「いえ」
 ウェブナーの視界の中でにっこりと笑みを浮かべて静かに会釈を返すセシル・クロトワという女性が、一年戦争開戦初期に勃発したルウム戦役においてジオンによる旗艦アナンケ拿捕後の代行を務めたマゼラン級戦艦二番艦『ネレイド』の後を受け、最後の砦となった三番艦『ホーライ』の副長だったということはその時の生き残りならば誰もが知る事実だ。自らも被弾して指揮系統を喪失した艦をたったひとりで取り纏めながら壊走する連邦宇宙軍の殿を務め、損害を最小限に留めて自らもルナツーに帰還したと言う武勇伝は一年戦争が史書に記載された今となっても将兵の間で一種の伝説と化している。
 戦功と実績から言えば恐らくこの三人の中では誰よりも輝かしく、そして華々しい未来が待ち受けていた筈の彼女がその後どの様な経緯でヘンケンの乗艦する『スルガ』 ―― それもサラミスを改装した輸送巡洋艦だ ―― の副長に収まったのかは定かではない。だが僚艦の艦長を務めていたウェブナーも与り知らぬ内に彼女は何時の間にかヘンケンの側に立ち、ヘンケンの補佐として十年来の付き合いの様な振る舞いを見せていた。当時は様々な憶測を呼んだ二人の関係も六年を経過した今となっては二人を繋ぐ絆が純粋な『上官と部下』の関係止まりである事を疑う者はいない。
 もっともそれはこの二人が『本当の夫婦ではない』と言う事実を知る者だけに限定されてはいるのだが。
「では、私達はこれで。ウェブナー司令、新たな契約書は近日中にこちらに届けさせますので、くれぐれも反故になさるような事だけは ―― 」
「分かっております。これでも軍人の端くれ、自分の決断には責任を持つ主義ですからな」
 にこやかに笑いながらヘンケンの手を離すウェブナーの目には、この議題についてもう一度仕切り直そうとする意志がありありと浮かんでいる。ヘンケンは彼の視線を受け取ると小さく頷き、その同意を求めるようにセシルへと視線を送る。
 しかしその頃にはセシルの瞳はヘンケンの顔へと、いや正確にはヘンケンの顔を通り過ぎてもっと遥か遠くの世界へと注がれていた。

 頭の中をぐるぐると駆け巡るコウの矛盾に思考を捉えられたままのセシルだが、傍目にはそれを感じさせないようにする器用な所がある。だが普通の人なら分からないその変化も長年共に死線をくぐり抜けたヘンケンにはお見通しだ、片目を二度瞬いてセシルの視線に変化を与えて気づかせる。それは二人だけにしか出来ないお決まりの符丁のようなものだった。
 我に返って焦点を合わせたセシルの黒い瞳に向かってヘンケンが意味深な視線を送る、それがここでの会合を終えた後に当事者の家へと赴き当面の事情と情報を採取するという意味である事がセシルには理解できた。
「ごめんなさい、慣れない話し合いで少し上せたようですわ。外の風に当たればじきに収まります」
 ヘンケンの視線に応えるように小さく笑いながら自分の思考迷路に鍵をかけるセシル、その背後から後ろ手にドアを閉めながら通路へと姿を現したモラレスが声をかけた。
「そうじゃな、気分の悪い時にはそれが一番」
 どことなく労わるような声音で話しかけてくる老軍医の顔を振り返る三人に向かって顔を上げたモラレスは、ゴソゴソと白衣のポケットに手を差し込んで何かを探している。
「組合長が引っ切り無しに煙草を噴かすモンじゃから、そりゃ気分も悪くなるじゃろう。 ―― ほれ」
 そう言いながらポケットから引っ張り出した掌の中の物をセシルに預ける。秘色のセロハンに包まれた小さな飴が転がった。
「奥さんにはハッカじゃ。そしてあんたにも」
 モラレスがヘンケンの掌に無理矢理飴を押し付けながら言った。
「あんたには禁煙飴じゃ。煙草も程々にせんと健康を害するぞ? あんた達の仕事は体が資本なんじゃろう」
「いや、それはそうですが今更飴を舐めて誤魔化す気には ―― 」
「ばかもん」
 ヘンケンの反論をやんわりとした口調で遮ったモラレスではあったが、其の目には本気でヘンケンの体を心配している意志が見て取れる。まるで教師に怒られた生徒のように口ごもるヘンケンの顔をジロリと見上げながらモラレスは言った。
「同じ時に、同じ物を見、同じ物を食べる ―― 具合の悪い時には尚更じゃ。そうしないと夫婦と言えども元は他人同士の繋がりじゃ、あっという間に壊れてしまうぞ? これは儂からの『夫婦円満』の為の呪いみたいなもんじゃ、ありがたく受取っとけ」

 上官と部下でありながら偽装結婚を続ける二人の精神状態を、傍にいる警備兵に気付かれない様に気遣うモラレスの言葉が二人の胸に染みた。
 任務とは言え本来は宇宙を住処として船の中で寝泊りしていた二人が地上に降りて何年が経過しただろうか? 反ティターンズの地下組織の中核となって活動する二人にとって、今現在の状況は決して喜ばしい方向へと向っていない ―― いや寧ろ悪化しているのは確かだ。ヘンケンの性格から言えば直ぐにでも現存の組織を纏め上げて然るべき指導者に預け、叛旗を翻す為の準備に勤しみたい事だろう。宇宙を根城とする二人が艦隊を操りティターンズとの雌雄を決する事こそ本懐であり、また無限を具現するその世界こそが二人の真価を発揮できる領域の筈なのだ。
 生きるべき世界から遠く離れて重力の井戸の底で慣れない同居生活を続ける事が思わぬ軋轢を生み出す、今日二人の意見が分かれたのがその前兆だとモラレスは心密かに憂慮した。お互いに気付かぬストレスから来る見解の相違は放っておけば二度と修復不可能な関係にまで発展する様をモラレスはカウンセラーとして何度も見てきている、初期段階で発生する症状を悟ったセラピストとしての判断は二人に対しての忠告と戒めを飴玉と言葉という行為で教える事だった。
「ありがとうございます、ドクター。ありがたく戴きます」
 モラレスの諫言に対して何かと意地を張るヘンケンは複雑な表情を浮かべたまま口を噤んでいる、「やれやれ、またか」と呆れた笑いを浮かべたセシルがそっと手を差し出して、モラレスの指に摘まれた飴を受け取った。その光景を不愉快そうに視線で追うヘンケンの頑なな表情に向かってモラレスが意地の悪い笑みを浮かべた。
「 ―― 何じゃあ、奥さんに口移しで食べさせて貰わんと飴の一つも受け取れんのか? 見かけによらず意外に甘えん坊さんなんじゃなぁ」
「おおっ!? あ、あんた、な、なんて事 ―― 」
 怒りと羞恥が同時に温度を上げてヘンケンの余裕を失わせ、真っ赤になった顔の上で青い瞳が目まぐるしく泳ぐ。縋る場所を探す様にオロオロする視線を横目で眺めながら微笑んだセシルが、掌の飴をヘンケンの目の前で転がした。
「あなた。じゃあこれはあたしが、後で」
 静かに囁いたセシルの顔を複雑な表情で見下ろすヘンケンとその視線をなぞる様に上目遣いで見上げるセシル。二人の間に流れる空気と意識の差を既によく知るモラレスは、彼だけが知るセシルの秘密を鑑みて心の中で呟いた。
 “やれやれ、セシル。お前さんも不憫な女じゃなあ”

 慌てたヘンケンがこれ以上の戦線の維持は不可能だとばかりに帰路への撤退を決意した。歴戦の指揮官を言葉一つでやり込めた老医師の顔をこれでもかと睨みつけながら出口へと続く長い廊下を歩き出す、その時ヘンケンの体に小走りで走って来たニナが正面からぶつかった。
「きゃっ! 」
「おっと」
 屈強なヘンケンの胸板に跳ね返されたニナが尻餅を着いた。手の中に抱えていたファイルの束が盛大な音を立ててヘンケンとニナの間の距離を埋める様に床へと散らばる。出会い頭の衝撃で頭を押さえながら蹲るニナの姿を呆然と見下ろしていただけのヘンケンの表情が、次の瞬間には起こった事の全てを理解して狼狽に変った。
「し、失礼お嬢さん。他の事に気を取られていて気づかなかった。怪我は無いかね? 」
 そう言いながら慌ててしゃがみ込んで足元に振り撒かれたファイルと中から飛び出した書類を拾い集める。一冊一冊を手の中で纏めながら ―― それも多分ヘンケンの指揮官としての癖なのだろう ―― 彼の目は時折隙間から見え隠れする書類の内容をつぶさに追っていた。
 記載されている数字の羅列は恐らくモビルスーツに関するデータに間違いない。時間毎に変化する出力変動とそれを操作するパイロットの運用に関連する事項を記載した詳細なデータログなのだろうが、その質量が桁違いだ。手の中へ収めるごとに重みを増す資料を盗み見ながらヘンケンは驚嘆を禁じ得なかった。そこにあるデータ量は自分が預かっていたどのモビルスーツ部隊の解析データよりも分厚く、そして多岐にわたる項目で記述されている事が分かる。
 そして膨大なデータ記録はたった三人のパイロットの物である事がヘンケンの驚嘆を加速させた。散らばった書類の海の波間に未だ漂う三枚の起動ディスクがヘンケンの推測の根拠となっている。
「い、いえ、こちらこそ失礼しました。お怪我はございませんか? 」
 ヘンケンと同じ高さに頭を下げて周囲の書類を慌てて集めるニナだがその声はどこか上の空で、焦りを覗かせたその表情と蒼い瞳はしきりに床の上を這い回っている。明らかに大切な何かを探すニナの姿と呟く様に謝る声を耳にしたヘンケンは手伝いの手を止めて、すぐ傍にあるニナの顔を見詰めた。
「 …… なんでしょう? 」
 ヘンケンの眼差しに気付いたニナが同じように手を止めてヘンケンの視線に向き合った。どこか人を寄せつけず、人の情けを拒む。ここまでの道すがらで出会った少女と同じ ―― いや彼女よりも遥かに温度の低い声を放ったニナに向ってヘンケンが尋ねた。
「いや、お美しい割には妙に冷たい声をお持ちの様だ。何か嫌な事でもあったのかと思いましてね。思い過ごしでしたらご勘弁願いたい」

 ヘンケンには当人にも自覚の無い無邪気な悪意を言葉に込める癖がある、嫌悪の面持ちを露にしたニナが彼の問いには答えずに視線を逸らしてファイルの回収を再開した。“勘弁してくれって言ったじゃねえか”と心中で一人ごちたヘンケンはばつの悪い表情を隠す事も無く再び作業を再開する、不器用な上官の背中に見兼ねたセシルが上体を屈めてそれを手伝い始めた。
 廊下にしゃがみ込んだ他の二人とは対照的に膝を軽く曲げて、立ったまま長い手を伸ばしてニナやヘンケンよりも素早く書類を集める姿は優雅としか表現しようが無い。セシルの細い指が突然姿を現した四枚目の起動ディスクに触れたのは書類の海が引き潮を向かえて元の場所へと収まり、ニナがほっとした表情を見せて立ち上がった瞬間だった。
「あら、これ ―― 」
 セシルの足元に置き去りにされた3.5インチの透明な保護カバーに包まれたディスクを彼女のしなやかな指が拾い上げる、その呟きを耳にしてセシルの手に視線を向けたニナの表情が一瞬にして強張った。小さく息を呑んで立ち竦んだ彼女は、笑えば愛らしく見えるであろうその唇を小さく開いて戦慄かせたまま視線をディスクへと注ぎ込む。
 それはセシルの記憶の中に存在するどの機器 ―― 航空機から戦艦まで ―― にも当てはまらない違和感を持っていた。兵器を動かすために起動ディスクという物が発案されてからおよそ10年、その形式や仕様は日々進化を遂げているのだがセシルが手にしたそれは明らかにニナの持つ他の三枚とは大きさや厚みが異なり、しかも保存状態が劣悪だったのか所々カバーが欠けている。
 その状態でも恐らく起動には問題が無いとは思うのだが、それでも全てのモビルスーツパイロットが脱出の際にこれだけは持ち出すと言われるほど重要な役割を担うディスクがこんな無残な形で存在している姿を彼女は見た事が無い。彼女の経験ではディスクの状態とパイロットの状態は比例しているのが常である。これ程ぼろぼろのディスクの中にデータが保存されているパイロットの損傷は良くて四肢の一部欠損。悪ければ、植物状態かあるいは ―― 。
 興味を引かれたセシルの手が何に気なしにディスクを裏返す、それは単に好奇心から来た衝動的な行為に過ぎない。だが流麗な筆記体で書かれている擦り切れたローマ字を目の中に焼き付けたセシルは、恐らくそのディスク内に保存されているパイロットの名前である事を予測して、そしてそれが物語る事実に戦慄を覚えた。
“! ―― コウ・ウラキ”
「 ―― 返してください」

 戦慄に冷水を浴びせるような強い響きにセシルは我に返って顔を上げた。視線の先に立つ女性は青い瞳を僅かに顰めて自分の顔をまるで射貫くような目で睨みつけている、空の青さを思わせるような鮮やかな蒼に見え隠れする焔の存在は親の敵を見るかのよう。しかしそれはセシルの王佐の才に火をつけた。
「 …… 人の好意に対して向けられる言葉ではありませんね、お嬢さん。もっと他に言い方は? 」
 ディスクを軽く差し上げながらニナの挑戦を受けて立つように挑発する言葉を吐いた時、そこに居合わせた四人が思わず顔を見合わせた。モラレスとウェブナーはその形が宇宙軍時代の彼女の姿であることを確認して驚き、警備兵は軍属が民間人に対して働いた失礼を諌めようと割って入ろうとする。しかしその動きをヘンケンの手が遮って封じ込めた。
「な、何を ―― 」
 押し止めたヘンケンに向かって抗議の声を上げようとした警備兵がヘンケンの目を見て声を失う、将官として長く兵を束ねてきた圧倒的な気迫は異を唱えようとする下士官の声を封じるには十分だった。差し出した自分の手が状況の境界足り得ることを確認したヘンケンはそのまま視線をセシルの背中へと黙って向けた。
 地上では絶対にその素顔を見せなかったセシルが彼女に向けてその姿を露わにしたという事は、そうしなければならない事態が発生したという事。勿論セシルの言葉には相手を咎めるだけの十分な理がありもっともな言い分だとも思う、しかしそれだけの事で自分の素顔を一般人に晒してしまうほど短気でもなければ軽率な人物ではない。そうでなければこの三年間を誰からも疑われずに夫婦と言う役柄を演じることはできなかった筈だ。
 ヘンケンにはセシルに対する絶対的な信頼感がある、ヘンケンの視線を背中で受けたセシルは挑発的な微笑みを浮かべたまま、じっとニナの言葉を待っていた。

 ロゼッタストーンの解析に成功したトマス・ヤングと言う研究者は、こんな閃きを手がかりにしたのだろうかとセシルは思った。コウ・ウラキという人物を解析するにはあまりにも情報が足りず、およそ自分が二人に対して反論したのは状況証拠から導き出した推測でしかないという事を自覚している。しかし偶然とは言えこんな場所で重要な手がかりになるであろう物的証拠に巡り会えるとは思いもよらなかった。傷だらけの形式遅れの起動ディスクとそれを必死に探し求める一人の女性、そして。
「 ―― どうしました? これは貴方にとってとても大切な物なのでは? それを取り戻すのに何を躊躇しているのですか? 」
 煽るようになおも挑発を続けるセシルにウェブナーとモラレスは黙って傍観を決め込み、ヘンケンはじっと肩ごしにセシルと対峙する女性の姿を凝視する。彼の記憶ではこういう場合、セシルの気迫に圧された兵士は決まって謝罪の言葉を述べて言い直すのが殆どだ。凛と響くその声が自分の犯した罪を浮き立たせて誤りを自認させる、ルウム戦役で潰走する艦隊を立て直した統率力は伊達ではない。だが恐らく彼女もご多分に漏れる事などないのだろうとタカをくくっていたヘンケンの目の前で、ニナはまるで獲物を狙う猛獣のような目でセシルを睨みつけた。
「 ―― 返せっ」

 ” その目だ ”

 ぼやけて映るセシルの肩が震えて、彼女の中にある何かの琴線に触れた事がヘンケンには分かる。それを確認しながら華奢にしか見えない彼女のどこにそんな力が宿っているのだろうと同時に思いを奔らせる、数多の将兵を牛耳ってきたセシルの気迫に臆することなく立ち向かおうとするニナの気迫に感心したヘンケンの視界の中で、差し上げられていたままのセシルの腕が不意に動いた。すっと差し出された指の間に挟まれたディスクを物も言わずにひったくったニナが、小さく一礼をして五人の間を足早に駆け抜けて廊下の向こうへと消えていく。その背中を横目で追うセシルの顔にもう以前の表情は無かった。
「君、すぐに彼女の後を追って、今日の就業時間終了後に私の部屋へと来るように伝えてくれ。君はそのまま元の配置に戻って構わん」
 いつもとは異なるウェブナーの口調にただならぬ気配を感じながら、警備兵は小さく敬礼をするとすぐさま踵を返してニナの後を追う。分厚い靴底が鳴らす鈍い足音が廊下の向こうへと消え去った事を確認したヘンケンが、たまりかねた様に口を開いた。
「なんだ、ありゃあ。 …… ウェブナー、お前も色々と大変だな。つくづくご同情申し上げるぜ」
 同情を孕んだ溜息がヘンケンの口から漏れて、後頭部を軽く掻き上げる仕草に心情を表現する。
「この基地で働く女性に遭ったのは彼女で二人目なんだが …… まあ、その何だ、個性派揃いの性格と言うか何と言うか。 ―― ひょっとしてお前の趣味なんじゃねえだろうな、“ツンデレ”っつうのか? あれ」
「勘弁してくださいよ中佐、この歳でそれは色々無理です。それに意味も間違ってます」
「彼女は? 」
 静かに尋ねるセシルの声音には未だに副官としての色彩が残っている、宇宙で僚艦として随伴した時と同様の口調はいつになっても心地のいい物だ。
「ニナ・パープルトン技術主任。民間から軍への技術供与と言う形でこの基地の技術開発部に在籍しています、再建当初からの配属ですので何故ここに居るのかと言う事までは分かりません。調べては見たのですが ―― 」
 否定的なウェブナーの言葉を聞きとがめたヘンケンが小さく舌打ちをして言葉を遮る、眉間にシワを寄せて八つ当たりをするように睨んだ目が敵に対する嫌悪を唾棄混じりに吐き出した。
「軍法すら捻じ曲げて支配を強化するなど、れっきとしたファシストのやる事だ。情報の隠蔽、記録の改ざん ―― 何様のつもりだジャミトフあのの野郎は」
「ここが部屋の中なら今頃中佐の発言は本隊へと送られてMP達が色めき立っている頃ですよ、それに現状はその通りですから致し方のないところで。もし彼女やウラキ伍長の経歴が書き換えられているのだとしたら、その原本は今でもジャブローのデータアーカイブのどこかに残っているはずです。ただし ―― 」
「それを閲覧するためにはレベル5将官クラスのアクセス権限が、必要? 」
 廊下の先へと消えていったニナの背中を追い求めるように目を向けるセシルの質問に、ウェブナーは小さく頭を振ってため息を漏らした。
「もし彼らが過去にティターンズが隠し通さなければならない事件に遭遇していたとして、ここでこうして軟禁状態に遭っている事に何らかの意味があると仮定すればその権限はおそらくそれ以上 ―― おそらくジャミトフやそれに近しい者達に限定されるでしょう。とても私たちの手に負える代物じゃない」
「じゃが ―― 」
 それまで三人のやりとりを黙って聞いていたモラレスが会話に割り込む。三人の肩の下にある老獪な医師は後ろ手のままでクッと顎を持ち上げながら、セシルとヘンケンにとっての驚愕の事実を告げた。
「この基地に来てからの事ならば、誰もが憶えとる。パープルトン君はウラキ伍長が予備役に編入されるまで恋仲だったんじゃよ」

 まるで兄妹のように同じ表情で目を見張るヘンケンとセシル。不意打ちを食らわせた老医師は二人の反応をいかにも心外だと言う様な表情で見上げながら眉を顰めた。
「そんなに驚かんでも彼らとて男と女じゃ、そんな事があったとしてもなんも問題がなかろうて。それにこんな辺境の基地で隠しおおすには何せ世間が狭いからのう。 …… とにかくモビルスーツ隊の隊長と整備班長、ウラキ伍長とパープルトン君はこの基地に赴任する前からの知り合いだという事はこの基地の古株ならば誰もが知っていることじゃ。まあ、それ以上の事は本人達が頑なに喋ろうとはせんがね」
「まるで市場の野菜か果物だな、一山いくらの叩き売りにあった先がこんな僻地のうらぶれた基地になるとは本人たちも預かり知らない事だっただろうに …… で」
 ヘンケンはジロリとモラレスを、疑いのこもった眼差しで見下ろしながら尋ねた。
「 …… ドク、あんたの持ってる情報はそれだけか? 」
 角ばった顎を指で摘みながら犯人を問い詰める刑事のような口調で話すヘンケンに向かって、あらぬ嫌疑を掛けられたモラレスがその視線を跳ね返す様に上目遣いで睨み付けた。
「それだけに決まっとるじゃろう、医者の仕事を何と勘違いしておる? …… この儂を疑うとはいい度胸じゃ、ヘンケン。いつからお主は死んだ儂の親父になりおった? 」
 売られた喧嘩を安値で買い叩くモラレスと買い叩かれて憤慨するヘンケンとの間で飛び交う視線に火花が散った。

 親と子ほども違う歳の二人が腕づくで喧嘩をするという事はありえない、だが時に言葉は腕力以上のダメージを相手に与える事もある。ヘンケンらしいストレートな罵倒とモラレスらしいクールでシニカルな嘲弄はお互いの性格や癖をあげつらう事に始まって、いつしかお互いの出自や一族の成り立ちの妖しさや賎しさにまで及んだ。さすがにここまで話が加熱すると ―― もう本題の事などそっちのけだ ―― 我関せずを決め込んでいたウェブナーと言えども仲裁に入らざるを得ず、口角泡を飛ばす二人の間に被弾覚悟で体を割り込ませた。
「まあまあお二人共、そんな大人気ない事で言い合っても仕方がないでしょう。ここはお互い昔のよしみで ―― 」
「なんじゃと? 」
 眼下から向けられたモラレスの視線はまるで戦艦の主砲がぴたりとこちらに狙いをつけたように見える、無傷ではいられない事を覚悟したウェブナーに向かって砲撃が始まった。
「ウェブナー、貴様はここの基地司令で儂はここの軍医じゃ。同じ職場で働く仲間の肩を持たんでどうやって責任者としての威厳を保とうと言うんじゃ? 」
「ウェブナー、昔のよしみでといったがそれを言うなら俺とお前は元上官と部下だ。上官が敵対する相手の風下でお前は一体何をするつもりだ? 」
 敵機動巡洋艦ザンジバル込の一個艦隊の一斉射撃にも全く動じなかった歴戦の勇士があっという間に窮地に立たされた。困惑した苦笑いとタジタジとなる仕草には明らかに自分の英断に対する後悔が表れ、一糸も報いる事のない撤退を余儀なくされる。むくつけき男三人の不毛なメンズトークを腕を組んで眺めていたセシルが後退を始めた味方の脇を通り過ぎて、ずいとヘンケンの傍へと進み出た。
「あなた? 」

 廊下を出口へと急ぐヘンケンが振り返ると、やはり廊下の奥へとウェブナーに宥められながら去っていくモラレスと視線が合った。お互いに子供の様に舌を出しながら最後の砲火を交えた後、ヘンケンはいかにも不愉快といった表情で出口から差し込む外の明かりを睨みつけた。
「ドクの野郎、絶対何か隠していやがる。上官に向って隠し事とは軍医の風上にも置けねえ奴だ」
「あら中佐殿、いつの間に軍務に復帰なされたのですか? それならそうと早くおっしゃって頂ければ私も『あんな』回りくどいやり方を取らずに済みましたものを。ブリーフィング中のトラブルシュートの権限は副官にあるんですから」
 揶揄混じりに答えるセシルの前を歩いていたヘンケンの足が突然止まって振り返った。微笑みながらそれを見守るセシルに向けられたヘンケンの顔にはまるでおとぎ話の鬼のような赤みが差している、震える唇をやっとの思いで操りながらヘンケンが言った。
「お、おっ、お前があ、あん、あんな事を仕出かすからだな! 俺の言いたい事がこれっぽっちも言えずにドっ、ドクの ―― 」
「私の胸の触り心地を十分にご堪能いただけましたでしょうか、中佐殿? 」
 
 ヘンケンとモラレスの紛争は別に今回が初めてという訳ではない。事ある毎に立ち会い続けたセシルは幾度目かの和平工作の失敗の後に遂に究極とも言える作戦を考案する、それは自分の体を武器にしてヘンケンの全ての機能を凍結すると言う女ならではの荒業だった。戦場では比類なき豪胆さで敵を蹴散らすヘンケンが、女絡みの事になるとからっきし意気地がなくなるという事をセシルは歯がゆく思いながらもよく知っている。アキレスの踵のようなただ一つの弱点に目掛けて放ったセシルの矢は今回も惚れ惚れするような勢いでヘンケンの急所を貫き、その全機能を停止させる事に成功した。
 羞恥も淫靡もなく、ただあっけらかんと微笑んで意味深なセリフを吐くセシルにはどこか勝者としてのゆとりが垣間見える。部下の思惑にずっぽりとはまったままのヘンケンはその腹立ちも込みでセシルに向かって不満を垂れた。
「ば、馬鹿者っ! いくら副官だからと言っても公衆の面前でやっていい事と悪い事があるだろう!? 毎回毎回お前はそうやって ―― 」
「妻でも副官でも同じ事ですわ。別にお代を頂こうと言う訳でもなし、諍いが起これば身を挺してこれに対処するのが私の勤め。今までも、これからも」
 もし同じ事が起こったら次もこうしますよ、と暗に脅しながら小首を傾げてニコリと笑うセシルの笑顔に毒気を抜かれたヘンケンが口を噤んで踵を返す。こういう腹の据わった所があるからこそ自分の副官として長く付き合えるのだと分かってはいても、突拍子もない発想力は時としてヘンケンを手玉に取るほどの意外性がある。見た目の淑やかさと懸け離れた内面をもう一度思い返しながら、ヘンケンはふとさっき出会ったばかりの金髪の女性へと思いを馳せた。
セシルとはタイプは違うが世の中の男性の殆どが声を揃えて「美人だ」と言うであろう美貌の持ち主であるにも拘わらず、あの気性はその評点を一から覆す程の存在感がある。人を寄せ付けないあの態度と挑戦的な目を思い返したヘンケンが、後頭部をガリガリと掻きながら背後に続くセシルに言った。
「しかし何だ、ウラキ君が彼女と付き合っていたと言うのは本当の話なのか? 俺が思うに彼にはこう、もっと明るいタイプの優しい女性がだな、似合っていると思うんだが。あの性格のきつさじゃあどんな男でも一目散に逃げ出すぞ、もしウラキ君が彼女と別れたいがために予備役の道を選んだとしても ―― 」
「今、何て? 」
 口調の変わったセシルの声がヘンケンの足を止めた。思わず振り返った視線の先でセシルは細い顎を指で摘んでじっとヘンケンの顔を見つめている。
「? 彼女の性格がきついと言ったんだが ―― 」
「その後です、『艦長』」
 その声と言葉に昔の記憶を呼び覚まされるヘンケン、『スルガ』の決して快適とは言えない艦橋でたった二人で何かを相談していたあの頃の雰囲気をセシルは全身に滲ませている。それは彼女の脳裏に何かの光や閃きが産声を上げた瞬間によく見られる光景だった。
「ウラキ君が彼女と別れたいがために、予備役を」 

 何かが繋がったような気がする。
 私たちは大きな勘違いをしていたのかも知れない。
 人が『死』から逃れようとするのは本能だ。
 人が『死』を受け入れるのは運命だ。
 私たちはウラキさんが『死』という命題に直面して今の生き方を選んだのだと信じ込んでいた。『死』から逃れるためにモビルスーツを降り、降りたが為に生きがいを失って『死』を求める様に自ら労苦を選んでいるのかと思っていた。
 だが、そのどちらも違っているのだとしたら?
 彼が全く別の理由で ―― 彼女との間に起こった事件によって、別の道を選ぼうとしているのだとしたら。
 もしその事件が、彼の心の中に撒かれた『種』に深く関わっているのだとしたら。

 無言でじっと見つめるヘンケンに気がついたセシルは上目遣いに見上げながら真顔で言った。
「 …… 理論的でもなく根拠もない、でも艦長の直感にはいつも驚かされます。もしかしたら艦長は今日の会合の一番の要点を無意識の内に見抜いたのかもしれませんわ」
「? 俺が? どういう事だ? 」
「もし彼女が ―― ニナ・パープルトン技術主任がウラキ伍長の今の生き方に何らかの影響を与えた人物だと言うのなら …… それが二人の別れた原因なのかも知れないですけど、それさえ分かればウラキ伍長の行動の不整合が解き明かされるかもしれません。何故彼がモビルスーツを降りたのか、降りなければならなかったのか」
 真剣な眼差しでじっと顔を見つめるセシルとは対称的に苦笑いを浮かべたヘンケンは、セシルの分析をやや斜に構えて受け取ったようだった。そんな馬鹿なといった表情で彼は答えた。
「お前の人物評にケチをつける訳ではないが、今回だけはさすがに深読みしすぎなんじゃないか? 少なくとも人としての最低限の礼儀すら尽くせぬ人物が、ウラキくんの秘密の鍵を握っているなどと俺は考えたくもないな。第一あれだけの仕事を抱えた『鉄の女』が男との色恋事をどうだのという暇があるのか? 」
「あら、私も宇宙にいる頃はそうでしたわ。艦長は彼女を通して私の事を批判なさっていらっしゃるのですか? 」
 即座に切り返すセシルに少しむっとした表情で応じるヘンケン、言いがかりをつけるようにヘンケンの揶揄を責めるセシルは畳み込むようにその先へと言葉を伸ばした。
「私と彼女は多分そういう所では似通っているのでしょう、さっきの睨み合いも『同族嫌悪』という奴なのかもしれません。でもそのにらみ合いの意味が分からない艦長と、彼女と別れたウラキさんもよく似てらっしゃいます。艦長の庇い方ですと『同族相憐れむ』と言ったところでしょうか」
「回りくどい言い方はよせ、『副長』」
 眉を持ち上げたヘンケンが唐突にセシルの事をそう呼んだ。空調の効きなど当てにも出来ない蒸し暑いオークリーの廊下が、その一瞬だけあの日の『スルガ』に変化する。大勢の非戦闘員を満載した輸送巡洋艦を操って戦域を突破する為にはどんな手段が必要か、どれだけの犠牲を覚悟しなければならないのか。二人だけで話し合ったあの日の空気をひしひしと感じながら、セシルは昔の出で立ちを彷彿とさせるヘンケンと向き合った。
「クロトワ少佐、貴官に上官として説明を求める。貴官が俺の人物評に対して異論を挟むその根拠とは何だ? ニナ・パープルトン技術主任とウラキ伍長は既に離別をしているというのは周知の事実だ、その理由が彼女の人間性にあるのだと読んだ俺の推理は間違っているというのか? 」
 これこそが。
 この姿こそが私が惚れ込んだ彼の真の姿なのだとセシルは思った。

                              *                                 *                                *

 ルウム戦役での退却の折に敵を惹きつけるために的となった『ホーライ』を最後まで護り続けた二隻のサラミス、その内の片方 ―― 艦番65『ワンダー』の艦長は戦域を離脱する寸前に襲いかかって来たジオンの送り狼の群れへと顔色ひとつ変えずに艦首を向けた。
 手負いの殿を守る事ほど無駄なものはない、慌ててその暴挙を阻止しようとしたセシルの前に彫りの深い男の顔が現れた。敵の砲火で絶え間なく照らし出されるサラミスの質素な艦長席で、男はゆっくりとタバコに火を着けながらセシルに向かって言い放った。
「 ” 君は最後までよくやった。女性士官の身でここまでやれればもう十分だ、後は俺たちに任せて貰おう ” 」
「失敬なっ! 仮にも第一連合艦隊三番艦を預かる私を女性だと侮るとは! 速やかに貴官の姓名と階級を述べよっ! 」
 火力の激減した後部兵装をやり繰りするクルーの喧騒がセシルの怒号で一気に収まる。鬼の形相で艦長席の肘掛を握り締め、天涯に設えられた液晶に浮かんだ男の顔目掛けて上体を浮かせる彼女に全ての視線が集中する。
「 ” …… 別に侮っている訳ではない、これでも貴君を尊敬しているのだよ。今は臨戦下だ、言い方がまずかったのは謝る。私はヘンケン・ベッケナー中佐、所属は連邦軍第四戦隊 ” 」
「第四、戦隊。 ―― まさか『一週間戦争The Week』の生き残りっ!? 」
 この戦いの先駆けとなるジオンとの最初の交戦で壊滅したと言われる二つの小艦隊、連邦軍第8ミサイル雷撃艦隊と第4戦隊はその全てを犠牲にしてティアンム艦隊の到着までの時間を稼ぎ、ジオンの画策したコロニー落とし『ブリティッシュ作戦』の完遂を阻止した誉高き部隊だとセシルは聞いていた。その生き残りが事もあろうに自分の目の前に現れようとは。
「 ” 残念だがもう俺とウェブナーだけになってしまったがな ―― まあそんな事はどうでもいい、ここは俺たちが敵の前衛をかく乱するからその間にルナツーの防衛圏内へと逃げ込め。いけ好かない奴だがティアンムは真面目な男だ、きっと援護に来てくれてる。俺とはそりが合わんがね ” 」
「馬鹿な、たったサラミス二隻でどうやってあれだけの敵を叩こうというのですか! それならば私も貴官らと砲門を並べて迎撃に参加しますっ! 」
「 ”  ―― わっかんねえ姉ちゃんだな ” 」
 後頭部を掻き上げながら苦虫を噛み潰したような顔でポツリと呟いたヘンケンが突然真顔になってくわえたタバコを吐き捨てた。鋭い眼光をセシルへと向けながら唸るような声で口を開いた。
「 ” ヘンケン・ベッケナー中佐からセシル・クロトワ少佐へ発令。貴官は直ちにこの戦域を離脱してルナツーのティアンム艦隊へと庇護を求めろ、これは上位階級からの命令である ” 」
「! なぜ私の名を!? 」
「 ” 当然だ。退却戦の殿をここまで務め上げた事は賞賛に値する、貴君の才はこの後も連邦軍の為に大いに活用されるべきだと思う。こんな所での無駄死には俺が許さん、いいな? ” 」
 答えなど必要としない裂帛の気合と気迫はセシルの中から反抗という選択肢を消去した。呆然と見上げるスクリーンの向こうでヘンケンは小さくウインクをした後、すぐさま肘掛の無線のスイッチを押し込んだ。
「 ” ウェブナー、『車懸り』で敵前衛のど真ん中に突っ込む。遅れるなっ! ” 」
 メインエンジンから猛々しい炎を上げて『ホーライ』に背を向けた二隻のサラミスは、まるでワルツを踊るかのようにくるくると弧を描きながら遠ざかっていく。しばしの静寂の後に突然スクリーンに生み出された数珠つなぎの爆発光をセシルは腕を震わせて見つめていた。

                              *                                 *                              *

 あの時全身を襲った震えを思い出す、あの時に去来した切ない思いを思い出す。自分を導いてくれる者、私に欠けている物を持っている者。今は農夫に身をやつしてはいてもその奥底に眠る指揮官としての能力と、人としての魅力は私の心を捉えたまま離さない。彼に対する尊敬と憧れこそが私に連邦宇宙軍暫定旗艦『ホーライ』艦長と言う立場を棄てさせた、唯一つの理由。
 セシルの長い睫毛がヘンケンの気迫に屈服した様に静かに閉じる。自分の気持を悟られない様に瞼で瞳を包み隠したセシルが尋ねた。
「彼女が私に向かって最後に向けた目を覚えてらっしゃいますか? 」
 静かに微笑むセシルの表情をじっと伺いながら小さく頷くヘンケン、そのタイミングを見越したかの様にセシルは言った。
「あの目は『嫉妬』ですわ、艦長」

「も、ダメ。頭ん中数字がぐるぐる回ってるゥ」
 アデリアが夕食の乗ったトレーの前に額を預けて突っ伏して手に握ったナイフとフォークをふるふると震わせながらそのまま床にまで沈み込みそうな上体を辛うじて支えて呟いた。
 ニナの講義は其々に優秀な成績で士官学校を卒業した二人の学習能力を持ってしても理解出来ないほど難解且つ熾烈を極めた。ブリーフィングルームのホワイトボードに書き連ねられる大量の数式と対応するコンピューター言語とそれに付随する操作説明。技術主任としてオペレーションシステムの内容を完全に把握しているニナにしか出来ない講義ではあったが、それをこの場で把握しろと言われた所でパイロットである二人には無理な相談であった。
 モビルスーツの動作はOSに予め組み込まれた動作パターンによって制御されている。一例を上げるならば、火器管制をアクティブにすれば正面のモニターに照準用のレティクルが表示されるが、その時には火器を握った手が自動的に上がるといった具合だ。機能の強化によって煩雑になるパイロットの手順の負担を少しでも軽減する為のプログラムではあったが逆にその事はパイロットの操作の独創力を奪う事になる、と講義を始める前に教鞭を取ったニナは言った。故に今回のニナの講義はオペレーションシステムを切った場合での操作手順の説明となった訳だが ―― 。
「 ―― 大体さぁ、非現実的だと思わない? 今のOSには“マニュアル”が存在しないんだよ? それなのにわざわざマニュアル状態を仮定したモビルスーツの操作説明をされても、ねえ。足元の石ころ一つ拾うのに両手両足ばたばたさせて操作しなきゃなんないなんてカッコ悪いったら」
「ん? ああ …… 」
 アデリアのぼやきに上の空で返すマークスと言えば目の前にある食事に手も付けずにしきりに両手を動かしている。見るからに落ち着きの無い ―― 自分の話に全く感心の無い態度を取った事も気に入らない ―― マークスの膝をむっとしたアデリアの爪先がテーブルの影で蹴り上げた。
「痛ったっ! 何するんだアデリア。仮にも上官だぞ、俺は」
「こんな時だけ上官風吹かさないでよっ。マークスこそ何? あたしの話を今日はちっとも聞いてないじゃないっ。士官学校の主席様ってそんなに落ち着きがなければ取れやしないって事でも言いたい訳? 」
「あ、これか」
 アデリアの怒りの原因が自分の手の動きにあると知ったマークスは軽く笑った。本来ならば部下であるアデリアの取った態度の対して何らかの叱責を与えても憚られる事は無い立場のマークスではあったが一度もアデリアに対してそんな素振りを見せた事は無い。特徴的な左右の瞳がアデリアのむくれた顔を眺めて言った。
「これは今日の講義とは関係ないよ、俺の癖みたいな物。それに主席を取ったのは結果論だよ。皆からのいじめに対抗する為に、仕方なく」
 そう言いながら何事も無かったかの様に食事を再開するマークスが赤ワインで柔らかく煮込まれた野ウサギの腿肉をフォークで突き刺して口に運ぶ。口の中でほぐれていく肉の繊維と染み出す旨味に顔を綻ばせながら口を動かすマークスを見て、アデリアが呟いた。
「 …… ごめん、マークス。言い過ぎた」
「いいよ、アデリアの話を聞いてない俺も悪い。 …… で、何だっけ? マニュアル操作が非現実的だって? 」
 尋ねるマークスの目の前でアデリアが手の中のフォークを指揮者のタクトの様に振り回す。
「そおよぉ。デフォルトで設定された動作パターンが720種類、そこに普段の演習の自律学習モードで認識されるパイロット独自の動作パターンが加われば戦闘行動には何の支障も無い筈よ。なのに何で今更そんな七面倒臭い事を ―― 」
「でも、俺達はキース隊長に負けた。それも『俺のザク』に初めて乗った隊長に、だ」
 事の発端は全てマークスにある。賭けに負けた代償の延長戦を戦ったアデリアに向ってその結末をまるで他人事の様に語るマークス、無責任な物言いにアデリアが歯をむき出してその顔を睨み付けた。怒った顔でも愛らしさが損なわれる事の無いアデリアの顔を笑いながら見詰めるマークスが言葉を続けた。
「そっか、アデリアは見てないからな。 …… ザクのクロスステップって見た事あるか? 」

 マークスが尋ねたその言葉の意味がいかに非現実的な物であるかという事はモビルスーツに乗った事のある者にしか分からない。重い上半身を支えるために作られた股関節のジョイントは極めて頑丈で、しかも破損を防ぐために可動域を著しく制限されている。機動の際に動作するモーターは四基、アクチュエーターはビルの柱のような太さの物が八本繋がれているがそれは両足を動かす事の為に置かれていると同時に、限界以上の動作範囲を超えないように置かれたリミッターとしての役割を果たす。オートバランサーという物が作られた経緯も元はバランスを崩したモビルスーツが態勢を立て直そうとして無理な機動をする事によって、関節部の致命的な破損を引き起こす事を防ぐ為に作られたものだとアデリアは聞いている。
 自らバランスを崩そうとすればすぐさまその機構が働いてパイロットの手からコントロールを奪い取る仕掛けはいかにも傲慢ではあるがこれによってモビルスーツの自損事故は一年戦争時の100分の1まで減少し、連邦軍の懐から無駄な出費を防ぐ事に成功した。今では標準装備となったきらいのあるこれらは運用の為になくてはならない物であり、それを技術部のトップが否定するという講義を受けたアデリアが逆否定の立場を取るのは当然のことだ。
 だがマークスはキースの乗ったザクが目の前で自らバランスを崩すような動きで近距離からの銃撃を躱したと言っている。当然自機の自動制御の類はキャンセルされていたに違いない、しかしその動きを再現する為にどれだけの操作と神経を費やさなくてはならないのだろう?
 宙を引っ掻いていたアデリアのフォークがあらぬ方向でじっと止まる、やがてゆっくりと手をおろした彼女は眉根を寄せて疑いの眼差しをマークスへと向けた。
「 …… ほんとに? 」
 軽く頷きながらマークスがトレイを持ち上げて、隅に置かれたバニラのムースをアデリアのトレイへと流し込んだ。どうやら今日一日自分につき合せた事の詫びのつもりらしい。
「あれが多分OS抜きのマニュアルでしかできない事なんだと思う。俺たちと隊長の違いってそこなんじゃないかな? 俺たちが士官学校に入学した時には既にこの機構がモビルスーツに採用されていた、自転車の練習に使う補助輪みたいに。でもその頃隊長は実戦の現場でそういう便利な物がないモビルスーツで戦っていた、だからそういう無茶ができる」
「で、あたし達にもそれをやれってニナさんは言いたい訳? 」
「出来なきゃ、俺達は自分も守れない。隊長も死ぬ。 …… そういう事だよ」
 モウラが口にした危惧を反芻してそう結論付けるマークス、やれやれと諦めのため息をひとつ吐いて観念したアデリアがようやくトレーの中の野ウサギの赤ワイン煮込みに手を付けた。

 カリフォルニア州周辺は世界でも有数のブドウの産地として知られている。アイランド・イース落着による被災を免れたブドウ畑は現在でもワインの原料となる良質のブドウを産出し続け、その恩恵はこのオークリー基地にも届いていた。ピノ・ノワール種で作られるブルゴーニュワインに似た赤ワインは常に地下の倉庫に保管されており、野ウサギの煮込みには必ずといっていいほどこのワインが、惜しむ事無く投入される。
 赴任当初には言葉だけでも気分を悪くしていたアデリアだったが、意を決して ―― マークスの強い勧めもあった ―― 一口口に入れた途端にたちまちこの料理の虜になった。野趣溢れる野ウサギの風味とワインのコクが口の中で渾然一体となる瞬間は筆舌に尽くしがたく、今まで自分が食べたどの料理にも無い陶酔感がある。
 もっともそれは一目でコックとは思えないほどの上背と体格を持ち、豪快な笑い声で知られる巨漢のコック長が持つ繊細な業の賜物だという事に二度驚きはしたのだが。
 肉を切り分けて ―― ナイフ等必要無い ―― 口に入れた途端にアデリアに浮かぶ至福の顔は子供の様に可愛らしい。
「 …… これを水で流し込まなきゃいけない自分の立場に罪悪感を覚えるわ。ほんと、グレゴリーさんていい腕よね」
「全くだ。いろんな基地を回ってきたけど、ここの食堂だけは超一流だ。民間人だって聞いたけど、どこの店にいた人なんだろう? 」
「楽しそうだね、二人とも」
 穏やかな声は二人の会話の間に割り込んできても何の違和感も与えない、食事へと神経を集中していた二人がふっと顔を上げるとアデリアの直ぐ傍に眼鏡を掛けた男がにこやかな笑顔を携えていた。面識のあるアデリアが笑いながら片手を上げて東洋人の顔立ちを持つその男と挨拶を交わす。
「いいタイミングだわ、チェン。もうちょっとで食べ終わるから隣に座って待っててくれる? 」
 空いているフォークの先でちょんちょんと自分の隣を指すアデリア、行儀の悪さに一言物申そうかと口を開きかけたマークスの機先を制してチェンは右手を差し出した。
「初めまして、マークス軍曹。自分は司令部付きのシステムエンジニア、ルオ・チェンと言います。アデリアからお噂はかねがね」
 馴れ馴れしくアデリアの隣へとさも当然といった風情で腰を下ろすチェンを複雑な心境で、しかしその事はおくびも見せずに笑顔で握手を交わす。技術職の人間が漂わせる独特の線の細さは隠し切れないが、それでも何処と無く人懐っこい笑顔と声音の柔らかさはマークスの心中にある警戒心を解くには十分だった。なんの遠慮もなくアデリアの隣に座った事だけを除いては。
「それで? 今日ここに僕が呼び出されたのはどういうご用件かな、アデリア姫? 」
 
 まあ、確かに傍から見ればアデリアの容姿はそこいらの女の子よりは抜きん出ているとは思うのだが、その内面を深く知るマークスの口からは思わず疑問符が飛び出した。
「姫、だって? 」
五月蝿うっさい、マークス。 …… チェン、コウ・ウラキ予備役伍長って知ってる? 」
 二人分のデザートをせっせと口に運びながらアデリアが尋ねる。何の変哲も無いバニラムースなのだが手作りはやはり美味しい、知らずの内に綻ぶアデリアの顔を眺めながらチェンが答えた。
「ああ、遭った事は無いけどデータと噂だけは。で、その人がどうしたの? パーソナルデータの閲覧なら管理部を通せば演習記録以外の物が手に入るけど」
「演習記録以外? 何で演習記録だけが手に入らないの? 」
 パーソナルデータとは個人の戦闘能力を数値化して記録した物で、その中でも特に重視される物が演習時の戦闘記録である。有事の際に借り出される非常勤の予備役兵のデータが閲覧出来無いと言う事はそれぞれにどれだけの能力やどういう適性があるのかも分からないという話で、それは小隊編成時の際に著しい障害になりかねない。長距離狙撃に適性のある兵士に白兵戦を要求しても十分な戦果は得られないからだ。
「さあ、そこまでは僕にも。でも何人か予備役登録の人がいるけど皆同じ扱いだよ? 閲覧には司令の許可が必要。ま、穿った見方をすれば『そんな者この基地には必要無い』って事なんじゃない? 」
「ふーん、まあいいわ。で、」
 突然前屈みになってチェンの方へと体を寄せるアデリア。チェンの体が彼女の動きに合わせて微かに揺れた。
「そのウラキ伍長なんだけど、軍歴を調べて欲しいの。軍に入隊時から現在に到るまでに参加した作戦やら行事やらイベントやらを詳しく、全部」
 周囲に聞えない様に小声で話すアデリアの顔をほんの少しの猜疑心と大いな好奇心で見詰めるチェン。近づく二人の顔を正面からじっと眺めて手を組んだマークスの顔へとちらりと視線を向けたチェンがそのままの状態でアデリアに訪ねた。
「調べるのはお安い御用だけど、それは僕の前で腕を組んで座ってる君の上官の許可を得ての事だよね? 」
「心配には及びません。自分が許可しました」
 二人にやっと届くような小さな声でそう言ったのは、周囲に聞こえないように話をする二人への気遣いだ。小さく頷くマークスの顔を少しの間眺めていたチェンは、アデリアの方へと向けていた体をきちんとマークスの方へと向けて座り直した。
「了解しました、軍曹殿。非合法ではありますが上官からの正式なご依頼と言うのであれば断る事は出来ません。近日中に結果を軍曹の元へとお持ちします」
「なによ、頼んだのはあたしじゃない。何でマークスの所に持ってくのよ? 」
 届け先の突然の変更に憤った依頼主が軽く抗議の声を上げた。眉を吊り上げてチェンの横顔を睨むアデリアに向かって、チェンはウィンクをしながら横目で答える。
「どっちに届けても同じことだろ? 軍曹とアデリアはパートナーなんだから二人で一緒に見ればいいじゃない。それにさ ―― 」
 不意にチェンの上体がアデリアへと傾いた。かざした手をアデリアの耳に被せて、正面に座るマークスには絶対聞こえないようにチェンは呟いた。
「 ” ―― 二人だけの秘密が出来るなんて、アデリアにはいいチャンスじゃないか ” 」

 ぶん、と後ろを振り返るアデリアの顔は火を吹きかねないほど真っ赤に染まっている。突然の行動に驚いたマークスがアデリアを気遣うように声をかけた。
「お、おい、アデリア。どうしたんだよいきなり? 」
「ご、ごめん。ちょ、ちょっとムースが喉につかえて ―― 」
 わざとらしく咳き込むアデリアを横目にチェンが如何にも愉快だと言わんばかりの視線を投げ掛け、チェンの顔をものすごい目で睨み付けるアデリア。何事かと呆気に取られて二人を見つめるマークスを尻目にチェンが薄笑いを浮かべたまま腰を上げた。
「じゃあ、僕はこの辺で失礼します。 ―― あ、アデリア。この前の儲けがあるから今回の代金はロハでいいよ」
 チェンが投げ掛けた言葉に肩をビクっと震わせて咳込みをやめるアデリア。連邦士官としては決して聞き捨てならない単語の存在を耳に止めたマークスがにこやかに笑うチェンに向かって尋ねた。
「儲け? 代金、ですか? 不躾ですが連邦士官の副業は軍法によって禁止されています。伍長がそれに違反をしているというのなら、この話は ―― 」
「残念ですが軍曹、その条項は既に改定されています。今は平時で不景気ですから兵士に支給される給与水準も年々減りつつある、ご自身の明細をご覧になった事は? 」
 やり返されたマークスが思わず口ごもった。滅多なことでお金を使わない ―― 使う暇もない ―― マークスが明細書の封も切らずにゴミ箱へと投げ込んでいる事をチェンはアデリアから聞いていた。「そういう奴だからいつか私がしっかり管理してやンないとだめなのよ」と言うアデリアの愚痴も一緒に。
「上限は税法上の関係で厳しく定められてはいますが、今はむしろ連邦軍でも奨励されている位です。もちろん稼ぐにはそれなりのリスクと才能を必要とされますが、伍長には幸いにもそれがあります」
 そう言うとチェンは胸ポケットから一枚の写真を取り出してマークスへと差し出した。裏返しに手渡された紙を手にとってめくろうとするマークスの手を、何かに思い当たったアデリアの引き吊った目が捉えた。
「 …… これがその証拠です。よろしかったら差し上げますよ」

 これに類する破壊力を持つ兵装を彼は知らない。一目見た途端に心臓は激しく高鳴り喉からせり上がりそうになる、コックピットのロックオン警報が突然鳴り響こうともこれほどの緊張や興奮を得ることはない。
 真っ赤な顔で食い入るように写真を見つめるマークスの変化を目の当たりにしたアデリアが瞬時に固まった。彼女にはマークスが見つめている物がどんな代物かという事を知っている。
「 …… こ、これは ―― 」
 そこに写っているのはアデリアに間違いない。しかし着衣はマークスが今まで目にした事のない程扇情的な物だった。胸元に大きく描かれた『HOOTERS』のロゴとピチピチのオレンジのホットパンツから伸びだした白い太もも、恥ずかしそうな顔でイメージガールのようなポーズで写る彼女は一瞬でマークスの網膜に焼き付いたまま離れようとはしない。
「きゃあっっ!! 」
 やっと事態を飲み込んだアデリアが食堂全体に響き渡る叫び声を上げて飛び上がり、鳶か鷹の勢いでマークスの手から写真を毟り取った。あまりの声に食堂に居合わせた全員が何事かと三人へと視線を向けて、事の経緯を知る為に沈黙する食堂の空間の中をアデリアの震える声が飛び回った。
「な、ななな、何で、あんたがこっ、これ、これ ―― 」
 正常に作動しなくなった言語野をフルに活用しても尚、言葉にならない台詞をそこいら中にばらまくアデリアに向ってチェンがにこりと笑った。
「まだあるよ。この写真では儲けさせて貰ったから大事に取ってあるんだ。今までのデータも全部。 …… 何なら軍曹に今までのも全部見てもらって ―― 」
「消しなさいよっ! 消さないって言うんなら今からあんたの部屋に行ってご自慢のサーバーごとぶっ壊すわよっ! 」
「どうぞどうぞ。だってデータの保管場所は此処じゃ無いもの。もっと意外な場所に隠してあるから、探しても無駄だよ。」
 そう言い残して手だけを振って食堂を後にするチェンの後姿をアデリアが真っ赤な顔で歯軋りをしながら睨み付けて見送る。羞恥と怒りでわなわなと震える肩を真っ赤な顔で見つめていたマークスが声を掛けた。
「な、なあアデリア。さっきの写真なんだけど ―― 」
「は、はひっ!? な、何でしょう? 」
 引き攣った声で返事をしながら思わず敬語を使って振り返るアデリアに向って、伏目がちに視線を落としたマークスが尋ねた。
「お、お前さあ。そ、その ―― 」

 や、やばいっ。心臓壊れちゃうかもっ!
 い、いやちょっと落ち着けあたし。こ、こういう時はさっきニナさんから聞いたモビルスーツの運用方法を思い出せばって ―― うわあ、全っ然思い出せないじゃん!?
 大体マークスもマークスよ、あたしに写真の何を聞こうっての? そりゃあちょっとは売れたしあたしも少しは自信がない訳じゃないけど、それでもそんな真っ赤な顔してあたしに聞く事ないじゃん! これじゃああたしってばどんな顔してマークスに答えりゃいいっての!? 
 もー最悪っ! こんなンがあたしとマークスの思い出になっちゃうなんて一生の不覚なんてモンじゃない、どーすりゃいいのよ、あたしっ!?

「 ―― 副業って、フーターズで働いてるって事なのか? 」

 は?

 全く予期してなかったマークスの言葉でアデリアの熱が一気に氷点下まで下降して、次の瞬間には別の所から火の手を上げた。恥ずかしさの影で蹲っていた淡い期待は ―― どんな褒め言葉でもよかったのに ―― 上倍の怒りとなって心の中を吹き荒れる。キッと睨みつけたアデリアの視線の先でその対象となったマークスは、割と気の利いたセリフでこの困難な状況を打破できたと一人悦に入っている。そのすっとぼけた顔に向かってアデリアは心の中で罵声を浴びせた。

 この、鈍感野郎ォっ!

「? アデリア、どうした? 俺がお前に何か ―― 」
 アデリアの表情を眺めていたマークスが慌てて尋ねた。彼にしてみればてっきりアデリアがいつものノリで笑いながら「ばっかじゃないの、そんな暇お互いにあるわけないじゃん」と返してくる事を期待していたのだ。しかしマークスの目の前で仁王立ちになった彼女の背中からは明らかに怒りのオーラが広がっている。言葉を続けてなんとか取り繕おうとしたマークスの声を制するようにアデリアが怒鳴った。
「 …… バカッッ!! 」
 
 踵を返して足早に食堂の入口へと歩き去るアデリアの背中を何が起こったかも分からずにただ呆然と見送るマークスを、自体の決着を見守った観衆の喧騒が取り囲んだ。いかにも気まずい雰囲気の中でひとり取り残されたマークスは二人分のトレイを重ねると、そそくさと立ち上がって返却口へと足を向ける。
 自分の何が悪かったのかと首を傾げながらトレイをステンレスの台へと置こうとしたマークスの前に真っ白な壁が現れる。気がついたマークスが見上げるとそこには腕組みをしたまま神妙な面持ちで彼の顔を見下ろす大男が立っていた。口を真一文字に引き締めたまま何かを言いたげに瞳を向けるグレゴリーに向かってマークスは、おそるおそるその目の意味を尋ねてみた。
「ぐ、グレゴリーさん。 …… 何か? 」
「 ―― ばーか」
 言葉の内容とは裏腹に彼の鈍感さを哀れむ様な視線を向けたグレゴリーが、マークスの手から直接食器を受取ってシンクの中へと放り投げた。



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