春の休日、そして昼下がりである衛宮邸は穏やかであった。まろやかな時の推移と、外から差し込む心地よい日差しが互いに交わり、安息を生む。
休日はいつも周りに振り回されがちになる衛宮士郎だが、本日に限っては予定が入らなかった様子であり、居間にて座布団を枕に昼寝をしていた。くつろぐ士郎を通りすがりに見かけた藤ねえも、彼の怠惰さに便乗して近くに座り、部屋の時間を共有しだす。居間にいるのは二人だけだった。
暇つぶしがてらか、藤ねえはテーブルの上の雑誌に目を通していた。"素敵なウェンディングは春に訪れる"というキャッチコピーがそれの表紙に記されている。しばらく無言で読み耽っていたが、やがて飽きを主張するように片腕を掲げて伸びをし、雑誌を閉じて元の位置に放る。
「士郎、結婚しよー」
「ああ、いいよ」
士郎への振り向きざまに、普段通りのごろごろした雰囲気を纏いつつ、藤ねえは言った。気負いなく言われたものなので、士郎もまた気楽に返事をする。重大なことを言われている気がするな? と、ひとたび疑問に思う士郎だが、春の陽気は疑念の芽生えを封じ込めてしまい、なかなか事の本質にたどり着けない。
"あ、藤ねえからプロポーズをされて、それを受け入れたんだ"とわかったときには、返事を撤回できないところにまで、会話の間が進行してしまっていた。が、それでもいいかと士郎は思った。ありがたさと嬉しさによる晴れ晴れとした情緒を抱き、彼は考えることを止め、再び浅い眠りに浸る。
「だっ、だめっ「駄目ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
そのとき、か細いが芯の通っている叫び声が居間の出入り口から発せられ、二人の交わした契りをいったん吹き飛ばした。衛宮邸の安らかな静けさをもなぎ払ったそれは、間桐桜によるものである。桜はそのまま居間に乗り込み、上半身を起こして戸惑う士郎の前に立ちはだかり、威圧した。
己の言葉を蹴散らされ、存在感すら隠されてしまったセイバーも、彼女に次いでそそくさと居間に足を踏み入れる。
「駄目ですっ、だめ! 駄目なんです! 若い二人には早すぎますっ」
体を硬直させて目を瞑り、早口でまくし立て、とにかく否定する桜だ。士郎は豆鉄砲で打たれる鳩である。加えてこの鳩は一回豆をぶつけられた程度では許されず、もはや浴びるように豆を喰らわされていた。
理不尽な責めつけに見舞われている士郎だが、傍で彼らを眺めているセイバーの表情は、彼に優しいものではない。いい薬だ、とでも言いかねないものだ。
「サクラの言うとおりです。それにタイガ、隙を見ての抜け駆けは公正ではありませんね。もっとも、ほいほいと承諾してしまうシロウもシロウです」
桜の横からぬっと出てきたセイバーが、彼女の勢いを借りて意見を告げる。そしてあてつけに士郎をなじるのであった。彼女たちの迫力に圧倒される藤ねえと士郎は、何も言えぬまましょんぼりしてしまう。
このまま何もしなければ二人の小言にまみれてしまうだろう。とはいえ行動したとしても、待ち受ける結果は小言によるさらなる災難だ。士郎は本日、二人の文句を受け入れる覚悟を決めた。
「セイバーさんの言うとおりです! ……いえ、どうしてセイバーさんは私の肩を持つんですか!?」
しかし、桜のボルテージは思わぬ方向に向けられていく。
「えっ? あなたの気持ちに共感しているからです、サクラ。シロウの軽率な行動によって引き起こされる物事の重大さを、当の本人はわかっていない。彼に反省を促すため、わざわざ口を酸っぱくして忠告してあげている所存です」
「セイバーさんは先輩のパートナーなんでしょう? つまりは親友です! 親友なら、先輩が誰と結婚しようが構わないではないですか!」
「えっ! そ、そのようなわけにはいきません!」
「何故ですか! セイバーさんは、異性として先輩を好んでいるわけではないのでしょう!?」
「どどどうしてそのようななことを尋ねるのですか」
「まさかセイバーさんも、先輩を狙っているんですか!」
ヒートした桜の前に、恥じらいやら正しさといった概念は通用しない。感情の昂った語気はセイバーを押しに押し、ついに彼女は何も言えなくなった。それも当然だ、激しく吹き荒れる熱風を前にしたら、誰だって喋れまい。一方で、熱風のために居間の気温が上がったせいだろう、藤ねえ以外の三人の顔が茹で上がる。
桜と士郎は俯くことで体の熱さをやり過ごす。彼らとは別に、"い、いえ、その"などと、否定の言葉を途切れ途切れに漏らすことで熱冷ましを試みているセイバーだが、彼女の額と頬は余計に赤らむだけだった。また、藤ねえはというと、なにやら意味ありげに頷いて感心している。
「ともかく、私たちにも結婚を申し込む権利はあるはずです!」
咳払いによって過剰に行き渡った熱を払い、セイバーは己のペースを取り戻す。
「なによりも。士郎の嫁たる者は、……私の場合は婿か。士郎の婿たる者は、誠実であり、公平でなければなりません。タイガがシロウにプロポーズを申し込むならば、私たちを納得させてから行うか、私たちもプロポーズを行う前提でやって貰います!」
騎士の誇りを思わせる勢いを帯び、セイバーは宣言した。いつの間にかセイバーの周りを囲み並んでいた三人は、剣のように鋭く、鞘の装飾のように美しい彼女の口弁に対して、賞賛の拍手を送る。侵害されている側の士郎すら拍手を送っているのだから不思議だ。
口弁の方向性こそ間違っている気はするが、些細なことだろう。
「衛宮くんは男性だから婿よね。婿と婿じゃあ結婚できないけどねー。それに、私がなるとしたら嫁だから、誠実じゃなくても、公平じゃなくてもいいのよね?」
途端、庭側の廊下から、重箱の隅をつつくような声が飛んできた。皆に褒められるがまま照れていたセイバーだが、発言を認めてから一転、身ごなしを警戒したものに移す。その声の持ち主であるあかいあくまの登場を用心しての行為であり、事実、遠坂凛はまもなく居間に姿を現した。セイバーの発する緊迫感は重みを増し、桜や士郎はもちろん、藤ねえにまで影響を及ぼし、身構えさせてしまう。
されども、凛は張り詰めた姿勢のセイバーを相手にせず、それどころか可愛げのある笑顔を全員に振り撒いた。場の空気を和ませようとしているのかもしれない。狙いがそれだとしたら凛の策は成功であり、緊張していたセイバーを一度唖然とさせる。圧力から解放された三人は一挙に肺の空気を吐き出し、また大きく吸う。
失礼な、とでも言いたげなセイバーをよそに、凛は彼女の背後に回り、目の前の肩を揉んだ。最初こそ驚きまごついていたセイバーだが、次第に体の力を抜いていき、笑みをこぼした。セイバーが笑うのに伴い、この場に居る全員もほっとする。
いびつな雰囲気だった居間だが、ようやくあるべき形を取り戻したのだった。
「ま、私としては、"誰が"衛宮くんに求婚しても構わないのだけれど。ね~? 私たちは既に、トクベツな関係を持っているものねえ?」
「と、遠坂っ、何を言っているんだ」
だがしかしあかいあくまは、己の功績のおかげで訪れた平和に、何を思ってか爆薬を放り込んだ。暖かに緩んでいた場の空気が、刃物で体を締め付けられるような凍てついたものへと変貌するのを、士郎は肌で感じる。
「あら、とぼけるつもり? 今はそれでも良いけど」
片手を耳の裏に置き、艶がかった黒髪をすいてから、
「いっちばん大切な場面では、……わかってるわよね」
彼女の口から出たのは士郎への脅し、そして他者に向けた事実上の宣戦布告である。余裕たっぷりに振舞うあくまだが、背後から鬼の気配がみなぎっているのを士郎は見逃していた。やはりあくまは悪魔であった。
「あはは。皆の気持ちはよくわかったから、士郎へのプロポーズはいったん見送るわー」
ここで藤ねえはすっと立ち上がり、両手を首の裏に当てて、気兼ねなく発言の撤回をした。表面では怒っているものの、内心は心細さでいっぱいである三人の不安を解消してあげる目的だろうか。
なんにせよ、ようやく災難から逃れられそうな士郎だが、しかし愛想笑いを浮かべてやり過ごすことはせず、藤ねえの行動に対して不満げである。いくら騒動の主軸となっている人物が波乱の種を引っ込めようとも、士郎の態度を目視する三人は警戒を解くわけにいかず、居間の空気は依然ひりついている。
「な、なんでさ」
「なんでって、士郎はこのまま結婚したいの?」
「したいというか、その、藤ねえの気持ちはどうなる。それに、藤ねえはなんで結婚しよーなんていったんだ」
ただでさえ鬼気迫る表情の三人だが、士郎が発言した直後、より凄みが増す。
「なんとなく。士郎ならなんて言ってくれるかなーって」
常人であれば一触即発の状況だが、そこは流石藤ねえである、士郎の戸惑いと三人の禍々しさを難なく乗り越える。首筋に置いた両手を腰の近くまで下ろし、次いでテーブルの上の雑誌へ近寄り、それを拾い上げた。雑誌の存在に初めて気が付いた三人は、それぞれの場所から雑誌の表紙を確認したあと、ほー、と感嘆を漏らす。
「タイガ。これの影響ですか」
「うふふ、ぐっときちゃうでしょ? 今思い出したんだけど、この雑誌、借り物なのよ。返さなくちゃ」
言い出しこそ謎めいた発言だったが、全体的には割合普通なことを呟きつつ、藤ねえは居間を後にした。去り際に至ってもまともである。現在の藤ねえは冬木の虎ではなく、恋愛に奥手な幼子を見守る教師なのかもしれない。
周りを騒がせこそしたものの、衛宮邸の名物は、通例よりも静かに去ったのだった。よって、騒動は治まったかのように見えた。
が、迫力の白・怨念の桃・両方を持ち合わせたあか、の三人組はまだ収まりがついていない様子である。
「さて。タイガの求婚が気まぐれだったとわかったところで、質問があります」
「奇遇、私もよ。二度と私たちをハラハラさせないために……、ね」
「同じく私も。観念してください、先輩」
それぞれが言いたいことのさわりだけ彼に伝えたあと、三人は息を揃えて、
「「「誰が本命なのか、はっきりさせなさい!」」」
「なんでさーーーーーー!!」
いつもと違った衛宮邸の昼下がりは、結局、いつも通りに騒がしく過ぎるのであった。