修学旅行が終わり、午前中に京都から帰ってきた私は、疲れを癒す間もなく自室でPCの置かれた机の前にかじりついていた。旅行中に撮り溜めていた盗撮映像のチェックである。自然と口元には気持ち悪い笑みが浮んでいた。球磨川さんの自宅の部屋から送られてくる映像と音声が、画面上に余すことなく投影される。大型のヘッドフォンを装着し、視線は様々な角度から撮影された複数のウィンドウを高速で行き来していた。
「あぁ……球磨川さん…」
視覚と聴覚をフル稼働させてPC内へと没入する。その緩みきった恍惚の表情は、普段の無愛想な私からは想像もつかないものだろう。堪えきれずに艶やかな吐息が漏れる。しかし、その至福のひとときは無遠慮に叩かれたノックの音で中断された。
「ったく、何だよ……」
上気した顔をそのままに、ヘッドフォンを外して部屋のドアを開ける。そこには、ネギと神楽坂の姿があった。……またかよ。一気に興奮が醒めた。おそらく厄介事だろう。何か話したそうな顔をしていたので、立ち話も何だし、二人を室内へと案内してやる。
「あの、千雨さんに相談があって……うわっ!?」
「ひっ!……こ、これはひどいわね」
部屋に入った途端、二人は顔を青ざめさせて口元を引き攣らせた。失礼なやつらだ。こんな素晴らしい空間は存在しないってのに。二人の反応の理由は、私の部屋の内装にあった。壁一面には球磨川さんの盗撮写真が隙間なく張り付けられており、家具にまでシールとして印刷したものが所狭しと密着していたのだから。ちなみに、身につけている部屋着はゴミ捨て場を漁って拾ってきた、球磨川さんのお下がりのスウェットである。これを着ているだけで、私は球磨川さんと一つになっている感覚が味わえるのだ。まさに楽園。同室のザジが滅多に部屋に帰ってこないからこそできることである。
「ま、他人に理解できるとは思わねーからいいけど。それで、いったい何の用なんだ?」
「そ、そうでした。僕、修学旅行ではあまり役に立たなかったので、修行しなきゃと思いまして」
私の言葉に、ネギが気を取り直したように答える。ふむ、と口に手を当てて考えるが、しかし私の元へ来た理由がよくわからない。
「それで、誰か魔法を教えてくれる師匠がいないかと、千雨さんに相談しようと思ったんです。他に魔法のことを相談できそうな人がいなかったので」
「そうなのよ。私たちって、他の魔法使いのこと全然知らないし」
はぁ、と溜息を吐いた。こいつら、勘違いしてやがるな。たしかにエヴァとはつるんでたけど、だからって魔法に詳しいわけじゃないのに……。ネギは学園の魔法先生や魔法生徒のことを知らされてないし、当てにできる人が少ないのは分かるけど。だからって私に聞くのはあまりにも筋違いだ。ま、相談を求められたなら乗ってやるのはやぶさかではない。
「あぁ~。高畑先生にでも頼んだらどうだ?旧知の仲なんだろ、師匠には打ってつけじゃないのか?」
「それは僕も考えたんですが……。タカミチは海外に出張したりで麻帆良にはあまり居ないので。それに、僕がこのクラスの担任になったのも、元はといえばタカミチが出張が多いからなんです」
「それじゃあ本末転倒ってことか」
それ以前に、ネギは知らないが、魔法を使えない高畑には魔法使いの師匠は務まらないだろう。いや、戦闘力を上げたいって意味なら役に立つか。
「じゃあ古菲はどうだ?中国拳法の腕は学園でも随一だし、担任だから教えてもらいやすいだろ」
ネギは少し考え込む素振りを見せたが、やはり却下された。
「うーん。たしかに目的は強くなることなんですけど……。魔法使いとしてはどうなんでしょう」
「じゃあ私がくーふぇに拳法教えてもらおうかな。部活やってないけど身体動かしたいし」
なぜか神楽坂の方が乗り気だった。部活でやれよと思ったが、別に私には関係ないからいいか。しかし、そうなると選択肢はほとんど限られてきたな。私の口から他の魔法使いについての情報を漏らしたくないし、エヴァはこの間までネギと敵対してたしな。
「学園長に師匠探してもらえよ。ここら一帯を統括してる魔法使いなんだろ?」
「そういえばそうね。近衛のおじいちゃんってイメージだったから忘れてたけど」
「はい!学園長に相談してみます。千雨さん、相談に乗ってくれてありがとうございました!」
そう言って二人は清々しい顔で部屋から去っていった。修行ねぇ……修学旅行では、私と別行動のときに敵の犬神とかいうガキと戦ったって話だけど。それで何か心境の変化でもあったのだろうか。相手を弱体化するという発想が第一に思いつく過負荷(マイナス)にとっては、自身の強化なんて発想はむしろ新鮮に感じていた。
それから数時間後、私とネギと神楽坂の三人は図書館島にいた。
「おい、どういうことだよ」
「はい。学園長に尋ねたんですが、この図書館島の地下で司書をしている人がいるそうです。その人が僕の魔法の師匠に相応しいだろうと」
「いや、だから!何で私が一緒に付いて行かなきゃなんねーんだよ!私はあんたの保護者かよ!」
たしかに形式上はネギと仮契約をした従者だけど!神楽坂はいいとして、私は同意してこのガキと契約したわけじゃねーんだぞ!
渋面を浮かべながら口を尖らせる。言われるがままに図書館島まで着いてきた私も私だけど……。それに、別に断る理由もないし構わないといえば構わないんだけど。しかし、ネギはすまなそうな声音で謝った。
「すみません。でも、僕が千雨さんの話をしたら、学園長が一緒に連れて行きなさいって」
「学園長が……?」
その言葉を聞いて、私は口の中に苦いものを感じた。小さく表情を歪めて舌打ちをする。学園長にマークされてしまったことに対して内心で反省せざるを得ない。
ここ最近、下手に動きすぎたか……。麻帆良の中では過負荷(マイナス)という存在はほとんど知られていないが、永い年月を生きるマクダウェルは知っていたし、おそらく学園長も知っているだろう。高畑は微妙なところだが。
しかし、それでも私が見逃されてきたのは、単純に学園で問題を起こしていないからだ。麻帆良の外ではともかく、学内ではマイナス性を抑えていたから無害と判断されていただけなのだ。敵対すれば脆弱な過負荷(マイナス)など簡単に排除されてしまうだろう。
「……マクダウェルが許されてるんだから、私も大丈夫なんだろうけどな」
小声でつぶやく。おそらくは様子見だろう。万年人手不足の麻帆良である。修学旅行の際には監視の目はなかったはず。だとすれば、ネギと絡ませて私の性質を見極めようとしているのかもしれないな。
「わかった。行くよ。さっさと案内してくれ」
「ありがとうございます!最下層までは直通路を使わせてもらえるそうです」
「それは助かるわね。図書館島の地下は罠だらけだったし」
そう言って神楽坂は安堵の溜息を吐いた。貴重な蔵書を守るため、図書館島の地下フロアには無数の罠が仕掛けられているのだ。とても私の身体能力で突破できるような容易い仕掛けではない。おかげで、いまだ私も地下フロアには足を踏み入れたことがなかった。
そして、学園長の計らいで最下層まで罠に遭遇することなく辿り着いた私たち。そこで見たものは、巨大なドラゴンの鎮座する広大な空間であった。幻想上の猛獣の迫力には、さすがの私も戦慄を抑えきれない。ひさしぶりに足の竦む感覚を覚えていた。これは番犬のようなもので、学園長の許可を持った私たちには無害だそうだが……。
ドラゴンの居る広場を抜けると、一瞬にして周囲が人の生活の気配のする空間へと変化した。西欧風の部屋のような。そこには、白いローブを全身に纏った男が静かに佇んでいた。
「こんにちは、みなさん。学園長から聞いていますよ。私はこの図書館島の司書を務めているアルビレオ・イマと言います」
爽やかな声音が響き渡る。どうやら、彼こそが目的の人物らしい。慌てて挨拶を返すネギに、私と神楽坂も続く。
「僕はネギ・スプリングフィールドと言います。学園長から紹介されて来ました」
「神楽坂明日菜です」
「……長谷川千雨です」
アルビレオと名乗った男は、私たちに視線を向けると面白そうに笑みを浮かべた……ように感じた。どういうことだ?正面に立っているのに、相手の内面が一切入ってこないのだ。私の脳内を最大級の警鐘が鳴り響く。
「ふふっ……ナギにそっくりですね。礼儀正しいところは似ても似つかないですが」
「えっ?もしかして、アルビレオさんは……」
「アルで結構ですよ。ナギもそう呼んでいました。あなたのお父さんと私は『紅き翼』のメンバーでしたから」
ネギの目が驚愕に見開かれる。『紅き翼』とは、ナギ・スプリングフィールドの率いた伝説の英雄達の名前なのだ。しかし、私にはそんな会話は耳に入っていなかった。目を凝らせば凝らすほど、逆に相手がぼやけるような、どうしてもアルビレオに意識をあわせることができない。
「長谷川千雨さんと言いましたか。失礼ですが、あなたが私を視認できないように魔法で介入させて頂きました。幻術での変装なら暴かれるのでしょうが、やはりあなた自身の意識を操作すれば過負荷(マイナス)は発動できないようですね」
「……あんた、私の過負荷(マイナス)を!?」
「それにしても恐ろしい過負荷(マイナス)ですね。魔法による精神防壁を完全に無視できるとは……。しかし逆に言えば、あなた自身も魔法に対する対抗手段はないということ」
駄目だ……。どうしても男を直視できない。霞がかったように焦点が合わせられないのだ。それによって、相手を視認するという過負荷(マイナス)発動のプロセスが満たせない。魔法の効果によって、私の過負荷(マイナス)の脆弱性が露呈されてしまったのだ。学園全域に張られている認識阻害結界程度ならまだしも、私個人の、しかもピンポイントで視覚に効果を集中されては対抗は難しい。
「あの~、何の話をしてるんですか?」
「いえいえ、お二人には関係の無い話ですよ。特にこの麻帆良ではね」
神楽坂の疑問に、男はパラパラと手に持った本のページをめくりながら答えた。こうなると、学園長に私の弱点が伝わっているのは間違いない。完全に首輪を付けられた形だ。過負荷(マイナス)の対策を取られてしまえば、私なんて所詮は一般人に過ぎないのだから。射殺すように男を睨みつけ、ギリッと悔しさに歯噛みする。そんな私に対して、男は飄々とした笑みを見せた。
「そんなに警戒しないでください。タカミチと違って、私は教員ではないのですから。別に更正させようなんて思っていませんよ」
その瞬間、ローブの中の顔が女のものに変化した。身長や体格も一回り縮んだように見える。いや、その顔は私のものと全く同じであった。思わず驚きの声を上げるネギたち。
「これが私のアーティファクト――『イノチノシヘン』。その効力は特定人物の身体能力と外見的特徴の再生。しかし……やはり過負荷(マイナス)の使用は不可のようですね。悪平等(かのじょ)たちのスキルと同様に」
悪平等(ノットイコール)まで把握してるのかよ。予想以上にこちらの事情に精通しているらしい。本来なら秘密のはずのアーティファクトの説明までしてくれるのは、単純に私が敵になり得ないからだろう。私との間にはそれほどに隔絶した実力差があった。
「過負荷(マイナス)が麻帆良に来るのは何人目でしょうか。かなりレアな事象なのですよ。ましてや、魔法使いの地である麻帆良で生まれた過負荷(マイナス)など、おそらくは史上初でしょう。あなたがどのようなマイナス成長を遂げるのか。とても興味深いですね」
私の顔をしたアルビレオは、口元を歪めて意地の悪そうな笑みを作った。話の流れが分からずに困惑した風なネギと神楽坂。しかし、私には目の前の男のこと少しだけ理解できたような気がした。敵対さえしなければ、この男は好奇心や楽しみを優先させるだろう。
「だけど、学園長はどう考えてるんだ?」
「あなたの過負荷(マイナス)への対策が通用することが確認できましたから。脅威なしとの判断をするでしょうね」
「そうかよ」
屈辱的な評価に私は唇を噛み締めながら短く答えた。話は終わったという風に、姿を元に戻すと、アルビレオはネギの方へと顔を向けた。
「それで、魔法の師匠を探しているということでしたね。どうですか?私の弟子になるというのは」
「え、いいんですか!?ありがとうございます!」
「ええ、時間だけは有り余っていますから。魔法の練習は異空間で行うことになるでしょうが」
瞳をキラキラと輝かせ、大喜びするネギ。父親であるナギ・スプリングフィールドの仲間である彼は、師匠としてはうってつけだろう。魔法学校以外では独学で学んできたネギは、師匠をもつことで飛躍的に実力を伸ばしていくはずだ。
強度を増していく彼らに対して、過負荷(マイナス)たる私にできるのは――