とある空き教室の一室。そこに、一人の少年が倒れていた。
「う、うぅん……ここは?」
「よお、起きたか?ネギ先生」
「……っ!千雨さん!?」
一瞬の沈黙。そして、私の顔を見るやいなや、ハッとした表情で飛び起きるネギ。慌てて周囲を見回すと、すでに空は薄紫に染まっている。時刻は夕方の五時。精神薄弱の状態で気絶してから、すでに数時間が経過していた。
「やめとけ。もう投票期間は終わってる。戦う理由なんてないだろ?」
杖を構えてこちらを睨みつけるネギに対して、両手を挙げて降参のポーズを取る。余裕の表情を浮かべて笑いかける。先ほど死の一歩手前まで追いやられた相手だが、もはやこのガキに脅威は無い。なぜなら――
「足が震えてるぜ」
「そ、そんなことは……」
青ざめた表情で膝をガクガクと震わせるネギ。視線すらまともに合わせられない。今にも逃げ出しそうなほどに、目の前の私に怯えていた。
――完全に心が折られている
「どうした?戦いたいなら、好きに襲い掛かっていいんだぜ?」
「う、うぅ……」
「ほら、早く来いよ」
無意識の内に一歩後退る。この世の地獄を前にしたかのような戦慄と、爬虫類の群れに投げ込まれたかのような嫌悪感が、瞳に色濃く映っていた。抵抗の意志など粉々に砕け散る。ニヤニヤと気持ち悪い笑みを作りながら、目の前の少年の恐怖の表情を楽しんでいたのだが、それは背後からの声によって中断させられた。
「子供をいじめるのは感心しないぜ」
「くくっ……悪い悪い。あんまりにも怯えるもんだからつい、ね」
ネギの背後に現れたのは長い白髪に白装束に身を包んだ女だった。突然、現れた人間に警戒感を表すネギ。しかし、その顔には私に相対していたときよりも、さらに深い恐怖が浮かび上がっていた。それもそのはず。彼女と、さらにその背後に無言で佇む彼こそが、球磨川さんに匹敵する絶対値を持つ過負荷(マイナス)なのだから。
「あなたは……」
「はじめまして、ネギくん。僕は安心院なじみ。親しみを込めて、安心院さんと呼びたまえ」
異様な雰囲気を漂わせる女に訝しげな視線を送るネギ。しかし、それを気にした風もなく、安心院さんは親しげに少年へと笑いかける。
「とても興味深い戦いだったぜ。特にあのオリジナル魔法は面白かった。精神の振れ幅を完全(ゼロ)に制御する『無の魔法』。ただ、あまりにも主人公的でなかったせいで、きみの主人公度が大幅に打ち消されるという結果になっちゃったみたいだけどね」
「主人公度……ですか?」
「ああ、本来なら千雨ちゃんがきみに勝つことは不可能だったはずなんだけどね。物語で例えるとわかりやすいかな。主人公って存在がいるだろう?まさにきみはそれだった。勝利という結果が確定している人間、とでも言うべきかな。三年前にもひとり見つけたんだけどね。本当に珍しいんだぜ?千年に一人のレベルの逸材が同じ時代に二人も同時に存在するなんて、純粋に驚きだよ」
――主人公
安心院さんの言うもう一人の主人公とは、黒神めだかのことだろう。世界が漫画であると仮定した場合の比喩だと言っていたが、要するに勝利を運命付けられた存在、ということらしい。敗北を運命付けられた球磨川さんとは対極の存在。そう考えれば理解しやすい。黒神めだかに会ったことはないが、球磨川さんの反対の人間ならば、その存在のデタラメさは想像できる。もちろん、想像を遥かに超えた異常度なんだろうが。
「主人公というのはわかりませんけど……。さっきの戦いを見ていたんですか?」
「まあね。光(プラス)でも闇(マイナス)でもない無(ゼロ)――それを体現したきみの魔法は確かに興味深かったけど、しかし、あまりにも反主人公的な魔法でありすぎた。これを、例えば千雨ちゃんあたりが使うのなら有効だったかもしれないけど、主人公が使うには向かないぜ」
「で、ですが……!」
過負荷(マイナス)の恐怖を克服するために、その魔法は必須だったのだろう。精神を制御することこそが本気のマイナスと戦うための最低条件だったはず。しかし、それでも精神を殺して機械的に身体を動かすのは悪手だった、と安心院さんは答えた。
「その考え方が間違ってるのさ。強さとか弱さじゃない。主人公は運命的に勝つことが決まってるんだよ」
「何を言って……。運命で勝敗が決まっているなんて、そんな話あるはずないでしょう」
やはりネギには受け入れがたい話だったらしく、うさん臭そうに眉根を寄せて口を尖らせた。そして、そんな反論を気にした風もなく、安心院さんは小さく溜息を吐く。
「それにしても残念だぜ。せっかく主人公を見つけたっていうのに、もはや再起不能にされちゃったなんてね……。そこまで心を折られたら、もう過負荷(マイナス)の相手はできないだろう?」
「……っ!?そ、そんなことは……」
「さっき千雨ちゃんに凄まれて顔面蒼白だったくせによく言うぜ。ま、それでなくとも今のきみからは主人公性がほとんど感じられないからさ。本当に残念だけど、諦めるとするよ。フラスコ計画に使うには最良の実験体だったのに」
……聞き捨てなら無い台詞があったような。
耳を疑ったのは人間を実験体呼ばわりしたことではない。この人外にとっては人間など取るに足らない物なんだろうし。気になったのは当然、主人公性の喪失についてだ。そんなことが有り得るのか?
「もう物語に必要とされなくなったのかもね。ま、そもそもスピンオフの外伝じゃあるまいし、同じ世界に主人公が二人も存在するなんておかしな話だったんだよ。球磨川くんの封印がもう少し早く解けていれば、きみにアドバイスしてやることもできたんだけどね」
「……さすがにそんな事態は考えたくないですね」
「ま、でも千雨ちゃん。きみという『負完全』の可能性を見られただけで良しとしておくぜ。それに、過性能(プラス)でも過負荷(マイナス)でもない『持たざるもの(ゼロ)』。結局は失敗したとはいえ、考え方自体は悪くない。今後の参考にさせてもらうぜ」
「あなたにとっては私達も等しく観察対象ですか……。っと、そろそろ集計結果が始まる頃ですね」
時計に視線をやると投票箱の回収からすでに数時間が経過していた。先ほど空繰が持ってきてくれたPCを開き、学園のHPへとアクセスする。開票結果はこの麻帆良全域に無数に設置されたテレビやPCのモニタに表示される訳だが、空き教室へと隠れている私達の周囲にはテレビが無かったのだ。それに対して安心院さんは無関心のようで――
「やはり、本当の主人公は彼女だったか」
そんな風に彼女は口元を歪め、冷たい声でつぶやいた。
――時刻は午後六時頃
学園祭も終わりに近付き、最終日の麻帆良はきらびやかな光に彩られている。私達の不吉な選挙活動の影響で例年ほどの活気はないが、それでも今年最大のお祭りは選挙とは無関係に行われ続けていた。そんな賑やかさと騒がしさに満ちた窓の外とは対照的に、この教室は緊張感に包まれていた。主にネギの。
「そんな怖い顔するなよ、ネギ先生。今更どうこうできるもんでもないし、落ち着いて結果を見ようぜ」
画面の向こうには選挙管理委員長の男の顔が映っていた。これより開票され、学園の支配者の発表となる。投票に勝利すれば、麻帆良に存在するすべての学校の生徒会業務を統括できるようになる。過負荷(マイナス)である私達が勝利すれば学園は負の巣窟に変貌するはずだ。その最悪の事態を想像して、ネギは今にも吐きそうなほどに胸を抑えて震えていた。
「そんなに怯えなくてもいいじゃないか。まだ結果は出ていないんだぜ?僕の端末の数だって所詮、比率では一割程度。大幅な投票率の低下を考えたとしても、まるで安心できない数字なんだからさ」
「そ、そうですね……。学園のみんなだって、投票なんてしないはずですから」
『端末』という意味は分かっていないのだろうが、それでも希望を見出したようで、土気色だった顔にわずかに色が戻ってきた。
「さてね、それはどうかな?ま、すぐに結果は分かるさ」
余裕ぶってはみたものの、正直なところ、自分達が勝てると断言することはできなかった。マクダウェルが投票所を守り通したことは朝倉から聞いていたが、得票数に関しては尋ねなかったからだ。発表を見れば十分だし、何より私のやるべきことはもう終わっている。
「ようやく始まるみたいだぜ。これほど選挙をこれほど楽しみにできるのは何十年ぶりかな」
安心院さんが嬉しそうにPCの画面を見つめる。私とネギも決着を前にして黙り込んだ。
「そ、それでは、これより開票結果についてお知らせします」
麻帆良大学の選挙管理委員長が画面中央の壇上に現れた。過負荷(マイナス)や魔法使いとは無関係の一般人だが、それでも今回の選挙の尋常ならざる雰囲気を感じており、わずかに声が震えていた。
「本日、行われました決戦投票の結果を発表致します。麻帆良女子中等部、男子高等部、聖ウルスラ女学院の連名による、その他の全校舎に対する不信任決議。その結果は――」
ゴクリと隣でネギが息を呑むのがわかった。先ほどまで外から響いていた喧騒が嘘のように静まり返っている。信任多数なら学園側、不信任ならばマイナスの勝利。その結果は――
「――信任98%、不信任2%!これにより!要請は棄却されました!」
「「やったああああああああ!」」
窓の外から響く大音量の歓声。空気の震え。怒号のように歓喜の叫びが麻帆良中を駆け巡る。隣に座るネギは緊張の糸が途切れたのか、ぺたりと緩んだ表情で背中から床へ倒れこんだ。
「……得票率が2%って、悪平等(ノットイコール)の連中はどうしたんだよ」
「決まってるだろう?ほぼ全員が反対票を投じたのさ。彼女達は僕の端末ではあるけれど、僕の意志に絶対服従なんかじゃ決してない。『自由であること』『僕である以前に自分であること』。それが僕の与えた最初の使命なんだから――」
安心院さんは肩を竦める。つまり人質など通じないということだ。
「とはいえ、ここまで圧倒的な票差になるとは思わなかったけどね。あれだけ脅されて、それでも信任に投票する生徒がこれほどいたなんて。はっきり言って予想以上だぜ」
敗北。
しかし、想像したほどの衝撃は受けなかった。策を練り、準備を整え、計画を遂行し、万全を尽くし、それでも及ばない。そんな敗北の予感は確かにあった。運命から敗北を決められているかのような、そんなマイナス思考が頭から離れなくなったのはいつからだろう。これが負完全に近づくということならば、球磨川さんの心中はいかほどのものか。世界で最も弱い生き物の気持ちなんて、この世の負の要素をすべて押し付けられるなんて、とても人間に耐えられるものじゃない。
「不可、ね……。負荷の行き過ぎた私達にはお似合いの結末だな」
小さく溜息を吐いた。心のどこかで確信していた。正攻法の勝負では負けるだろうと。だからこそ――
「皆様、これより理事長より挨拶がございます」
画面の向こうで、選挙管理委員長の言葉と共に理事長が壇上へと上っていた。好々爺然とした姿でマイクを手に取る。
「生徒諸君、学園祭は楽しんでおるかね?そんな中でも投票所に足を運んでくれた皆のことを、理事長として誇らしく思うぞい」
穏やかな声で全校生徒に向けて声を発する理事長。魔法使いであり、教育者でもある老人は、いつものように講和をはじめる。だが、私には一目瞭然。計画は成功した。
「選挙の結果はどうあれ、学園の未来を思案し、これだけ多くの生徒が投票したことはとても喜ばしいものじゃ。今後も麻帆良全体のために各々が尽力してもらいたい。そうすることで、この麻帆良学園都市はより住みよい街となることじゃろう。不信任を要請した三校の生徒会業務の代行については、後日、決定がなされるはずじゃ。じゃが、学園祭というめでたい席でもあるしの、難しい話はやめておこうかの」
「……理事長、ですよね?」
淡々と言葉を紡ぐ理事長。しかし、どこかに違和感を覚えたのかネギが小さく首を傾げた。安心院さんはニヤニヤと愉しげに口元を歪めている。私は画面上の理事長を指差し、醜悪に笑った。
「そうさ、私達が負けることなんて初めから分かっていた。投票でなんて勝てるはずがない。だからこそ正道ではなく外道。マイナスな策――勝敗なんて最初から度外視してたんだよ」
――老人の胸には一本のネジが突き刺さっていた。
「突然じゃが、重大な発表がある」
コホンと軽く咳払いし、一拍置いたあと、理事長はおごそかに口を開いた。
「本日より、わしは麻帆良学園理事長、ならびに関東魔法協会の代表の地位を辞することにした。ついては、全ての権限を彼――球磨川禊くんに譲ることとする」
一瞬、空気が淀む。しかし、そのどよめきは怒号や絶叫には変化しなかった。壇上に現れた男子生徒、そのあまりのおぞましさに沈黙させられたのだ。埒外なまでの負の容量に、画面越しでさえ、底なしの崖下を眺めるかのような戦慄を強制される。
『やあ、みんな初めまして!近衛理事長の隠し子の球磨川禊ですっ!』
『な~んてね。嘘嘘っ!まさか騙された馬鹿はいないよね』
重苦しい沈黙。対照的に無邪気にしゃべる球磨川さんの姿。得体の知れない理解不能さ、犬の死体を素手で触れたような気持ち悪さを見る者すべての心に叩きつける。
『ま、いいや。本日現時刻より、麻帆良学園理事長および関東魔法協会の代表になりました球磨川禊です!よろしくね!』
軽く手を挙げて挨拶する。だが、その親しげな姿ですら、鳥肌の立つほどの寒気しか与えない。
『せっかくだし、マニフェストを発表しようかな。えっとね――「魔法使い、および気の使い手の抹殺」!を、学園の皆さんに約束します!マニフェストを守らない政治家は最低だけど、僕は政策は必ず守りますので安心してください!』
隣のネギの顔が異様なほどに蒼白になる。過負荷(マイナス)への恐怖(トラウマ)で嘔吐せんばかりに口元を抑えていた。
『学園が住みよい場所になるように頑張りますので、皆さんご協力をお願いします!』
「こ、これが……千雨さんの計画、なんですか?」
「ああ、そうさ。学園を巻き込んだ決戦投票も、超の魔法世界に対するクーデターも、ただの視線を逸らすための目くらましに過ぎない。武道大会の目的だって、――ただ、球磨川さんの死亡を知らせて警戒を緩めること」
ただ、それだけ。命を賭けた戦いの目的は、ただの陽動だった。
球磨川さんの取り戻した、禁断(はじまり)の過負荷(マイナス)――『却本作り(ブックメーカー)』
その効果は『対象を球磨川さんと全く同じにすること』。つまり、この世の負の要素をすべて押し付けられた人間の精神性を共有することになるのだ。その絶望は強者(プラス)にはとても耐えられるものではない。長年の経験を積んだ理事長の心ですら、呆気なくへし折られていた。
両手を左右に大きく広げる。その顔には気持ち悪い笑みが浮かんでいた。
「私達の策はただ一点、大将首狙い。不意討ち、闇討ち、騙まし討ち。球磨川さんが『却本作り(ブックメーカー)』で理事長の心を折り、あとは書類で申請と承認を受理させれば成功だ。陽動が必要なのはそのためだけ。私達と超の計画は、学園長の周囲の守りを薄くし、どさくさ紛れに書類チェックをすり抜けさせた。種明かしは以上だぜ。賞賛の拍手はあるかい?」
パチパチ、と一人分の拍手の音が響く。
「見事だよ。勝敗を度外視した策といい、奇襲一発でひっくり返すやり方といい。楽しませてもらったよ」
「そうですか。だったら、あとで赤先輩を呼んでもらっていいですか?ネギにぶち込まれた魔法のせいで、全身の骨が折れてまして。治療してもらいたいんですよ」
「そのくらいならお安いご用さ。これから千雨ちゃんは仕事が増えるだろうからね。――球磨川くんの望む学園にするために、さ」
ネギは目を伏せて動かない。この先の絶望的な未来を想像して、俯き加減で口元を固く閉じた。
夕闇に染まった周囲が一際鮮やかな光に彩られた。ふと、窓の外を覗き込む。夜空を見上げると、そこには巨大な魔法陣が描かれていた。
「どうやら超の計画も完遂したみてーだな」
――この日、世界は塗り替わり、麻帆良学園は終わった。