目を覚ました私の視界を埋め尽くしてたのは真っ白な天井だった。
「知らない天井だ……じゃなくて。ここは保健室か……?」
なぜか私はベッドの上に横たわっていた。身体に掛かっていた布団をどける。首を振って周囲を見回そうとしたところで――
「千雨さん!目を覚ましたんですか!大丈夫ですか!無事ですか!痛いところはありませんか!」
「うおっ!……さ、桜咲か」
タックルするように抱き着いてきたのは、泣きそうな顔をした桜咲だった。起こした上半身が再びベッドへと押し戻される。大声で叫びながら私の胸の中に顔を埋めていた。
「ええと……私って、何でここで寝てるんだ?」
記憶を辿ってみるが、どうにも意識を失う前のことが思い出せない。窓から入る光を見るに、どうやら昼頃のようだけど。
「……覚えてないんですか?昨日の放課後に、学園側の襲撃を受けたと聞いたのですが。今はちょうど昼休みになったところです」
「襲撃?いや、それよりも半日以上眠ってたのか……」
「申し訳ありません。やはり千雨さんの護衛を離れるべきではありませんでした。球磨川先輩に頼んだのが間違いでした。……あの役立たずが」
ギリッと憎々しげに歯軋りをする桜咲。地の底から聞こえてくるような呪詛の声。その凶々しい雰囲気にゾクリと背筋に寒気が走った。
「おい、それよりもだ。さっさと状況説明と今後の展開について話せ」
「マクダウェル……」
慌てて振り向く。声を掛けてきたのはマクダウェルだった。保健室の隅のパイプ椅子に座ったまま、こちらへ鋭いまなざしを向けていた。反射的に身体が竦む。猛禽類を思わせる捕食者の瞳に、のどの奥が詰まったように痙攣した。
「ん?どうした……様子がおかしいようだが」
「そうですね。顔が青いですよ?まさか奴らに何かされたんですか!?」
詰め寄ってくる桜咲に思わずたじろいでしまう。記憶にある二人とは受ける感覚がまるで違う。異界に閉じ込められたかのような形容しがたい不気味さを感じていた。そんな様子を不審に思ったのか、マクダウェルが私の頭に手を伸ばしてきた。軽く置かれた手にゾワリと全身の皮膚に鳥肌が立つ。
「……何を怯えている。いや、調べれば分かることか」
脳内に侵入する異物感。次第にマクダウェルの表情が曇っていく。そして、数分ほどそんな状態が続き、頭を振ってやれやれといった風につぶやいた。
「やられたな……。人格を書き換えられている。ここまで精密に、となるとジジイの仕業だろう」
「人格を書き換え……。学園側に洗脳されたということですか!?」
「おい、記憶を失う前のことを思い出してみろ。できるか?」
「はっ?何を言って……」
何を訳の分からないことを……。とはいえ、マクダウェルに逆らうのはマズイと本能的に感じていた。仕方なく気を失う前のことを思い出してみる。
ええと、たしか生徒会室で会議を行ったんだよな……。会議の内容は麻帆良学園を滅ぼすための計画。……なぜあんなイカレタ話をしていたんだ?自分でも信じられない。まさか、あんな吐き気を催すような計画を練っていただなんて。
「どうですか、千雨さん?」
心配そうに見つめる桜咲のその瞳からは、狂気と気持ち悪さしか感じ取れなかった。目を背けるように視線を布団へと動かす。その後は思い出せない。いや、そんなことはどうでもいいか。思い出せないからって、実際に問題が起きてるわけでもないしな。
「いや、そんなことより!何をやってんだよ、あんな計画を立てて!」
「ふむ……計画とは、学園を崩壊させる例の件か?」
「そうだ!私もどうしてあんなのに乗ったのか覚えてねーけど、何考えてやがんだ!頭イカれてんぜ!」
そうだ。麻帆良の学生すべてを破滅させるための計画だなんて、完全に狂っている。怒りを込めて睨みつけると、桜咲は困惑したような、マクダウェルは納得したような表情を浮かべた。
「だが、その計画を始めたのは貴様だぞ?その辺りはどう思っているのだ」
「私のことは関係ねーだろ!今はあんたらのことを……!」
「なるほど、自身の記憶の齟齬を疑問にも思わんか。思考誘導も完璧とみえる。正攻法での回復は難しいな」
マクダウェルは私から視線を外すと、あごに手を当てて考え込むような仕草を見せた。桜咲が泣きそうな顔で少女に詰め寄る。私はというと、急に話を終えられ、呆然と成り行きを見守るだけだった。
「これは……。エヴァンジェリンさん、どうにかできませんか!?」
「これだけ精密かつ強力に精神操作を掛けられていてはな。残念だが、魔力を封じられている私には手を出せん。精神操作の類の解呪は専門外だしな」
「くっ……私も戦闘用以外の術式に関しては人並み程度にしか。魔法の技量においては、学園長とは比べ物になりませんし」
「そもそも、精神に影響する魔法は高難度。未熟な術者の使用はご法度だ。それに、解呪ともなれば熟練の魔法使いか、専用のアーティファクトがなければ困難を極める。天然で認識阻害に抵抗力のあるこいつなら尚更だ」
腕を組んで答えるマクダウェル。しかし、その顔は苦々しく歪んでいる。桜咲の方はというと、刀を携えながら視覚化しそうなほどに濃密な死の気配を放っており、反射的に悲鳴を上げそうになるのを口元を手で押さえて飲み込んだほどだ。暗く沈んだ声が保健室に響く。
「……殺す。千雨さんにこんな真似をした連中は全員殺す。生徒も教師も男も女も大人も子供も魔法使いも一般人も関係者も無関係者も――殺し尽くしてやる」
「ひいっ!」
「落ち着け。いや、殺意と憎悪は忘れなくていいが、無謀に暴れるのはよせ。貴様ひとりではただ潰されるのがオチだ。数少ない戦力をむざむざと減らすわけにはいかん」
今にも飛び出しそうな桜咲をなだめる。殺気を撒き散らしながら桜咲はマクダウェルへと憎悪に塗れた視線を向ける。まるで猛獣の前に裸で出されたかのような戦慄を感じていた。
「こいつはリタイアさせるしかない。過負荷(マイナス)を無効化されなくとも、マイナスな人格を消すことで無力化されてしまったのだ。もはや計画に参加する意志などないだろう。しかし、私は計画を諦めるつもりはない」
「それに関しては私も同意見ですよ。人格が変わろうと千雨さんは千雨さんです。千雨さんへの想いが変わることはありません。ですが、千雨さんの人格を殺した麻帆良の連中には復讐せずにはいられませんよ」
「ことここに至っては、球磨川禊と完全に協調するしかないだろうな。奴と一蓮托生というのは勝ちの目を捨てた最低の手段だが、しかしそれだけに、間違いなく学園を崩壊させられるはずだ」
「はい。それが一番重要ですから。復讐が果たせるのなら、――私は勝てなくたっていい」
桜咲も頷いて同意を示す。二人の顔には壮絶な笑みが浮かんでいた。見ているだけで怖気の走る光景だった。息を吐く音を漏らすことすら憚られるような。そんな緊迫した空気は携帯の電子音によって遮られる。ポケットから携帯を取り出し、桜咲が電話に出た。
「はい。……ええ…それは、どういうことですか?」
数分ほど会話が続き、電話を切った桜咲の顔には困惑の色が浮かんでいた。
「朝倉さんから連絡です」
「ほう……早いな。私達の視界を覗いていたのか。それで、用件は何だ?」
「はい。たった今、球磨川先輩に今後の指示を仰いできたそうです」
「そうか。私や超が動くよりはマシだろう。すぐに球磨川禊が救出したという話なら、おそらく時間的に、ジジイはこいつの記憶を覗いてはいないはずだがな。しかし、警備員として生徒会に潜伏しているという言い訳は、もう無理と考えるべきか」
冷静にマクダウェルがつぶやく。そして、ちらりと私へ視線を向けると、離れるように部屋の端の方へと歩いていった。それに桜咲も続き、電話の内容を小声で話し合っているようだ。作戦に協力しない私には教えられないということなのだろう。それに少しほっとしている自分がいた。
「ハハハハハッ!なるほど……たしかにジジイなら有り得る」
静かな保健室に突如上がった哄笑。驚いて視線を向けた先には、愉しそうな表情のマクダウェル。
「しかし、それには前提条件があるが……ククッ…まぁいい」
「……私にはよく意味が分からないのですが」
「すぐに分かる。予定通りに進めば麻帆良学園祭は面白いことになるな。長谷川千雨、お前は好きに動くといい。無理に計画には加えようとは思わん」
そう言ってマクダウェルは扉に手を掛けた。そして、首だけ振り向くと桜咲へ向けて言葉を残した。
「私は警備員を抜ける。貴様もメンバーから抜けておけ。すでに疑われている私達が参加しても何のメリットもない。こちらの時間と動きを縛られるだけだ」
「わかりました。学園祭までは生徒会の方に専念します」
保健室には私と桜咲の二人だけが残された。そして、こちらへ向き直ると、申し訳なさそうに頭を下げる。
「おそらく今の千雨さんに護衛の必要はないでしょう。再び学園側が狙うとも思えませんし。ですが、一応連絡用の札を渡しておきます。何かあればすぐに念話で呼んで頂いて構いませんので」
私の手に札を握らせると、桜咲は踵を返して外へと歩き出した。
「かつての千雨さんの願いを叶えてきます」
悪夢でも見てしまったかのような悪い気分を切り替えるために、私は布団に潜って二度寝するのだった。
結局、放課後まで睡眠を取った私は、仕方なく自室へと帰ることにした。鞄を持って下駄箱へと歩き出す。正直に言えば、もうあの恐ろしい連中に関わりたくなかった。まるで車に轢かれた猫の死体に遭遇してしまったかのような後味の悪さである。すべて忘れて夢の国に没入していたい気分だ。
「けど、放っておくわけにもいかないよな……」
あんなイカレタ計画を立てている連中だ。もし成功してしまえば私もただじゃ済まない。麻帆良に暮らしている以上、他人事ではないのだ。重苦しい溜息が漏れる。
「あっ!千雨ちゃん!」
大きな声に振り向くと、神楽坂とネギ先生の姿があった。
「ん?神楽坂とネギ先生か……。どうしました?」
「はい。ちょっと学園長が探していて……。一緒に来てもらっていいですか?」
「ああ、それは構わないが……」
鞄を持ったまま、私達は理事長室へと向かう。倒れてしまった私を心配して、二人とも道中に色々と話し掛けてくれたが、正直それどころではない状況だった。さっきまでは桜咲やマクダウェルへの脅威で気付かなかったが――
――視界が最悪だ。
「大丈夫ですか?気分が悪そうですが……。やっぱり保健室に戻りますか?」
「いや、大丈夫だ」
片手で頭を抑える私に心配そうな声が掛けられる。それに手をひらひらと振って答えるが、さすがに曇った表情は隠せない。これまで、よくもこんな気持ち悪い視界に耐えられたもんだぜ。
――廊下を歩くすべての生徒の弱点が見える
意識の隙も、身体の脆弱さも、心の傷も、すべてが晒け出されているのだ。どうすれば肉体を壊せるか、どう言えば精神を壊せるかが常に見せ付けられている。こんな過負荷(マイナス)なんて、百害あって一利なしだぜ。断崖絶壁の淵に立つ人間を背中から押すように、自分の気分次第で他人を地獄に突き落とせるのだ。こんな状況で過ごすにはどれだけ強靭な自制を必要とされるのだろうか。その自制を失えば、先ほどの連中と同類になるのだろうという確信もあった。
「失礼します」
コンコンと扉をノックして理事長室へと入った。それにしても、人間離れした容貌の学園長である。ネギ先生と神楽坂は帰るのかと思いきや、二人も呼ばれていたようで、私の隣に立った。穏やかな声が掛けられる。
「長谷川くん。昨日の帰りに倒れたとのことだが、具合はどうかね?」
「ええ、大丈夫です。身体に異常はなさそうです」
「そうかね。それはよかった。とはいえ、長話をするのも悪いのでな。単刀直入に言わせてもらおうかの」
好々爺然とした柔和な笑みを浮かべる学園長。記憶にある姿はなぜか恐い顔ばかりだったので、わずかに緊張していたのだが、その必要はなさそうだ。軽く安堵の息を吐く。
「過負荷(マイナス)はまだ残っておるかね?」
「っ……!?」
「残っているのであれば、君に頼みたいことがあるのじゃ。もうじき学園祭シーズンなんじゃが、どうにも人手が足りなくてのぅ」
ハッと目を見開いて眼前の老人を見つめる。緩んでいた緊張の糸が再び張り詰められた。しかし、学園長の表情からは危険なものは感じられない。敵意も殺気も隠されてはいないようだ。少し安心した私は警戒のレベルを下げる。そして、一拍置いて学園長は声を発した。
「――麻帆良学園の警備員になって欲しいんじゃ」