イリアルダ邸が焼失し、五日が過ぎた頃。
早田竜蘇祁は予期せぬ光景を前にして、意識を回復した。
久しぶりの光の刺激を視覚で感じ取り、彼はゆっくりと瞼を開く。
「リュウスケ様!」
「ネク……サリー? あれ、ここは……」
どこか見覚えのある、素朴で自然の香りがする部屋。
ベッドから身を起こしさえすれば、彼が今どこにいるのかはハッキリするだろう。
だが、そんな必要はない。
戦いを終えて眠っていたリュウスケの目の前には、彼の身を案じ続けていたネクサリー・ニーチェスがいる。
見たところ、諸星剣司狼に斬られた怪我はすっかり良くなっているようだ。
その事実だけで、彼は自分が寝ていた場所が、ルバンターの町の宿であると把握した。
「――そうか! あの後俺、倒れて……」
「そうですよっ! もう目を覚まさないんじゃないかって、もう、私……! う、あ、あああっ……!」
我慢できないのかする気がないのか、彼の回復を目の当たりにしたネクサリーは、感涙の涙をとめどなく流しつづけた。
まるで川のように、その落涙は止まる気配がない。
しかし、竜蘇祁には「泣くなよ」と慰める資格はない。
少なくとも、本人はそう思っていた。
自分が是が非でもユリアヌを助けようと無茶ばかりをしたから、彼女を悲しませてしまった、と。
「……ごめん」
「うっ、ひぐっ……謝らないで、ください。ご無事であること、喜ばせて、くださいぃ……!」
せめて泣き顔だけでも隠そうと、ネクサリーは両手で顔を覆う。
それを見た竜蘇祁は、それ以上彼女に何かを言うのはやめようと考えた。
しかしその前に、さすがに泣いてばかりいることが恥ずかしくなってきたのか、ネクサリーは顔を赤くして、それでいて泣き止むこともなく、「ふえぇ〜ん」という子供のような声で叫びながら部屋を飛び出して行ってしまった。
「そういえば、ユリアヌは……ん?」
竜蘇祁は自分が命懸けで守ろうとした少女の姿を、意識を失う前の記憶から呼び起こし、ハッとして彼女の行方を案じた――のだが、それは杞憂だったらしい。
「……頑張ったもんな。それに、お前にも心配かけたみたいだ。ありがとうな」
自分の手を握ったまま、ベッドに顔を突っ伏して眠っているユリアヌに、竜蘇祁は聞こえるはずのない労いの言葉を掛ける。
彼が眠っている間、片時も離れることなく彼を看病し続けていたユリアヌ。
その寝顔は、彼が目を覚ました時にどのようにして迫ろうかと模索しているような、幸せそうな表情だった。
「……あれ? なんで俺、助かったんだっけ?」
それは意識を取り戻した彼にとって、当然の疑問だった。
イリアルダ邸の地下闘技場で死闘を終えたかと思えば、いつの間にか宿屋のベッド。
その間に何があったかが気掛かりになるのは、当然だろう。
「ユリアヌ様がイリアリバーの力で、貴様を救出したのだ。ハヤタ・リュウスケ」
その答えを出したのは、ネクサリーの泣き声を聞き付けてやってきたテイガートだった。
「テイガート! ひさ……なんだろう、そんなに前に別れたわけでもないのに『久しぶり』って言いたくなる」
「それはやむを得まい。なにせ五日間は眠っていたのだからな」
「五日間!? 道理でさっきから腹の虫がッ……!」
「そんなことはどうでもいい」
自身の栄養補給活動を「どうでもいい」の一言で一蹴されたことに怪訝な顔になった竜蘇祁を尻目に、テイガートは彼が寝ているベッドの近くにある椅子に腰掛ける。
「地下闘技場はイリアルダ邸の崩落で出口を塞がれていたようだが、何ら問題はない。イリアリバーの破壊力なら、瓦礫の下から大穴を開けることくらい容易いからな。今はイリアリバーもイリアーベルも、私が預かっている」
「なるほど。イリアリバーって、やっぱすげぇんだなぁ」
「ダイナグ・ローグマンとノアラグン・グローチア、そしてモロボシ・ケンジロウの三名は、本島にあるシャルスティア王宮の地下牢行きだ。アベラルド・アルカサル宰相と同じく、な」
しばらくはテイガートの話を黙って聞くつもりでいた竜蘇祁だったが、突然出された貴族の名前に目を見開き、思わず口を開いてしまう。
「そっか――って、ア、アベラルド・アルカサル!? 宰相さんがなんでまた……?」
「簡単に言えば謀反の罪だ。息子のアシエル・アルカサルも牢獄行きだと聞く。騎士団長から伺った話から察するに、ここ数年間の間に賊の活動が活発化していたのも、騎士団の動きを牽制しようとしていたアベラルド宰相の裏工作によるものと見ていい」
「……騎士団に助けを呼びに行ったあんた達をはねつけたのも、謀反の計画に支障が出ると思ったから……なのか?」
「そう考えていいだろう。とにかく、これで一通りの事件は全て解決された、ということだ。このベムーラ島の治安も、安心できるものになるはずだ。ただ、払った犠牲は大きいがな」
そこで一旦言葉を切ると、テイガートは椅子から立ち上がり窓から外を覗き込む。
彼の目に映る景色は快晴に照らされ、町民達はいつも通りに活気に溢れた日常を送っている。
……その中には、あろうことかマクセルとコスモアの夫妻が汗水流して働いている姿があった。
「イリアルダ邸が失われたことで、イリアルダ家はいよいよ貴族ではいられなくなった。今では、当主様が直々に庶民同様の暮らしをされている」
「なっ……!」
表情が驚きの色に染まる竜蘇祁だったが、対照的にテイガートの顔は安心感に包まれていた。
「だが、当主様は現状に歎いてなどおられない。むしろ、清々しいほどに今の生活に満足しておられる。コスモア様も、実に楽しそうに当主様と畑仕事に興じられているな」
「は、はた、畑仕事!?」
昨日今日まで豪華な屋敷で暮らしていた貴族夫妻が、庶民に交じって野良仕事をしている。その事実は竜蘇祁にとっては非常に衝撃的だったらしく、思わずベッドからずり落ちてしまった。
「なにをやっているのだ?」
「……見ての通りだよ。いろいろ世の中が変わりすぎてるせいで、頭がパニック状態だ」
「情けない格好だな。とてもあの勇壮と名高い『紅の燃剣』だとは思えん。今宵の宴の主賓なのだから、もう少し騎士としての自覚を持ってもらいたいものだな」
「ほっとけ! どうせ俺はもう騎士じゃな……って、主賓? 宴?」
目を丸くする竜蘇祁に対し、テイガートは諭すような口調で説明する。
「貴様の素性や経歴は、ユリアヌ様はもちろん、当主様とコスモア様、そして町の住民全員に知れ渡っている。何より、貴様はイリアルダ家を長年苦しめていた魔獣を滅ぼした立役者だからな。当主様とユリアヌ様の提案により、貴様が目覚めた日の夜に町全体で宴をすることになっているのだ」
「ぬ、ぬ、ぬ、ぬわぁんだってぇぇぇっ!?」
さらなる新事実を知らされ、もはやこれ以上はありえないというくらいに、竜蘇祁は驚愕の表情を見せる。
眼球が飛び出すのではないかというくらいに目を見張り、口は裂けそうなほどに開いてしまい、なかなか塞がる気配がない。
今までほとんど自分一人で背負い続けてきた過去の全てが、そこまで赤裸々に公開されている事態に、彼は頭を抱えるばかりだった。
「む、むぐおぉぉ〜……! なんてこったい……!」
「ふっ、これは今夜が楽しみだな」
そんな彼の反応を楽しむが如く、テイガートは嗜虐的な笑みを浮かべる。
その日の夜は、本来が闇の空であることを全く感じさせないほどに明るく、賑やかさに満ちていた。
このルバンターの町の英雄である「紅の燃剣」の帰還。
そして、「イリアルダの魔獣」の消滅。イリアルダ家を慕う町民達は、かつてない喜びに包まれていたのだ。
「『紅の燃剣』、バンザーイッ!」
「ハヤタ・リュウスケ、バンザーイ!」
「ユリアヌお嬢様、バンザァーイッ!」
戦いを終え、勝利を掴んだイリアルダの騎士を出迎える準備を整えた町民達。
ネクサリーに綺麗に洗濯された、父の形見となった黒ジャージを着て、宿屋から姿を現した竜蘇祁を彼らは盛大に歓迎した。
少し前まで貧民街から来た身であることから白い目で見られていた少年は、その状況を前に苦笑を浮かべるのだった。
町の人々は歌い、踊り、彼の活躍を精一杯讃えようとする。
その騒ぎをかい潜り、竜蘇祁が何を置いても守ろうとした少女が現れる。
「リュウスケぇっ!」
「ユリアヌ! ……なんか、ごめんな。ネクサリーにもお前にも、心配かけて」
「ホントよっ! アンタの……アンタのお母さんのコト聞いた時、頭の中、真っ白になったんだからぁっ!」
その言葉に、竜蘇祁は一瞬目を見開く。
かつて心の奥底に沈んでいた、黒い感情の源。
それが改めて、完全に断ち切られた――彼はそう感じた。
「――そっか。母さんのこと、気にかけてくれたんだ。ありがとうな」
その思いから生まれる安らかな笑顔で、少女の気遣いに礼を言う竜蘇祁だったが、それが彼女の心をわしづかみにする事態を招くことは本人にとっては想定外だった。
「……も、もう! 女の子なら誰彼構わず助けちゃうくせに、そんなこと言うから――アンタしか見えなくなるじゃないっ!」
抑え切れない彼への情熱が暴発するかのごとく、ユリアヌはその筋肉質な胸板に突進し、顔を埋めてしまった。
「おわっ!?」
「きゃあああああっ! 何をされているんですかユリアヌ様ッ!」
すると、いきなり抱き着かれてよろける竜蘇祁を見つけたネクサリーが悲鳴を上げる。
そして、彼女も負けじと竜蘇祁の腕に寄り添い、たわわな双丘で彼の感覚神経を刺激していく。
そんな様子を眺めていたテイガートはため息を漏らし、作業着を着たマクセルとコスモアは微笑ましく見守っていた。
「元々イリアルダ家とは、魔術に秀でた名門中の名門だったのだよ」
「……え?」
宴の大騒ぎが一段落した頃、マクセルは小さな声でそっとつぶやく。しかし、彼の隣に立っていた竜蘇祁は、二人の美少女のアプローチを一身に受けていながらも彼の言葉を聞き逃さなった。
「しかし数百年前に『イリアルダの勇者伝説』にある『イリアリバー』と『イリアーベル』が誕生し、その二本の剣を守るため、私達の先祖はその力を封じるべく『イリアムド』を創出した。末代まで魔法が使えなくなることと引き換えに……な」
「そういや、確かに伝説には『イリアルダは二本の剣を封じるために魔法を失った』――って話がありましたね」
「その通り。以来、このベムーラ島における唯一の貴族階級だった我がイリアルダ家は衰退の一途をたどり、かつての領地だったこのルバンターの町も手放さざるを得なくなった。そして、最後に残されたイリアルダ邸が焼け落ちた今、私達イリアルダ家を貴族として扱う者はいないだろう」
この話を聞いている時、竜蘇祁は不思議に思っていた。
――なぜ、そんな暗い話をしているはずなのに表情に曇りがないのか、と。
しかし、その疑問は間もなくして解き明かされることになる。
「だが、同時に救われもした。貴族として持つべきものは全て無くしたかもしれん……しかし、全ての元凶となっていた『イリアルダの魔獣』は倒されたことで、私達は何百年にも渡って背負ってきた『イリアリバー』と『イリアーベル』の処遇という重責から解放されたのだ」
「そうだったんですか……じゃあ、もうこれからは貴族じゃなくてもやっていける、ってことですね、マクセルさん」
「うむ。一族を代表して、礼を言いたい。どんな形であれ、『魔獣』の影に怯えながら『剣の持ち主』を探す日々に決着をつけてくれたことを、星の数より感謝している」
にこやかに笑いかけるその顔は、「何百年もの宿命から解放され、自由を得た」かのような朗らかな印象を竜蘇祁に与える。
「それから、あなたが日本に帰れるようにも取り計らいましたわ。どうか良い友達を見つけて、幸せに余生を送ってくださいな」
マクセルに続いて竜蘇祁の前に現れたコスモア。
彼女が発したその一言は、竜蘇祁に聴覚から脳髄まで突き刺さったかのような衝撃をもたらした。
「……なん、だって? 日本に……帰れる!?」
「ええ。一昨日に騎士団長にあなたのことをお話したら、『長い間異国の地で、不幸な人生を歩ませてきたことを賊共に代わって詫びたい』とおっしゃっておりましたの。それから昨日になって、あなたの帰国費用と当面の生活費となる資金が送られてきましたのよ」
彼女が伝える情報は、竜蘇祁の心境を大きく揺るがせていた。
資金が提供される、ということは賞金稼ぎを続ける意味がなくなる。
すなわち、戦う必要がなくなることに繋がる。
ダイナグとノアラグンという商売仲間が牢屋送りにされたことで、これからの生計をどうしていくかという悩みが生じていた彼にとっては、今までの人生の根本を揺るがす状況だろう。
「日本に帰る――か……」
それは、早田竜蘇祁にとっては何にも代えがたい「夢」だった。
母を亡くして希望を見失いかけても、捨てることができずに胸の奥でくすぶり続けていた、永遠の願い。
それが今、手の届くところまで来ている。
今を逃せば、永久に祖国の地を踏めなくなるかもしれない。
諸星も魔獣も倒したし、ユリアヌ達は戦いをすることもなく町の人々と幸せに暮らして行ける。
もう、自分がいなくてもやっていけるだろう。彼女達にとって、自分がいなくなることの辛さは理解しているが、自分が騎士として果たせることは、もう果たしきってしまった。
それに、この夢だけはどうしても捨てることが出来ない。
胸の内にその願いを叶えたい、という思いを詰め込んだ竜蘇祁は、コスモアと向き合い、静かに口を開く。
「ありがとう、コスモアさん。俺、帰るよ。日本に……」
その言葉を聞いていたユリアヌとネクサリーは顔を見合わせると、何かを決意したように互いに強く頷いた。
……それから一週間の日数を経て、竜蘇祁はシャルスティアから日本へ渡れる帰国便に乗るべく、空港まで来ていた。
「ハヤタ・リュウスケ。これを」
見送りにやって来たのは、ユリアヌとネクサリー、テイガート、そしてマクセルとコスモアだった。
彼ら一行をリードしてきたテイガートは、飛行機に向かおうとしていた竜蘇祁に二通の手紙を渡す。
「これは?」
「貴様に托すよう頼まれていたのでな」
気になった竜蘇祁はテイガートの表情を見遣りながら、手紙を両方とも開封した。
そして、そこに書かれていた内容に目を通し、思わず苦笑いしてしまう。
『日本でも女の子ばっかり、はべらすんじゃねーぞ! ダチ作って、おっかさんの分も幸せに暮らせよ! ダイナグ・ローグマン』
『リュウスケはホントにうらやましいんだねっ! いつかまたシャルスティアに来る時が来たら、日本のアニメのビデオ持ってきて欲しいんだねっ! ノアラグン・グローチア』
そう書かれていた手紙を懐にしまい、竜蘇祁はテイガートに楽しげに笑いかけた。
「相変わらずみたいだな、あいつら」
「ふ、そうか。……それから、モロボシ・ケンジロウから貴様に一つ伝言があった。『いつか会う時があるとしたら、その時僕は真の勇者になっている』……とのことだ」
「……いい心掛けじゃないか。次に会う時ってのが楽しみになる捨て台詞だな」
やがて飛行機の時間が近付き、別れの時が来ようとしていた。
「じゃあ、そろそろ行くよ。いろいろありがとう、みんな」
「うむ。道中、気をつけるのだぞ。あるべき世界で、あるべき幸せを見つけなさい」
見送りに来た一行の代表としてマクセルが労いの言葉を掛け、竜蘇祁を見送る。
……その時だった。
「――いつか、また会えるよね! そうでしょ!?」
空港に響き渡る、凛とした声。ユリアヌだった。橙色のサイドポニーを可愛らしく揺らし、透き通った翡翠の色を持つ瞳で竜蘇祁を見つめる。
さらに、彼女にたきつけられたのか、ネクサリーもセミロングの茶髪を靡かせ、一行の前に出て声を張り上げる。
まるで、再会の約束を取り付けるかのように。
「アンタは、アタシの騎士なんだからねっ! これで永遠に離れ離れなんて、許さないんだから!」
「わ、私も同じですっ! リュウスケ様、いつかまた会いましょう!」
それが、彼を想う二人の少女が絞り出した、精一杯の見送りの言葉だった。
彼女達の想いを込めた言葉を背に受けた竜蘇祁はゆっくりと振り返り、二人に目を向ける。
そして彼は、戦いから解放された少年ならではの柔らかい笑顔で応えて見せた。
自分に出せる力一杯の喜びで、彼女達の優しさに報いるために。
「……ま、そうだな。俺は、『イリアルダの騎士』なんだから」
それは、自分にできる騎士としての責務を、全て果たしたと自負しているからこそ言える言葉だった。
自分の戦士としての騎士道は、もう役目を終えた。
これからは、一人の少年として生きる。
いつかもう一度彼女達に会う時は、戦うことのない「一人の少年」なりの騎士道で、彼女達に尽くしていく。
それが、竜蘇祁がこれからの人生を生きるために定めた、新しい騎士道(いきかた)だった。
そしてこの日、早田竜蘇祁は晴れて日本への帰国を果たす。
シャルスティアの騎士として生きてきた彼の人生は、ここから本来あるべき姿へと、帰結していくのだった。