「おい」
「ん? おっ、お前も鬼か! いやあ、こりゃヤり甲斐がありそうだね」
ぼくは白の気配を背中に感じながら、侵入者の元へと向かった。
この名も無き山は彼の縄張りで、ここ二十年で物の怪の列に加わった新入りのぼくにとっては唯一の安住の地。
そこへ気配をまき散らしながら侵入してくる様な生き物が友好的な訳が無い。
そういった思考の果てに警戒に警戒を重ね声をかけたぼくは、聊か拍子抜けにも近い感情を覚えた。
そこに居たのは、白よりも小さな鬼だった。白は死体だから一切成長しない。その為見た目は精々十二、三才。
しかし目の前で喧嘩を売っている鬼はさらにもう二、三才は小さい。
対の角だけが異様に長いが、それ以外は全て人間の十歳といったところだ。
そして服の類もなにも着ていなくて、両の手足がケモノじみていた。
「お前、そんなに小さいのに何をしに来たんだ」
「小さっ!? お前、いきなり私に向かってそれか! 私はまだ生まれて十年しか経ってないんだ! これから成長するんだ!」
両手を振り上げ威嚇する小さな鬼。
そんな微笑ましい様子も今のぼくには関係なかった。
ぼくは小さな鬼の言った一言だけに反応した。
「生まれた? お前は母から生まれた鬼なのか?」
「えっ……いや、母からとかじゃ無くて私は、えっと……。そ、そういうお前はどうなんだ!」
何故か小さな鬼はしどろもどろになりながら、話をぼくへと振った。
どうして答えられなかったのだろうか?
「ぼくは人から鬼になった。三昔前の話しだけど」
「人から!? 人から鬼になったのか!」
「そうだ。人を食べたら鬼になった」
「へえ、本当に居るんだな!」
何故か小さな鬼はその事が気になって仕方ない様だ。
ぼくにきっかけは何だだの、角は何時生えただの頻りに質問をしてくる。
あまりにちょろちょろしている所為で、ぼくは何となく嫌な気分になってきた。
「もういいだろう。それで、お前はどうやって生まれたんだ」
「え、あ、あー……それがな、うん。私は私がいつ出来たのかをしらないんだ」
「知らない?」
知らない、という事の意味がぼくにはよく分からなかった。
“自分”がいつからあるか分からないというのは、酷く気味の悪い事の様な気がした。
「うん、私は気付いたら野山にいて、角が生えてて、それですっごい力持ちだった。それより昔の事はなーんにも分かんない」
「でも、昔は人間だったんじゃないのか?」
ぼくの知っている鬼は二、三人しかいないけど皆赤とか青とか碧とか、いろんな色をしていた。
ぼくみたいな、人間みたいな肌に角が生えている鬼に出会ったのは初めてだ。だから、もしかしたらこの小さな鬼は、ぼくみたいな存在なのかもしれない。
「それは無い、と思ってたけど……お前を見てるともしかしてそうなんじゃないか、って気もしてきたね」
「そうか。……お前は良い鬼だ」
「えへへ、そうか?」
「そうだ。知っている鬼は、皆直ぐ殴りかかってきたりするから乱暴だ」
「うぐっ!? あ、あはは……」
照れたようにはにかんでいたその顔は、一瞬で青くなった。
もしかしてこの小さな鬼はやる気だったのだろうか。
「お前、やる気だったのか?」
「……ま、まぁ。そこそこには」
「そうか……うーん、止めておきたいんだが、駄目か?」
「へ? あ、私としては戦いたかったんだけど……」
どうやらこの小さな鬼も戦いたいらしい。
それでも許可を求める辺りぼくは好感を持てた。
「うーん……分かった。じゃあその代わり、ぼくが負けても此処から追い出さないでくれ。縄張りを探すのは大変なんだ。代わりに、というのも変だけどぼくが勝ってもお前
が此処に住むのを許可する」
「へ? そんなことで良いのかい?」
「うん、ぼくはこの約束さえ守られればそれでいい。約束する」
鬼になってから知った事だけど、ぼくは約束を破ったり嘘を吐く事が出来なくなった。
嘘を吐こうとすると嫌な気分になって、吐いてしまったりしたら生きる事が耐えられなくなってしまう。
だからぼくは、小さな鬼に約束をした。
「分かった。じゃあ私も、その約束を絶対に守る。約束するよ。あ、でも、私がお前を殺しちゃったり、その逆があったりした時は恨みっこ無しだぞ」
「うん。それでいい。それじゃあ戦おう」
「へへ、負けないぞ」
「ぼくも頑張るよ」
瞬間、ぼくと小さな鬼は同時に地を蹴った。
**
「あー……負けた。お前は強いんだな」
「私こそビックリだ、こんなに強い奴が居るなんて」
ぼくは河原にごろんと転がっていた。
小さな鬼に蹴飛ばされた肩がじんじんと痛みを訴えている。
「負けたから、この山の主はお前だ」
「へ? 主?」
「そうだ。お前が主だ」
「ど、どうしてっ? まさかお前、嘘を!」
ぼくが主を譲るというと、小さな鬼は何故か怒りだした。ぼくはどうやら小さな鬼の気にさわる様な事を言ったらしい。
小さな鬼はぼくを殺さんばかりに怒っているので、ぼくは慌てて弁解した。
「違う。ぼくは嘘を吐いてない。ぼく達はこの山に住むけど、主はお前だ。群れの主は一番強い奴だ」
「あ、なんだ、そういうことね。全く、吃驚するじゃないか」
ぼくの弁解は聞き入れてもらえたようだ。
小さな鬼はほっと一つため息を吐くと、拳をすっと下げた。
ぼくも一安心だ。
「ん? ちょっとまて、ぼく達ってどういうことだ」
「あ、言うのを忘れていたんだが、ぼくには妹が居るんだ」
「お前。妹が居るのか! 強いのか? そいつは強いのか!?」
どうやら言い忘れていた事は咎められないらしい。ぼくは内心ほっとした。
そして妹の強さを頻りに尋ねる小さな鬼に向き直って答えた。
「妹はそんなに強くない」
「どうして? お前の妹だから鬼なんだろ?」
「いや、鬼じゃない。死体だ」
妹のことをきかれたままに答えると、小さな鬼は不思議そうな表情をした。
「はぁ? 死体? 意味が分かんないぞ」
「ぼくが動かしてるんだ」
「動かす、って……お前は生き返らせる事が出来るのか?」
「いや、妹は死んでる。だけど動くんだ」
どうやら小さな鬼にはよく分からないらしい。ただ動いているだけなのだから、なにを悩む必要があるんだろうか。
「う、うぅん……なんだかよく分かんないな」
「なら見てみるか?」
「うん! 是非見てみたいな。同居人? になる訳だし」
「なら呼ぼう。白!」
目を輝かせる小さな鬼を後目に、ぼくは大きく息を吸い込んで白を呼んだ。
「はく、って言うのかい、あんたの妹は」
「そうだ。姿を見れば分かると思う」
白の姿は真っ白だ。髪の毛も肌も服装も全部白だ。
だからぼくは白と呼ぶし、白も白と呼ばれる事を気に入っている。
「わぁ、本当に真っ白……」
「兄、終た?」
小さな鬼は、白の姿をみて小さく感嘆の声を上げた。
妹が褒められるというのは、むず痒いけどぼくも嬉しくなる。
「そうだ。白、今日からこの小さな鬼が山の主だ」
「兄、負た?」
白は顔をゆがめて露骨に嫌そうな感情を見せた。
いつも表情はハッキリしている奴だが、今回は一際ハッキリしている。余程山から出たくないらしい。
「そうだ。済まない」
「嫌」
謝っても白は、取り合おうともせず文句を零した。約束を守れなかったのはぼくだから仕方ないけど。
だけど白がいつまでもこんな様子でいるのは、ぼくも見ていて楽しくない。だからぼくは白に約束の事を伝える事にした。
「いや、そこは大丈夫だ。この小さな鬼と約束したから、山からは出て行かなくて良い」
「感謝」
「うひゃあ!? あ、頭と角を撫でるなっ!」
よっぽど嬉しかったんだろう。白は小さな鬼の頭と角をこれでもか、というくらい撫でまわした。
ぼくが教えたから、角は酷く敏感だって知ってると思うのに。
「やぁっ、ひ……、ひぅ、…ぁ、っあ……!」
「……」
何故だかぼくは酷く場違いな気がしてきた。
これ以上見てはいけない様な、そんな様な気分だ。
「やっ、はっ……らめ、らめぇっ」
「可愛」
「いい加減にしろ」
軽く小突く積りで殴ると、ぼくの予想外に大きなごん、と鈍い音がした。
それで漸く白は小さな鬼から離れた。
「兄、何!」
「戯れが過ぎすぎだ。そろそろ寝ろ」
ぼくは白に命令をした。すると白は全身から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
「ちょ!? 白が大変だよ!」
「大丈夫。ぼくが命令しただけだから」
崩れた白をぼくが抱きかかえると、小さな鬼は慌てた様子で詰め寄って来た。
「命令って、お前、白に何を仕込んだんだよ」
「何もしてない。それにぼくはさっき、白は死体だ、って言ったじゃあないか」
「だからー、死体な事とこれとがどう関係あるんだよー」
どうやら小さな鬼はまだ理解できてないらしい。
「白は死体なんだ。死んでるんだ。だけどそれをぼくが無理やり動かしてるんだ」
「それはお前が生き返らせたってことなんだろ?」
「違う。白は死んでる。だけどぼくが動かしてる」
話が進まない。なぜこの小さな鬼は理解できないのだろうか。
それともぼくの説明が悪いのだろうか。もしかしたらそうかもしれない、ぼくの説明を少し変えてみよう。
「……えっと? それがなんで生きて無いってことなのさ」
「白の死体にぼくが呪いをかけて動かしてるんだ。だから白は生きて無い。あの言葉も素振りもぼくが知っている生きていた頃の白の真似をさせてるだけなんだ」
「ああ、成程っ! って、ええっ!? お前、そんな凄いこと出来る奴なのか!」
小さな鬼は物凄く驚いた。ぼくのやっている事はどうやら凄い事らしい。
「凄いのか?」
「いや凄いだろ。呪いを使うからって死体を動かして喋らす奴なんて見た事無いぞ」
「そうなのか、ぼくは凄い事をしていたんだな」
他に比べる鬼なんて居なかったから知らなかった。
ぼくが手に入れたこの力は、どうやら凄いらしい。
「なあ、なあ。お前、他には何か出来るのか?」
「いや、ぼくの力はこれだけだ。あとは力持ちなのと、長生きなことくらいだ」
「あ、そこは普通の鬼と一緒なのね」
目を輝かせて尋ねた小さな鬼には申し訳ないけど、ぼくの能力はそれだけだ。
正直に答えると、小さな鬼は少し拍子抜けした様な表情をした。
何だか無性に悔しく感じたぼくは、小さな鬼に質問を返す事にした。
「そういうお前は力を持ってるのか?」
「私? えー……っと、私の力はあるんだけど……その、ね。自分でもよく分かんないんだ」
答えは大分予想外なものだった。
何が出来て何が出来ないかっていうのは、ぼくは鬼になった時勝手に分かったんだけど、小さな鬼はそうじゃ無いらしい。
「分からないのか? そのケモノみたいな手足は力のお陰じゃないのか?」
「これも……そうなのかなぁ?」
「普通の手足には出来ないのか?」
「いや、出来るよ。ほら」
言った途端、小さな鬼の手足は普通のに変わった。何だか不思議な感じだ。狸に化かされた様な……。
そう考えて、ぼくはもしかして、と思った。
「お前の力って、もしかしてそうやって姿を変えたりする力じゃないのか?」
「そうなの、かなぁ? うーん、いや、なんか違う気がする」
「そうか……」
そうなるとぼくにはそれ以上分からなかった。
姿かたちを変えるのだからそういう能力だと思ったのだけど、本人が違うと感じたのなら、多分違うのだろう。
「ごめん。ぼくには分かりそうにないや」
「わわっ、いや別に謝んなくても」
「そうか? なら安心だ」
「……お前って、変な奴だな」
「そうか?」
「そうだ。とびっきり変わってるね」
そういうと、小さな鬼はくすくすと笑った。
ぼくは何故かそれを見ていると、白を眺めている時とは違う嬉しさを感じた。
不思議な感覚だ。少なくともぼくは初めて体験した。
「そういえば、お前の名前はなんだ?」
小さな鬼を見ていたら、ぼくはいつの間にかぼーっとしていたらしい。
一瞬だけ小さな鬼の言葉への反応が遅れてしまった。
「ぼくの、名前?」
「そうだ。これから同じ山に住むんだろ、名前くらい知らなきゃ」
「ぼくの……名前?」
そんなことを聞かれたのは、ぼくは初めてだ。
ぼくはぼくで、白は白。それ以上何か要るなんてぼくは考えた事もなかった。
「お前、もしかして名前が無いのか? じゃあ白にお前は何て呼ばれてたんだ」
「白はぼくを兄って呼んだ」
赤もぼくのことを兄って呼ぶ。じゃあぼくの名前は兄になるのか?
でもそれは違う気がした。白の兄だから兄で、ぼくが兄な訳じゃない。
「兄って……そのまんまだな。じゃあ生きてた頃は?」
「ぼくも白も名前が無かった。白は死体になってから真っ白になったから白だ」
「なるほど……。な、ならさ……」
「なんだ?」
何故かもじもじし始めた小さな鬼は、窺うような眼でぼくを見た。
一体何を言おうとしているんだろう。
「その、私も名無しだから……その、さ。名前、付けてよ」
「お前に、名前を付ければいいのか?」
「うん! そ、その代わりにさ、私もお前に名前を付けるから……駄目?」
その尋ねる仕草が可愛らしいとぼくは思った。
そしてまた感じた。あの初めての喜びを。四十年生きて、こんな感情を感じるのは初めてだ。
心というのは凄いものらしい。
「分かった。ぼくがお前に名前を付ける。代わりにお前はぼくに名前を付ける」
「うんっ! じゃあ、その……宜しくね?」
華が咲く様な笑顔だった。ぼくは初めての感情がもっともっと大きくなるのを感じた。
「分かった。じゃあ、お前の生まれた場所を教えてくれ」
「私の生まれた場所? どこだったっけ……ココから東の方の山なんだけど」
東はぼくは行ったことが無いから余り分からない。
ぼくは無い知識を絞り出して二つ、名前を思い出した。
「東の山……大峰?」
「多分違う」
「じゃあ伊吹か」
これが外れたら、ぼくの知ってる山はもう無くなってしまう。
それは言った手前酷く格好が悪い様な気がして、ぼくは祈るような気持ちになった。
「それだ! で、それがどうしたの?」
「お前の名前。伊吹だ」
ぼくにはそれ以上良い発想が浮かばなかった。
何もないところから当人に相応しい名前を考える、何て言う事は、ぼくには難し過ぎる事の様に思えた。
「私は、伊吹?」
「そうだ。お前は伊吹だ」
気に入られなかったらどうしよう、とぼくは酷く心配になった。
なんで名前を決める程度の事でこんなに不安になっているのか、ぼくには分からない。
「そっか、私は伊吹か……えへへ、ありがとう」
だけど、その心配は杞憂だったみたいだ。
嬉しそうに小さな鬼、伊吹ははにかんで、ぼくが考えた名前を何度も口にした。
「気に入ったのか?」
「うんっ! じゃあ私はお前の名前を考えるね」
「分かった」
ぼくが直接尋ねると、伊吹は本当に嬉しそうな笑顔を見せた。
思わずぼくも釣られて笑ってしまった。
「! お前、笑えるんだな!」
すると、伊吹は心底意外だとでも言いたげな表情になった。
流石に失礼だとぼくは思った。
「ぼくだって嬉しいと思う事もある。笑う事もある。伊吹のはぼくを何だと思ってるんだ」
「あ、その……ごめん」
「謝ったから許す」
「許すの早っ!」
「別に本当に怒った訳じゃない。ところで、ぼくの名前はまだ出来ないのか?」
「あっ」
「忘れてたな、伊吹の」
「今考える、今すぐ考えるから! う、うーん……」
本当に途中から頭から抜け落ちてた様だ。
呆れはしないが、ぼくは少し抜けている伊吹のの事を心配に思った。
そんな風にぼくが伊吹のことを思考していると、伊吹に着物の袖を軽く引っ張られた。
「あ、あのさ、この山の名前……教えて」
どうやらぼくと同じ事を思いついたらしい。
なるほど、その発想をぼく自身に当てはめるのもいいんだな。
「ここは大枝だ。北に進めば海が、南に進めば都がある」
「なるほど、大枝ね……じゃあさ、お前は大枝のだ」
「ぼくは、大枝」
ぼくの、初めての名前。
ぼくは、大枝。たった三つの音の並びなのに、名前となった途端、ぼくにはそれが凄く特別な意味を持っている気がしてきた。
「そうだよ、大枝の」
「……ありがとう、伊吹の」
「っ、止してよ、照れるじゃないか」
目元と頬を少し赤らめた伊吹のの姿は、ぼくの知ってる言葉じゃ言い表せないくらい可愛らしい。
初めての感情は、もう溢れかえりそうになっていた。
ぼくはそれが怖かった。溢れたら、どうなってしまうのか、ぼくには皆目見当が付かないから。
「すー……はー……」
「?」
ゆっくり深呼吸すると少し落ち着いた。
ぼくはそれに一安心すると、不思議そうな顔でぼくを見る伊吹のに向き直った。
「どしたの?」
「どうやら、ぼくはおかしいみたいだ」
「は? いきなりどうしたのさ」
「……伊吹のと居ると、ぼくはおかしくなってしまうみたいなんだ」
「え、そ……それって、私の事、嫌いって……」
きょとん、としていた伊吹のの表情が、見る見るうちに曇って、凄く悲しそうになった。
ぼくはこんな表情をさせたかった訳じゃない、そう反射的に思って、慌てて言葉を続けた。
「違う! そういう、嫌いとかじゃない。
なんだか、初めての嬉しさが溢れて、ぼくが良く分からなくなってしまいそうなんだ」
「初めての、嬉しさ?」
「そうだ。白と居る時とは違う嬉しさで、暖かくて、一緒にいるだけで、こう、訳が分からなくなりそうな嬉しさだ。
伊吹のは、これが何か分かるか?」
ぼくがそこまで一息に言うと伊吹のは、ぱぁっ、と明るい笑顔を見せた。
ぼくが嫌ってない、ってことが分かって嬉しかったのかな。そう思うと、またぼくの中に初めての嬉しさが溢れて来た。
いけない、と思いぼくはまた深呼吸をする。
伊吹のは腕を組んで悩み始めてた。どうやら何か思い当たることがあるようだ。
「もしかして……いや、でも……まさか……。 な、なあ大枝の」
「なんだ?」
「その、今まで感じたことは無い嬉しさなんだよな。白とか、他の女とかに、似たような感情を持った事は?」
「無い。白相手に感じるのは、もっとこう、大切に守りたいとか、そういうのだ」
上手く言葉にはできないけど、ぼくが白に感じるのと、伊吹のに感じるこれとは全然違うものだ。
「も、もしかして、それは私相手にだけ感じるのか?」
「どうだろう。でもぼくは、今までに誰にも感じたことは無かった。だから戸惑ってる」
「それを、言葉にしてみてくれ。白は守りたいんだろ? 同じように、さ」
伊吹のはぼくに難しい質問を投げかけて来た。
ぼくは上手くそれを言い表せないから悩んでいるのに、伊吹のはそれを言葉にしてという。
……はてさて、どうすればいいんだろう。
「そんなさ、難しく考えないでさ。こう、ぽっと思った事を一声、ね?」
「ぽっ、と、思った、事……」
ぼくはどう思っているのだろうか。
伊吹のを最初に思い浮かべて、それから順々に溢れそうな初めての嬉しさへ想いを馳せた。
「……ほしい」
ぼくが思い、溢れた一言はそれだった。
「欲しい?」
「伊吹のがほしい」
「っ…な、なっ、なっ」
ぼくがほしいと思った所為なのか。伊吹のの頬は真っ赤に染まって口をぱくぱくとした。
その様子を見ていると、どうにもまたぼくの中に初めての嬉しさが溢れて、訳が分からなくなった。
「よし落ち着け私落ち着くんだ深呼吸して冷静に行こう大丈夫私なら大丈夫だから逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ」
「大丈夫か、伊吹の」
「大丈夫な訳がっ! ……あ、いや、うん、大丈夫大丈夫。全然ばっちり」
全然大丈夫そうにはぼくには見えなかったけど、
伊吹のが自分で大丈夫と言ったから、ぼくはそれ以上何も言わなかった。
そしてぼくは、伊吹のの言葉の続きを促す事にした。
「それで伊吹の、ぼくの感情の正体は分かったのか?」
「え、あ、うーん……その、分かったといえば、分かったけど……
「そうか! 教えてくれ!」
ついぼくは、伊吹のの肩を掴んで揺らした。答えが聞けると思ったら、身体が勝手に動いてた。
だけど伊吹のは、すこし驚いた後、ぼくの手をゆっくり肩から外した。ぼくは何故か、凄く悲しい気分になった。
「ま、待って。えー、コホン。あのね、この感情は扱いを間違えると凄く危険なんだ」
「危険?」
伊吹のは何故か畏まって、ぼくに教えてくれた。
この感情は危険らしい。危ないものをぼくは伊吹のに向けているのだろうか。
「そう。危険なの。だからさ、人に教えて貰ってどうこうするとか、そう言うのじゃ無いと思うんだ」
「なるほど。じゃあぼくはどうすればいい?」
「そこを私に聞いちゃ駄目でしょ」
全部聞かずに自分で考えろ、という事らしい。伊吹のはぼくに、少し呆れながらそう言った。
「そうなのか……」
「そうなの。だからさ、その、ね。私は待ってるつもりで今は居るから。
その気持ちが何か分かったら、もう一回私に聞かせて」
「分かった」
嘘が付けない鬼だから、今は待ってるつもり、だと伊吹のはぼくにはっきりと言った。
いつか心が変わるかもしれない、と伊吹のはぼくに言った。
それでもぼくは嬉しいと思った。今は伊吹のはぼくの答えを待ってくれるのだから。
頑張ってぼくは早く答えを出そう。そう思った。
「さて、と。真面目な話はこれくらいにしてさ……」
「真面目だったのか?」
「あー……話題的には微妙かな。あはは……でも、向き合う姿勢は真面目だったでしょ」
「確かにそうだ。それで、どうしたんだ?」
「どうしたんだ、って言われなくても決まってるでしょ! 仲間が増えたんだから酒宴だよ酒宴!」
「なるほど」
「いやなるほどじゃ無くて……。大枝の、お酒はどこに?」
「あるぞ」
身体が鬼になってから、ぼくは無性にお酒が好きになってしまった。
年に何度か飲みたくなるからぼくは常に沢山のお酒をねぐらに用意してるのだ。
「どこに!?」
「こっちだ」
何故か伊吹のにため息を吐かれてしまった。
ぼくはそれを不思議に思いながら、ねぐらへと伊吹のを案内した。
ふたりだけの酒宴は、三日三晩続いたそうな。
**
此処までプロローグです。
つまり正妻は萃香ちゃんです。
人気投票で順位がマッハでも萃香ちゃんです。