———心のどこかで決め付けていたのかもしれない。自分がそうであったからと。
士郎のこれまでの人生が苦難の連続だったと言うことは、言うまでも無く理解しているつもりだった。
だが、私自身が持っている幼い頃の記憶が平穏であったように、士郎も始まりの記憶くらいは幸せな物であったのだと、そんな風に思っていた。
……そう、願っていた。
それこそ最初は士郎の幼少時の失態でも見て、せいぜい笑い話のネタ程度になれば良いと、そんな心持だったのは否定しない。だが、決して軽い気持ちで彼の記憶と向き合ったのではない。
意識が次第にリンクしていくのを感じる。
士郎の記憶が映像として段々頭の中に流れ込んでくるのが分かった。
お、そろそろかと、まるで娯楽映画でも見るかのような心持で次第に鮮明になっていく映像を眺める。
さて、それでは幼少時代の記憶から楽しませて貰おうかと、瞳を開いた。
その瞬間、
「———————————————————————————————————待て、何だ———これは……っ!?」
———世界は紅蓮に染まっていた。
「……………っ」
…………言葉に、ならない。
いや形容する言葉が存在しない。
士郎の始まりの記憶。
それは————生きて見る地獄だった。
それ以前の記憶がない。
弛緩していた思考を思いっきりハンマーで叩き潰されたかのようなショックでその光景を眺める。
紅い煉獄。
黒い太陽。
耳朶に響くは木材が爆ぜる様な音、そして———怨嗟、絶叫、断末魔の悲鳴。
大火事なのか、目に映るものは燃え上がる炎。
生活を営んでいたとは思われる家屋は全て焼け焦げ、瓦礫と化している。その中に紛れるように転がっている木の枝が炭になったような物体は……過去、人間だったモノの成れの果てか。
そんな阿鼻叫喚の中をただ一人の少年が満身創痍で当ても無く歩いていた。
全身を重度の火傷に覆われ、胸に刻み込まれた深い傷は誰が見ても致命傷だろう。そんな今にも息絶えてしまいそうな少年をこの私が見間違える筈も無かった。
———この少年は士郎だ。幼少時代の士郎だ。
少年は今にも倒れそうな身体を引き摺って懸命に生きようとしていた。そうするのが自分に課せられた使命であるかのように。
歩いているのは少年一人。
生きているのも少年一人。
……いや、それは正確ではないか。
少年が力を振り絞って歩を進める度に、辛うじて息のある者から助けを求める声がかかる。
燃え盛る瓦礫の下から擦れた声が聞こえる。
———タスケテ、タスケテ、タスケテ。
少年に最後の望みをかけるようなそんな声。
だがその声に少年は頭を下げるしかなかった。
———自分にはその力が無い。だから自分では助ける事ができない。
と。
心からそう告げてからその人物を見ると、何かに絶望したかのような瞳で少年を見たまま息絶えた。
少年はそれらから目を逸らす事無く、瞳に焼き付け、また歩を進めた。
そしてまた声がかかった。
———この子も連れて行って。
それは、少年と同じ様な年の少女を抱き抱えた母親。少女も母親も今にも息絶えてしまいそうだった。
だがその声にも少年は頭を下げるしかなかった。
———今の自分は歩くだけで精一杯だ。だから余分なモノは連れて行くことができない。
と。
少女を抱えた母親は涙を流し、その場で崩れ落ちて炎に巻かれた。
少年はその炎の熱に身を焦がしながらも歩を進めた。
歩く度に周囲から声がかかった。
当然だ。この地獄において、少年だけが歩む事を可能としているのだから。
声がかかる度に少年はソレに頭を下げ、見捨てて、一瞬でも長い生に縋った。
死体なんて見飽きている。
少し視線を巡らせるだけで、凡そ人の最後の形としてはもっとも惨たらしいであろう終わりの形がいくつも転がっているのだから。
既に、そんな屍を幾つも見捨てて歩いてきた。
……その中には誰よりも優しかった誰か———少年の両親すらも含まれている。
見捨てた人たちの分まで一瞬でも長く生きていようと、そうしなければならないと、強迫観念にも似た感情を自分に言い聞かせながら。
少年はその通り、他の死んでいった者達よりほんの少しだけ長い生を可能としたのだ。
だが、その代わり———心が死んだ。
他者の慟哭を耳にする度に幼い心は致死量の傷を重ね続ける。
どれだけの懇願を足蹴にして歩いただろう?
どれだけの屍を踏み越えて来たのだろう?
空っぽの少年には既に分からないことだった。
……そんな空っぽになった少年にも等しく死の時が訪れる。
もはや歩く事も出来ずに地面に倒れ付してしまう。口の中に泥水が流れ込んできた。その不快感に最後の力を振り絞って仰向けに転がった。
気が付けばいつの間にか雨が降っている。
このまま降り続いてくれればこの大火事も時期に消え去るだろう。……自分の命と共に。
少年はそんなことを幼心にぼんやりと感じながらも、せまり来る自分の死期を向かい入れた。
それは必然だろう。
熱風によって気官は焼け爛れ、全身を覆う火傷は誰の目から見ても最早致命傷。加えて深く抉れた胸。むしろ今まで生きていたのが不思議なくらいだ。
そして、少年が息絶えようとしていた、そんな時だった。
不意に、頬に当たる雨粒が遮られた。
不思議に思い、霞む視界の向こう側に意識を集中させてみるとそこには———奇跡が存在した。
ボロボロの少年を覗き込む瞳。助かってくれと懇願する声。
———それが、衛宮切嗣。魔法使いとの出会いだった。
それは幼い士郎にとってどんな奇跡だっただろうか?
誰も助けてはくれず、誰も助からない。あるのはただ全てに等しく訪れる死のみ。
そんな地獄の中で、泣く様な表情で必死に少年を助け出した一人の魔法使い。
それは、これ以上ない救いだった。
全てを無くし、真っ白な少年の心に強烈に刻み込まれた———憧れだった。
「——————」
景色にノイズが混じる。恐らく士郎が言っていた記憶の混乱によるものだろう。
場面が飛ぶ。
そこでは幼い士郎と衛宮切嗣が武家屋敷のような場所で暮らしていた。
そして度々襲来する姉のような存在である藤村大河という女性。
空っぽの心に新たな感情が灯る。
幼い士郎は衛宮切嗣に魔術を教えて欲しいと頼み込んでいた。
衛宮切嗣は魔術を教える事を良しとはせずに頑なに拒み続けている。
が、毎日のように頼み込む士郎に根負けしたのか、最後には観念したようにため息交じりで承諾していた。
どうやら魔術とは呪文を唱えれば誰にでも可能なわけではないらしく、まずは魔術回路と呼ばれる擬似神経の生成から始まった。
———だが、これが私には信じられない……いや、理解できる範囲を逸脱していた。
基礎の基礎だというのに一歩間違えれば死。冗談でも誇張でもなく死ぬのだ。
”こちらの世界”しか知らない私にとってはそれは異常にしか映らなかった。
正気の沙汰ではない。
魔術の前段階で死に至るとは何の冗談だ。
だが、現実に士郎はそんな死に至るような鍛練を毎日、毎晩のように繰り返し続けた。苦行どころの話ではない鍛練を毎日だ。私は士郎……いや、魔術師というモノ達の正気を疑った。
……しかし、同時に納得もする。
それは士郎の言っていた台詞。
『一番始めに親父から教わった事は心構え。……魔術を習う、という事は常識から離れるという事。死ぬ時は死に、殺す時は殺す。魔術師にとって一番初めの覚悟とは、死を容認する事だ———ってさ』
あの時は含蓄のある言葉だと言って軽く流してしまったが、現実を突きつけられて、その言葉の本当の意味を知った。
だが、そんな魔術師としての教えと反して、人間としての衛宮切嗣は奔放な性格らしく、家を空ける事もよくある事だった。
私の受けた印象としては困った大人、という感じ。普段はぼーっとしていて、あまり冴えなかった。それでいて楽しむときは思いっきり楽しむんだ、などと言って本当に楽しそうにはしゃぐ子供のような人物だった。
幼い士郎もそんな衛宮切嗣が本当に好きだったんだろう。景色を通してではあるが士郎が全幅の信頼と親愛を抱いているのが手に取るように伝わる。
……だが、そんな楽しい日々も長くは続かなかった。
頻繁に出歩いていた衛宮切嗣は次第に外を出歩く事が少なくなる。それは死期を間近に控えた動物の様でもあった。
———そして、月の綺麗な冬の夜。
父である衛宮切嗣と幼い士郎は何をするでもなく縁側に座って月見をしていた。
「子供の頃、僕は正義の味方に憧れていた」
衛宮切嗣のそんな言葉に士郎はむっと口を尖らせては、だったら諦めたのかと言い返していた。
それに衛宮切嗣は困ったように笑って月を仰いだ。
「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」
自嘲めいたその言葉に士郎は素直に納得した。理由は分からないが衛宮切嗣の言う事だから間違いなんか無いと思ったのだ。
「そっか。それじゃしょうがないな」
「そうだね。本当に、しょうがない」
衛宮切嗣は薄く笑って士郎の言葉をなぞった。
そして士郎は言った。己の決意を。
「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は」
”———俺が、ちゃんと形にしてやるから”
そう言い終える前に衛宮切嗣は微笑った。……父親の表情で。
続きなんて聞くまでも無く分かっているという顔だった。
衛宮切嗣はそうか、と士郎の言葉ごと大きく吸い込むように息を吸って、
「ああ———安心した」
静かに、それこそ眠るような穏やかな表情でその人生を終えていた。
そんな幸せそうな顔で眠っている様な父親を見上げながら士郎は傍らに座り続けている。
静まり返った冬の夜。
幼い士郎は喚く事も、悲しむ事も無く父親を見上げていた。
父親の瞳に映る最後の自分が誇れるものであって欲しいと願うように。
……ただ、零れ落ちる涙だけはどうしようもない。
そうやって、士郎は、月が落ちるまで涙を流し続けていた——————。
そうして衛宮士郎は歩き始めた。正義の味方を目指す遠い道を。
……だからと言って。
何かが劇的に変わる物でもない。
無力な少年は掲げた理想だけが一人歩きして、いつも悩み、自身の力の無さを噛み締めていた。だが、それも無理の無い話だ。そもそも、”正義の味方”などという曖昧な物を目指すのはまるで、星を目指すのと同じ様に当ても無い道だったから。
それでも士郎は決して諦めることなく、しかし何も確かな物を手に入れることが出来ずに時間だけが過ぎていく。
——————だが。
そんな士郎の下に、大きな転機が差し掛かった。
ひょんな事から巻き込まれた、とある争い。
——————聖杯戦争。
そう、それは正しく戦争であった。
七人の魔術師と、七人のサーヴァントと呼ばれる英霊の七組による、あらゆる願いを叶えるという聖なる杯を巡る戦争。
剣の英霊———セイバー。
槍兵の英霊———ランサー。
弓兵の英霊———アーチャー。
騎兵の英霊———ライダー。
魔術師の英霊———キャスター。
狂戦士の英霊———バーサーカー。
暗殺者の英霊———アサシン。
このサーヴァントと呼ばれた英霊達はこの私をもってしても信じがたい連中だった。
英霊。
過去の英雄。
人類の守護者。
最高級のゴーストライナー。
その力は、個々の差あれど、この私の最盛期の状態に肉薄、もしくは対等と呼んでも差し支えの無い強者ばかり。中には明らかにこの私を上回るという者さえいた。
そんな最小の、しかし極大の戦争の中に巻き込まれた士郎はあまりにもちっぽけな存在だった。
力も無く、明確な目標も、ましてやその争いになんの意義を見出せもしない。
それもその筈。
この段階での士郎は、他の人間に比べれば埋もれてしまうほどの未熟さと、微かに持っている魔術しかなかったのだから。
だが、そんな無力な少年だと言うのに。
士郎は———無謀にもその争いの渦中に飛び込んでいった。
……ああ、たしかにそれは士郎らしいといえば士郎らしい。
例え、その光景が過去のもであろうとも士郎は何一つとして変わりはしないんだから。
———だが。
その実力は今の士郎とはまるで比べ物にならない程に脆弱。
当然、圧倒的な実力を誇る英霊達の前に傷付き、倒れ、何度も死の淵に瀕した。そこに映るのは———まるで死に急いでいるかのような、ただの無謀な少年の姿だった。
———記憶のノイズがヒドイ。
映像は乱れ、途中で途切れては、見ている光景が何なのか判断できないまでに乱れる場面が増えてきた。
そんな映像の中から———いや、最早それは写真と言っても良いのかも知れない。
断片的な写真が流れ始める。
”ランサーのサーヴァントに殺され掛ける士郎”。
”月明かりに濡れて煌く少女、セイバーとの出会い”。
”天敵である神父との邂逅”。
”自己憎悪を孕んだ未来の自分。アーチャー”。
”第八のサーヴァント。英雄王ギルガメッシュ”。
”白い少女。衛宮切嗣の娘、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン”。
”鮮やかな赤い同級生。天才魔術師、遠坂凛”。
”年下の心優しい後輩。妹分、間桐桜”。
”終わらない四日間”。
”慇懃無礼な被虐体質。銀の修道女、カレン・オルテンシア”。
”愚直なまでの戦闘魔術師。封印指定の執行者、バゼット・フラガ・マクレミッツ”。
”大切な誰かを自らの手に掛け、大切な誰かを救う覚悟とその葛藤”。
”過ぎた未来を否定し、自身の歩く道はその手で開くと決意したその貴い想い”。
そんな。
いくつもの写真が流れては消えていく。
私はそんな風景をただ見送るだけ。
すると、そんな写真ですら砂嵐の向こう側に霞むようにノイズが一段と激しくなり、その色を失った。
「——————」
———それでも。
そんな砂嵐の中でも私は一つでも多くの士郎の欠片を探そうと私は必死に目を凝らす。
……うっすらと。
ナニカが流れている。
それは士郎———なのだろうか? 映像が余りにも粗く、その表情はおろか姿形すら曖昧だ。
背は高く伸び、肌は浅黒く変色し、頭髪はその色彩を失い白くなっている人物は———本当に、士郎なのだろうか?
その姿はあのアーチャーと呼ばれた未来の士郎と余りにも酷似していた。
その人物がナニカをしている。
錆び付いた心と傷だらけの身体を引き摺って、それを他人には悟られまいと必死に感情を押し殺し続けながらナニカをしている。
理想と現実の狭間にその身をすり減らしながらもナニカを成そうと。
どうでもいい他人の為に命がけになり。
———そうして助けた命から、なぜもっと多くを助けられなかったのかと罵声を浴びせられ。
多くの人を助けたいから最小の犠牲でそれを救い。
———助けた多くの人たちから何故犠牲を出したのかと攻め立てられて。
それでも。
その人物は他人より少しだけ身体が丈夫だったから、その全てを受け止めて笑う。
ただ。
心は身体のように頑丈に出来てはいない。
そう見えなかったのは、ただ人間らしさを奥底に押さえ込んで無理矢理我慢していただけ。
それを何度も繰り返すうちに段々とその作業にも慣れていく。
それが他人からはたまらなく不気味に映った事だろう。理解など出来なかった事だろう。
他人から受ける奇異の視線すら受け止めて歩き続ける。
———別に。
戦うのが好きだった訳じゃない。
意味も無く強くなりたかった訳じゃない。
戦うのは脅威から人々を守るため。
強くなりたいのは誰かを救うため。
ただ、一人を助けたからにはもっと多くの人を助けたいと思ったのだ。それ以上の力なんかは必要なかった。
……しかし連鎖は止まらない。
多くの人を助けるには大きな力が。絶望の淵から掬い上げるには更に大きな力が必要だった。
ただ、それだけの話。
結果、誰かに疎まれる事になったとしても構わない。
———例え———
———その終わりが———
———報われるモノでなかったとしても———
そして。
最後の記録が霞む視界の遥か向こう側にあった。
———広大な荒野。
ギシギシと軋む世界。
無数に乱立する十字の墓標のような物体。
それ以外の物は何も存在しない空虚な空間。
そして。
そんな大地に佇む……遠い背中———。
◆◇—————————◇◆
「——————……ヴァ」
声がする。
「———……エヴァ」
その声が耳朶に心地良い。
「……おい、エヴァっ!」
「——————あ?」
気が付くと私はその声に———目の前の士郎に呆けた返事を返していた。
「いや、『あ?』じゃないだろ。 大丈夫かよお前。さっきから何回も呼んでんのに反応しないで……」
士郎が私の顔を心配そうに覗き込む。
口調こそいつものようにぶっきら棒だが、そこに込められた感情は疑うべくもない。
「そりゃ俺の記憶なんて面白くも何とも無いって分かってるけど、つまらないからってそれに文句付けられても困るからな、俺」
何事も無いように士郎が言う。
本当に何でもないかのように———言う。
「……そうだな。全く面白味の無い物ばかりで欠伸が出そうになるのを我慢するのに苦労したぞ」
私はその言葉に可能な限りおどけた様に返してみた。
「———うげ。自分で言っておいてアレだけどさ、もうちょっとオブラートに包んだみたいな歪曲的な言い方してもいいだろうに……別にいいけど」
「……ふん、まあいいさ。多少なりとも収穫はあったからな」
「そっか。それならいいけど———で、どうだった? 俺がここに来た理由とか手掛かりらしき物とか無かったか?」
士郎が顔を寄せて小声で囁く。
「いいや。そういった類の記録は無かったな。お前が言う通りアレではすでにパズルだ。それも桁外れにピース数の多い」
「うーん……まあ仕方ないか。じゃあそれなら俺の記憶をアスナ達に見せるっていう判断はどうだ? 俺じゃ何とも言えないからエヴァに一任するけど……」
そういえば、そういう話だったか。
思い返すのは先程の光景。
”あの”光景をガキ共に……ね。
「———やめておけ。あんな光景を子供に見せるのは刺激が強すぎる」
『————————』
と、私が言い放った瞬間、士郎はおろか、ガキ共もその動きをピタリと止めた。
それはまるで時が止まったかのように。
…………む、なんだ?
そんな空気の中、士郎が気まずそうに口を開いた。
「……ええとな、エヴァ。お前、その言い方だとちょっとばかし変な方向に捉えられ———」
「し、刺激が強いって……ちょ、ちょっとシロ兄っ! 一体どんな事してきたって言うのよ! うっわ、シロ兄がそんなHな人だとは思わなかった!」
「やっぱりかぁーーっ!?」
神楽坂明日菜の言葉に士郎が頭を抱えて叫ぶ。
…………ん? ———あー……言われて見れば確かにそのように捉える事も出来る言葉だったか。
「シロ兄やんのH〜!」
「し、士郎さんがそのような……い、いえ! 例え士郎さんの過去に何があろうとも私の貴方を尊敬する心に変わりはありません!」
「エロエロアルね」
「うっわ、一瞬で誤解がエクスプロージョン!?」
そして高速で波及する士郎好色説。
「…………」
……まあ、いいか。
それより今は少し一人になりたい気分だ。
士郎には悪いが暫しの間バカ話でもしていてもらおう。
ガキ共と騒がしくはしゃぐ士郎から一人離れ、テラスに腰掛ながらその光景を眺める。
「…………ふう」
———本当に、幸せそうな顔だ。
先程の私の言葉はガキ共が捉えている様な意味合いでは当然無い。
———あの光景。
確かに士郎と坊やの過去には類似点が多かった。
幼い頃に大きな災害に出会い、ただ一人の男が自分を救ってくれた。
そう言ってしまえば、ほとんどの者が同じような受け取り方をしてしまうだろう。
……だが、その実情は似ても似つかない程かけ離れている。
坊やは自らの過去を受け入れた。
それは、坊やの年齢を考えれば賞賛に値する強さなのだろう。だからこそ今の坊やの強さがあるし、年齢に見合わない精神年齢の高さに繋がっている。
そしてそれは、人としての強さであり正しさだ。
……だが、士郎は違う。
———背負ってしまったのだ。
その全てから目を逸らさずに背負ってしまった。
見殺しにした人間の重さを。
救うことの出来なかった命を。
何たる愚行。
何たる傲慢。
———だから潰れた。
———だから壊れた。
いっそ、狂ってしまえば楽だったろうに。
それでも、人として正しく在り続けようとしてしまったから余計にその歪みは広がってしまったのだ。
狂った心のままで正しい形をなぞり続けた人生。
それこそが士郎が辿ってきた道だ。
今の士郎をかたどっているその根幹だ。
奇跡のような道筋。
何が正しくて、何が間違っているのかも定かでないというのに、一度たりとも原初の心を踏み外さなかったその誓い。
「…………っ」
その尊さに思わず胸が締め付けられ、目頭に熱いモノが込み上げてくる。
だが泣いてなどやらない。……いや、泣いてはいけない。
アレは他の誰かに判断を下されるような、そんな安っぽい代物ではない。それは私であろうと同じ事。
しかし、だ。
その光景はガキ共が見ようものなら間違いなく———拒絶や嫌悪を示すだろう。
醜悪にすら見えるその自己犠牲。
不気味にも思えてしまうその在り方。
それら全てをあのガキ共は理解など出来はしない。
……いや、それはガキ共に限らず、平均的な思考を持つ人間全てと言い換えても良いのかも知れない。
人間は自分に理解できない物を忌み嫌う。
例え姿形が自分と同じでもその在り様がかけ離れているのならば同列に考えて扱わないのだ。
だからそのようなモノを人間はこう呼ぶ。
———化け物、と。
そう。
それは私と同じ様な存在だった。
私はこの存在が、士郎はその心の在り方が。
我等は共に他人に理解されず、受け入れられない。
中には、そんな士郎の在り方を批判する輩も出てくるだろう。
そんな物は間違っている、と。そこに込められた想いを考えもせずに。
そして士郎の下を離れていくだろう。
……それは私の本意ではない。
士郎だったら仕方ないと言っては離れていくガキ共を笑って見送るに違いない。
そう。本当の感情はその心の奥底に仕舞い込んで笑うんだ。
———私にはそれが許せない。
無理に笑う士郎も許せないが、ガキ共が士郎の生き様を無知にも否定するなど———誰よりもこの私が許さない。
「…………」
ガキ共と戯れる士郎の笑顔を離れた位置に腰掛け、ボーッと眺める。
———お前は。
輪の中心で困っているように、それでいて幸せそうに微笑むその笑顔。
そしてそこに集まる連中も誰一人として士郎に負の感情を抱いてはいない。
———ああ……お前はそうやって笑うんだろ?
どんな過去も未来も乗り越えて、他人の荷物を勝手に背負い込んで。
その重さで身動きすら取れなくなっても……それでも笑っているんだろ?
どんなに険しい道のりも、自分が重荷を背負う分、誰かが楽に歩いていけるならばそれで良いと。
「——————バカ」
口が勝手に言葉を零した。
そうして漸くそこに思い至った。
「———ああ、そうか」
思えば何故こうも簡単に士郎を受け入れる事が出来たのか自分でも不思議だったのだ。
初めて士郎の瞳を覗き込んだ出会いの夜、初見にも拘らず私は士郎を身近に感じた。そして、アイツが私を家族として扱った様に、私自身も士郎を家族として扱っている事にどうして拒絶感がまるで無かったのか。
その答えが、今ここにある。
……そうだ。士郎は私と似ているのだ。
それは過去に口にした言葉。
あれはまだ士郎と出会って間もない頃の話だが、あの時の感覚は決して間違ってなどいなかったのだ。
私達は姿形、ましてや考え方や歩んできた道も正反対と言って良いだろう。
私は悪い魔法使いで、士郎は正義の味方。それが変わる事などあり得ない。
だが。
上手く表現など出来はしないが、物事を捉える『高さ』が酷く似通っている。
例え、見ている方向が違っていたとしても、同じ高さで肩を並べる事が出来るのだ。
高さが合わなければ、例え同じ方向を見ていようとも同じ物は見えてこない。
しかし、高さが同じであれば見ている方向が違っていたとしても、辺りを見回せば同じ景色を見る事が出来るのだ。
そう、我等は背中合わせの鏡。
互いが互いを映すことは叶わなくとも、そこに映す景色は共に同じもの。
「———衛宮士郎」
一人、階段に腰掛けてその名を呟く。
その声は誰に届くでもなく、自身の耳朶を振るわせる。
不思議と胸に染み入るその名。
この感情が何なのかは分からない。
思慕。友愛。親愛。恋慕。家族愛。
いずれでもあるし、いずれでもない気がする。
しかし、それは些細な事。
「———ああ、士郎」
もう一度。
同じ様に発した筈のその言葉は、自分でも驚くほど優しく響いた。
「私は今、漸く真の意味でお前の隣に並べる気がするよ。そしてその事を誇りに思う。お前が隣に立っていてくれるならば、私は最強にも最弱にでもなろう」
運命などという陳腐な言葉は好きではないが、今はこの数奇な運命に感謝しよう。
生まれて初めて手に入れた家族。
———誓いはここに。未来永劫色褪せる事の無い感情を胸に刻もう。
その姿を視界に納めながら、様々な感情とともに胸一杯に息を吸い込む。
そしてその姿に声を届かせる。
「———士郎」
穏やかに響くその名。
———愛しいその名。
「ん? どうした、エヴァ」
私の名を呼ぶ。
いつもの様に穏やかな視線を私に向けながら———愛しい者が私の名を呼ぶ。
それだけで思わず泣き出してしまいそうになるほど、この心が温まる。
ああ———この感情が何なのかは分からない。
思慕。友愛。親愛。恋慕。家族愛。
いずれでもあるし、いずれでもない気がする。
だが、それもどうでもいい。
今、私は幸せなんだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ぶっきら棒な、それでいて歪んだ家族。それでも共に肩を並べることのできる家族を視界に捉えながら———そう、思った。
———士郎。なあ士郎?
お前はそうやって笑うんだろ?
どんなに傷付き、裏切られても、馬鹿みたいに笑うんだろ?
例え、結果が報われる事でなかったとしても。
例え、その事実がお前を追い詰めようとも。
ならば私はお前の側でそれを見守ろう。
どんなに傷付き、倒れ、泥まみれになろうとも、再び立ち上がるその時まで私はお前を見守る事に徹しよう。
誰かに重荷を背負わせる事を何より嫌う、そんなお前だから……私はお前を見ている事にしよう。
———だが、お前がどうしようもなくなった時、私は全てを投げ打ってでもお前を助けてやる。
お前を傷つけようとする障害を薙ぎ払い、倒れようとする身体を支え、泥にまみれる前に泥を跡形もなく吹き飛ばしてやる。
……それをお前が望むかは分からない。
だが、私がそれを望むんだ。
私がそうしてやりたいんだ。
それが、お前から貰った暖かさに報いる為に出来る、唯一の事なんだから———。