沙耶の意識は形無くふわふわと漂いながら、その光景を見ていた。
――――――――ああ。これ、また昔の夢だ
場所は沙耶の家の道場。朝に見た夢よりも更に幼い、見た目3、4歳くらいの沙耶と拳剛が、源五郎に拳術を教わっている。
年端も行かない二人の幼子はたどたどしくも、だが必死に、先生の動きを真似ていた。源五郎は慣れない動きに四苦八苦する二人を見て、しわくちゃな顔を笑顔で更にしわだらけにしながら、優しく手ほどきする
「おじいちゃん、こう?」
「そうじゃそうじゃ、上手じゃぞ沙耶」
「こうですか、せんせい!」
「おお流石拳剛!いい筋をしておるなぁ」
沙耶も拳剛も拳術を習うにはあまりに幼く、その動きはとても見れたものではなかった。だがそれでも、源五郎は自分の動きをなぞろうとする小さな二人を見て、嬉しそうに目を細めた。
――――――――私もこのころはまだ、拳術を習っていたんだよね。
記憶からも消えかかっているこの古い思い出を、沙耶は懐かしむ。
――――――――けどなんか違和感があるなぁ、なんだろ
幽霊のようにふわふわ漂いながら、周りを見渡す。道場は相変わらず塵一つ無く掃除されており、変なところはなにも無いように思える。
だが何かがしっくりこない。
――――――――なんだろこれ、なんかウチの道場っぽくないっていうか
そもそも今見ている夢が奇妙だった。いつも見る夢は中学生の頃の記憶。古くたってせいぜい、今朝の夢ように小学生くらいのときの記憶だ。
だが今沙耶の意識が見てるのは幼稚園に入るか入らないかくらいのときの思い出だ。つまり、普段見る夢よりもはるかに昔の記憶なのだ。
道場を隅から隅まで、もっと良く観察する。そして沙耶はようやっと何がおかしいのかに気づいた。
道場の真正面にかけられている掛け軸の文字が違うのだ。
――――――――掛け軸の字、「道」になってる!?
沙耶の記憶では、掛け軸の文字はずっと「乳」だった。それが沙耶の目の前のそれの字は「道」。
あの祖父が、そんなまともな掛け軸をかけるとはとても思えない。ならばこれは沙耶の作り上げた勝手な妄想なのだろうか。だが彼女の冷静な部分は、これが確かにかつてあったことだと告げていた。
―――――――んんん? 一体どういうことだろ
訳がわからない。あの祖父にも、一時間に一回は「おっぱい」と口に出していた、おおよそ救いようのない乳狂いだったあの人にも、正気だったときがあったということなのか。夢の中の三人に意識を戻すと、丁度幼い頃の拳剛が掛け軸の文字について質問しているところだった。
「せんせい、あそこの文字はなんて書いてあるんですか?」
「「みち」じゃ」
「みち?あの車が走る「みち」?」
「まあそうじゃが、意味がちょいと違うの。」
幼い沙耶は首を傾げる。
「じゃあ、あの「みち」はどういう意味なの?」
「あれは、東城流の技法の在り方を示しておる。すなわち気脈と肉体を視る『心眼』にて道を読み、『通し(とおし)』にてその道を突く。
かつての東城流の当主たちはこの『心眼』と『通し』を用いて、無手で甲冑を身に纏う侍すらも制したと言う」
―――――――あれ、お爺ちゃんが言っていることも微妙に違うな
確か沙耶の記憶では、東城流の二本柱は『通し』と『内視力』だったはずだ。内視力と心眼では言っていることが微妙に違う。
「もっともこの心眼にも欠点は有っての。気脈の中心はへそに有る丹田、肉体の中心は胸の心の臓にあるので、気脈と肉体を同時に見切ることはできん。あちらを立てればこちらがたたず、と言うわけじゃ。
ここらを上手く改良できればよいのじゃが、まあまず無理だろうのぉ。」
―――――――拳剛の内視力は確か、胸だけを見て両方同時に見切れたよね。
つまり沙耶の祖父は、こんなことを言ってはいるが、心眼を改良したのだ。
「既に完成した技法の改善には、途方もない時間と労力が必要じゃ。じゃがワシくらいの年になると老い先短く体力もないから、それも叶わん。
命がけで、死に物狂いでやればあるいは可能かもしれんが、天下泰平の今の世でそこまでする理由など無いしのう。」
だが実際には『内視力』は開発された。それはつまり、命がけで、死に物狂いでそれを成さねばならない理由が、祖父にはあったと言うことだ。
だが沙耶にはその理由が思いつかない。
「東城流も、途絶えさえしなければそれでいいと、ワシは思っておるよ………とと、二人にはまだ、難しい話だったかの?」
「うん、よくわかんなかった」
「…………ぐぅ。」
幼い沙耶は素直に頷く。拳剛は寝ていた。
「おや拳剛、居眠りかの?まったく自分から質問しておいて、こやつという奴は」
そう言って源五郎は、優しく拳剛の頭を撫でた。
そこで夢の映像は途切れる。
夢と現のまどろみの中で、沙耶は思考する。
この記憶が正しければ、東城流が今の技術体系になったのはつい最近のことらしい。沙耶はてっきり祖父は真性の変態で、当主になってすぐに技法の改ざんを行ったのだと思ったが、どうやら違うようだ。
何か理由があるのだ。老いてなお、多大な労力をかけ、死に物狂いになってまで、東城流の技を変えなくてはならなかった、重大な理由が。
だが沙耶にはそれがわからない。
―――――――お爺ちゃんに、一体何があったんだろう?きっと何かあったんだ、私の知らない、覚えていない、なにかが。
それは一体なんなのか。たった一人の肉親に、何が起こったのか。それを沙耶は知りたい。
答えを探すため、より深く夢のなかへ潜り込もうとした―――――その時。
「おいコラ東城!起きろ!!一限から寝てんじゃねえ!!」
「は、はひっ!!?」
耳をつんざくような大音量によって、沙耶は夢の世界から引き上げられた。