疾走する沙耶と拳剛の正面に、ようやく校門が現れた。沙耶たち以外にも、チャイムが鳴る前に教室に滑り込まんとする生徒がまだ結構いる。皆が皆小走りで校門を駆け抜けていた。
「ギリギリか!」
「いやまだ後三分あるよっ、楽勝だね!」
校舎のてっぺんにある時計は8時27分を指し示している。沙耶と拳剛のクラスである2年A組は校舎の2階だが、教室は下駄箱正面の階段を上ってすぐの位置にある。なので、このまま行けば余裕でセーフだ。
正直今朝は色々あったので、沙耶としては早く教室で休みたかった。確かに、元々彼女は拳剛と一緒に居ることが多いため、面倒ごとに巻き込まれることも多い。具体的に言えば乳派vs尻派の抗争とかである。しかし今日はいつもにもまして精神を磨耗させる出来事が多かった。一刻も早く休息を取る必要があるのだ。自然とペダルを漕ぐ足にも力が入る。
と、そこで拳剛が何かに気づいた。
「うむむ?」
「どうしたの拳剛?」
「いや、校門の前の空間に妙な空白地帯が……」
沙耶も校門の前を見る。確かに校門の真正面だけ、人の流れが避けられているスペースがあった。
どういうわけかと思ったが、よく観察するとその理由が分かった。中心に男がいるのだ。それも普通の男ではない、誰もが一目見るだけで異常であると分かる、そういう類の人間だ。
推定年齢40歳。痩身だが拳剛に匹敵するほどの長身で、顎と口元に立派な髭をたくわえている。黒髪黒目でおそらく日本人のはずだが、顔の彫りは深く、ギリシャ時代の彫刻を思わせるような美丈夫だ。顔だけを見れば、ハリウッドに出ていても違和感はない。お城で玉座に鎮座する大魔王の役なんかが似合いそうな雰囲気である。
しかし異様なのはそこではない。
異常なのは、どういうわけかその男が、高校指定の学ランに身を包んでいると言うことだ。
高校生の制服に身を包んで、笑みを浮かべながら佇むラスボス風髭面男。
紛う方無き変質者だった。
拳剛の額に冷や汗がたらりと流れる。
「……あのおっさんはあれか、コスプレという奴だろうか?それともただの変質者か?」
「さ、さぁ。とりあえず近づかないようにしよう。これ以上なにかあったら、もう時間もないし、」
そして何より沙耶の理性が持たない。今日今までに起こった出来事だけで、もう既に沙耶の許容量を越えかかっているのだ。道場破りとか爆乳受身マスターとか乳無し牛乳お姉さんとか。
さしもの沙耶も、これ以上負荷がかかれば倒れかねないレベルだった。というか、普通の高校生であれば既に正気を手放しているだろう
「だな。」
長い付き合いの拳剛も、この(相対的に)小さな幼馴染が割と無理をしていることは見抜いていたため、その言葉に頷いた。
二人は目を合わせぬよう、校門の前に佇む髭面の横を通りすぎようとする。校門を抜け、その先の下駄箱に向け、足音を殺し歩く――――――
が、駄目だった。
「やあ。待っていたよ、等々力拳剛君、東城沙耶君」
変質者(仮)が、二人の名前を呼んでいた。
「………拳剛、呼ばれたよ」
「うむ、沙耶もだな」
二人とも聞こえたと言うことは、どうやら空耳や聞き間違いではないようだ。
よりにもよって変質者に名指しで呼ばれるとは。悪夢である。しかし残念ながら夢ではない。沙耶はこのまま昇降口までダッシュで逃げようかとも考えたが、
「やれやれ、面倒な」
と、拳剛が頭を搔きながら校門へ引き返すのを見て、踏みとどまった。
「い、行くの!?」
「ご指名だ、仕方あるまい。沙耶は先に行ってくれ、もうホームルームも始まるのでな」
珍しく、真剣な声色だった。拳剛は明らかに、あの髭面を警戒している。どうやら沙耶には分からない『何か』が、あの変質者(仮)にはあるようだった。
正直彼女からすれば、いい年して学ランを着込んだただの変態にしか見えなかったが。
「……いや。私も呼ばれてるし、行くよ」
変質者(仮)に、関わらなくていいならそれに越したことはない。だが昨晩の道場破りの件もあるし、沙耶はこの破天荒で危なっかしい幼馴染を放って行きたくはなかった。
「……そうか、なら俺の後ろを離れるな」
「う、うん」
沙耶はかばう様に前を歩く拳剛の袖を、ギュッと握り締める。
怒気をはらんだ声で、拳剛は髭面に問いかけた。
「何か御用か。時間も無い。正直、此方はお前のような奇奇怪怪な格好をした者とは、係わり合いになりたくないのだが?」
拳剛の射るような視線を受けてラスボス風髭面は心外そうに、だがその不気味な笑みは崩さずに、言う。
「おや、連れないことを言うのだね。私は朝からずっと君達が来るのを待っていたというのに。」
この瞬間。沙耶の中で目の前の髭面は、変質者(仮)から変質者(真)へと格上げされた。朝からずっと待ち伏せとか、ストーカー以外の何者でもない。多分110番通報しても問題ない。
拳剛はどうやら髭面を警戒しているようだったが、正直、沙耶はこの男がもうただの変質者にしか見えなくなっていた。
「それに、格好のことならば君にだけは言われたくはないのだがね」
まあ、それは確かにそうだ。
拳剛は身長が2mちょい、体重も120㎏を越える。こんな巨体に合うサイズの制服など無く、そのため拳剛の学ランは常にぱっつんぱっつん。今にも弾け飛びそうな様相を呈している。ちょっとアレな格好だ。
だが、髭面とは違い拳剛はれっきとした高校生。四十路で学ラン着込んでいるオヤジよりはよほどマシだろう。
飄々と構える髭面を、拳剛はギラリと睨みつける。
「御託は良い。用件を言え」
「そう構えないでくれないか。私はただ挨拶に来ただけだよ。かの鬼才、東城源五郎の孫娘と愛弟子にね。」
そう言って、ラスボス風髭面は微笑んで二人を見つめた。
背中に悪寒が走る。多分変態に見つめられたせいだろう、と沙耶は思った。
「………そうか、なら顔見せは済んだだろう、もう用は無いな。俺達は行かせてもらう」
「行ってしまうのかい?残念だな、例の内視力とやらをこの目で見たかったのだが」
「!?一門の秘伝である内視力のことを、何故貴様が知っている!?」
「そんなに驚くことはないよ。今は廃れたとはいえ、君の一門は良くも悪くも有名だ。正確には先代・東城源五郎が、だがね。
だからまあ、その程度の情報を得るのは容易い」
どうやら沙耶の祖父の名声(あるいは悪名)は、沙耶が思っているよりも世に知れ渡っているようだった。その一門の血を継ぐ最後の一人としては喜ぶべきことなのだろうが、知れ渡っている中身がアレなのであんまりうれしくない。
「ば、馬鹿な………」
拳剛は髭面の言葉に瞠目する。よもや、一門の奥義の情報が外部に漏れているなどとは思っていなかったのだろう
だが沙耶は知っている。秘伝とか言いながら、拳剛が喧嘩のたびに内視力のことを懇切丁寧に相手に説明していることを。
秘伝もなにもあったものではない。
驚愕する拳剛の表情を見て髭面は満足そうに笑みを深めた。
「まあ潰れかけの一門の技など、取るに足らないかもしれんがね」
「…………ならば試してみるか?」
一触即発。拳剛と髭面の間の空気が一気に張り詰める。沙耶はお空を見ている。
「ゆくぞ………!」
「来たまえ………!」
両者がまさに激突せんとする、まさにその時だった。
「―――――警備員さん!こっち、こっちです、そこに変質者が!!」
「あ、アイツ逃げるよ!早く早くっ!!」
「はいはい分かりました、ちょっと待ってねぇ」
生徒に呼ばれ、老警備員が参上した。八雲第一高校の愛と平和を守る正義の使者は、つかつかと髭面へ近づくと、その腕をがっちりホールドする。
「はいはいあなた、ちょっと話を聞かせてもらっても良いですかね」
「?なにかねご老体?」
「いやね、あなた早朝からずっと、その妙な格好で校門の前で立っているそうじゃないですか。困りますねぇ、生徒が怯えているんですよ。
敷地内じゃないとはいえ、こういうことされて学校側としても黙っている訳にもいかないんでねぇ。」
もっともである。むしろ警察が呼ばれなかっただけ、髭面は運がいいと言えるかもしれない。
「まったく、いい年したおっさんが学ランなんか着込んで。こんな田舎町にまで変質者がでるなんて、世も末だよ。」
「いや、私はこの学校の生徒なんだが。転校してきたのだよ。ほら見たまえ、生徒証も」
髭面はポケットから生徒証出す。どうやら、どういう訳か本物のようだが、しかし警備員は取り合わない。
四十路の髭面相手では、まあ当然であろうが。
「はいはいはいはい馬鹿言ってないで。ここは高校ですよ?高等学校。青少年が勉学に励む神聖な場なの。わかりますか?
話は警備室で聞きますからねぇ。まったく、家族が泣くよアンタ」
「いや、ちょ、待っ………」
「ほらキリキリ歩いて」
片手をがっちりホールドされ連行されて行く髭面は、自由な方の手をビシリと拳剛たちに向け、
「――――――また会おう、等々力拳剛、東城沙耶」
そしてそのまま警備室のほうへ連行されていった。
「強敵、だった。」
――――――それは強力な変態という意味だろうか。
なんとも、朝だけでどっと疲れた沙耶であった。
下駄箱で靴を履き替え、二人は教室へ向かう。
「も、今日は疲れた。」
「はっはっは、まあ今日は朝から色々あったからな。無理もない。」
「お願いだから、自分もその原因に多分に含まれていることを自覚して」
拳剛がその行動を自重してくれれば、沙耶の心労は8割削減されるのだ。
「うむむ?それは済まないな、ではクラスの皆と励ましてやろう!!」
「え?い、いや、それは――――――」
「それはいいよ」、と言おうとするが、時既に遅し、後悔先に立たず。
予想の斜め上を三段跳びしながらマッハで跳んで行くこの男と会話するには、常に慎重を期さねばならないのだということを、沙耶はすっかり忘れていた。
うっかりうかつなことを言おうものなら、予期せぬ形でカウンターを喰らいかねない。そしてそれは、まさに今がそうだった。
「よし、行くぞ――――――」
「いや、ちょ、待」
沙耶の制止むなしく。
拳剛はクラスの扉を勢いよく開いた。
「あっぱーい」
そして珍妙な掛け声を発しながら、拳剛が教室に入室する。
――――――いっぱい!
『教室の半分』がその挨拶に高らかに返す。
その大音量に、拳剛も負けじと拳を突き上げ、声を張り上げる。
「うっぱいっ!!」
――――――えっぱい!
拳剛の渾身の叫びに、今度は廊下の端から端まで届くような大音量で答える同志達。
その熱い思いに答えるべく、拳剛は全霊を振り絞り、叫ぶ――――――
「おっっっっぱい!!!!!!」
――――――YEAHHHHHHHH!!!!!!!!!!
拳剛の、そしてクラスメートの、乳を愛する者達の絶叫が。全校に高らかに響き渡る―――!!
『男子五月蝿いッ!!!!!』
そしてクラスの残り半分によって鎮圧される。
「ここが地獄か………」
沙耶に安息の地はない。
そしてHR。
若くて爽やかイケ面だが空気を読まないことに定評のある担任が教室に入ってくる。
手早く出席を取ると、担任は話を切り出す。
「えー、こんな時期だが転校生だ。しかも4人」
教室はざわつく。拳剛は寝ている。そして沙耶の額からは冷や汗が垂れる。
転校生というワクワクイベントで、嫌な予感しかしないのは何故なのだろうか。
「男子も女子も喜べ!転校生は全員かなりの美男美女だ!詳しくはその目で確かめろ
さ、4人とも入ってくれッ!!」
扉をくぐり、4人の転校生がその姿を現す。
竹刀袋を引っさげた、黒髪ポニテの爆乳受身マスター。
胸部に一切の余分の存在しない、金髪青目の牛乳お姉さん。
推定年齢40歳。警備員に捕獲されたラスボス風髭面。
後、イケ面だがどこか小物臭漂う金髪優男。
そして、沙耶は思考を放棄した。
嵐が、静かに、だが確実に、がっつりと、直撃コースで。そこまで迫っていた。