屋上を飛び出した二人は、敵の指定した工場へ向け疾走していた。なるべく人目に付かないルートを拳剛が先導し、そのすぐ後を太刀川が追う。
走りながら拳剛が太刀川に尋ねた。
「太刀川。お前は敵のことを、憂国隠衆とやらのことをなにか知っているのか。奴らは一体何者だ」
つい先ほど、『憂国隠衆』の名を聞いた時の太刀川の態度を振り返る。あれは確かに、なにか知っている反応だった。
到着まではまだ少し時間が掛かる。集められる情報は集めておいたほうが良いと、拳剛はそう考えていた。
一方の太刀川はといえば、拳剛のその問いは意外であったらしく、少しばかり驚いたような表情になる。
「お前は龍脈の鍵の守護者だというのに、憂国隠衆のことを知らないのか。ということはもしや、護国衛士のことも先代からは聞いていないのか?」
「……ああ、俺が先生から託されたのは『鍵』だけなのでな」
拳剛はその問いに少しためらってから、多少ぼかしてて答えた。
太刀川は拳剛の事を龍脈の鍵の番人と勘違いしている。そのためかは知らないが、太刀川はどうも、拳剛が彼女達の事情を全て把握していると思っているようだった。
だが実際はその逆だ。拳剛は護国衛士のことも憂国隠衆とやらの事も知りはしない。
あるいは本来ならば、龍脈の鍵の守護者ならば知っていなくてはいけない情報なのかもしれないが、知らないものを知っているように振舞えるほど、拳剛は器用ではなかった。
とりあえず、太刀川相手には『龍脈の鍵を持っているが、それ以外の情報は知らない』というような形で振舞うことに決める。後者は真実、前者は大嘘だ。
先生が何故、周りが勘違いするような形で拳剛に『蔵の鍵』を託したのかはわからないが、わざわざそんなことをしたのならば、それにはやはり何か意味が有るのだろう。その真意が掴めるまでは、何とか誤魔化して行く他ない。
もっとも沙耶に言わせれば、拳剛は嘘がとことん苦手な男である。ちゃんと嘘を突き通せるかは甚だ疑問であったが。
拳剛のそんな内心をよそに、太刀川は得心が行ったかのように頷く。
「なるほど、どうやら先代はこちら側のことは何も伝えてはいなかったらしいな。守護者としての役目を果たせればよいと考えていたのか、あるいは……」
少しばかり無言で考えた後、太刀川は再び口を開いた。
「ならばまず、我々のことから説明せねばなるまい。
そもそも私達護国衛士は、古来よりこの国の霊的な守護を担ってきた組織の一つなんだ。」
「霊的な守護?」
科学万能のこの平成の世においてあまり常識的ではないその言葉に、拳剛は少しばかり眉を顰める。
「超常的な災厄、いわゆる妖怪変化や魑魅魍魎の類等に対する防衛のことだ。
もっとも現代では物の怪などはめっきり数が減ったから、そういった組織も随分と少なくなってはいるが。」
「……にわかには信じがたいが」
「まぁ、そうだろうな」
渋い顔をする拳剛に、太刀川は苦笑する。
拳剛はぽりぽりと頭を搔くと内視力を発動し、真偽を確かめるべく太刀川の胸を注視した。
「……妄言の類ではないようだな」
「どどど、どこを見て言っている!」
心拍数に変化はない。少なくとも太刀川本人には嘘を言っているつもりはないようだ。
が、肝心の憂国隠衆とやらの説明がなかった。
「で、それが敵の正体と関係あるのだ?」
拳剛が続きを促すと、太刀川は少しばかり言いにくそうに口を開く。
「……東城沙耶を攫った一団、憂国隠衆もまたこの国の守護を担う組織なのだ。
もっとも前線で戦う護国衛士とは違い、隠衆の活動は支援任務が主だが」
「つまりお前達は、奴らの仲間だと?」
太刀川の言葉に拳剛の声色が、僅かに怒気を孕んだそれに変わる。
その変化に気圧されることなく、太刀川は拳剛の言葉を静かに否定した。
「少なくとも今は違う」
「?どういう意味だ」
拳剛は、思わず首を傾げた。
どちらも妖怪退治が専門。更には片方が前線部隊で、片方は支援部隊だという。
ならば、二つの組織は協力関係あると考えるのが妥当だが、太刀川はそれを否定した。
そんな拳剛の困惑を見て取ったのか、太刀川は説明を続ける。
「最近この辺りで、よく事故が起きているのは知っているな」
「ああ、ニュースでやっていたな。」
今朝のニュースでやっていただけでも、青南町と浜崎通りでの事故の二つ。日を遡ればもう幾つか、この辺りで話題になった事故があったはずだった。
「だが、それがどうしたというのだ?」
「災厄の頻発には原因がある。龍脈に穢れがたまっているのだ。このまま穢れが蓄積すれば、事態は更に悪化するだろう。」
「具体的には?」
「天変地異が起こる」
「これまた……大仰だな」
天変地異。太刀川の口から出た発言に、拳剛は思わず瞠目する。
人間の場合、気脈が弱ると病になったりする。世界そのものの気脈である龍脈の場合は、大地そのものが危険な状況になるということらしい。
成程理に適ってはいるが、どうやら事は拳剛の思った以上に大事のようだった。
「大仰ではないさ、龍脈とはいわばその土地の生命線だ。それが正常でなくなれば、そのくらいは起こる。
だから、結局のところ護国衛士も憂国隠衆も目的は同じなんだ。つまり龍脈の浄化だな。そのために我等はお前の持つ鍵を必要としている」
そこまで聞いて拳剛は、おや、と思った。
「目的が同じならば、やはり協力すればいいのではないか」
太刀川の話を要約すれば、二つの組織はどちらもこの地の平穏のために戦っているという。
ならば結束して事に当たったほうが、効率がいいはずである。
「目的は同じだ。だがその方法で意見が対立した。」
そう言って首を振るうと、太刀川は指を二本立てる。
「龍脈の浄化する方法は二つある。
一つが龍脈を全開に解放し、濃度をあげることで穢れを『顕現』させて、穢れの『化身』を討つ方法。
もう一つは『化身』が『顕現』しないギリギリのレベルで龍脈を解放し、小規模な災厄を連発させることで徐々に浄化する方法だ。
我々は前者、隠衆は後者の手段を選び、そこで意見が対立した。」
そこまで聞いて、拳剛はようやく得心が行った。化身とか顕現とかはよく分からないが、つまるところやり方に食い違いがあったらしい。
目的は同じでも、そこに至る手段で意見がぶつかったというわけだ。
「だから仲間ではないと」
「ああ、我等は同じ目的を持つ敵同士というわけだ。納得したか」
「……まぁ嘘ではなようだな。」
再び太刀川の胸を見る。鼓動は平常、嘘は言っていないだろう。
「だ、だからお前はどこを見ているッ!」
「俺が見るのはいつだっておっぱいだ。……見えたぞ、目的地だ。」
拳剛が乳から目を離し指差す。距離500メートルほど遠くに、指定された工場があった。
「さて、まずは敵情視察と行かせてもらうか」
「どうするつもりだ?」
「『視る』」
そう言うと、拳剛は内視力を発動する。それを察した太刀川は咄嗟に手で胸を隠すが、レントゲンも真っ青な拳剛の眼力の前では残念ながら無意味である。
乳大明神の渾名に恥じぬ透視力により、太刀川はおろか、遠く工場内にいる者達の乳までが露になる。
おっぱいと男っぱい。その数30。
そして拳剛が更に内視力を集中すると、工場の真ん中で力強く輝く光が見えた。
「敵の数は30程だな」
「この距離でも見えるのか」
「無論だ、内視力を飛ばすのは乳への強き渇望。この程度ならばなんでもない。視る数が増えると、ココが少々疲れるのだがな」
そう言って拳剛は頭を指でコツコツと叩く。太刀川の額に冷や汗が一筋が流れた。
「渇望ってお前それ、性よ………いや、何でもない」
「敵は男のほうが多いようだな。太刀川の例もあるし、もっと女性比が高いものかと思っていたが、思いの他おっぱいは少ない」
「そ、そうか」
知らずの内に乳を覗かれている敵が少々不憫だった。
太刀川、少々顔を赤くしつつ拳剛に問う。
「さ、策があるといったな、どうするつもりだ。
衛士の仲間達も此方に向かっているが、頭数が揃った所で人質を救出しないことには手の出しようがないぞ」
その言葉に、拳剛少し間をおいて話始める。
「俺が、内視力を使うことによって人体の動きを先読みできるのは、前に話したな」
「ああ」
太刀川が頷いたのを見て、拳剛は続ける。
「例外的にそれができない相手がいる。沙耶がそれだ。あいつは乳周りの気脈が異形なので、内視力を使っても眩しくておっぱいが良く視えん。」
「それで?」
「が、逆に言えばそれは、それだけ沙耶の反応に特徴があると言うこと。
つまり、内視力の届く範囲であれば、どんな遠くからであっても沙耶の居場所を探知可能だということだ」
「……成程」
太刀川が頷く。
拳剛は木の枝で地面に簡単に、外から見える工場の概略図書くと、ど真ん中に×印つけた。続いて入り口の付近に丸を5つ描き、中心の×印を囲むように点を25個描く。
「沙耶は丁度工場の真ん中辺りにいる。敵の大半はそれを守るように囲み、数名が入り口の警備をしているといったところか」
拳剛、ぺけ印指差す。
「囚われている場所が分かっているのなら、話は簡単だ。
沙耶のいる場所へピンポイントにつっこむ。位置関係的に、天井を破って上から飛び込むのがベストだろうな。
拳の間合いに入ってしまいさえすれば、たとえ沙耶の首筋に刃が当てられていたとしても、俺ならば奴らのどんな動作よりも速く沙耶を助けだせる。
とにかく、近づけさえすればこちらの勝ちだ。救出し次第脱出する。」
「単純だな。それが策と呼べるのか」
呆れたように、太刀川小さくため息をついた。
「とはいえ人質の場所が正確にわかるのは、確かにアドバンテージだ。奪還はその方法で行くしかないだろうが……だが一つ問題がある」
「む、なんだ?」
「直接対決で前線部隊の衛士や、あるいはその衛士と張り合えるお前に勝てないことは、隠衆とて百も承知だ。迂闊に懐に入られ不意を突かれぬよう、対策くらいはしている。
工場の周りを良く見てみろ。何かあるのに気付かないか」
拳剛は目を凝らす。見難いが、光の粒子が膜を形成し、工場全体を覆っているのがわかった。
「何だあれは……壁?」
「結界という奴だ。侵入者を防ぐためのものだろう」
太刀川が工場の図に、全体を囲むように円を書き加える。
「見たところ、工場を囲むようにして張られているようだ。隠衆はそういった補助の術に長けているからな、あの守りを破って侵入するのは困難だろう。」
「結界か、面妖な技を使うな。破壊方法は無いのか」
拳剛の言葉に、太刀川は多少悔しそうに首を振るった。
「認めたくは無いが、ああいった類の術において隠衆は我々より遥かに優秀だ。相当堅固な結界のようだし、物理的手段では難しいだろう。
一番確実なのは術者を倒すことだが、当然結界の中にいるはずだ」
太刀川はそう言って円の中を指し示す。
それを見て、拳剛は歯噛みした。
「実質破壊は不可能、ということか。クソッ、手詰まりだ」
怒りのままに拳を地面に叩きつける。
拳剛にできるのは、忌々しげな瞳で沙耶のいる場所を睨みつけることだけだった。
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時は少し遡り。
拳剛たちが到着するよりも僅かに早く、とある二人が工場の近くに到着していた。
学生服に身を包んだ男女。欧風貧乳美少女・風見クレアと、髭面こと黒瀧黒典である。
クレアは工場を見つめながらつぶやく。
「憂国隠衆は東城さんを人質に取りましたか」
「薄井エイジとか言ったか、まさか学び舎で事を起こすとはな。小物と捨て置いていたのが裏目に出たか」
黒典のその言葉に、クレアは深々と頷いた。
「東城さんを攫って学校を出るときも、彼は護国衛士はおろか私達にすら気取らせなかった。すばらしい隠行だわ。
先にアジトを掴んでいなければ私達も撒かれていたでしょう、流石は憂国隠衆ということかしら」
「格下と見なした相手には、誰しも油断し隙ができる。この私ですらね。奴はそこを突くのが上手い。
さて、どうするね『党首殿』」
黒典が笑みを浮かべクレアを見る。
クレアは僅かな沈黙の後、静かに口を開いた。
「巨乳党としては、護国衛士とも憂国隠衆とも事を構えるつもりはありません。少なくとも今はまだ」
「ならば静観かね」
黒典の問いにクレアは、いいえと首をふるう。
「東城さんは我等同志になれるやも知れぬ人。その彼女の危機を、黙って見過ごすことはできません。
けれど等々力君はともかく、衛士である太刀川さんとの共闘は難しいでしょう。ですから……」
「悟られぬよう援護する、というわけか。やれやれ骨の折れることだ。」
言葉を継いで、黒典は肩をすくめる。
「お願いできますか、『同志』黒典」
クレアが黒典の瞳をまっすぐに見つめた。
黒典はいつもの怪しい微笑を浮かべると、顎を撫でながら応える。
「ほかならぬ党首殿の頼みとあらば、断るわけにもゆくまい。幸い党首殿の『風』で二人よりも先回りできた、悟られぬように、やってやれぬことは無い。」
「ならば黒典さんは結界の破壊をお願いします。等々力君達もつい先ほど、此方に着いた様子。今は結界で足止めされているようですが」
そう言って、クレアが拳剛たちのいる方向を見やる。どういうわけか彼女は、拳剛と太刀川の動向を完全に把握しているようだった。
クレアの言葉に、黒典は好都合だとつぶやく。
「ならば丁度良い。結界の消失で奴等が浮き足立っている隙に、二人には突入してもらうとしよう。他の護国衛士の動きは?」
「太刀川さんから連絡を受け、ここへ向かっているようです。二人よりも少し送れて到着するかと」
「あまり長居すると、衛士に見つかる可能性があるということか」
黒典の言葉に、クレアは小さく頷く。
「ええ、ですから黒典さんは結界を破壊し次第、離脱してください。
私は気取られぬよう二人について行き、援護に回ります。」
「承知した」
「では、御武運を」
クレアがその別れを告げると同時、二人の間に突風が吹き荒れた。
そして風が止んだ後、そこにクレアの姿はなかった。さながら風が攫ったかの様に、そこに彼女のいた痕跡は全く残っていなかった。
党首を見送った黒典は、その怪しい笑みより深め、不敵に笑う。
「さて私が手を貸せるのは一度きりだ。機を逃すなよ、等々力拳剛。」
黒典の体から大量の黒い粒子が一気に吹き上がる。
淡い燐光に包まれながらも何故か中心はどす黒いその粒たちは、空中で一塊になると、工場を守る結界へと襲い掛かった。
***********************
「!?等々力、見ろ!結界が消えた」
「何だとっ!?」
突如として、工場覆っていた光の粒子が消滅していた。
突然のことに一瞬呆然とするが、拳剛はすぐに獣染みた笑みを浮かべる。
「好機か!」
「待て!罠の可能性もある」
今にも飛び出さんと筋肉を膨張させる拳剛を、太刀川が咄嗟に制止する。
だが拳剛は首を振った。
「構わん!どうせあの厄介な光の壁があっては救出は不可能だ。ならば罠を承知で行くしかなかろう!」
「……出来れば他の衛士たちと合流したかったが、仕方ないな」
太刀川はため息つくと、竹刀袋から刀を取り出す。
そのまま空いている片手で印組むと、太刀川の体は光の粒子で覆われた。粒が収束し昨晩の時の様な甲冑が現出する。ほんの数秒で、太刀川はセーラー服の女子高生から、昨晩と同じ鎧武者へと変貌を遂げた
特撮ヒーローの変身シーンのような珍妙な光景に、拳剛は思わず眼を見開く。
「これまた面妖な。手品か?」
「あの結界と同じような術だ。即席ゆえ、流石に強度は劣るがな。さぁ往くぞ等々力!」
「応!つかまれ太刀川!」
太刀川が肩を掴むと、拳剛はそのまま彼女を背中に乗せて疾走を開始する。僅か数歩で音の壁を越えると、拳剛はそのまま空高く跳躍した。
目指すは沙耶。導(しるべ)は彼女の輝くおっぱい。
距離にして500メートルを、走り幅跳びの要領で一気に詰める。
「沙耶アァァァァァァァッ!!!」
咆哮と共に、拳剛の拳が工場の壁をぶち破った
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沙耶は夢を見ていた。
普通に見るあやふやなものとは違い、妙に鮮明なその夢は、どうやらまた昔の記憶の回想のようだった。
最近はよく昔の夢を見るなと沙耶思う。
意識だけが宙を漂って、俯瞰的に景色を見ている。幽霊のようにフワフワと浮かびながら、沙耶はキョロキョロと辺りを見回す。しばらく探すと、案の定昔の自分を発見した。
(……えっ!!?)
そして沙耶は息を呑んだ。そこにいた幼い自分は、胸から大量に血を流して倒れていたのだ。
幼い沙耶の胸部には、深い裂傷が見て取れた。その傷から常では無い量の血を流す昔の自分の横で、祖父が半狂乱になりながら何か叫んでいる。
胸からとめどなく流れる鮮やかな赤色の血液、傷が心臓に達しているのかもしれない。血の気が完全に引き、全く生気の無い幼い沙耶の顔。アレだけの血を流せば、どんなに急いで医者の下に行っても、いや、そこが病院であったとしても絶対に助からないだろう。
(なにコレ……!!?)
夢の中の沙耶の背格好から見るに、これは多分小学校に入る前後の記憶だ。
朝見たのは小学校の頃の夢、学校で居眠りしているときに見たのは幼稚園の頃の夢。だから今見ているのは、丁度その間くらいのときの記憶ということになる。
そういえば髭面さんによれば、祖父が変わったのも確かこの時期だったそうだが。
だが、沙耶にはこんな記憶はない。
第一、沙耶は『今も生きているのだ』。本当にこのような全身の血を流しきるような大怪我を負ったのだとしたら、沙耶が今も生きているのは理屈に合わない。
ならばこの夢は、嘘っぱちの記憶なのだろうか。だが沙耶の直感はそれを否定している。
覚えてはいないが、これは確かにあったことだと、心のどこかが告げる。
(一体、どういうこと………?)
もちろん、ただの夢という可能性も十分ある。
だが仮にもしこれが本当にあったことだとするならば。沙耶が助かった理由があるはずだ。あれほどの大怪我を負ってなお、生き延びることのできた理由が何かある。
だが沙耶に心当たりは無い。アレだけの血を流した、いわば半死人の様な者を生き返らせることなど、それこそ魔法でも無い限り不可能である。
(……魔法?)
と、そこで気付く。
魔法そのものは知らないが、それに近いものならば沙耶は知っているのだ。岩をも砕くパワー、鋼のような頑強さ、風のような俊敏さ、そういった人知を越えた能力を肉体に宿らせる力。
祖父や拳剛の使っていた、『気』だ。強い『気』の力があれば、このような大怪我を負っても生き延びることができるかもしれない。
と、そこまで考えて首を振るう。沙耶は拳剛とは違い気脈の扱い方を知らない。気の力で回復するのは不可能だ。
ならば一体これはどういうことなのだろうか。
(な、なにがなんだかさっぱりだよ)
突然のことに、沙耶は思考の迷宮に陥る。といっても答えなど見つかるはずもない。
知らないものは知らないし、分からないものは分からないのだから。
(あれ?ていうかそもそも、なんで私寝てるんだろう)
現在の記憶の紐を手繰る。
確か、学校でお弁当を食べて。
薄井エイジを保健室に届けに行って。そのエイジが何か変なことを言っていて。
そこで意識が途切れたのだ。
(薄井君になにかされて、それで気を失ったんだっけ)
そうだった。エイジに何かされ、それで沙耶は意識を失ったのだ。そこらへんのところは記憶があいまいだが、あるいは薬でもかがされたのかも知れない。
確か彼は『鍵』がどうたら言っていたはずだった。ほぼ間違いなく、拳剛の持つ鍵のことだろう。
(薄井君は鍵って言うのを欲しがっていて。その鍵は拳剛が持っていて。それで私は拳剛の幼馴染と………あれ、もしかしなくてもピンチ?
………………………………………………………お、起きなきゃまずいじゃん!!?)
そこまで思考が至り、沙耶は咄嗟に夢から覚めようとする。
が、どうやったらいいのか分からない。フワフワ漂う体で頬を抓ってみたり、あるいはビンタしてみたりする。が、一向に眼が覚める気配はなかった。
(あわわわわわわ、起きられないよ!!?どうしよどうしよどうしよ………)
抜き差しならぬ状況に、沙耶の焦りが頂点に達する。
まさにその時だった。
どこからともなく声が聞こえた。それは聞き覚えのある重低音。
(あ、この声……)
声はだんだんと大きくなり、沙耶の夢の世界の端から端まで響き渡るような大音量となる。
それは勝手知ったる大馬鹿者の、耳をつんざく大絶叫。
「沙耶アアアアァァァァァァァ!!!」
巨岩をぶち砕くような大轟音と共に、沙耶は盛大に夢の世界から引きずりあげられた。