『良いか沙耶、拳剛(けんご)。我が東城流拳術は乳に始まり乳に終わる。
そもそも東城流の技法は2本の柱に支えられておる。その一つが――――――』
(――――――またこの夢か)
目の前に2年前に他界したはずの祖父・源五郎がいることで、東城沙耶はこれが夢であると言うことを理解した。
見ていて夢だと分かる夢。いわゆる明晰夢という奴である。
しかもこれはただの明晰夢ではなく、かつて沙耶が幼い頃に実際にあったことの回想だ。
場所は多分、家の敷地内にある道場だろう。
道場の広さは大体30メートル四方で床は板張り。掃除が行き届いており塵一つ落ちていない。
沙耶と、沙耶の幼馴染の拳剛は、そのど真ん中で体育座りをしながら源五郎の話に耳を傾けている。
道場の正面には日の丸が掲げられており、その脇には門下生が入門してこなかった2つの原因のうちの一つである、「乳」の一字の掛け軸がかけてあった。
ちなみにもう一つの理由は師範、つまり沙耶の祖父本人の性癖である。
(これさえなければなぁ。
東城流は技術としては優れているのだから、道場だって廃れることもなかったのに)
祖父源五郎の死後、東城流を継ぐ者は沙耶の幼馴染である拳剛(けんご)一人になってしまった。
源五郎が逝去したとき拳剛は齢15。2年経った現在でもまだ17であり、道場の主を務めるには幼すぎた。そのためろくに入門希望者も来ないのだ。
つまるところ、東城流がつぶれるのも時間の問題であった。
夢の外を憂い、沙耶は夢の中で小さくため息を吐く。
実は東城家宗主の血は引くものの、沙耶自身は小学校に入る前に東城流を止めたため、一門の人間ではない。
とはいえ数百年の歴史を誇る一門の流れが絶たれてしまうのは、前当主の孫娘としては残念でならなかった。
『これ、聞いているか沙耶や』
『うん。ちゃんと聞いてるよお爺ちゃん。』
とはいえ、それを口に出すことはない。
これは脳内が眠っている沙耶に見せている過去の回想に過ぎないから、ここで何か発言しても現実に影響することはないからだ。それに、仮にこれが現実であったとしても、孫の忠告くらいで目の前の爺の乳好きが治るとは思わなかった。
孫娘の元気な返事に気をよくした源五郎はにっこりと笑うと、説明を再開する
『そうかそうか、じゃあ話を続けるぞい。
東城流の技法を支えるもう一つの柱が、『内視力』じゃ。』
『いんさいと?』
『何ですかそれは?』
『簡単に言えば、相手の内側を見る力のことじゃの。
内視力にもいろいろあるが、大別すると二つ。肉の動きを見るか、気勢の動きを見るかの二つに分けられる。』
『なんでそんなのを見るのですか?』
『相手の筋肉の基点の動きを見ることができれば、あるいは経絡を辿り気脈の中心である胸部の流れを読み取ることができれば、相手の次の動きが分かる。相手が次にすることが分かるのならば、それを制することなど容易い。気の先、という奴じゃな。
故に内視力を用いるわけじゃ。分かるかの二人とも』
『うーむ、ちょっと分からないです』
『難しいよ、お爺ちゃん』
当然だろう。気脈だの経絡だの、漢字もろくに読めないほど幼い二人に理解ができるはずがない。
(というか、気脈の中心は胸じゃなくておへその丹田じゃなかったっけ?
おっぱいが好き過ぎて耄碌していたのか、もしくは勝手に一門の技法を改ざんしたのか………おじいちゃんのことだから後者だろうなぁ)
畳の上で大往生を遂げるまで一回すらも物忘れがなかった祖父である。ぼけていたということは考えにくかった。
祖父の女性の胸部への飽くなき情熱に、沙耶は思わず嘆息する。
その半分でも道場運営にまわしてくれれば、東城流が廃れることもなかっただろう。
そんな沙耶の怨念も夢の中の祖父はどこ吹く風で、おっぱいをひたすら連呼していた
『ふむ、まあ要するに、おっぱいに逆らわず身をゆだねろということじゃ。』
『はい、わかりました!』
『いやわかんないよお爺ちゃん』
『むぅ、沙耶は女の子じゃから分かりにくかったかの。』
『多分そういう問題じゃないとおもうよ』
(というかそれ以前の問題だ)
心中で突っ込むが、しかし夢の中の3人は、というか祖父と拳剛はそんなことはお構いなしに阿呆な問答を続けていた。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、他人には絶対に聞かせられない会話。
けれどこうしていつまでも夢に見るということは、
そんな馬鹿らしい一時が、沙耶にとっては大切なひとときだったということらしい。
『だけど先生、男の人にはおっぱいはありません。こういうときはどうすればいいですか?』
『金玉蹴っちゃえ』
『はい!』
(その答えは武道家としてどうなのおじいちゃん、拳剛は拳剛で素直にうなずいているし)
『では先生、胸の小さい人にはどうしたらいいですか』
『胸に貴賎なし!鍛錬をきちんと積めば、バストが大平原だろうがマッターホルンだろうが相手の動きを読むことは可能じゃ!』
(おじいちゃんは女性の胸なら何でもいいんだもんね)
『分かりました先生!
けどそれなら男の人相手でも内視力は使えるのではないですか?』
『ワシ男のなんて視るのやだー!』
『おじいちゃんわがままー!』
(まったく、拳剛もおじいちゃんも、本当に――――――)
かつて確かにあって、しかし今はもうない光景を見ながら、沙耶は微笑んでいた。
できることならば、いつまでも時間に浸っていたい。だがそうも行かないらしい。
いつの間にか頭の中で鳴り響いていた、だんだんと大きくなるアラームの音が、夢の終わりを告げていた。
さぁ、目覚めの時間だ。
(また来るよ、バイバイ)
三人に小さく手を振るう。
そして夢の中の沙耶の意識は途絶えた。
無意識に伸ばした左手が、目覚ましのアラームを止める。
「さて、拳剛を起こしに行かなくちゃね」
沙耶の一日が始まる。