さようなら竜生 こんにちは姫生2
王宮に戻ったレアドランが領地へと出立するその前日、イルネージュ王国王城クイーンローズでは、大ホールで晩餐会が催されていた。
水晶と金とダイヤモンドで飾られたシャンデリアや黄金の燭台に灯された蝋燭の灯が夜の帳を払拭し、ささめき月光の入る余地がないほど華美に飾られた大ホールを煌々と照らしだしている。
極上の葡萄酒、火酒、エール、果実酒や銀盆に盛られた数々の料理が所狭しと並べられ、出席する貴族達もその多くが領地持ちの上級貴族か政治の中枢に携わる上級役人の類である。
母である第二王妃スノーの死後、王都を離れて与えられた領地で一年の大部分を過ごす、第三王女レアドランの出立の前夜に催される宴であり、同時に春の収穫を無事に迎えられた事を祝う宴でもある。
今宵は王都の民たちにも去年の収穫で蓄えられた余剰分の穀物などが王家の名の下に供出され、大いに食べ、大いに飲み、今年の実りに感謝する日だ。
王城に集う貴族たちばかりでなく王都の住人達も陽気に浮かれて過ごすのである。
まだ十一歳という若年ながらに、家族と離れて暮らすレアドランの為の宴にジュド国王と義母ローザ王妃、異母兄である第一王子アシュレイ、異母弟の第二王子ロフ、異母姉の第二王女エリーゼと、既に他国の王族に嫁いでいる異母姉の第一王女プラネリスを除く肉親が顔を合わせている。
イルネージュ王国の象徴たる国王夫妻とその子息らが一堂に介する場で、列席した人々は大ホールに流れる楽曲に合わせてダンスに興じていた。
大ホールの片隅などに目をやれば、酒で滑らかになった口を動かして談笑する者や、静かに楽曲に耳を傾ける者、恋を語らう為に密かに姿を消した男女と踊らぬ者もいたが、大部分はダンスに参加していた。
そしてそのダンスに参加していない者も参加している者も、一斉に瞳を奪われる存在がただ一人いた。
誰あろうこの晩餐会の主賓であるレアドランである。
まだ十一歳という花で言えば蕾の年齢ながら、絶世の美女として知られた母スノーの血を色濃く継いでいる事を示す様に、まだ幼い少女のレアドランは、ただそこに在るだけで周囲の目と心を引きつける美貌の片鱗を覗かせていた。
そしてこのレアドランという王女の特異な点は、ただ美しいだけの少女ではないことだろう。
人々の心を引きつけるのはその美貌ばかりではなかった。
何をするでもなくただそこに沈黙と共に在るだけでも、極自然と人々がその仕草の一つ一つにまで意識を集中してしまう魅力。
その言葉が耳を震わせれば何を置いてもその言葉の通りにしなければならぬ。
その瞳に見つめられれば心の奥底、魂までも曝け出してしまいたくなる。
その姿を前にすれば何を置いてもまず膝を突き、頭を垂れ、目線を伏して畏敬の念を示さなければならない。
そういった尋常ならざる感情が、極自然と心の深奥に湧いてくるなにかをレアドランという王女は持っていた。
楽曲は変わらず大ホールの壁と床と天井に反響し、優雅に音の旋律を奏で続けていたが、すでにダンスは止まり人々の意識はレアドランへと集中していた。
大ホールで晩餐会が開かれてから今まで、レアドランは特別に主賓という事で父ジュドの傍らに座り――本来であればレアドランは末席に座らねばならぬ立場だった――挨拶に訪れる貴族たちに応対し、目の前で踊る男女に視線を注ぐきりであった。
しかし、ダンスも佳境を迎える時間になるとそれまで席から立ち上がろうともしなかったレアドランが父と義母に許可を得てから席を離れ、大ホールの壁に背を預けていた一人の貴族の子女へと近づいて行くではないか。
俄然、大ホールの人々の注目はレアドランとレアドランの向かう先にいた少女へと殺到する。
色が着いて見えないのが不思議なほど、周囲の人々の視線は熱を帯びて密度を濃いものにしていた。
このような社交の場に慣れていないようで、踊る事もなく大ホールの壁に背を預けて壁の花となっていた少女は、自分の目の前に天上人たるレアドラン王女の姿がある事に、息をする事も忘れた様子だった。
「よろしければ私と一曲踊って頂けませんか?」
差し出したレアドランの手を少女は茫然と見つめ、そして夢魔に誘われた哀れな生贄のように自らの手を重ねる。
レアドランが目の前に立ったその瞬間から心を奪われた少女は、レアドランの手に引かれるままに大ホールの中心へと導かれ、そして改めて曲が奏でられるのに合わせて踊り始めた。
レアドランが年上の少女の体を大胆に抱き寄せて、コルセットで締めあげられた蜂腰に手を回し、お互いの乳房を押しつけあう形になり、ぐにゃりとドレスの下でそれぞれの乳肉が潰れる。
鼻と鼻がくっついてしまいそうなほど密着し、少女の頬に顔を寄せたレアドランの吐息が耳をくすぐる度に、少女は瞳を潤ませて熱い吐息を喘ぐように零している。
少女は恍惚と蕩けて意識を半ば喪失し、足取りは生まれたての小動物のようにおぼつかないものだったが、積極的なレアドランのリードが少女の危ういステップをフォローしていた。
誰も彼もが踊る事を忘れ、楽士たちは自分達の奏でる音楽に乗って踊る二人の少女の美しさに負けじと、魂を込めて弦を震わせ、管を震わせ、いくつもの楽器の音が溶けあってさらなる高みへと昇華されてゆく。
男爵夫人は男爵の胸に頬を寄せてうっとりとダンスを見つめ、またある騎士は手に持ったワインを口につける事も忘れ、給仕達は己の仕事を忘れてその場に立ちつくす。
舞踏会の人々が踊る必要はなかった。供された食事で舌を楽しませる必要もなかった。
ただ大ホールの中央で踊る二人の少女を見るだけでよかった。芸術というものが美を求める道であるのなら、その求めるべき美が今まさに目の前にあるのだから。
曲が終わりダンスに一区切りがついた時、レアドランは蝶を捕らえた蜘蛛のようにしっかりと抱きしめていた少女の体を離し、一時のダンスパートナーに対し優雅に一礼。
大ホールの人々へと向けて、再び一礼。
しばしの静寂の後にまばらに拍手が巻き起こると、すぐに割れんばかりの拍手が大ホールに響き渡る。
その拍手が収まってからレアドランが少女を席に座らせて休ませると、すぐさま我も我もとレアドランのダンスのパートナーを求める人々が、にこやかに笑む転生王女の元へと殺到する。
そうして今宵の舞踏会の時は更けて行き、今日もレアドランを次代の王位にと望む第三王女派と呼ばれる人々が、一人また一人と増えるのだった。
当のレアドランが王位など欠片も欲していないにも関わらず、周囲の人々はレアドランの傑出した能力と威厳を知るが故に放っては置かないのである。
ちなみにレアドランはその後、何曲も踊ったが一度として男性を相手に踊る事はなかった。
肉体こそ女性であるが、あくまで自己を雄と認識するレアドランにとって、必要に迫られない限り、男と手を取り合ってダンスを踊るなど断固として拒否するべき行為なのであった。
大ホール中の人々から憧憬の念を向けられる一方で、そのレアドランが堂々と女性の体を触る事が出来るこの状況に、喜んでいたと知る者は誰もいなかった。
舞踏会から明けた翌朝、レアドランの姿は代々の王族たちの墓がある王墓の一角にあった。そこに三年前に死した母スノーの墓がある。
黒い大理石でできた母の墓の前には、世話を任されている墓守りが欠かさず手入れをしている証拠に、母の好んだスノーティアの花束が飾られ、わずかな汚れもなく磨きあげられている。
その墓石の前に両膝を突き、指を組んでしばし冥福の祈りを捧げてから、レアドランは音一つ立てず淀みない動作で立ち上がる。
父か義母であるローザ王妃が見舞ってくれたのか、墓にはレアドランが持参した花や、墓守が供えたスノーティア以外にも色とりどりの花などが置かれており、レアドランはそれを見てわずかに微笑んだ。
今生の母の死を悼む人間が自分以外に居る事が嬉しかったのである。しかもそれが自分の血の繋がった父と義理の母や兄弟であることが、余計に嬉しかった。
立ち上がってからレアドランは深く腰を折り、母の墓石に向けて頭を下げた。レアドランのうなじから金糸のごとき豪奢な金の髪がさらりと滑り落ちる。
「母様、また来年参ります。どうぞ冥府にて安らかにお眠りくださいませ」
もう一度頭を下げてから、レアドランは王墓の入口で待たせているアスティアやジーナ達の所へと戻り、王墓を後にした。
領地に戻る為王都を出立するレアドランを、父王と兄弟達が見送り、また王都の住民たちも王城へと続く市街の大通りの左右に並び立ち、レアドランの姿を一目見ようと駆けつけていた。
母親が平民である事と幼いながらに傑物として知られるレアドランの活躍は、王都の住人達の良く知る所であり、レアドランの平民達からの人気はかなりのものであった。
領地から引き連れて来た護衛の兵士達が整然と並び、主君であるレアドランの乗る大型の馬車の前後を固める。
レアドラン一行の最後列にはつい先日レアドランが手懐けたブランネージュが、急きょ用意された檻の中に入れられて、馬車にけん引されている。
事前にレアドランによく言い含められていたブランネージュは、王都の人々が、あれが姫様が従えたドラッケンか、と白いドラッケンの珍しさもあって寄せてくる好奇の視線も気にせず、ごとごとと揺れる檻車の中で眠っている。
王都の民達が手に持った小さな国旗を振り、レアドランの名を高らかに叫んで讃える中で、レアドランを乗せた馬車はゆっくりと車輪を回し始めて領地に戻る旅路に着いた。
王都からレアドランの領地までは馬車で三日の短い旅路になる。
衝撃を良く吸収する跳ね綿を詰めた座席のお陰で、レアドランの小ぶりな尻が痛む事はない。
レアドランが乗る場所には、護衛という事で剣を手にしているアスティアとお付きの侍女であるジーナ、それにオオカミビトである侍女見習いのロミの姿があった。
ジーナはレアドランの領地の出身者で、以前からレアドランの母スノーに仕えていた侍女である。
元は孤児で十歳の頃にスノーに引き取られ、以来十数年間スノーとレアドランに仕えており、二人の主からの信頼も厚い。
たいしてロミはまだレアドランの元に引き取られて四年目の、今年で九歳になる子供である。
人間の耳の代わりに大きな狼の耳と太い尻尾と、祖霊である狼の霊的特徴を持つオオカミビトの出自だ。
「ロミ、新刊が出ていましたから買っておきましたよ。後でロナと一緒に御覧なさい」
レアドランは膝の上に置いておいた小さな鞄から、百ページほどの本を取り出して対面に座るロナに手渡した。
赤い毛並みに覆われた尻尾をゆさゆさと動かしながら、ロミはレアドランの差し出した本を受け取った。
犬歯がやや目立つが、それ以外は人間と変わる事のない愛苦しい少女である。
「わあ、姫様、ありがとうございます」
「ふふ、ロミが喜んでくれるのならこれ位はお安いご用です。でもご本を読むのは休憩時間の時にしましょうね。いま読んでは馬車酔いしてしまうでしょうから」
おおよそ二年ほど前からイルネージュ王国では、これまで一般的であった詩や物語、童話とは異なる様式の娯楽性を重視した絵物語や小説が流行していた。
本の希少性などから庶民はなかなか手が出しにくいものではあったが、下級貴族の子弟から上級騎士や爵位持ちの貴族の間でも話題になっている。
レアドランがロミに手渡したのは、その新しい形式の絵物語と小説を纏めて掲載して刊行している雑誌の最新号である。
いますぐ本の中に目を通したいのを我慢して、ロミは満面の笑みを浮かべて本を抱きしめる。ゆらゆらと座席と尻の間で揺れる尻尾が、その心中を良く表していた。
骨に生真面目と書いているに違いない、と言われることのあるアスティアなどは、ロミとレアドランのやり取りに小言の一つも言いそうなものだったが、ロミがこうして笑う様になるまでの経緯を知っているから、何も言わず笑いあう少女達を静かに見守っている。
レアドランはカーテンを開いて場所の窓から周囲を囲む兵士達の姿を見回した。
人口の八割以上を純人間種が占め、残り二割はケモノビトが占めるイルネージュ王国であるが、このレアドランの手勢のようにケモノビトを積極的に兵士に採用している姿は珍しい。
人間の様に二足歩行ながら全身を毛皮に包まれ、そのまま獣の顔が乗っているものからロミのようにほとんど人間と姿の変わらないものまで、獣と人の特徴の割合は個々によって異なっている。
人間とケモノビト達の姿を見まわしていたレアドランは、あるオオカミビトの女性兵士の姿を見つけて目を止めた。
ロミと同じ赤い髪の毛と体毛を持ち、十歳ほど年上の整った顔立ちの中に成長途上の少女特有のやわらかな線が混じっている。
ロミの姉のロナである。侍女見習いとしてレアドランの傍にいる妹と違い、この姉はオオカミビトの身体能力を活かして兵士として仕える道を選んでいた。
レアドランの視線に気づいたロナが、狼の鋭さと少女の柔らかさを併せ持った顔を真っ直ぐ前に向けたまま視線を動かし、レアドランの金色の視線と赤いロナの視線が交錯する。
にこりと柔らかく笑んだレアドランがロナに向けて小さく手を振ると、ロナは視線を伏せて返礼する。
あくまで兵士の分を弁えた行動であったが、尻尾用の穴が開けられたズボンからまろび出ている太い尻尾が、嬉しげにはたりはたりと揺れている。
姉も妹も大恩あるスノーとレアドラン親娘へ篤い忠義心と恩を感じていた。いやロナとロミならずケモノビトの兵士の多くが、同じ立場であり同じ心を共有していた。
オオカミビトの姉妹をはじめとするケモノビト達は、かつて隣国で奴隷として売り捌かれていた所を、スノーとレアドランに拾われて人らしい(広義においては人間とケモノビトを総称して人と呼ぶ)扱いを受けた経緯があった。
イルネージュ王国南部と国境を接するヌイ王国は、建国以来奴隷売買によって国家財政を担ってきた国で、レアドランに仕えるケモノビトの多くはヌイ王国で捕縛されたか、あるいは牧場で繁殖させられた奴隷であった。
スノーと共にレアドランが王国領内の視察を兼ねた旅行に出た折、ヌイ王国の近くまで来たところで、奴隷主の所から逃げ出したロナ・ロミ姉妹が暴行の跡がむざむざと残る姿でレアドラン一行の前に行き倒れていた。
それを見つけたスノーは同行していた医師達に可能な限りの治療を命じ、ロナ姉妹を保護する事となったのである。
奴隷主から過酷な仕打ちを受けていたと一目で分かるほど無残な姉妹の姿に、レアドランの母スノーは大いに嘆いて、この姉妹を手元で引き受ける事を反対する周囲の者達に強く言い含め、夫である国王に嘆願し許された。
ここで終わっていたならたまさか耳にする事のある美談で終わったのだが、この話には続きがあった。
姉妹の奴隷主が店を出していたヌイ王国の奴隷市場で、何者かの組織的な手引きでもあったかのように奴隷たちの脱走が続き、その内姉妹の親族などを含むケモノビトの一団が、国境を越えてスノーとレアドラン一行と遭遇してしまったのである。
おそらくロナとロミの残り香を追ってのことだろうが、あまりにも正確にスノー一行と遭遇した事実には、なにかしら作為的なものがあったかもしれない。
人間に対する強い不信感と反逆心を持つ彼らが、武装した人間の一団を前に冷静で居られるわけもなく、レアドラン達を守っていた騎士達も武器を構えて一触即発の危うい状態に陥ってしまった。
この一触即発の事態を、治療を終えたロナ・ロミ姉妹を伴ったスノーとレアドランが無防備な姿でケモノビト達の前に姿を表して危害を加えない事、希望さえあればイルネージュ王国で保護する事を説いた事で血が流れることなく解決した。
この時スノーとレアドランが保護したケモノビトは総勢百二十名。
ヌイ王国は奴隷売買によって財政こそ豊かだったが軍事力には乏しく、強力無比な飛竜騎士団と走竜騎士団を抱えるイルネージュ王国には、毎年貢物を送って顔色を伺う立場にある。
その隣国の王族の元へと自国の商人の奴隷が逃げ出した、という知らせは当時、ヌイ王国首脳陣の顔色を青く変え、寿命を十年は縮めるほどの効果があった。
奴隷が脱走した責任を追及された奴隷主は、全財産をイルネージュ王国への賠償として支払い、さらに抱えていた奴隷の全てをスノーとレアドランに差し出す事をヌイ王国から命じられる事となる。
その結果、既に保護していたケモノビト達に加えて、奴隷主の保有していた千人近い奴隷たちが、ほぼ無償でレアドランの領地にて保護される事となった。
元奴隷たちの多くはレアドランが父から与えられた領地に土地を与えられ、領民として暮らす道を選んだが、あるいは生まれ故郷に帰り、あるいはロナやロミの様に兵士や使用人としてレアドランに仕える道を選ぶものもいた。
奴隷達の人としての尊厳を尊重し、手厚く保護するスノーとレアドランに対して、奴隷時代の苛烈な扱いに対する反動もあって、ケモノビト達の感謝の念は天井知らずと言って良かった。
その恩義を捧げるスノーが既に亡くなり娘だけが残された事もあって、彼らがレアドランに向ける忠義と恩義は極めて篤く堅固なものであった。
果たして奴隷市場から多くの奴隷たちが脱走した経緯や彼らが一直線にスノー一行と遭遇した偶然に関して、レアドランのなにかしらの暗躍があったかどうかは、レアドラン自身しか知らぬ闇の中に消えた真実である。
さて領地へと戻る旅路の間も、領地側から走らせた早馬から受け取った、レアドランの裁定が必要な書類を吟味し、領主の押印と指示を書いた文書を持たせて使者を送り返す事をしながら、レアドランは自領であるエルジュネアへと三日を掛けて帰還した。
エルジュネアはなだらかな平原と広い湿原を持つ土地で、一年を通じて温暖湿潤の気候を持ち、過ごしやすい場所と言える。
母スノーがあくまで妾妃という立場であった為、領地は与えられなかったが、その娘であるレアドランは王族として領地を持つ権利を有していた。
ジュド国王はスノーと間に産まれたレアドランの事を正室たるローザとの間に産まれた子供たちとも、分け隔てなく我が子として扱っている。
エルジュネアは、元々王国直轄領として優秀な代官が派遣されて恙無く治められていた土地で、領土はそう広くはないのだがその割に収入はよく、領民たちも王国への忠誠心の篤い人々が占めている。
治めやすく過ごしやすいこの土地を下賜した事が、ジュド国王のレアドランに対する愛情の現れであろう。
そのエルジュネア領であるが領内に抱える湿原地帯には、少なからぬ問題を孕んでいた。
湿原地帯の近くに住む人々は湿原に住まう沼蛇や沼鰐を狩り、群生する蓮やレンコンなどを栽培して日々の糧としているのだが、恐獣の一種が棲息し住民を襲う事が以前から時折起きているのだ。
恐獣とは一般に家屋ほどの巨体を誇る極めて強力な獣を指す。エルジュネアの湿原地帯に棲息する主な恐獣はギャッターという、二足歩行の巨大な鰐である。
そう簡単には刃を通さない硬質の皮膚と分厚い肉、牛馬を一飲みにする巨大で長い口、一払いで家屋を倒壊させる強力な尻尾を持ち、対峙すれば命はないも等しい脅威である。
これに対してはある程度まとまった数の兵士を派遣し、可能であれば追い払う――退治、ではない――のがこれまでの慣例であったが、レアドランが領主として赴任してからはこれが積極的な狩りへと変貌した。
レアドランにエルジュネア領が与えられたのは五歳の時だが、実際に領主として居城に住まい日々を過ごす様になったのは、十歳になってからの事だ。
領主としてレアドランは積極的に湿原に出没する恐獣狩りの先頭に立ち、幼さに釣り合わぬ圧倒的な戦闘能力と、戦場の全てを制するかの如き威厳をもって兵士達から狂信的な信頼を獲得していた。
これには専任騎士たるアスティアはもちろん城中のあらゆるものが反発したが、レアドランが逆らえぬ母スノーや父ジュドは遠くに在り、結局レアドランを止めること叶わずにこれまで何度もレアドランは巨大な恐獣達を狩って、その武勇を領内に轟かせている。
王都から戻り、不在の間に溜まっていた案件を手早く済ませたレアドランは、王都には連れて行かず領内に待機させていた兵士達にすぐさま号令を発し、手勢を連れて湿原地帯に姿を見せた恐獣狩りへと出立した。
当然代官やアスティアはレアドランの同道を止めるのだがこれが言う事を聞く相手でない事は、この一年で嫌というほど思い知らされており止める側もほとんど社交辞令めいたものになっている。
ギャッター出現の報が届けられた湿原地帯に布陣したレアドラン率いるエルジュネア軍は、血の滴る生肉をばらまいておびき寄せたギャッターとの戦闘にすぐさま突入した。
膝まで水に沈む比較的浅瀬に誘い込んだギャッターは、濃緑の革で鎧った巨体を二本脚で立たせて、周りを囲いこむ小賢しい人間達との戦いにすぐさま没頭した。
もともと恐獣は総じて凶暴で攻撃性の高い恐るべき化け物である。捕食対象でしかない人間達が立ち向かってくる様子に、ギャッターはおおいに怒りをあらわにしている。
鰐をさらに何倍にも巨大化させて発達した後ろ足で立たせればこうなる、という姿のギャッターがくるりとその場で回転し、尻尾で薙ぎ払おうとする予備動作を見逃さず、旅路の疲れをおして恐獣討伐に参加していたアスティアが、遠雷のごとき大音声で命令を発した。
磨き抜いた黒い鎧や白雪の頬は既に泥水で汚れていたが、アスティアの纏う凛々しい雰囲気はわずかも霞んではいない。
「盾構え! 受け止めよっ!!」
「おおおっ!!」
体を覆い隠せるほど大きなカイトシールドを構えた屈強な多男たちが総勢十名、身を寄せ合いながら兵士達の最前列に出て、ギャッターが振るった尻尾を真正面から受け止める構えを取った。
湿原の水面ばかりか空気を震わせる轟音を立てて、ギャッターの尻尾が横一列に構えられたカイトシールドに激突する。
カイトシールドの尖った先端をぬかるんだ湿原の地面に深く突き刺し、さらに纏った重厚な鎧の重量と鍛え上げた肉体の力で凄まじいギャッターの尻尾の薙ぎ払いを受け止めた兵士達のこめかみに、青筋が何本も浮かびあがった。
ギャッターの攻撃を受け止める、それを前提とした超重厚の鎧の下で兵士達の筋肉が軋む音を上げ、加わる負荷に耐えんと一層盛り上がり血の巡りを早める。
「押し返せええ!!」
アスティアの号令一下、カイトシールドを構えた兵士達がぬかるむ大地に、ふくらはぎまでも埋め込んで一気に全身の力を爆発させて、ギャッターの尻尾を押し返す。
体のバランスを取る重要な役目を持つ尻尾が押し返され、ギャッターの体が大きく泳いだのを見逃さず、アスティアが続く命令を飛ばした。
「槍隊、突き込め。隙を逃すなあ!!」
体を泳がせるギャッターの左右の脇腹を狙い、恐獣狩り用の特別に長く作られた槍を三人がかりで持ち上げた槍兵達がざぶざぶと湿原の水をかき分けて、気炎を吐きながら恐獣狩り位にしか用途のない巨大な槍を突きだす。
左右から四本ずつ突き出された槍が濃緑のギャッターの分厚い皮膚を貫いて、黒みの濃い血が勢いよく溢れだした。
たちまちのうちに湿原の水がギャッターの血で赤く染まり、苦痛に悶えるギャッターが憤怒の叫びを天を仰いで上げる中、槍を突きこんだ兵士達はギャッターの動きを止めるように必死に槍を掴んで、ギャッターの動きを抑え込みにかかる。
「おおおおお!!」
次の命令を飛ばさずアスティアは勢いよく走りだし、使いこんだ愛剣を掲げて槍を構える兵士達の肩に足を掛けて跳躍するや、その勢いのままにギャッターが無防備に晒す咽喉へと白銀に輝く刃を突きこむ。
新たに溢れるギャッターの血潮に白い頬を濡らしながら、アスティアはギャッターの咽喉に足を掛けると一息に体重を掛けて、さらに奥へ奥へと剣を深く突き刺す。
苦しみもがくギャッターが身を捩る度にアスティアは放りだされそうになり、それを必死に剣を握ることでこらえ、この巨大な鰐様の化け物の死をいまかいまかと耐え続けた。
その時、天上から一陣の風がギャッターへと襲い掛かる。
いや、それは身の丈を超える長大重厚な大剣を構えたレアドランとブランネージュ!
レアドランは大の大人が五人がかりで持ち上げるのがやっと、という実用性皆無の巨大な大剣を、ブランネージュに急降下を敢行させた勢いを利用し、さらに全身のばねを活かし自分自身を断頭台の刃と変えることで振るう事を可能にしていた。
天を仰ぐ直立の体勢にあったギャッターがレアドランの姿を視認し、その矮躯を飲み込まんと大顎を開く。
レアドランがこのままではギャッターに丸呑みにされると気付いた兵士達が悲鳴を上げる中、あろうことかレアドランはブランネージュの鞍を蹴り飛ばし、一気呵成とばかりにギャッターへと向かい跳躍するではないか!
ばくん、と音を立ててギャッターが口を閉じた瞬間、レアドランの小さな体はギャッターの口の中に消えてしまう。
誰もが自分達の敬愛する主君の無残な死に目に目を逸らそうとする中、レアドランは弧を描くほどに逸らした体をありったけの筋肉のバネを動員して動かし、振りかぶっていた大剣をギャッターの口内部に叩きつけた。
光がさし込まず真っ暗なギャッターの口の中でも、レアドランの瞳は正確に周囲の状況を把握しており、ギャッターが嚥下するよりも早くレアドランの振るった大剣が内側からギャッターの肉と革を裂く。
後に恐獣殺しと名付けられる大剣の刃は、直立していたギャッターの眉間の辺りから切っ先を飛びだし、落下の勢いをそのままにギャッターの股間部までを縦一文字に切り裂く。
小さな脳天を断ち割られ、脊髄から生命維持に必要な臓器までまとめて二つにされては、流石にギャッターも死の手からは免れず、瞳から急速に力が失われるやそのままゆっくりと横に傾き始める。
潰されては叶わんとアスティアがギャッターの咽喉から愛剣を引きぬいて飛び降りた直後、ギャッターの体がけたたましい音と噴水の様な水飛沫を上げて湿原の水面に倒れ込む。
「えい」
とひどく場にそぐわない可愛らしい掛け声がすると、アスティアからは見えないギャッターの背中側で分厚い肉を切り裂く音がして、ついでぴょんと跳ねたレアドランがギャッターの死体の上に飛び上がって来る。
戦場においてよく目立つようにと、赤いロングスカートと白いドレスの上に、擬人化した月の意匠を凝らし、わざと華美に装飾した白銀の鎧を纏っている。
指先から肘までを覆うスパイク付きのガントレットや爪先から膝までを覆うグリーブは揃って金色。
頭を守るのは常に身につけているティアラだけで、あまりにも無防備に最も守るべき頭がさらけ出されている。
これは自らの所在を常に主張し、味方に知らしめることで士気を鼓舞する為の措置である。
眩い鎧を纏い可憐なかんばせを隠さず常に先陣を切るレアドランの姿は、武人にとってこれ以上なく心惹かれる輝きを放つのだ。
そしてギャッターの口中に飛び込んだレアドランの結いあげた金髪や、処女雪の肌理と色を持つ肌には返り血の一滴さえも付着してはいなかった。
恐獣殺しの大剣をひょいと軽く肩に担ぎ、レアドランはギャッターから離れて膝まで水に浸けているアスティアの姿に気付いてねぎらいの言葉を投げかけた。
「ふむ、アスティア、怪我はありませんか? 咽喉への一撃、それまでの指揮、ともに見事でした」
ただ一撃を持ってギャッターを倒したレアドランの手並みの鮮やかさと胆力に、改めて感嘆の念を抱いていたアスティアは、レアドランの言葉にすぐさま片膝を突いて頭を垂れる。
レアドランは武力において、エルジュネア領はおろかアスティアの知る限り、イルネージュ王国内でも敵うものはないのではないか、というほど傑出した人物であり、騎士として武に携わるアスティアにとって、もはや手の届かぬ高みに立つ達人であった。
「は、姫様の御采配あればこそでございます」
「いいえ。事前の打ち合わせこそしましたが、実際に戦の場で指揮を執ったのは貴女なのです。皆が怪我一つ負わずに戦えたのは貴女の武勲に違いありません。
要らぬ謙遜は無用。私が貴女に送るのは称賛の言葉以外にありはしません」
「勿体なきお言……」
アスティアが敬愛する主君の言葉に感激で美駆を震わせる中、レアドランははっと顔を上げるや肩に担いでいた恐獣殺しを横倒しに構え、柔軟な体の許す限り捻りギャッターの上で独楽のように回転してその勢いのままに恐獣殺しを投げた。
ぶおん、と絶え間なく風を切る音も凄まじく回転し、恐獣殺しはアスティアと兵士達の頭上を通過し、その背後の水面から浮上していままさに襲いかかろうとしていたギャッターの頭蓋へ深々と突きささる。
横倒しで高速に回転していた恐獣殺しは、浮上しつつあったギャッターの両方の眼と額を正確にかち割り、その勢いのまま頭蓋の奥深くへと喰いこんでギャッターの脳をぐちゃぐちゃにかき回す。
「ブランネージュ!!」
「ぎゃおおおおおおおお」
主の呼び声から意図を汲んだブランネージュが、絶命しつつあるギャッターの頭上へと舞い降りて、太く鋭い爪でギャッターの背中を抑え込み、ギャッターの首に喰らいついて頸骨を一気に噛み砕く。
頭蓋の粉砕に加えて頸骨を噛み砕かれたギャッターは完全に死に、牙をギャッターの血で濡らすブランネージュは、自分の勝利を誇る様に天を仰いで開いた咽喉の奥から咆哮を上げる。
愛竜の勝鬨で鼓膜を揺らしながら、レアドランはギャッターから飛び降りてアスティアに微笑みかけた。
「さあ、これで報告のあったギャッターの討伐はこれで全てですね。二頭と聞いていた所に三頭目が出て来たのは意外でしたが、これで三頭分のお肉と革が手に入ったわけですし、負傷者も出なかったのですから良しといたしましょう」
当初報告ではギャッターは二頭出現した、という事であったがいましがたレアドランとブランネージュが仕留めたのが三頭目のギャッターであった。
アスティアとエルジュネアの兵士達が戦っていたのが二頭目のギャッターで、一頭目のギャッターは既にレアドランとブランネージュによって倒され、湿原にその死骸を浮かべていたのである。
そしてレアドランが積極的に恐獣狩りを行うのは、領民の安全を守るためばかりではなく、恐獣の巨体から得られる大量の肉を食用に加工し、またその革や鱗、牙に爪、骨を手に入れる為でもあった。
領内に小規模の鉱山しか持たないエルジュネアでは、金属製の鎧兜や剣、槍と言った武具を揃えるのは非常に手間と金がかかる。
この問題に着目したレアドランは、解決手段の一つとして恐獣の肉体を素材とした武具防具の開発を行っている。
かねてより恐獣の甲殻や甲羅、牙、爪などを加工した武具、防具が存在しており、それらを大々的に自軍に導入しているのだ。
盾を構えていた兵士達の装備は鋼鉄を主にしていたが、エルジュネア軍の兵士達の多くにはギャッターをはじめ、各種恐獣の肉体からはぎ取った素材を加工した独特の装備が支給されている。
今回討伐した三頭のギャッターを陸地に引き上げて、沼カバや馬に牽引させた荷車に乗せ、鉄鎖と荒縄で厳重に縛りあげてから湿原地帯を後にする。
ブランネージュの鞍に跨り、整然と列をなす兵士達を前にレアドランは両手を広げ、兵士達の顔を見回しながら高らかに告げる。
「皆、よくぞ戦い、よくぞ勝ち、そして生き残りました。我がイルネージュ王国の民を害する恐獣を討伐する事が出来たのも、我が前にある皆の助力の賜物。
このレアドラン、皆の勇気と助力に心より感謝いたします。さあ、勝鬨をあげよ! 無辜の民を守る誇りある戦いの勝利ぞ!
胸を張り、前を向くのです。我が勇敢なる兵よ、我が仲間たちよ!!」
レアドランの言葉が全ての兵の耳を震わせ、心に届いた時、雷が一斉に降り注いだかごとき歓声が兵士達の口から溢れだした。
竜の咆哮はそれを受けた者の魂を揺さぶる効用を持つ。その竜の魂を持つレアドランの声は、生来のカリスマもあって耳にするもの全ての魂に直接響く強大な影響力を持っている。
王族の血を受けながらも自分達と共に死の危険が色濃い戦場に立ち、そして誰よりも危険な場面に率先して挑みかかり、危難を正面から小細工なしに打ち破るレアドランの姿は、共に戦場に立つ者にとって畏敬の念を抱くには十分すぎた。
レアドランの名を歓呼し、イルネージュ王国万歳と咽喉を枯らすほどに叫ぶ兵士達の姿を、慈愛の眼差しで見渡してレアドランは滅多に浮かべる事のない微笑を浮かべる。
なによりも誇るべき宝物が、いまレアドランの目の前に立つ兵士達なのだと、その微笑は雄弁に物語っていた。
「ふむ!」
<続>
3/25 20:12 投稿
21:54 修正 科蚊化様、ありがとうございます。
3/26 08:58 修正