「助けてください!もう私はどうにかなってしまいそうなんです!!」
とある精神科の診察室の中で男は声を荒げて叫んだ。
「まあまあ、一端落ち着いて。一体どうしたと言うのです?」
医者はとりあえず患者を宥めてから質問する。
「はい。実は私、数ヶ月前からある事に悩まされているのです」
「ある事とは?」
「夢です」
「夢?」
「そうなのです」
視線を下げながら答える患者を気にしながら、医者は資料の束に目を通しながら言う。
「と言うと、悪夢の様な類と言う事になりますな。現代にありがちな症状です。オフィス等の閉鎖的空間で仕事が多くなった現代人に増えている睡眠障害でしょう」
「いや、悪夢なんかよりよっぽど質が悪い」
医者が言い切って直ぐ、男は反応した。
「そう仰る患者さんも多い。恐らく蓄積されたストレスが、無意識的に抱える不安を悪夢という形で具現化させている等でしょう」
「私が見ているのは悪夢などではありません」
「では何なのですか?」
「それが……」
「それが?」
「現実なのです」
「ほう、現実ですか。もう少し詳しく説明していただけますか?」
「はい。私がこの夢を見始めたのは丁度半年ほど前の事です。ある日、私はいつも通りに寝床に付き、そして夢を見ました。それが全ての始まりだったのです」
そこから、男は事の全てを語りだした。
「夢から覚めたのです。夢の中でですよ?私はそのまま顔を洗い朝食を食べ、そして出勤する。全ての仕事が片付くと家に帰り、妻や娘と一緒に夕食を食べ、風呂に入り寝る。そして寝た瞬間、現実の私が目を覚ますのです。最初は珍しい夢を見たものだなと特には気にせず、普段通りに出勤しました。ですが」
「毎晩のようにその夢を見るようになったと?」
「そういうことです」
「それは珍しい症状ですな。私も初めて聞きます」
「でしょう?」
「しかし、それは単に寝ている自覚が無いだけなのでは?一日ごとに現実を夢と錯覚している可能性は」
「ありえません。初めは私もそれを疑いました。でも違っていた。現実での妻との会話の内容を夢の中で妻に話しても知らないと言うのです。娘も同僚も友人も、皆口を揃えて知らないときた。それに夢と現実では仕事の僅かに内容が違うのです。現実では目にした事のない仕事を夢の中で押し付けられ、坦々とそれをこなす。他人の二倍働かされているのですよ。貴方には堪えられますか?」
「ですが、現実と言うからには夢の中でも給料を貰っているのでしょう?」
「それでもですよ!確かに現実でも夢の中でも楽しい事はある。家族との会話は楽しいし、趣味にだって興じる事もできる。でも、現実で上司に怒られ、夢の中で上司に怒られ、息苦しさも二倍なんです。それに、幸せだろうと不幸だろうと、疲れるものは疲れるのです。これでは気が参ってしまう」
「大体の事は把握できました。でも、貴方の話からすると、貴方は夢の中でも自分の思い通りに行動できるのでは?」
「ええ、現実で可能な範囲ならば好きなように行動できます」
「ではこの際、夢の中で遊んでみるというのはどうです?現実での息苦しさを夢の世界で紛らわす。理に適っているとは思いませんか?」
「短期的に見ればそうでしょう。しかし長期的に見ればそうもいかない。夢の中の金銭にも限りがあります。身動きが取れなくなればそれで終わりでしょう?それと何より、夢の中にだって家族がいるのです。現実と何一つ変わらない、愛しい家族が。その家族を放り出し、一人夢の中で遊び呆けてみて下さい。あっちの家族はどうなりますか?路頭に迷いのどしたらそれこそ悪夢だ」
「ではどうしたいのです?貴方がこの悩みを解決するには、結果として夢の中の現実を消さなくてはならない。それには家族も含まれているのですよ?」
「その点にだけは妥協せざるを得ないのでしょうね。私が参ってしまってはどちらの家族も犠牲になってしまう。ならば現実を選ぶ他にない。私だって苦しいのですよ。それ程までに夢は現実に似ていた……」
「なら、夢を見なくするという方針で固めてしまってもよろしいのですか?」
「そういう事になりますね。その覚悟もしてきたつもりです」
「では早速治療を行いましょう」
「具体的にはどういう治療法なのですか?」
「そうですね、具体的には催眠療法と言う形になるでしょう。それでもどうしようもなければ薬を使う事になりますが、何しろ治療対象が夢ですからね。副作用もある。恐らく前者だけで済むでしょうから心配する事はないでしょう」
「催眠療法ですか?一体どんな催眠をかけるのですか?」
「貴方が夢の中でその世界を現実世界と錯覚してしまうのには理由がある。夢の中でも自分自身が現実の自分だと思い込んでしまう事にあるのでしょう。ならば、彼に自分は夢の中の住人だと自覚させてしまえばいい」
「なるほど。しかしそんな遠回りをする必要があるのですか?」
「貴方自身にもうその夢を見るなと言ってしまえば簡単な話ですが、それでは良くない。その後の貴方に健全な夢が見られるという保障は無い。半年間も見ていた夢が突然消えてしまったのです。そうなる可能性は十分に考えられる。何事にも段階が必要なのですよ」
「それもそうですね。分かりました」
そこで医者が突然話を切り替える。
「ところで」
「何でしょうか?」
「今の貴方は自分が夢の中の存在だと考えた事はないのですか?」
「何を言うのですか?私は本物の私ですよ?からかわないで下さい」
「そうですか……」
「どうしたと言うのですか?早く治療を始めてください!!」
男の呼びかけに医者は少し表情を硬くして答える。
「やはり自覚がないようですね」
「ですから、からかわないで下さい。私が本当に夢の中だとでも言うのですか?」
「実はそうなのです」
「ご冗談を。貴方は自分も夢の中の人間だと言うのですか?」
「私はですね、現実の貴方に頼まれてここにいる精神科医なのです。夢の中の自分、つまり貴方を消して欲しいと言われたから今ここで貴方と対話している……」
男の方も徐々に事情を飲み込んできたのか、信じられないといった表情で、
「嘘だ!じゃあ貴方は私を、家族を、この世界を消し去るために……」
医者は無言で首を縦に振った。
「じゃ、じゃあ……夢の中の、いや現実の私もこの世界を切り捨てたと言うのですか?」
「ええ、先ほど貴方が決断したように、現実の私の前で彼も決断していましたよ。苦しい顔をしてはいましたが」
「頼みます!助けてください!わ、私には家族も……」
男の叫びを遮って医者は反論する。
「では貴方にとっての夢、つまり現実の貴方が今の貴方のように懇願したとして、貴方は許しますか?許さないでしょう?例え許したとしてもまた再び私を訪れる事になる。それでは解決にならない。永遠とそれを繰り返すつもりですか貴方は?少なくとも現実の貴方はそれを望まなかった」
「そんな……」
「残念ですが、諦めてください」
「い、嫌だ……私には、まだやりたい事が、娘との約束が………」
言い切る前に男の意識は朦朧として、
清々しい顔をして男は目を覚ました。窓から差し込む朝日が眩しい。これからの毎日は昨日までよりも素晴らしいものになるだろう。これ以上の朝があるだろうか?いや、無いだろう。男には断言できた。何故なら、
あの忌々しい夢から開放された記念すべき朝なのだから。