闇の書事件より二年後。
第一管理世界ミッドチルダ首都クラナガン上空。
雲一つない快晴の空を、二つの飛翔体が駆ける。
片割れは銀色の義手を持つ魔導師。首都防衛隊に所属する魔導師、ウィルだ。
残された片割れはウィルよりも遥かに大きい。
全長は十メートルを超え、頭部にはねじれた二本の角、濁った瞳孔は縦長に広がり、身体は白い鱗で覆われ、背から突き出た骨のようなフレームの間に薄い皮膜が張られて翼となる。
偉大なる竜種(グレータードラゴン)。それも真竜と呼称されるだけの格を持つ古代種(エンシェント)。
違法研究所に囚われ、実験として数多の改造を施され、されど強大な生命力ゆえに死ぬことすら許されず。もはや自我は残っておらず、下された命令に従って目的地へと目掛けて飛翔する。
竜の進行を阻止するために全霊で打ち込んだ剣は、鱗を砕いてその内側に詰まる肉を裂く。
しかし刃が肉を通り抜けた瞬間、泡のように湧き出る肉で傷口が埋まる。竜の生命力という言葉では説明がつかない再生能力は、おそらくは実験で植え付けられた特性の一つ。
刃がその身を裂いた痛みか、体内から湧き出る肉が己の肉体を強引に接着した痛みか、竜は咆哮をあげ身体を翻す。
質量はエネルギー。速度もエネルギー。高速で動く巨体が持つ圧倒的なエネルギーが直撃し、ウィルの意識に白い靄がかかる。
直後、義手型デバイスのグレイスがポゼッション――デバイス側による肉体操作によって、ウィルの身体を強制的に動かしてその場から離脱する。続けて、グレイスから送り込まれる電気信号がウィルの意識を強制的に呼び戻す。
意識を取り戻したウィルは、再び竜へと向かって飛翔し、血と汗をまき散らしながら何度も剣を振るう。
無謀な挑戦と知りつつも、諦めるわけにはいかなかった。
首都防衛隊の仲間も本局航空武装隊の人たちも、この作戦に参加した隊員の中にこの竜に対抗できる人材は残っていない。
ウィルの上官にして地上本部最強の騎士ゼスト、嘱託騎士として航空武装隊に所属していたシグナム。ともにウィルを超える実力を持つ二人は、解き放たれた竜が地下研究所を破壊して空へと飛び立つ際に、破壊の余波から他の隊員たちを守るために身体を張って瓦礫の下へと消えた。
残されたのはウィルだけだ。ウィルがここで止めなければ、大勢が死ぬ。
それは竜が暴れて街が破壊されるという、そんな規模の被害ではない。
たしかにこれほどの存在が破壊のために力を振るえば、クラナガンの区画一つを瓦礫へと変え、新たな廃棄区画を作り出すことも可能だろう。
だが、ウィルが危惧しているのは竜そのものの力ではなく、こうしている今も明滅を続けている、竜の肉体に刻まれた魔導式だ。
表から追放された科学者たちが集った違法研究所と、反管理局をかかげるテロ組織旧世界秩序(ワールドオーダー)が絡まり合ったこの事件。
スカリエッティが生み出した理論を元に戦闘機人や希少技能保有クローンを生み出していた地下組織を摘発するため、首都防衛隊と本局航空武装隊の共同作戦が行われ、クラナガン郊外の廃棄区画地下に築かれた研究所に乗り込んだ。
様々なイレギュラーはあったものの、激闘の末に目的は達成されたかに思われたその最後、解き放たれた実験体の竜の身には魔導砲アルカンシェルと同じ魔導式が刻まれていた。
発動に艦船の魔力炉を必要とするアルカンシェル。その代替となるのが、真竜が有する莫大な魔力。加えて、数多の改造により複数の貯蔵用の人造リンカーコアを植え付けられたことで、竜はアルカンシェルを発動させるに足る魔力を有するに至った。
目標地点はクラナガン中央区、時空管理局地上本部。
地上本部は物質的な障壁の他にも、有事の際には巨大魔法障壁によって守られる。単なる大規模魔法を撃ちこまれたところで、完全に無傷とはいかずとも大きな被害が出ることもない。
だが、アルカンシェルは別だ。あらゆる粒子を消滅させる反粒子の前では、どのような障壁も意味をなさない。物質であれ魔法であれ、この世の全ての現象は粒子のふるまいであるがゆえに。
アルカンシェルの効果範囲は半径百キロメートル。障壁の手前で発動したとしても、地上本部を丸ごとこの世から消滅させるには十分すぎる。
竜の治癒がどのような原理で作用しているのかはわからない。魔力を消費しているのか、もっと生化学的な作用によるものなのか。どちらにせよ、今のウィルにできるのは、再生が尽きるまで斬り続けることだけだ。
同時刻、竜が飛び立つために地面に開けた大穴から大小二つの人影が姿を現す。
大きい方はシグナム。騎士甲冑は砕け、全身に裂傷を刻まれ、額から流れ出た血が顔と髪を汚す凄絶な姿で、遙か彼方の空を見上げる。
竜ですらかろうじてその輪郭がわかるほどに距離は離れ、肉眼ではその周囲を飛び回る魔導師の姿が判別がつくはずもない。それでもシグナムにはそれが誰なのか即座に理解できた。
後方待機していた治療班の局員が駆けつけきて治療を施そうとするが、シグナムはその手を押しのけて自らもまた空へと飛び立とうとする。
「馬鹿野郎! 何考えてんだよ!」
シグナムの傍、大穴からシグナムと共に昇ってきた小さな人影の方――本当に小さな、手のひらに乗るほどの大きさをした、羽根が生えた少女が声をあげる。
この違法研究所に捕獲され、実験対象とされていた古代ベルカ純正の融合騎だ。
名も無き赤き少女は、突入した隊員たちによって助け出されてから、他の実験体のようにただ保護されるのを嫌い、研究所内の道案内や戦闘の補助といった形でシグナムに協力していた。
「いくらなんでも、そんな状態でこれ以上戦うのは無理だ! ほとんど魔力も残ってないだろ!」
少女はなおも戦い続けるシグナムの愚行を咎める。
ヴォルケンリッターは魔力を通わせて損傷した箇所を再構築すれば、傷も欠損も修復できる。それなのにこうして傷だらけの身体で立っているのは、再構築に必要な魔力すら残されていないから。その状態で真竜級の存在に挑むのはあまりに無謀だ。
彼我の戦力差をシグナムが理解していないはずもない。けれど、シグナムの瞳には迷いも恐れもない。
「あそこで戦っているのは、私が生涯をかけて償わねばならない人だ。忠義を捧げた主にも、共に戦う同胞にも劣ることのない、大切な人だ。その彼が命を賭けて戦っているのに我が身かわいさに休むなど騎士ではない」
二年前に贖罪として捧げるはずだったこの命は、大勢の温情のおかげで生き永らえることを許された。
その時に決意した。この人生を贖罪のために、この命を主と仲間と、彼のために使うと。
少女は飛び立とうとするシグナムの前方に身体を割り込ませる。
「しょうがねえな。助けられた借りだ。今だけあたしの力を貸してやる」
少女の身体がほどけるようにして赤の粒子へと遷移して、シグナムの全身を包み込む。
赤い総髪は白が混じり薄紅へと変わり、騎士甲冑は紅から海のような藍へと変わる。
「これは……ユニゾンか?」
『勘違いするなよ。あたしは誰にでも力を貸してやるわけじゃない。あの研究所の奴らの言うことなんて、一度だって聞いたことないしな。だけど――っておい!』
みなまで聞かず、シグナムは遠方で戦い続けているウィルへ向かって空を翔ける。
一刻も早く彼の元へと駆けつけるために高まり続ける魔力は意識せずとも自然に火へと変換され、炎の翼と化してシグナムの身体をさらに加速させる。
『人の話は最後まで聞け!』
「すまない! だが待ちきれなかった!」
ウィルが竜へと斬撃を加えた回数も、もはや五十から先は数えていない。
依然として竜の飛翔が止まる気配はなく、目標となる地上本部外縁部までの距離は百キロメートルを切った。今この瞬間に発動したとしても、地上本部の一部は消えてなくなる。このままあと十分も飛行すれば、地上本部の全域を効果範囲におさめることになる――その焦りが意識に隙を生み、反応を遅らせた。
これまで身をよじるような近接攻撃しかしてこなかった竜が動きを変える。
開かれた口腔に魔力が集い、石を打ち合わせたような音が響くと炎へと変わる。ウィルの身体を焼き尽くす炎熱のブレスが放たれるその直前、飛来した炎の柱が竜の頭部に直撃する。
発生源へと顔を向ければ、遥か遠方から高速で飛来する飛翔体。
「シグナムさん!?」
シグナムは竜へと直進しながら、振りかぶったレヴァンティンに残存魔力をつぎ込む。
『いいか! 練習なしの土壇場での融合だ! いつ解けるかもわからない! だから――』
「わかっている! この一撃に全てを込める!」
レヴァンティンという剣を柄として、全長百メートルに到達する巨大な炎の剣が顕現する。
『剣閃烈火!』
「火竜一閃!」
放たれた炎の剣は縦横無尽に空を奔り、文字通り火竜の身体を一薙ぎして、肉を焼き斬り、両断する。
傷口を治すために新たな肉が湧いて出てこようとするも、焼かれた傷口のタンパク質が炎熱で凝固し、再生を阻害する。
やがて両断された竜の肉体は完全に分かたれて、竜の生命活動が完全に停止し――
『――魔導式が止まらない?』
竜の肉体に刻まれていた魔導師が、竜の肉体を離れて中空へと投射される。
死を迎える竜の肉体に蓄積された魔力が、魔導式へと流れ込むのが感覚で理解できる。
魔導式の発動条件は、目標地点への到達だけだと思い込んでいたが、
「死をトリガーにして……っ!」
地上本部の敷地は数多くの庁舎を中心として、周辺に各種施設、訓練エリアや格納庫などが広がっている。
ここで発動しても、地上本部の全てを効果範囲に収めることはできない。
しかし、地上本部のおよそ半分は現時点でもアルカンシェルの効果範囲に含まれる。なによりも、地上本部のある第一区画に隣接する第三区画――この真下に広がる街は、完全に消滅する。その数は少なく見積もっても一千万人を下らない。
「もう一度だ!」
シグナムが再度レヴァンティンを振りかぶるが、刃の周囲にわずかに炎が生じるのみ。
先ほどの一撃はなけなしの魔力の全てをつぎ込んだ、文字通り最後の一撃。二撃を放つだけの余力はない。
目の前でアルカンシェル発動の予兆たる七色の虹が描かれていく。
闇の書事件の時にグレアムに見せてもらった、エスティアが消滅する時の映像。そこに映されていた破壊の虹が今まさに顕現しようとしている。
このままではみんな死ぬ。
何の罪もない無辜の民も、彼らを守るために日夜身を粉にして戦う局員も、この二年間クラナガンで働く中で出会った人たちも。そして、この場にいるウィルとシグナムも――復讐を我慢して贖罪を見守ろうとした自分の決意も、罪を償って生きると決めたシグナムの決意も、何もかもを飲み込んで消し去る。
「そんなの――許せるかよ!!」
復讐心を抑えこんでもなお、消えない衝動がウィルの中にある。
必死に生きてきた者を、大勢で築きあげてきた物を、連綿と繋いで来たこの瞬間を無に帰す理不尽への怒り。人から何かを奪い去ろうとする行為そのものへの怒り。
己の中に残されたなけなしの魔力を、最後の一滴まで搾りだす。けれど、ウィルという個人の魔力では、発動を開始したアルカンシェルを止めるには到底足りない。
怒りすら塗りつぶす絶望がウィルの心を浸食し、怒りの叫びも途絶え。
それなのに、依然として耳には怒りに満ちた叫び声が聞こえる。自分の声ではない。身体の奥から複数の人間の叫び声が聞こえてくる。
理解不能な現象――ではない。かつての闇の書事件で、ウィルは二度この現象に遭遇している。一度目は闇の書の内部でナハトヴァールと対峙した時。二度目は現実の世界でリインフォースと対峙し時。
叫び声に混じって、呆れたようなつぶやきが響いた。
――まったく、相変わらず頼りない王様だ
身体の奥から魔力が湧き上がり、爪の先、髪の一本一本に至るまで力がみなぎる。
髪も、肌も、魔力の光すら白く染まるその姿は、ユニゾンの――誰かと心を重ねた証。
あの日、復讐という一念でウィルと共にあった彼らは、一枚岩に見えてその在り方は多岐に渡った。
周囲を巻き込んででも復讐を望んでいた者もいれば、対象以外には被害を出さないようにして復讐を果たそうとする者や、謝罪の言葉一つで矛をおさめた者もいた。納得して消えた者もいれば、最後まで憎悪したまま消えた者も、残されたウィルを案じながら消えた者もいた。
それならば、彼らの全てが消滅を選んだわけではなく、このままウィルの中に留まらないかというウィルの案を受け入れて、現世にとどまった者たちもいたのだろう。
そして今この瞬間、彼らはウィルを助けるため、この街を守るためにその力を尽くしてくれる。
「ありがとう、みんな」
七色の虹をも塗りつぶす純白のアーチが、発動直前の魔法陣をさらなる光で塗りつぶした。
一月後、地上本部
総合訓練センターに築かれた簡易スタジアムの観客席には、管理局の局員たちが座して勝負を見守っていた。
東側の客席を埋めるのは地上本部の職員たち。西側を埋めるのは本局の職員たち。
西側に座る青年――本局航空武装隊に所属する魔導師、ヴァイス・グランセニックは、携帯端末に表示された記事に目を通した。
『テロにより延期となり一時は開催が危ぶまれた陸海戦が、事件の首謀者の逮捕に伴い一月遅れで開催されると地上本部広報部が報じ、注目が集まっている。
時空管理局では、訓練として局員同士が模擬戦を行うのは日常茶飯事。その多くは非公開だが、お披露目を目的として行われる模擬戦がある。
その中で最も有名なものは戦技披露会だ。管理局最強のアグレッサー部隊として名高い戦技教導隊や、Sランク以上に認定されるトップエースの多くが参加し、芸術ともいえる魔法技術を披露するそれは、試合というより大規模な祭典だ。
しかし、クラナガンに住まう局員が最も注目している公開模擬戦といえば、やはりこれ――地上本部直属の首都防衛隊と本局から出向している航空武装隊が、団体戦形式で雌雄を決する対抗戦、通称陸海戦だろう。
普段からライバル意識の強い二者の間で開かれるこの対抗戦は、戦技披露会と異なり一般客の立ち入りこそ許されていないものの、大手放送局にて試合の様子が中継されるほどの盛り上がりを迎える。
首都防衛隊と本局航空武装隊は、先月に共同で違法研究に手を染める地下組織の摘発を成功に導いた功労者とあり、今年の陸海戦は例年以上に市民からも大きな注目を集めている。
名のある局員を挙げればきりはないが、今最も注目を浴びているのはやはりこの二人だろう。
先月、大勢の市民が空を見上げ、クラナガン上空を飛翔する巨大な竜の威容に脅える中、それを打ち倒した現代のドラゴンスレイヤーたち。
かたや未来の地上本部を担う銀腕の魔導師、かたや過去より来たる最も古き騎士――』
「ウィリアム・カルマン二等空尉と、嘱託騎士シグナム・ヤガミの二人……ねぇ」
ヴァイスはホロディスプレイから視線を外し、周囲を見回した。
地上本部と本局、互いの広報部から送り込まれた応援団や音楽隊も、選手に負けじと競い合い、観客も声を張り上げている。
クラナガンの局員であれば、例年見慣れた光景だ。しかし、例年通りに見えて少し違う光景が広がっている。
クラナガン消滅の危機に際して、地上の首都防衛隊と海の首都航空隊が協力し、解決にあたった記憶が新しいからか。普段であれば勝敗が決まるたびに歓声と罵声が飛び交うというのに、今は試合が終わるごとに両者を称えるような声が多くみられる。
地上と海の不和という不安要素を払拭し、関係改善を対外的にアピールするために、双方の上層部が仕込んだサクラもある程度混ざってはいるのだろうが――きっと、そんな計算づくだけで生まれた光景ではないと肌で感じることのできる。そんな熱気が――
「ヴァ~イスく~ん。なぁに読んでるの~?」
「うわっ! 酒臭っ!」
突然背後からかけられた声と、酒精が多めに混じった息に、ヴァイスは逃げるように身体を大きく前のめりにしてから後ろを振り返る。
動きやすいように長髪を後頭部でまとめた女性。意思の強さを表すかのような太い眉とは対照的に、表情筋の緩んだ赤ら顔のせいで、美女といってさしつかえない容姿なのに残念さしか感じない。首都防衛隊所属のクイント・ナカジマが背後に立ち、ヴァイスが読んでいた記事を覗き込んでいた。
「ウェブの記事をいくつか見てたんですよ。まーどこ見てもウィルウィルウィルウィル。……っていうか、クイントさんなんでこっちに? こっち側、本局側の観客席っすよ」
「良い機会だし、あの作戦でお世話になった航空隊の人たちに挨拶しとこうと思ってさ~。そしたら盛り上がって、こっち側で応援することになっちゃって~」
「この酔っ払い、コミュ力たっけえ……」
片手にアルコール飲料を持ったままふらふらとうろついていたのだろうか。管理局の制服を着用はしているが、ジャケットは着用しておらず、シャツのボタンは上から三つ目ほどまで外れている。
「ヴァイスくんのことも探してたんだよ。ありがとね。うちのウィルを助けてくれたんでしょ」
何が面白いのかケラケラと笑っていたクイントが、急に真面目なトーンで語り掛けてきたものだから、ヴァイスは少し気恥ずかしさを覚えてそっぽを向いた。
「いいっすよ。あいつに振り回されるのはもう慣れましたし。それに、あいつのためじゃなくて、かわいい子を助けるためです。勘違いしないでくださいよ」
「ああ、たしかに可愛かったよね。クアットロって言ったっけ――あっ、ちょうどウィルの試合が始まるみたい! ちょうどいいや、私もここで応援しよっと」
言うや否や、ヴァイスの隣に座る航空隊の隊員にお願いして詰めてもらい、ヴァイスの隣へと無理矢理身体をねじ込んで座る。美女に密着されれば悪い気はしないが、それが人妻となれば別だ。旦那のゲンヤ・ナカジマ三佐には何度か世話になったこともあるのだし。
ヴァイスはなるべく隣に座るクイントのことは考えないようにして、試合会場に出てきた同僚と悪友へと声援を送る。
「頑張れシグナムさーん!! ウィルは負けろ!!!」
最終戦、両選手が姿を現すと、会場を満たす歓声が三段階ほど大きくなる。
黒いインナーの上に、管理局カラーとも言われる白地に蒼のラインが入ったロングコート状のバリアジャケットを纏ったウィル。
紅のインナーの上に、白いジャケットを羽織る形の騎士甲冑に身を包むシグナム。
如才なく観客たちに手を振って応えるウィルとは対照的に、シグナムの視線はウィルただ一人へと向けられていた。
「最初から全力でいくべきだろうか?」
「それじゃあ、下手したら一瞬で終わってしまいますよ」
高機動の近接戦を得意とするもの同士、最初から本気で勝負を決めに行こうものなら、勝敗がどちらになるにせよあまりに短時間で決着がついてしまう。
ウィルは右手に現れた銀剣を肩に担ぎ、シグナムはレヴァンティンを鞘から抜き放つ。
「せっかくの大トリなんだ。徐々に上げていきましょう」
「承知した」
試合開始の合図と共に飛び立ち、戦いの舞台を空中へと移した二人は、互いに示し合わせたかのように一度大きく離れ、互いに衝撃波を牽制として撃ち合い、双方ともに一瞬で音速を突破してすれ違いざまの斬撃。そのまま急停止して至近距離で一瞬のうちに数多の斬撃と拳打を交わし合う。
その戦いを目撃したものはその異質さに困惑を覚えた。
双方の攻撃がまるで相手に当たらない。剣同士が打ち合う音が響いたのは、最初の突撃からの斬撃の一合のみ。それからは空を切る音だけが会場に響く。
まるでお互いに相手がそこにいることを確かめ合うように。攻撃のために伸ばした手が空を切る動作が、相手の輪郭をなぞりあげるよう。
そうして戦う二人の様子は暴力ともスポーツとも異なり、まるで二人で踊るワルツのよう。
試合開始から一分が経過した頃、両者ともに距離をわずかに詰め、空を切る攻撃が、相手の髪の端を、衣服の端を、かするようになる。
さらに一分が経過すると、さらに一歩の距離を詰め、互いの刃と刃が、拳と拳が触れ合い、戦いのワルツを彩るバックミュージックとなる。
やがて、試合開始から五分が経過した頃、両者は勝利を手にするため、自らの守りを放棄した攻めの姿勢へと転じ、シグナムがウィル目掛けて振り下ろした剣閃の軌道が大きく逸れたのを契機に決着に向けて動き出す。
それがシグナムのミスではなく、空間そのものが動かされたのだと気づけたものは会場に数人。
空振りで生まれた隙に叩きこまれる剣。シグナムはすんでのところで左手の手甲を盾として直撃を避けるが、片手で受け止められるはずもない。さらに衝突の瞬間にウィルのフェザーが剣を加速させ、シグナムの身体を吹き飛ばす。
両足のハイロゥに魔力が集い、追撃のために圧縮空気を噴出させようとするその直前、細い細い光の反射がウィルの視界の端をかすめる。感じた悪寒に、大きく身体をのけぞらした瞬間、先ほどまでウィルの身体があった場所を鋼糸が通過した。
レヴァンティン・シュランゲフォルム、分割した刃を糸が繋ぎ、変幻自在の斬撃が敵を襲う恐るべき姿。
シグナムは空振りの瞬間にシュランゲフォルムへと変形させ、ウィルに気付かれないように刃ではなく糸のみを伸ばし、追撃しようとするウィルを背後から強襲した。
すんでのところで回避され、目標を捉えられなかった糸は主の元へと戻る。
追撃を免れたシグナムは姿勢を制御して地上へと降り立つと、再び長剣の形へと戻った愛刀レヴァンティンを鞘に納めた。
左手を鞘に当てて固定し、右手を柄に。その構えが意味するのは居合だ。
刃圏に足を踏み入れた瞬間に確実な敗北が待っていると理解できる濃密な剣気を放出しながら、シグナムはどうした? 来ないのか? と雄弁に語る挑発的な笑みを浮かべる。
これが殺し合いや仕事であれば、こんなものは無視して、遠距離攻撃を加えれば良い。けれど、これは試合だ。
それにシグナムとは闇の書事件から何度も刃を交わしたが、これまで一度として勝つことができなかった。復讐を抜きにしても、シグナムを正面から打ち倒してみたいという戦士としての欲求がある。
だからウィルもまた地上へと降り立つと、シグナムの刃圏の直前で、愛刀たる銀剣アミンを大上段に掲げて静止する。かつては強度の差で折れたこの剣も、二年の間に知遇を得た聖王協会の騎士の手を借りて強化され、今や古代ベルカのアームドデバイスにも引けを取らない強度を誇る。
シグナムとウィル。双方ともに構えたまま、じわりじわりと距離を詰める。
互いの刃圏は等しい。一刀の間合いに入った瞬間に、どちらの振るう剣が速いかという単純な勝負。
魔法の介在しない尋常の勝負であれば、勝つのは最初から刃を抜いているウィルだ。鞘走りの摩擦は抜刀の速度を鈍らせる。レヴァンティンほどの幅広な剣ならなおさらだ。
勝機があるとすれば、剣を鞘に納めることで刃の間合いを正確につかませず、先手をとれることくらいか。しかしウィルとシグナムは互いの得物の長さなど、両手を広げて右手の端から左手の端まででミリメートルの誤差もなく再現できるほどに知っている。
この状況であえて不利な構えを取るのなら、そこには勝利のための奇策があるはずだ。
両者が剣を振るったタイミングはまったくの同時。
シグナムが鞘から剣を解き放つと同時に、鞘の内側から爆音が鳴り響き、振るう剣の先端が音速を超える。
魔力を纏わせた状態で納刀し、纏わせた魔力を炎熱変換させ、小規模な爆発を鞘の内部で起こす。結果、文字通り爆発的な加速を得た超音速の居合が可能となる。折れず、曲がらず、砕けない。真正ベルカのアームドデバイスであるがゆえに可能な荒業。
一方のウィルもまた、腕部のフェザーから放たれる圧縮空気により瞬時に加速し、剣の先端が音速を超え破裂音を響かせる。
互いの剣は両者の中間で激突し、衝撃が観客席との間に張られたバリアを揺らす。
ウィルの打ち下ろしが、シグナムの横薙ぎを抑え込み、シグナムの手から離れたレヴァンティンの先端が地面に突き刺さっていた。
「……私の負けだ」
どこか晴れやかな顔で己の敗北を認めたシグナムの言葉に、ウィルは両手を掲げて大きくガッツポーズをとり、観客席が一斉に湧く。
歓声が飛び交う中で、ウィルとシグナムは向き合って話をする。
「ついに追いつかれてしまったか」
「まだ一勝ですよ。それに最後のはお遊びみたいなものですし」
「そういうわりに、嬉しそうだな」
指摘されて、ウィルは照れ笑いを浮かべた。
この二年間、特に最初の一年はシグナムも自由に動くことができず、顔を合わせる機会もあまり得られず、模擬戦などもっての他だったが、一年前に嘱託として管理局で働き始め航空武装隊としてクラナガンに配属されてからは、たびたび模擬戦をしてきた。
結果、二十戦二十敗。今日の勝利は、闇の書事件での三度の殺し合いを含めて、初めてウィルが自分の力で勝ち取った勝利だった。
「遊びでもあの瞬間、貴方の力が私を超えたのは事実だ。貴方は本当に腕をあげた。特に空振りさせられた時には肝を冷やされた。まさか闇の書の業が使っていた技まで使えるようになっているとは」
「頑張って練習しましたからね」
彼らとウィルが一緒に戦ったのはたった一度。その一度の戦闘で、彼らはウィルの肉体を使ってヴォルケンリッター複数人を同時にあしらうほどの卓越した戦い方を見せてくれた。器となるウィルに迷いがなければ、彼らが不覚をとることはなかっただろう。
あの時の彼らの肉体の動かし方、瞬時の判断、残していった戦い方。この二年間、それらがウィルをより高みに導くための師匠だった。
それに、たとえ技という形でも、彼らが残したものを継いでいくこと。それが消えていった彼らに対して自分ができることだと思ったから――と思っていのに、彼らの一部は消えずに残っていて、また力を貸してくれたのだが。
あらためて感じさせられる。自分は大勢の人たちに助けられ、支えられて生きているのだと。
「今回はあまり見せられませんでしたけど。他にもいろいろとできるようになったんですよ。たとえば……シグナムさん、握手いいですか?」
「ん……んん!? す、少し待て!」
シグナムは服の端で手のひらを勢いよく拭うと、突き出すように右手を差し出す。
ウィルはその手に重ねるようにそっと触れて握る――と、途端にシグナムの肉体がふわりと宙へと持ち上がり、握手している場所を起点として逆立ちするような姿勢になる。
そのままウィルは握手している手を放し、落ちてくるシグナムの身体を姫抱きに受け止める。
相手と触れ合った箇所を通じて魔力を流し込み変換。相手の肉体を強制的に動かす。かつて闇の書の業が見せた技だ。
「今のところ実戦での活用方法はあまり見つかってませんけどね。……シグナムさん?」
姫抱きに――いわゆるお姫様抱っこをされたシグナムは、顔を赤らめたまま何も答えず。
これが衆人環視の状況だと思いだしたウィルは、途端に恥ずかしくなって、そっとシグナムの身体を足から降ろし、赤くなる顔を抑えようとし、
「いちゃついてんじゃねえぞー!!」
観客席から飛んできたひときわ大きな野次は、都合よく気持ちを切り替える契機になってくれた。
ウィルは振り返って本局側の観客席の一点を指さして、笑いながら負けじと大声で叫び返す。
「うるせえぞヴァーーーイス!!」
八年後、メモリアルガーデン。
ジェイル・スカリエッティが引き起こした一連の事件が終わりを迎えてから、半年が経過した。
管理世界の守護者たる地上本部が陥落一歩手前にまで追い詰められ、お膝元で起動したゆりかごの大気圏突破を阻止できずに月の魔力を充填するポイントへの到達を許してしまったこと。暴露された最高評議会とその関係者の存在。
その影響は地上だけにとどまらず、管理局全体への信用が大きく揺らいだが、最高評議会の首魁たる三人の死と、その後の混乱を制して最高評議会を掌握したグレアムの手腕により、徐々に落ち着きを取り戻している。
三ケ月前には機動六課も役割を終えて解散。所属していた隊員たちはそれぞれ元いた部署へと戻って行った。中には六課での経験を評価されて新たな部署に異動したもの、挑戦しようとする者もいる。
ウィルもまた管理局を辞して、民間警備会社アインヘリアルの設立に協力し、そのまま再就職。信頼していた上司や身内が最高評議会の関係者で、知らず知らずの内に関係していた者もいれば、ウィルのように知っていたが明確に協力はしていなかった者など。牢に放り込まれはしなかったが、責任をとって管理局を辞した者たちが集まった会社だ。
最高評議会が選ぶほどの人材や、その者が重用していた者となれば当然優秀な者が多く、そのような人材が集ったおかげで世間からの評判とは裏腹にスタートダッシュは上々だった。当の管理局への信用の低下も相まって、各地で小規模な事件が頻発して需要が増していたのも理由だろう。
平穏には程遠い日々だが、こうして今年も父の命日に墓参りに訪れることができた。
いつもとほんの少し異なる点は、今年の同行者はクロノらハラオウン家の面々ではないこと。
ウィルは父の墓前での祈りを終えて閉じていた目を開くと、自分の横で同じように膝をついて墓前に祈りを捧げている彼女――シグナムを見る。
彼女もまた、闇の書事件の後、欠かすことなく何度も墓に足を運んでいた。
シグナムが瞳を開くのを待ってから声をかける。
「行こうか」
並んで歩けば、十年での変化が一目でわかる。
十年前のウィルの背丈はシグナムよりほんの少し高い程度だったが、いまや頭半分ほどの差が生まれている。
一方、隣に並ぶシグナムは十年前のまま変わりなく、二十歳前後の容姿。
今はもう誰が見てもウィルの方が年上に見られることだろう。
シグナムのジャケットの袖口から見える腕に、見慣れない模様が見えた。少し考えてようやく、それが傷痕だと気づく。
「シグナム、その腕の傷って」
「ああ、見苦しいものを見せてしまったな。ゆりかごでのトーレとの戦いでついた傷だ」
「それなら名誉の負傷だ。見苦しくなんてないよ。ただ、どうして治してないかって気になったから」
ヴォルケンリッターの肉体は、プログラムというフレームに魔力で構成されたもの。
夜天の書という大本がなくなった今、肉体が完全なる死を迎えてしまえば、再び召喚することはできない。今のヴォルケンリッターの命の残機は、普通の人間と同じように一つしかない。
しかし、肉体の構成自体は人間と異なっている。魔力を通わせて損傷した箇所を再構築すれば、傷も欠損も修復される。だからヴォルケンリッターの肌には一切の傷どころかシミや黒子すらもないはずなのに。
「治せないんだ。プログラムで構成されていた我らも、時間の経過と共に肉体が物質として定着してしまった。かつてのように肉体を魔力で補うこともできなくなって……多分、そう遠くないうちに、ただの人間と変わらなくなってしまう」
変化を語るシグナムは、まるで叱られるのを待つ子供のような表情をしていた。
いくら傷ついても致命傷を負わなければ助かるヴォルケンリッターの性質は、戦力として非常に貴重で、それが失われることは損失ではあるのだろう。
しかし人間は治らない。これからヴォルケンリッターが人間としてこの世界で生きていくなら、それが自然の形だ。
「じゃあ、これからはもっと気を付けて任務に当たらないとな。航空隊の人は知ってるんだよな? 今までみたいに治せると思われて、無茶な任務につくことになったら大変だ」
「……いいや、それはできない。我が身かわいさに身を引くなど、私には許されない」
「それで大怪我をしたら……死んだらどうするんだよ。頑張るのも良いけど、自分の身は――」
「私の命にたいした価値はない。私が奪ってきたものに比べれば、私がこの十年やってきたことなど比べものにもならない。主はやてと共にいられる……その最上の幸福を享受しているだけでも、私には十分にすぎる。これ以上を求めては申し訳がたたない」
どこまでも身を削って贖罪にあたろうとするシグナムの姿。
それは自らの手による復讐を諦めながらも、贖罪の見届け人としての立場を選んだウィルが望むものだ。
奪った側がその罪を忘れず、己の幸福に背を向けて懸命に罪を贖おうとしている。喜ばしいことのはずだ。
「そうだね。たしかに、罪は償わないといけない。安易に許してはいけない……許されてはいけないんだと思う。でも……」
ウィルはこの十年間で、何度となくシグナムと交流してきた。
はやてを介してのことも多かったが、シグナムがよく出向していた航空武装隊との共同任務で肩を並べることもあれば、はやてを抜きに顔を合わせることもたびたびあった。
シグナムのことを、ずっと見続けてきた。奪われた者として、贖罪の見届け人として、戦友として、友人として――だから、今のウィルはシグナムのことを信じられる。
「シグナムはこれまでずっと頑張ってきた。どれだけ批判されても決して言葉を荒げず、態度で示し続けてきた。……だから、あの日の言葉を撤回させてほしい」
今でも思い出せる。あの日、薄氷舞う中で叩きつけた憎悪の言葉。
それはきっと、これまでのシグナムの十年間を縛り続ける言葉であったろう。
――許せるか!! 奪ったお前に、幸福な人生なんて与えるものか! 贖罪なんて綺麗な言葉にくるんだ、安穏とした生活なんて認められるか!
「奪ったきみでも、もっと幸福な人生を手にしても良いんだ。きみは贖罪を言葉ではなく行動で示し、安穏とした生活に背を向けて歩んできた」
――奪われた者はもう帰ってこれないんだよ! もう、二度と! 何をしたって! 父さんはおれのところに帰って来てくれないんだ! なのに、なのに、……畜生ぉぉぉお!!
「奪われたものは戻ってこない。二度と、何をしたって、絶対に。だけど、それでも世界は続いていく。俺もきみもここに生きている。それなら……」
――奪ったお前が奪われずにすむだと!? ふ、ふざけるな! そんな理不尽を認められるかよ! 世界の誰が許したって、俺はお前を許さない! お前にはどんな人生だって与えない! そうだ! 死以外、何か一つでも与えてやるものか!!
「奪ったきみに与えられるものがあっても良いはずだ。たとえそれが俺以外の人にとって理不尽なことであったとして、世界中の全てがきみを許そうとしなくたって、きみには自分の人生を手にして、自分の手で望むものを手に入れてほしい。今の俺は、そう願っている」
十年の努力で、シグナムが奪ったものが帳消しになるわけではない。やったことはなくならない。失われたものは取り返せない。奪われた者全てがシグナムを許せる日が来ることは、きっと永遠に来ないだろう。
だけど、奪われた者全てが永遠に許さないまま変わらない必要もない。
罪がいつまでも消えてなくならないとしても、それでも誠意を見せて懸命に贖罪を重ねれば、許さないと思っていた人が心を変える。そんな成果があっても良いはずだ。
「良いのだろうか。私が幸せになっても……今以上を望んでも……」
ウィルは右手でシグナムの左手を取る。そこに刻まれた傷痕を指先でなぞる。
「俺は許すよ。それに、俺もいい加減、一人の人間同士としてシグナムと付き合っていきたいから」
瞳を閉じてうつむいたシグナムの頬を一筋の涙が流れる。
やがて再び顔を上げたシグナムが、ウィルの顔を見上げ、意を決したように口を開いた。
二人の間に吹いた一陣の風が木々を揺らし、落ちた葉をどこか遠くへと連れていく。
けれど彼女が告げた言の葉は風に揺らぐことなく、たしかに目の前にいる相手に届いていた。