一瞬の浮遊感の後、意識が深い穴の底へと落ちていく感覚。
電灯を消すようにぶつりと途絶えた意識に再び明かりが灯された時、クロノは夕暮れの空の下、石畳で舗装された道の上に立っていた。
隣にはリインフォースもいる。
「まさか、ここがウィルの精神なのか……?」
クロノとリインフォースが周囲を見回せば、辺りに広がるのは庭園のような、公園のような、自然の風景。
ゆるやかに曲がる石畳の道の右手には夕陽に照らされ赤と金に染まる池が、左手はゆるやかな斜面になっていて丘へと繋がり、遠くに見える森には木々に囲まれるように礼拝堂がたたずんでいる。
「たいていの人間の心象風景は慣れ親しんだ自らの家になるのだが……たしかに落ち着く場所ではあるが、ここがウィリアムにとって一番深く繋がる場所なのか?」
不思議そうに首をかしげるリインフォース。
一方、クロノは熱くなる目頭を押さえ、眉間に力をいれておさえて息を吐いた。
「……わかる気がする。あいつがどこにいるかも検討がつく」
「ここがどこだか知っているのか?」
「よく見知った場所だ。第一管理世界ミッドチルダ西部エルセア地方、共同墓地メモリアルガーデン。……僕たちの父が眠る場所だ」
石畳の道を進めば、すぐに霊園部にたどり着いた。
夕暮れに照らされる墓石が立ち並ぶ中、記憶を頼りに歩み続ける。
友人になってからは命日に一緒に墓参りに訪れ、お互いの父の墓に花を捧げてもいる。
そして辿り着いた場所には、ウィルの父――ヒュー・カルマンの墓はなかった。
周囲にいくつもの墓石が並ぶ光景は記憶通り。
しかし、ヒューの墓があるはずの場所には、墓石の代わりに扉があった。
取っ手のない観音開きの鉄の扉。何の飾りもないその扉の向こうから、強烈な熱を感じる。
開けてはならぬと本能が警鐘を鳴らすほどの圧力――熱が、扉一枚隔てた向こう側から伝わってくる。
本能に逆らいながら歩み寄ると、門の上部に何かが記されていることに気がついた。
クロノは目を細め、門の上部に刻まれた言葉を口にする。
ETERNAL BLAZE
「それが彼の核だ」
第三者の声が墓地に響く。
気が付くと、門のそばの墓石を椅子代わりに一人の男が腰かけていた。
姿はウィルのまま。けれど纏う雰囲気は明らかに異なる。
「墓石に座るな」
「いいんだよ。これは俺の……俺たちの墓なんだから」
ウィルの姿をした男は立ち上がると、周囲の墓石を見回す。つられてクロノも周囲を見れば、墓石の多くは名前が削り取られたかのように読み取れなくなっていて、名前が残っている一部の墓石を見れば妙に古風な名前が多いように見える。
「お前は闇の書の業か」
「本当の名前は―――――っていうんだが……あれ? なんだったかな。どうやらその情報は転生の中で欠落したみたいだ。まぁいいさ、もう自分の元の姿もわからないんだ。名前なんて今更だ」
男が先ほどまで座っていた墓石を見ても、本来名前が刻まれている箇所は削り取られていた。
「内側に入り込んで、そこの管制人格が俺たちを抑えているうちにクロノが我らが王を説得して、自発的に俺たちとのリンクを弱めさせる。……おおかたそんなところだろう?」
狙いを看破され緊張感を高めるクロノとは裏腹に、闇の書の業は大げさに両手を肩まであげて首を横に振った。
「あいにくとその目論見は大間違いだ。さっきも言っただろう? これは俺たちの遺志であり、彼の意志でもある」
「だが、我々がウィリアムに呼びかけるたびに、彼とお前たちの融合率は低下していった。お前たちはウィリアムの意識を掌握しきれていない。……違うか?」
「そりゃそうさ。王は臣下を従えるもの。そして王はたとえ復讐の邪魔になるとしても、クロノたちを殺すのを嫌がった。融合率の低下はそこでちょっとしたいさかいが起きただけの話さ。……ただな、その根っこの部分は別だ。王と俺たちの願いはともに復讐。ウィリアム・カルマンという存在の根幹は復讐の化身で、それが変わらない限り俺たちが離れることはない。……かわいそうなほどにな」
語りながらも男は歩を進め、門の扉に手をかけた。
「信じられないのなら、拝謁を許そう。この扉の先に王はいる」
取ってのない扉が解き放たれ、その向こうに広がる赤色が眼を灼くと同時に、クロノは後ろから誰かに突き飛ばされて門の中へと落ちていった。
「クロノ!」
身を乗り出そうとしたリインフォースを遮るように、解き放たれた門の前に闇の書の業が立つ。
「「「呆けるなよ。クロノは彼と。それならお前は俺たちとだろう?」」」
声は前だけでなく後ろから。先ほどまでクロノが立っていた場所のすぐ後ろにも、ウィルの姿をした男。
いや、気づけば声は四方から聞こえてくる。
地平線の彼方まで並ぶ墓石の半数ほどに、ウィルの姿をした無数の男たちが腰かけていた。
男たちが立ち上がると、夕暮れ刻の空から太陽が沈み、世界は真っ暗な闇に包まれる。
「「「それでは俺たちも戦おう」」」
クロノのことは心配だが、門の先にウィルがいるのであれば当初の目的と何も問題はない。
「そうだな。私も全力で相手をしよう」
リインフォースの周囲の闇が押しのけられ、何もなかった虚空の闇に天が生まれる。
月と雲があり、彼方に星の煌めく夜の天(そら)。
闇と夜がお互いの領域を削り合うように浸食し合う。
「予想以上の魔力だ。どこから持ってきた?」「おそらく、アースラの動力炉からの直接供給だろう」「無茶をしたな」「アースラの魔力全てを流し込んでも、俺たちの魔力総量全てを削るには届かない」「なによりもそれだけの魔力を受け止めれば、お前は――」
異なるウィルが次々と発する言葉に、リインフォースは毅然として応える。
「そんなものは早いか遅いかの差だ。私たちの未来はクロノ・ハラオウンという少年に賭けている。私が時間を稼いでいる間にクロノがきっとウィリアムを連れだしてくれる」
リインフォースは己の胸に手を置いて、告げる。
優しいはやても、真っ直ぐなクロノも、勇敢ななのはも、ウィルを――大切な人を連れ戻すために動いていた。そのために必死になっていて、気を配れなかったのだろう。向き合わなければならない相手はウィルだけではなく、闇の書に未来を奪われてきた数多の犠牲者たちもなのだと。
いや、違う。
「お前たちの願いは叶わない。仲間たちは殺させない。……だから、お前たちの戦いはこれが最後だ」
闇の書が築き上げた数多の犠牲者と向き合うべきは、今を生きる彼らではなく、『私』だ。
「お前たちを苦しめた元凶は、闇の書の罪はここにいる。存分にかかって来い」
闇の書と呼ばれることを厭っていたはずの彼女は、自らの意志で闇の書の名と罪を背負って、復讐者たちと対峙する。
夜と闇がせめぎ合い、世界に亀裂を生み出した。
魔力で領域を奪い、演算で法則を犯し、互いの存在を喰らう、融合騎同士の戦いが始まった。
門を通り抜ける時には意識の喪失はなかった。
通ったと思った瞬間には、世界が色を変えていた。夕暮れの赤と金が染める世界から、鮮烈な赤と黄を基調とした暴力的なまでの光に満ちた世界。
地が燃え、天が燃え、大気そのものが燃える、あまねく全てが燃える世界。
現実であればバリアジャケットがあっても一瞬で身を焼かれ灰になるほどの炎に包まれながら、クロノの肉体には傷一つつかない。これだけの炎もただの心象風景であって、現実ではないのことの証左だ。
ただ、炎が発する熱気は息苦しさを感じるほどで、クロノの心に行き場のない衝動を呼び起こそうとしてくる。
在りし日にたしかに感じた我が身を燃やさんばかりの熱量。怒りや憎悪と呼ばれる類の熱。
こんなところに長居すれば気が狂ってしまいそうだ。
炎で満たされた世界にいく筋もの黒の線が見える。それらは全てが鎖だった。
空から鈍く艶のない鎖が幾条も垂れ下がり、四方の大地からも鎖が伸びている。
それらの鎖全てが集中する一点、そこに一人の少年がいた。
大気さえも燃えるような世界で視線は通らないはずなのに、それでもそこに彼がいることははっきりとわかった。
周囲の炎よりもひときわ赤い。真っ赤に輝く赤髪に、赫焉とした赤眼。ぼろきれのような服を身に纏い、天と地から伸びる鎖がその四肢へと繋がっている。
そばに寄ろうと考えた瞬間、両者の距離は声をかければ届く程度へと変化していた。
「クロノか。何しにきた」
ほんのわずかな言葉。でもそれだけでウィル本人なのだと直観した。
「闇の書の業を止めるため、そしてきみを助け出すために」
「必要ない。これは俺が望んだことだ」
ウィルの答えは簡潔。
闇の書の業が語った通りだというのか。
ウィルの意識はヴォルケンリッター以外を殺さないように働いていただけで、闇の書の業に飲まれることも、彼らとともに永遠の復讐を果たすことも、ウィル自身が望んだことなのだとすれば。クロノたちの計画は最初から成功の目がない。
「これがきみの心の中なのか?」
「そうだ。父さんの死を理解した日から、心の内にずっと燃え続けている炎だ」
「これを……ずっと、抱え続けてきたのか?」
「最初のうちはな。そのうち、心の中に扉ができて炎はそこに押し込められて、普段は普通に生きられるようになったよ。でも、扉の向こうではずっとこの炎が燃え続けていたんだ。ほんの少し扉を開ければそれがわかる。いいや開ける必要もない。扉から漏れる熱がずっとじくじくと苛むんだ。諦めた方が楽だって思ってても、諦めようとすると気が狂いそうで、諦められない。だから俺は最後まで復讐のために駆け抜けて死ぬ。それが俺だ。俺の意思だ」
クロノはこんな風に可視化された形で自分の内面を見たことはない。だからもしかするとクロノの内側にも似たようなものはあったのかもしれない。
自分も父の死を告げられた時、泣き崩れる母の姿を目にした時、泣き、怒り、そして憎んだ。自分から大切な父を奪った闇の書という存在を。この世の理不尽というものを。我が身を燃やさんばかりの熱を感じた。
それでも、わかる。これを十年抱え続けてきたというのは、抱えたまま普段は何事もなかったかのように笑っていられたのは、異常にすぎる。
「諦めるつもりはないんだな?」
「諦められないんだよ。なぁクロノ、何度目になるか忘れたけど、教えてくれ。どうしてお前は諦められるんだ?」
その質問の意図はすでに理解している。
理由ではなく、方法。そして自分が用意できる答えは耐えるしかないということ。
けれどそれは、ウィルにこれから先もこの炎に身を焼かれながら生きていけというに等しい。
今は大丈夫かもしれない。でも耐え続けるだけでは、いつかはきっと狂ってしまう。何か代わりにウィルの心を守ってくれるものがなければ、いつかはこの炎にその身を焼き尽くされてしまう。
復讐を止めるにはどうすればいいのか答えられず、ウィルを救うにはどうすればいいのかわからず。何もできないクロノは、その場でゆっくりと拳を構えた。
「殴って止めようって? たしかにそれが一番正しい選択だ。誰だってそうするよな。相手――敵のわがままに付き合う必要なんてない。それで良いんだ。どうせ、俺たちの歩む道はもう交わることはないんだから」
「違う。……違うんだ。どうしていいのかわからない。どうすればきみの望む答えを出せるのかも、どうすればきみを止められるのかも何もわからない。でも、きみを助けるのを諦めるのだけは……絶対に、嫌だ。だから、僕がやれることはたった一つだ。全霊できみにぶつかる。だからきみにも全霊でぶつかってほしい」
その言葉に、ウィルは笑った。眉尻を下げて、悲しげにほほ笑んだ。
「そっか」
そしてウィルもまた拳を構える。
四肢を結ばれた鎖がじゃらりと金属質な音をたて、それが繋がる世界もまた大きく胎動する。
「行くぞ、ウィル」
「来いよ、クロノ」
燃え盛る世界の中で、二人の少年がぶつかり合う。
最初はお互いに、魔法を使い、覚えた格闘技を駆使して戦っていた。
しかしそのうち、いかな魔法を使おうと、いかな技を使おうと、いかに急所を突こうが、何も関係はないと気づく。
ここは精神世界。いかに隙をついて敵を撃ち貫くかの現実の戦いとはまるで違う。
望めばどんな技でも、どんな魔法でも使える。近づこうと思えば一瞬で吐息のかかる距離まで近づくことができるし、離れようと思えば千里の先まで離れることもできる。天から流星を落とすことも、地を砕いて吹き飛ばすのも、視界一面を光で埋め尽くすのも、いくらでもできて、そして次の瞬間には時間が巻き戻ったかのように元に戻る。
偶然の勝利も、意表をついた策略も意味をなさない。
互いにできることは己という存在を押し付け合うことのみ。歩んできた道を、刻まれた思いの重さで、相手を押し潰し合う。
だから、自然と闘いは地に足をつけての殴り合いになっていった。
魔法もなく、技もなく、力の限り振り絞った拳と蹴りを、腹の底から引き絞った声に乗せて振るう。
それが本当に効率的なのかはわからない。ただ、二人ともそれが一番効果的に相手に意思を押し付けれると感じた。
そして実際に、拳を叩きつけるたびに何かが伝わってくる。
ここが精神の中で、こうして姿を持つウィルやクロノ自身も精神体だからだろうか。お互いに強く接触するたびに、彼我の境界が揺らいで何かが流れ込んでくる。
でも伝わるのは漠然とした思い。
クロノが自分を本気で助けようとしているのは伝わってくる。
クロノ自身もまた、闇の書への憎しみを抱えていることも伝わってくる。
憎しみを抑え込んで、復讐の道を選ばずに生きるという決意も伝わってくる。
それだけでは意味がない。
こんな風に言葉という不自由なツールではなく、心と心が触れ合えば様々な誤解もなく人と人は通じあえるのかもしれない。
でも、それだけでは新たな答えは生まれない。触れ合うクロノも答えを持っていないから、お互いの感情を伝えあっても、互いが持つものを共有するだけにしかならず。
だから、二人は拳で感情を伝えながら、言葉を交わす。
「殺されたんだぞ!」
「知っている!」
「奪われたんだぞ!!」
「わかっているさ!!」
言語という不完全なツールを己というフィルタを通して、自らの価値観に照らし合わせて理解し、時に受け入れ、時に拒絶して。今度は自分が相手に伝えようと言葉を尽くし、受け取った相手もまた彼の価値観というフィルタを通して理解し、時に受け入れ、時に拒絶して。
そうして、不完全なものを理解しようと努めるその心こそがきっと、おはなしをするということなのだろう。
「許せっていうのか! あいつらを!」
「違う! 僕だって……僕だって、父さんを殺されて、母さんが苦しんできたのを見ていた。そんな簡単に許せるもんか!」
「だったらわかるはずだ!」
「でも! 僕たちは今の彼らのことも知っているだろう! 彼らがただの悪人じゃないってことは僕よりもきみの方が知っているはずだ!」
「知ったことか! 俺は奪われたんだ! だから、俺も奪うんだ! 奪った側だけそれっきりなんて、そんな不条理があるもんか!」
「きみの父親は、きみがそうすることを望んでいるのか!?」
「父さんが望んでいようが、いまいが、そんなことはどうでもいい!」
クロノの腹に拳が突き刺さり、体が浮く。
「これは残された俺の意志! 俺の復讐だ! だってそうだろ! 死人は何も語らない――語れないんだから!!」
続けて放つ拳が側頭部にたたきつけられる。
ウィルは友に拳を振るうごとに、復讐以外の雑念を捨てて純粋な意思の塊へと変貌しようとしている。
たった一つの元素で構成された高純度の刃へと変貌していく。
「違う!!」
だが、クロノは折れない。ふらつく体は決して地につくことはなく、その瞳から意思が消えることもない。
そして今、ウィルの言葉を受けて理解した。どうして復讐を望んでいないのか。どうして復讐以外の道を選んだのか。
ウィルは自分の意志だと言った。他人の意志は関係ないと言った。死人は何も語れないと言った。
クロノも自分の意志で復讐を止める。でもそこに他人の意志が関係ないわけではない。そして死んだ父は何も語れずとも、その生き方は何よりも雄弁にクロノに教えてくれた。
「僕たちは死んでいった父の生き方を見てきたはずだ! 僕たちを育ててくれた大人たちの願いを感じてきたはずだ! 心に生まれる思いだけが自分じゃない! 受け継いだ意志だって自分自身だ!」
クロノという存在は、単一元素からなる純粋な刃には程遠い。
だが、鉄には多くの元素が含まれているように、鉄に炭素を混ぜて鋼とするように、鋼を刃へと変じるように。時にはその不純物こそが、己という形を保つため、曲がらず、変わらず、存在し続けるために必要となる。
そして重量が勝敗を分かつのであれば、すべてを投げ出した者よりも、より多くを背負った者の方が強く。
「僕はあの人たちのようになりたい! 僕たちの生きる世界を守ろうとしてくれた父さんのように! 僕の生きる世界を守り続けてくれた母さんのように! だから》》耐えるんだ! 憧れたあの人たちに胸を張って、これが僕だと――クロノ・ハラオウンだと言えるように!!」
その言葉を受け止めたウィルは、過去の幸せだった頃に憧れていた、自分たちの世界を守ってくれていた父の背中を幻視して。
自らもそうなろうと叫ぶクロノの姿がまばゆくて、まぶしくて、あまりにも綺麗で。
拳を振るうのも忘れて、身体ごと叩きつけるようなクロノの拳を無防備に受け止めた。
身体がもつれ合って、二人して炎の中をごろごろと転がって。
やがて揃って仰向けに倒れ伏して、真っ赤な空が視界一面に広がる。
隣で倒れているクロノが、ゆっくりと起き上がり、ウィルを見下ろしてつぶやいた。
「初めて……殴り合いできみに勝ったな」
ウィルはゆっくりと首を横に振った。
「これのどこが殴り合いだ。こんなのただの意地の張り合いだろ」
「……じゃあ、僕が勝つのはいつものことだな」
「クロノは変なところで頑固だからなぁ」
「よく言われる。……答えは出たのか?」
ウィルは倒れたまま、自分の右手をじっと見つめる。
その手は現実同様の銀色の手。魔法を使い戦うためのデバイス。誰かを傷つけるための手だ。
「すごく嫌なんだ。父さんを殺したやつが生きてるのも。それをみんながかばうのも。罪を犯しても許されるのも。それを許せない自分も。みんなが伸ばしてくれる手を握り返せない自分も。何もかも……だから、この炎に身を委ねてしまえばいいと思ってた。迷いを捨てて、衝動のままに生きようって」
クロノが膝を曲げ、倒れ伏したままのウィルへと手を伸ばす。
「でも、きみにはそうしない強さがある。僕はそう信じてる」
「俺にそんな大層な強さはないよ。買いかぶんな。押し付けんな。……でも、そうだな……さっき言ってたよな。クロノは両親みたいになりたくて、だから許すんだよな」
「何度も言わせるな」
少し恥ずかしそうにしつつ、クロノはウィルから目をそむけなかった。
代わりに伸ばしていた右手をさらに突き出す。早く握れというように。
「じゃあ俺も一回だけ言うよ。俺は、お前みたいになりたい――クロノみたいな、かっこいい生き方がしてみたい」
炎に焼かれて耐え続けるだけではいずれ焼き尽くされてしまうが、憧れた相手のように生きている、近づいているという充足感があれば、崩れ行く心を保てるかもしれない。
無理かもしれない。多分、無理だ。
ウィルは自分をそんな強い人間だとは思えない。自分の弱さは自分がよく知っている。
けれど、無理じゃないかもしれないと思えるほどに、憎悪を抑え込んで耐えると宣言したクロノの姿が、ウィルには格好よく見えたから。
そんな相手が命を懸けて、ウィルを死なせないために必死に手を伸ばし続けてくれているから。
そんな相手がウィル自身も信じられないような、ウィルの強さを信じてくれているから。
もしかしたら、今すぐに決断を出さずに歩んだ先に、ウィル自身も知らないようなウィルの強さがあるからもしれないから。
だから、ウィルはクロノの手を取り、クロノはウィルの身体を引き起した。
そして四肢に絡みつく鎖が千切れた。
ウィリアム・カルマンという存在の根幹を縛り付け、留めていた鎖が音を立てて壊れる。
それは天を支える御柱であり、地を支える根でもあった。
燃える大地も、燃える天も、崩れていく。
閉じ込められていた炎が消えるわけではない。
炎はその勢いを減じることなく、しかし狭い空間で燃え続けるだけでもなく、崩れた境界の向こうに広がるメモリアルガーデンへと広がっていく。
夜と闇に包まれた世界を炎が奔り抜け、明かりを灯す。
戦いを繰り広げていたリインフォースと無数のウィルもまた手を休めて、炎と共に現れたクロノとウィルを見ていた。
「うまくいったようだな」
リインフォースはもはや満身創痍といった様子で、纏う騎士甲冑もぼろきれのようで、肉体もところどころが欠けている。
それでも現れたウィルとクロノの姿を見て、嬉しそうに笑った。
そして彼女と戦いを繰り広げていたウィルは――ウィルの姿をした闇の書の業たちは、クロノと共に出現した本物のウィルを見て、だらりと頭を垂らす。
「諦めるのか? 我らが王よ、あれだけ憎んでいたのに。あれだけ苦しんでいたのに……それを俺たちが許すと思うのか?」
クロノがウィルを庇うように前に出ようとするが、ウィルもクロノの肩を抑えて、闇の書の業たちと向き合い、頭を下げた。
やがて、闇の書の業は大きく息を吐いた。
「冗談だ。融合騎もどきな俺たちは闇の書ほどの強制力はないからな。目覚めた主に本気で逆らわれたらどうしようもない。見込み違いだったのか、それとも……よっぽど良い友達だったのか」
「このまま、俺の中に留まり続けませんか?」
闇の書の業はウィルの提案に目を開き、口角を上げて、そして舌を出した。
「やなこった。それであいつらが生きるのを見てろって?」「そんなのに付き合えるかよ」「お前なんてもう王じゃねえ」「そうだそうだ」「ウィリアム・カルマン王朝の終焉だ」「在位一時間の王とかベルカにもいなかったぞ」「恥をしれ恥をー」
やいのやいのと、口々に反応が返ってくる。
「俺たちはお前の可能性なんてのに付き合うつもりはない。復讐を果たせないなら、この世界が俺たちの邪魔をするなら、このまま消えるさ。俺たちの復讐を認めなかった世界がその後どうなろうが知ったことか」
「そう……ですよね」
「……なぁ、少しでも申し訳ないと思うのなら、一つだけ願いを聞き届けてくれないか。難しいことじゃない。生き残ったヴォルケンリッターがこれから罪を忘れてのうのうと生きるようなら、いなくなる俺たちに代わって罰を与えてほしい」
「……殺せってことですか?」
「そうしてくれれば一番良いんだが、復讐をやめるような奴にそこまで期待はしねえよ。だが償いを忘れた奴らには罰が必要だ。何だっていいさ。ただ……罪には罰があるのだと、俺たちに信じさせてほしい。そして奴らの罪と罰と、その償いの果てを見届けてくれ」
「わかった。あなたたちの想いも受け継いで進むよ。約束する」
その言葉の響きをたしかめるように男は瞳を閉じて。
再び目を開くと、次はリインフォースへと向き直り再度口角を上げる。ただし、そこに浮かぶのは嘲りの笑みだ。
「俺たちが消えたところで、お前たちの罪は消えない。お前の同胞はこれからずっと、罪を抱いて生き続けなきゃならない。そして、俺たちみたいな過去の存在とは違う、お前たちを恨みながら今を生きている者たちとも向きあわなくてはならない。ウィル一人でこれなんだから、前途多難だな」
「きっと皆その覚悟はあるはずだ。私はそう信じている」
「どうだかな。……あいつらはこれから蔑まれ、怯えられ、そうやって生きていくしかない。あいつらに朝が訪れることはない。なら、せめて――」
――呪われた騎士たちに、夜天の祝福があらんことを。
そう言い残して、彼らはその姿を輝く粒子へと変じる。
暗夜に灯された篝火が生じる火の粉のように舞い踊り、さんざめき。鈴のような音色を残して、天へと昇り、溶けるように消えていく。
粒子が集まり、光の柱となったそれは、あまりに永い刻を無念に囚われ続けた彼らの葬送の列。
彼らは闇の書に未来を奪われた本人ではない。蒐集や取り込まれたことで闇の書に焼き付けられたその情報の残滓でしかない。
それでも、彼らの行く末に幸運があってほしい。そう願わずにはいられなかった。
三人ともしばらくその様子を眺めていたが、やがてクロノが声を上げる。
「僕たちもそろそろ出た方がいいな。外でみんなが心配しているはずだ」
「そうだな。ウィリアム、今こうして見ているのは夢のようなものだ。空間を維持している闇の書の業や私がいなくなれば、やがて毎夜見る夢のように意識は不鮮明になって元に戻るはずだ」
「わかった。二人とも、ごめん。それから本当にありがとう」
復讐を止められて悔しいという気持ちも、ウィルの中にある。
だけど、クロノとリインフォースにははただ止めるだけではなく、その身をもって復讐を抑えて生きる術を示してくれた。
それは言葉の礼をどれだけ重ねても足りなくて、これから一生をかけても彼らには返しきれないだけの恩ができたというのに。
「僕への礼は後で聞く。今は彼女に」
沈痛な面持ちで語るクロノ。その言い方はまるで後がないよう。
「そっか、そう……なんだな」
状況を理解して、ウィルは歯を食いしばる。
闇の書の管制人格であるリインフォースには恨みもある。はやてを助けるために協力して、今こうしてウィルのために命をかけてくれたことへの感謝もある。
どちらの感情も抱えきれないほどで、でも、それらは独立したパラメータで打ち消し合うものじゃない。
「ありがとう。本当にお前には……リインフォースには助けられた。絶対に、忘れないから」
その言葉を受けたリインフォースは、大きく目を開き、引き結ばれた唇を震わせた。
「……そうか、私はあなたを助けることができたのか」
瞳を閉じて、その言葉を吟味するように沈黙すること数秒。
「私も、あなたのことをウィルと呼んでも良いだろうか?」
「ああ」
瞳を開き、リインフォースは笑った。
初めて見る、憂いのない満面の笑み。それがウィルの記憶に鮮明に焼き付く。
「主を頼んだぞ、ウィル」
その言葉を残して、リインフォースとクロノはウィルの精神世界から消えた。
一人残された精神世界で、ウィルは立ち昇る光の粒子の囁きに耳を傾けた。
闇の書の業を構成していた大勢の声。満足している者もいる。まだ足りないと訴える者もいる。ウィルへの不満を訴える声も、罵倒していく声も、こんな一時協力しただけのウィルを気遣って消えていく声もあった。
この世界がいつまで続くのかはわからない。ただその声が全て消えていくまではこうして耳を傾けていたいと願い――そしてどこか懐かしい声を聴いた。
先ほどまで門があった場所。
炎に満たされたあの空間がなくなって、繋がる先を失った門は役割をなくして消滅した。
その代わり、そこには墓があった。墓石に腰かける男が一人。
その姿を認めた時、ウィルの瞳から涙がこぼれ落ちた。
クラールヴィントに捕縛されたウィルの周囲を取り囲む人たちは、かれこれ半時間ほどそうしていただろうか。
すでに全員が持ち得る魔力を生命維持に支障がでないレベルで夜天の書に注ぎ込んだ。
中で何が起きているのかを確かめる術もなく、ある者はこれからについて話し合いながら、ある者はひたすらに祈りながら待つ。
そうして半時間ほどが経過した頃、ウィルの肉体がかすかに光を帯びると、白色の粒子が空へと立ち昇り始めた。
それから間もなく、ウィルの隣にリインフォースとクロノが姿を現すと、待っていた人たちは口々に二人の名前を呼び、作戦の結果を聞こうと身体を乗り出す。
大勢の視線にさらされたクロノはその場で口を開こうとして、やめた。
満身創痍の身体に鞭打って、たった一人の元へ――自分を待つリンディの元へと、一歩一歩を踏みしめて歩み、目前に立つと背筋を伸ばして、胸を張り。
「クロノ・ハラオウン! ウィリアム・カルマンの救助、完了しました!」
声は堂々と、口の端にかすかに笑みを浮かべ、毅然と言い放つ。
その瞳が焦点を失い、糸が切れたように崩れ落ちるその身体が膝をつく前に、駆けだしたリンディが強く抱きしめる。
「よくやったわ、クロノ執務官。……おつかれさま、クロノ」
そのやり取りを横目で眺めながら、リインフォースは目の前にいる自らの主に向き直る。
融合の解けたはやては、左右からなのはとフェイトに支えられて、頑張って立っている。
その後ろには信頼できる同胞、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラがいる。
「……私はもうじき消えます」
「うん」
そのことは作戦開始前にすでにはやてに告げていた。
自分が生き残れば防衛プログラムが蘇る。それを阻止するためには夜天の書ごと消滅しなければならない。
そしてウィルを救出するためにアースラの魔力炉からの魔力を受け止め、闇の書の業と戦えば、おそらく自分の肉体は構築を維持できなくなるだろうと。
「ごめんな。リインフォースがウィルさんを助けに行ってる間に、何か手段ないかってみんなと話し合ってたんやけど、なんも浮かばんかった。ダメな主でごめんな」
リインフォースが見たくないと思っていた、悲しみに染まり自責の念に苛まれる主の姿。
「我々を案じ、救い出してくれたあなた以上の主などいませんよ。それに悪いことばかりではありません」
この戦いが始まる前のリインフォースは諦観とともにあった。
自分はこの場で死ななければならないという義務感を諦めとともに受け入れていた。
だけど今のリインフォースは違う。たしかに己の死を諦めとともに受け入れているけれど、少しばかり晴れやかな気持ちがある。
「最期に良い思い出ができました。ずっと主を、仲間を……誰かが死ぬのを見続けてきた私が、最期に誰かを救うことができた。こんなに嬉しいことはありません」
リインフォースは笑みを浮かべた。長い冬が終わりようやく芽吹いた花が咲いたような、曇りのない笑顔だった。
「もしも死後の世界があり、神が実在し、裁きが下されるのだとしても、その時に胸を張って言うことができます。私は多くの罪を重ね……そして、人を一人救うことができたのだと」
「そっか……そしたら、お釈迦様も蜘蛛の糸ひとつくらい垂らしてくれるかもしれんな」
はやても笑いながら返した。瞳に涙を溜めながら。
リインフォースは、その場に膝をつく。
闇の書の主ではなく、八神はやてという少女に敬意を捧げるために。
「八神はやて。夜の帳があなたを包み、さやけさがあなたの心を癒し、雲があなたを寒さから守りますように」
夜が終わる。
東の空が白み始めている。いまだ地平線の向こうへと沈んだままの、しかし今にもそこから顔をのぞかせそうな太陽、その光を背に受けながら、リインフォースははやてに別れを告げた。
「優しい主に、夜天の祝福を」
肉体の構成式が崩れ、肉体を構成していた魔力が光の粒子になって消えていく。
溜まっていた涙が決壊して、はやての頬を流れ落ちる。
「さよなら、リインフォース」
「さよなら、父さん」
光に溶けて消えゆく大切な家族を、送り出す言葉。
「良い旅を」