映し出される外界の色は、曇天の灰と管制人格の魔力光である紫黒が多くを占める昏から、フェイトの金、リーゼロッテの青と、明色の割合が増えていき、最後は桜色の光に満たされた。
「あの魔法なら、私のアバターとて無事ではすまない」
観劇の終わりを告げるリインフォースの声に、ウィルはずっと背を向けていた彼女たちに向き直る。
慎ましやかに座るはやてと、彼女の背に手を添えて、支えながらその隣に在るリインフォース。
「ようやくおれたちの出番ってわけだ」
「直撃の直前にこの隔離領域を破棄する。私と主は権限の奪取に向かう。お前は――」
「ウイルスプログラムを起動させて防衛プログラムを足止めする」
言を継げば、当初の予定通りなのにリインフォースは目を伏せる。
「お前の魔力量と持ち込んだウイルスの性能は把握している。防衛プログラム本体が出てくればひとたまりもない。無理はするな」
「するさ。そのために来たんだ」
意地を張って答えてから、はやての眉が悲しげに下がるのに気がついて、慌てて弁明する。
「大丈夫だよ。こうしているおれもはやてもただの意識で、肉体は別の空間に隔離されている。夢の中で死んだって、朝が来れば目を覚ますだろ? 心配いらないよ」
「夢と侮るな。主もお前もただの意識ではない。主は権限を取得するために、お前は破壊工作に魔力を用いるために、肉体との魔力パスが繋がっている。その状態の意識体が破壊されれば少なからずフィードバックは起きる。そのまま目覚めなかった例もある」
拙いなぐさめは、リインフォースにばっさりと否定され。
そんな事実を聞かされたはやては、さらに悲しみを増して眉を下げるかと思えば、憂愁をたたえてながらも確かな決意を幼い顔に宿していた。
「私だってみんなが戦ってるのを見てたんやから、今が無理せなあかん時やってわかってる。でもお願い。絶対に生きて戻ろ」
「わかった。約束だ。外でまた会おう」
約束なんて言葉のやり取りにすぎないけれど、交わしたという記憶と守ろうとする想いがあれば、闇の中でも灯となって導いてくれる。吹けば消えるようなか細い灯でも、ないよりはマシだ。
リインフォースが銀色の輝きを放って霧散し、粒子となってはやてを包み込み、内側へと吸い込まれていく。
座っていたはやてが、操り人形が見えない糸に引かれるように立ち上がる。内側から光が放たれると、はやての服は見慣れた普段着ではなくなっていた。
混沌とした淀みの如き黒ではなく、上質なベルベット生地のような純粋な夜の黒を、金と白の刺繍が美しく引き立てる服。それを純白のショート丈のジャケットが覆う。
背からは黒い粒子が塊となり、三対六枚の黒翼を象る。
右手に握られているのは金色の十字杖。その上部は闇の書の表紙を飾る剣十字に似ていたけれど、四つの剣先を支えるように円環が繋ぐ。
はやての栗色の髪は以前から輪のような艶があったけれど、今や髪の一本一本が空に浮かぶ月のように白い輝きを放っていた。
月の白と夜の黒を剣の金が彩るこの姿こそが、夜の主としてのあるべき形。
「よく似合ってるよ」
「ありがと」
「でも、そのスカート丈はいただけないな。破廉恥すぎる」
軽口に、はにかむような笑みを浮かべるはやて。
彼女と融合しているもう一人に声をかける。
「はやてを頼んだ、リインフォース」
「後ろは任せたぞ、ウィリアム」
ウイルスプログラムを起動。
銀色の腕から漏れるのは、白く透き通った魔力光。奔るプログラムが長く尾をひく音を立てる。夏にはやての家を訪ねた時に耳にした、風鈴の音色のように透明で清涼な。
矛盾のない優れたプログラムは純粋だ。ゆえに澄んでいて、ゆえに白い。
ふと、融合したはやての髪に白が混じっていたのは、機械であるリインフォースと融合したからかと想像したが、それを問う前に世界が音を立てて砕け始めた。
はやてを閉じ込めていた、保護していた、隔離していた、空間。
その壁が天井から崩れていく。細かに砕かれた欠片が、雪のように舞い落ちる。
はやての黒翼が一斉に広がる。ウィルの銀腕から強い光が広がる。
はやては天へと飛び立つ。天蓋を占める闇の先にある、月の輝きを目指して。
ウィルは地を睨みつける。底なしの深淵から訪れる、混沌を迎え撃つために。
リインフォースが用意した隔離用空間の外、闇の書の内部は、ある種の宇宙を構成していた。
宇宙空間にも似た暗闇に、恒星のように輝く球体が点在し、その表面上に刻まれた幾何学模様は刻々と変化を続け、球体同士の間を光が頻繁に行き交う。
構築された様々なシステムが、実行されるプログラムが、行き交う電気信号が、ウィルの脳によってわかりやすい形に変換された結果だ。
下と呼んで良いのかはわからないが、はやてが飛び立ったのとは逆方向にあたる空間は闇の霧に閉ざされていた。
光が届かないから暗いのではない。輝くものがないから暗いのでもない。光を奪うから暗いのだ。
闇の霧に包まれたその空間は、あらゆる光(電気信号)を遮断する真っ黒な防壁。すなわち防衛プログラムの領域だ。
その領域から何かが飛燕のごとく飛び出してきた。人だ。人のような何かだ。
美しく整った顔は、眼球すべてが血に濡れた紅に染まって、体は青紫に変色した死者のような肌で、足元まで伸びる色の抜けた灰色の髪を振り乱して、まるで魔女か山姥の様相。
けれど、美しく整った目鼻立ち、均整のとれた女の体、ウェーブを描く豊かな髪は、管制人格やヴォルケンリッター同様に美しい姿をしていた頃の名残ではないだろうか。
纏う光は黒ずんだ紫。白が正しいプログラムの色であるのなら、奴にはどれほどの無駄と矛盾が内包されているのか。いったいどれだけ歪められてしまったのか。
はやてがいなくて良かった。彼女がこの姿を見れば、きっと憐れに思ってしまっただろうから。
「行かせない」
右腕から解き放たれたウイルスプログラムが、天と地を分断する真白な境を作り上げる。
境からは無数の針が次々に放たれる。周囲の空間が歪んで逸れたかと思いきや、針はさらに追尾し、防衛プログラムを貫いて消滅させる。
あまりにあっけない最後で、これで終わったとの勘違いすらできない。
予感通り、新たな防衛プログラムが漆黒の幕より飛び出してくる。それも一体や二体ではない。こいつらは防衛プログラムがはやてを止めるために放った尖兵なのだろう。
放たれる針に大半が消滅させられていくが、中にはかいくぐって境に取り付くものも出てくる。
境を破ろうともがく尖兵を、ウィルの剣が排除していく。
ウィルの攻撃はウイルスのそれとは異なる。論理を戦わせるのではなく、肉体から引っ張ってきた魔力によって、プログラムを構成する魔力を散らして破壊する。極めて直接的な攻撃だ。
やってくる防衛プログラムのどれもが、ウィルのことなど意に介さずひたすらに上を目指す。それを横から殴りつけるだけ。あまりに楽な仕事に、むしろ焦燥がつのる。
リインフォースが事前に忠告までくれたのに、これが防衛プログラムの全力のはずがない。
倒した数が三桁に届く頃、新たな防衛プログラムがやってこなくなった。
訝しんで下方に目をやれば、霧の中にぼうっと紅い灯火が二つ浮かび上がる。
紅灯はいまだに霧の中にありながら、ウィルの視界の大半を占めている。おそらく、この空間に浮かぶどんな球体(システム)よりも大きい。
光を遮断する霧の中にあってその色が見える。それは遮断する必要がない、すなわち防衛プログラム側の存在が放つ光だということ。
あの紅色には見覚えがある。先程まで戦っていた防衛プログラムの瞳の色だ。
霧を突き破ってそれが姿を現した。
先程までの防衛プログラムとまったく同じ姿の、しかし大きさは桁違い。
初めて管理局地上本部の、天を衝く様を見上げた時を思い出す。その威容に畏れを感じ、次にもしも自分の方に倒れてきたらと、子供心に想像して怖くなった。
それと同じ、いやそれ以上の巨大なものが天へと昇ってくる。
ウイルスはこれまでの比ではない巨大な針を撃ち出し、ウィルもまた渾身の魔力を放つ。
防衛プログラムは防御も回避もしない。まるでそんなものは最初から眼中にないかのように真っ直ぐ上昇。
ハリケーンのように、こちらの攻撃も、ウイルスが張った白の境も、ウィルという存在も、すべてを巻き込んで、飛翔の衝撃だけで引き裂いて。その結果を確認もせず、さらに天を目指す。
防衛プログラムの双眸は、純度の高い宝石のように澄んだ紅で、だけど無機質で、ガラス玉のように均一で、何の意志も宿していない。
先程の小型プログラムも、防衛プログラムの本体も、同じだ。その目はウィルを認識していない。彼女が見ていたのは、ずっと先の天空で管理者権限を奪取しようとしているはやてとリインフォース。
相手はウィルを見てなどいない。あの紅眼には何も映されていない。
そうだろう。ずっとそうだった。
闇の書はずっと悪意をもって誰かを傷つけてきたわけではない。
内なる律に従って動いていただけ。そこに誰かを傷つけようという意図はない。
――なんだそれは
そこにいるとすら認識されず、路傍の石のように踏みつけられて、蹴飛ばされて、砕かれて。
――ふざけるな
引き裂かれたウィルの喉から、憎悪のこもった怒号が発せられる。
必死に生きてきた者たちを、大勢で築きあげてきた物を、連綿と繋いで来た共同体を、何も思わずに無に帰してきただなんて、そんな理不尽を強いたものにかける憐憫はない。
怒りのまま、遠ざかる防衛プログラムへと手を伸ばす。
けれど、ウィルの体躯は奴に比べると矮小にすぎる。踏み潰された蟻が、そのまま歩いていく人間に向かって足を伸ばすしたところで届くはずがない。すぐに視覚の限界からはずれ、そのまま息絶えるのを待つばかり。
それなのに、ウィルの指は防衛プログラムに届いていた。
ウィルの手から伸びた巨大な腕が、管制人格の足を掴んでいた。
あまりに不可解な現象への驚きで、怒りの叫びも止まる。
それなのに、依然として耳には怒りに満ちた叫び声が聞こえる。自分の声ではない。周囲から複数の人間の叫び声が聞こえてくる。闇の書の内部には、ウィルとはやてしか人間はいないはずなのに。
辺りを見回せば、無数の粒子がウィルのそばで蠢いていた。防衛プログラムが先程までいたのと同じ、底なしの深淵から湧いてくる粒子は、塵芥のように小さく汚れていて、だけど多かった。
その粒子がウィルの右腕に集まって、輝く巨大な腕になっていた。
粒子はウィルの体を見えなくなるほどに覆い尽くしていく。
恐怖はなかった。無数の粒子が触れるたびに流れ込んでくる思いが、その存在の本質を理解させた。
“此ら”は“彼ら”なのだ。
闇の書にふみにじられてきた、奪われてきた命の、その搾りかすのような残り香。
肉体が滅びようと、精神が壊れようと、なくなることはない。
死と哀しみは積み重なる。吹けば飛ぶような塵芥でも、集まれば天をも覆い隠す叢雲となる。
融合騎(リインフォース)と融合したはやてが白くなっていた理由が理解できた。
光が重なれば白くなるように、無駄のないプログラムが白いように、心も一つになれば白くなるのだ。
それなら、おれはもっと白くなれるはずだ。
心を通わせた主従であれだけ白くなれたんだ。
ずっとずっと、何年も、何十年も、何百年も、千年も。
そのために澱のようにこびり付いて、それでもなお残り続けてきたおれたちならば、きっと。
意識が白に染まる。赤く輝く髪からは色が抜け、肌も色を薄くする。
あらゆる魔力の光のスペクトルが干渉し合って生まれた完全なる白。髪も肌も、瞳すら白い。光そのものであるかのような、異様な白さ。
あらゆる思いと願いを受け止める白い祭壇。輝く巨人。
「ここまでだ」
いまや防衛プログラムと等しい大きさとなったウィルが、天に昇ろうとするそれを引きずり落とす。
防衛プログラムを闇の底へと叩きつけ、高みから見下ろす。
再度飛翔した防衛プログラムは、もはや天を目指していなかった。髪を振り乱し、障害と認識したウィルへと手を伸ばし、
「お前はここまでだ、ナハトヴァール」
その体が刃圏に入った瞬間、閃光に等しい白剣が魔を両断していた。
闇にヒビが入り、隙間から桜色の魔力が差し込む。
魔力の欠片が闇を舞う。
大きな月の浮かぶ夜に、舞う夜桜を背に、
魔導書は数百年ぶりに真の主を手に入れた。
*
「大丈夫ですかぁ、トーレ姉さま」
「すこぶる気分が悪い。五感すべてがノイズだらけだ」
海岸で、濡れ鼠になったトーレが大の字になって寝そべって。その隣にクアットロが腰掛けている。
「EMP対策はしてるはずなんですけどねぇ。馬鹿正直に突っ込まなければなんとかなったでしょうに」
管制人格の極大雷槌はプレシアの次元歪曲魔法で不発に終わったが、発生した電磁波が消滅したわけではない。
トーレは間近で強力な電磁波を浴びたことでセンサー系に異常をきたして海に墜落。常人の数倍の筋密度、強化骨格、機械パーツを内包した肉体は水に浮かばず、そのまま沈みいくところを間一髪で救出したのがクアットロ。
「プレシア様や妹たちはどうした?」
「やることやったらさっさとこの世界から離れるように動いてるはずですよ」
「私の回収にお前だけを残してか。それで、目的は何だ」
「なんのことです?」
首をかしげる仕草のわざとらしさに、トーレは鼻白んだ気色で。
「とぼけるな。普段のお前ならこの程度の仕事はセインあたりに押し付けているだろう」
「さすが姉様。脳筋に見えて案外知性派なんですね。でも、今はただ最後まで見届けたいだけですよ。面白いものが見れるかもしれませんし」
上空は先程までの戦いが嘘のように静まり返っている。
管制人格は――正確には外敵排除のために管制人格のアバターを利用した防衛プログラムは――巨大魔力刃による外装破壊、多重捕縛と内部からの魔力炸裂による肉体動作と魔法構築の阻害、最後の収束砲撃、どれをとってもオーバーSと評される魔法を受けて、ついに活動を停止した。
そして突然内側から白い光を放ち、周囲にベルカ型の古めかしい魔法陣が数え切れないくらい重なって展開され始めた。
人間ならばまぶしくて目を開けていられないほどの光でも、機人たるクアットロは余計な情報を遮断し、先程まで管制人格がいたあたりに六つの人影が現れたのを確認する。
「やっぱり、場合によっては、姉様にお願いをするかもしれません」
「感覚器が正常に動作していない私に何をしろと」
「五感は私とつながって代用すればいいじゃないですか。何もまだ戦えってわけじゃありませんから」
上空を見上げるクアットロからは、いつもの傍観者めいて斜に構えた態度は消えていた。
「あの日からずっと、ずっと、焦がれていたのよ。早く私に奪わせてちょうだい」
熱の籠った瞳、陶然として緩んだ顔、胸の内から絞り出した吐息混じりの声。
まるで恋に恋する乙女に似ていた。
**
目を灼く白い光が消えた時、ウィルの体は宙に浮かんでいた。
空は灰色の雲に覆われて暗く、下には海が広がっている。冷気を遮断するバリアジャケットでも遮断できないほどの荒れた魔力波を感じる。
遠くを見やれば、警戒を解かずデバイスを構えたままの武装隊が。そこから何人かの見知った顔がこちらに向かって飛んでくるのが見える。
一番近くにいたのはフェイト。
顔がはっきりと見えるほどの距離にいるが、そこから先へは近づこうとしない。
その視線はウィルよりも若干右に向いていて、そちらに顔を向ければ、夜天の装束に身を包んだはやてが宙に浮いていた。周囲には四人の騎士の姿も。
無事に闇の書の管理車権限を手に入れて、防衛プログラムの支配領域を切り離し、ヴォルケンリッターを再召喚したようだ。
フェイトとはやてはPT事件の折に面識があり親しくしていたが、ウィルが行方不明になっている間の戦闘でヴォルケンリッターの蒐集を受けてもいる。
そんな相手に不用意に近づけないのは当たり前の行動なのだが、
「ちょっとなのは!」
そのフェイトを追い越して、微塵の躊躇もなく、はやてへとタックルさながら飛び込んで抱きつくような者もいる。
「はやてちゃん! はやてちゃん! 無事だったんだね! たいへんなことになっちゃったって聞いて、本当に心配で!」
「ぐふっ……なのはちゃん、今のちょっと痛かった」
「おい高町!」見かねたヴィータが割って入る。 「はやてから離れろ! 痛がってんじゃねーか……って今度は私に抱きつくな!」
その様に毒気を抜かれ、フェイトもはやての元へと近づいていく。
彼女らの後に続くのは、ユーノとアルフだ。
アルフはそのままフェイトを追いかけて。その途中、ちらっとウィルの方を見てわずかに口角を上げた。
ユーノはなのはが再会を楽しんでいるのを見ると、そちらには行かず、ウィルの方へとやってきた。
「ウィルさん、ご無事で何よりです」
「ユーノ君は本当に気が利くな。それに、局員でもないのにこんなところにまで付き合うなんて」
「今回ばっかりは本当に死ぬかと思いました。これっきりだと良いんですけどね」
「それは難しいんじゃないかな」
「ですよね」
と、二人で横目でなのはを見て。ユーノが彼女のそばに居続けるなら、きっと平穏とは真逆の騒がしい日々が待っているだろう。
続いてやってきたのは、リーゼアリアとクロノだ。
リーゼロッテはどこにいったのかと思いきや、猫の姿になってリーゼアリアの肩にしがみついている。最後の一撃で人間の姿を維持できないほどに消耗したようだ。
にゃあ、と彼女が鳴けば、それでリーゼアリア、委細承知したのか。うなずいて応じ、こちらに近づいてくる。
無表情のように見えて、顔のこわばりから彼女が冷静の真逆にあることが知れる。
まったくの無も、莫大なエネルギーの釣り合いが取れた状態も、端から見れば静止しているように見えるのと似ている。この場合は当然後者だ。
「よくも父様をあんな目に合わせたわね」
頬にはしった痛みは飛び上がるほどに鮮烈な。
手首のスナップをきかせた、鞭のような痛烈な平手打ち。闇の書の中ではやてに打たれたのは心に来る痛みだったけど、こちらは素直にものすごく痛い。涙が出そうになる。
リーゼアリアは肩に乗るリーゼロッテを一瞥すると、再びウィルに手を伸ばして、「次はリーゼロッテの分!」ともう一発叩かれるのかと身をすくませたその頬に
「大役も果たしたことだし、私は一発ですませてあげる」
いたわるような優しさで手を添えて、泣きそうな笑みを浮かべた。
「よくやってくれたわ。本当に、ありがとう」
肩に乗っていたリーゼロッテは、リーゼアリアがウィルの頬に伸ばした腕の上を、これぞ猫といった動きで渡り、器用に手首のところに座りこむと、前足の肉球でウィルの顔をぐいぐいと押してくる。
「無茶な役目をおしつけて、すみませんでした」
「あら、私たちはお礼を言ったのに、あなたは謝るだけなの?」
「あなたたちのおかげです。ありがとうございます」
そうして、リーゼアリアとリーゼロッテは下がって、最後にウィルの前に立ったのはクロノだった。
「随分と久しぶりだな」
「本当に、随分と長い間会っていなかったみたいだ」
クロノは葬儀に立ち会った者のように沈痛な表情をしていたけれど、付き合いの長いウィルには、どんな顔をすれば良いのかわからずに困っているのだとわかった。
お互いに何も言わずに、ゆっくりと一呼吸。やがて、口の端に仄かな笑み。
「きみには聞きたいことも、言いたいことも山ほどある。でも今は……無事でいてくれて良かったと、心からそう思うよ。闇の書のせいで二度も親しい人を失うのは勘弁だ」
常日頃のウィルなら、気恥ずかしさに憎まれ口の一つや二つ叩くところだが、今ばかりはそんな気分になれなかった。きっとこんな風に素直に言葉をかわせるのはここが最後だから。
「闇の書の中から見てたよ。必死に戦うクロノたちの姿。それに捜査でもすごく頑張ってたみたいじゃないか。グレアムさんを出し抜くなんて、なかなかできることじゃない」
暴走した闇の書に突入する前に聞いた話によると、クロノたちはグレアムがこちらに内通していることを見破り、この世界を拠点としていることも突き止めていたそうだ。
グレアムの裏をかけたのは、それほどに必死になって、短期間で彼の想像を越えるほどに成長したからに他ならない。
「ありがとな。クロノたちが予想を越えて頑張ってくれなかったら、きっとこうはならなかった。本当に感謝してる」
もしも彼らが何も見抜けず、グレアムの思惑通りに動いているだけであれば。
アースラは今もまだ地球の近くをうろうろと巡回していて、この戦いに駆けつけることもなく、リーゼ姉妹とナンバーズだけで暴走した闇の書と戦い、力及ばず敗北していただろう。
管理局の尽力こそが闇の書を滅ぼしたといっても過言ではない。
「柄にもない」
「まったくだ」
お互いに顔を見合わせて、笑う。
笑い声は少しずつ大きくなって、そのまま続いていれば、きっと二人とも途中から泣き出していたのだろうけど
「ウィルさん!」
焦りを含んだはやての声で中断される。
どうやらまだ終幕とはいかないようだ。
***
たどたどしく飛んでくるはやての周囲に、白とも銀ともつかない粉がぱっと散って、飛行の軌跡を空に残す。
鱗粉を纏う蝶か妖精のようで非常に幻想的だが、おそらく内包する魔力をいまだに制御しきれておらず、何か動作をするたびに余剰魔力が外部に漏れているだけだろう。
「ウィルさん! この場の責任者って誰?」
ウィルが答えるよりも早く、クロノが前に出る。
「現在通信状況が悪くて艦長につながらない。用件があるなら現場の責任者として僕が聞こう」
「あ、クロノさんやったんやね。いますぐ話さなあかんことがあるんやけど、その前にここにいる全員に回復魔法っていうのをかけてもええですか?」
「こちらとしても助かるが……」
はやてが合図すると、シャマルの周囲に魔法陣が展開。
発生した緑色の風は、遠くで待機している武装隊にまで届く。
風に触れた瞬間、リンカーコア内に蓄積されていた魔力素の結合が促進され、魔力が回復する。
回復魔法にも様々な種類がある。魔力を回復させるだけの魔法であっても、その効果や原理は様々だ。
たとえば、かつてなのはがユーノと協力して行使した魔力移譲。
己の魔力を相手に合うように変換させる必要があるため調節が難しく、基本的に一度に一人にしか使えない。魔力そのものを分け与えるため即座に回復させることができる。
たとえば、ユーノが先程の戦闘で使っていた広域型の回復魔法。
空間の魔力素に働きかけ、人体が吸収しやすい状態へと変化させる。場に働きかけるため一度に大勢に効果を及ぼすが、敵味方の区別はつけられない。また、取り込んだ魔力素が結合して魔力に変換されるまでには時間がかかるため、即効性は低い。
シャマルが放ったそれはさらに高度。
リンカーコアを活性化させ、蓄えられていながらも未結合状態の魔力素の結合を促進させて魔力へと変えることで、瞬時に回復させる。一度使えば体内の未結合魔力素がなくなるため、外部から取り込んで蓄えができるまでは使用しても効果がない一度限りの魔法ではあるが、非常に効果が高い。
裏を返せば、即座に魔力が必要となる事態が差し迫っているということ。
「まだ終わっていないのか」
『ここから先は私が話そう』
問いかけに答えたのは、はやてではなく、彼女と融合しているリインフォース。
『ウィリアム、お前は防衛プログラムを破壊しただろう?』
「そうなのか? 戦った記憶はあるんだが、吹き飛ばされてからは無我夢中でよく思い出せないんだ」
思い出そうとすると、たくさんの情念が心の底からわいてきて、見たこともないような様々な光景が目に浮かんで、肝心のその時の記憶が出てこない。都市の雑踏でたった一人の声を聞き分けようとするのに近い。
『あれが破壊されたのはたしかだ。おかげで防衛プログラムの支配領域を迅速に切り離せたが、弊害もあった。まさかこんな事態になるとは予想していなかった』
リインフォースが話し始めたそばから、ごくかすかに音が聞こえ始めた。
最初は蛇の鳴き声のように小さくシュウシュウと、徐々に風切り音のように大きくなり、音の輪も広がっていく。
周囲を見回しても、発生源がわからない。どこから聞こえてくるのかわからないのではない。どこからも音が聞こえてくるのだ。
『――来るぞ。備えろ』
宙空に、紙へと黒々としたインクをひとしずく垂らしたように、黒い染みがにじみだす。
それが何なのかと想像を働かせるよりも早く、染みが生物へと形を変える。
現れた生物は多種多様に渡っていた。
骨ばった鳥がいた。赤い幼竜がいた。黒壇のような光沢の蟲がいた。それらを適当な塩梅で混ぜ合わせた合成獣(キメラ)も混じっていた。
十メートルに及ぶ巨大なものから、人間の子供よりも小さいものまで。
地をかける狼、水に住む魚、砂に潜るワームといった空を飛べないものまで一律に宙に浮いていた。
それらは生まれ落ちると同時に襲いかかる。
誰に? この場にいる人間すべてにだ。
いまだ戦列を崩さず待機していた武装隊の対応は迅速だった。
襲いかかる生物を危なげもなく打ち据え、縛り上げ、撃ち抜き。戦闘よりも駆除といった動きで、突然の事態にも冷静に対応する。
武装隊ともなれば相手は人間ばかりではない。未開世界の調査任務で現地に生息する生物と遭遇して戦闘になることもあれば、希少な生物を保護するために自然保護官と協力しての捕獲任務、逆に増えすぎた有害な生物の駆除任務に携わることもある。
このような生物相手の戦闘はお手の物、であるはずが、どうにも今回は勝手が違った。
現れた生物を倒すのは容易でも、倒したそばから新たな染みが空に生まれ、次々と湧き出てくるのだ。
「何だこいつら!?」
ウィルもまた間近に現れた体の透けた魚を切り身へと変えながら、リインフォースに問う。
『消滅した防衛プログラムの置き土産だ。偶然か故意かはわからないが、領域に残っていた魔力が外敵に対抗するために用意していた魔導式を実行し始めたようだ』
「さっきの戦闘でも合成獣めいたものを大量に召喚していたな。あれか」
『そうだ。蒐集の過程で得た生物のデータをもとに、魔力で構成された顕現体――お前たちの言い方をするなら、プログラム体を創造し続ける』
「それもこれも、おれが防衛プログラムを倒してしまったのが原因か」
『本来なら、行き場を失った魔力は空間に散逸するはずだ。こんなことが起こるとは私も予想できなかった。お前が自分を責める必要はない。それに悪手とは限らない。防衛プログラムが残っていれば、確実に切り離された防衛プログラムを中心に残存魔力を集中した融合体が顕現していただろう』
防衛プログラムを中心に、無数の生物が混ぜ合わされた怪物。それは過去の闇の書事件において、蒐集が完了した後に現れるという闇の書の暴走体の小型版か。
要するに、雑魚が無数に湧くか、一体の強力な化物か現れるかの二択だったということなのだろう。
どちらがマシだったかを考えている余裕はない。やけに早口で弁護してくれるリインフォースに思考を向ける余裕もない。
今やるべきは、目の前で起きている事態への対処だ。
隣で話を聞いていたクロノが会話に加わる。
「先程の戦闘の影響で空間座標が安定していない。アースラの空間転送による回収は当分不可能だ。転送ポートなら繋がるようだが、これでは全員でそこまで逃げるのも難しいな」
今のところは現れた生物を撃破する速度の方が、新しく実体化してくる速度を上回っているが、その差は微々たるものだ。逃げようとして下手に攻撃の手を緩めた結果、増えた生物に取り囲まれて身動きができなくなる危険も十分にある。
「敵も無限に湧くわけではないのだろう?」
『当然だ。切り離した時の残存魔力と実体化の速度、個体の質から算出すると、半時間も続きはしない』
「なら、このまま迎え撃つ! みんな、ここを乗り越えれば終わりだ! 行くぞ!」
クロノの号令とともに、大乱闘が幕を開けた。
敵の最中に始めに突っ込んで行ったのが、フェイトとシグナムとウィル。三者はまるで別々の方角へと突っ込んでいき、無数の敵をかいくぐりながら、触れたものを切り刻む。
彼らが撹乱し注意をひきつけているところに突っ込んでいくのが、アルフとヴィータとザフィーラ。豪腕剛力から放たれる一撃は触れたものを砕く。切り拓かれた道を平定するのが武装隊の近接魔導師。巧みなチームワークで隙を作らず、確実に屠り続ける。
後衛も負けていない。クロノが次々と魔法弾を構築して手数で多数の敵を殲滅し、撃ち漏らしをなのはの誘導弾が貫き、リーゼアリアが戦えないリーゼロッテをかばいつつ幻術魔法で敵を撹乱し、ユーノとシャマルが遠距離シールドにバインドにと、その場に応じた的確な支援で前衛を助ける。
武装隊の後衛魔導師たちも、負けじと魔力弾に砲撃魔法に範囲魔法にと攻撃魔法の雨あられ。防御魔法に回復魔法に幻術魔法にと、魔力光が綺羅綺羅と輝いて視覚的にやかましい。
特にヴォルケンリッターの奮闘は目覚ましい。
赤い髪を戦旗のようになびかせて、戦場を縦横自在に駆けるシグナム。
鉄槌を棒きれのように振り回し、触れたもの全てを破砕するヴィータ。
豪腕であらゆる障害を打払い、体躯であらゆる障害を防ぐザフィーラ。
戦場を俯瞰し、最適な支援を最短の時間で最高の精度で放つシャマル。
何百年も続けてきた戦いで、彼らが相手を数で上回ったことなどほとんどない。
常に少数。常に劣勢。それが彼らの闘争。ゆえにこの戦いこそが彼らの実力を十全に発揮する戦場となる。
「私たちも何かできへんかな」
はやては不安げに周囲を見回しながら、自らと融合しているリインフォースに問いかける。
はやてには魔法に関する知識なんてこれっぽっちもないし、なのはのように感覚で魔力を自在に操作する天性の才もない。
なのはですら及ばないほどの莫大な魔力を有しているにも関わらず、リインフォースの協力がなければ何もできない。で、そのリインフォースが何をしているのかといえば。
『今しばらくお待ちを。魔法構築に必要なアーキテクチャを主の魔力に合わせて最適化しているところです』
「それが終わらんと魔法を使えへんの?」
『このまま魔法を行使すれば、主の肉体に負担がかかりすぎます。いましばらくご容赦ください』
真の主となったことで魔導書からの負荷が消えたとはいえ、長期間蝕まれていた肉体までもが回復したわけではない。体力は随分と消耗しており、リンカーコアも魔力パスも弱ったままだ。
はやての背後にも黒い染みが現れ、狼の形をとって襲いかかる。その牙が柔肌を突き破り肉に喰らいつく、なんて事態を彼女の騎士が許すはずもない。
周囲に生じた突風が襲いかかる暴漢を弾き飛ばす。触れたものにだけ作用し、中にいるはやてにはそよ風すら感じさせない、精妙で優しい魔法だ。
『相変わらずの魔導の冴えだな、風の癒し手』
「私がはやてちゃんを守るから、あなたは作業に集中して」
シャマルは複数の魔法を並列で構築しつつも、どこか嬉しそうな口ぶりで話す。
「それから、これからはシャマルって呼んでちょうだい。私もあなたのこと、管制人格じゃなくてリインフォースって呼ぶわ」
****
戦況は次第に一方に傾いていった。
「……まずいな」
実体化が撃破速度を上回り始めた戦場に、クロノは焦りを抑えられなかった。
実体化の速度が増したわけではない。撃破に手間取るようになってきたのだ。
では敵の強さが増したのかといえばそれも違う。敵が空間のどこからでも現れるせいで、こちらの戦い方が崩されているからだ。
闇の書が蓄えていた魔力は、いまやこの空域一帯に拡散している。
十分な隙間があればどこにでも染みが生じ、次の瞬間には生物となって襲いかかってくる。
いったいどこから現れるのか予測がつかず、後衛が魔法を練っている真後ろに現れることも珍しくない。
おかげで後衛までもが前衛と同様に魔力刃を振り回して近接戦闘を試みなければならない事態もたびたびで、そうなれば前衛は支援なしで戦わねばならない。
武装隊を管理局屈指の練度をもつ精鋭たらしめているのは、個々の実力とチームワーク。片方がなくなれば戦力は半減する。
ヴォルケンリッターはさすがの一言。このような多数相手の戦闘は、この場にいる誰よりも手慣れたものだ。
特に後衛が機能不全を起こしかけている現状では、シャマルの支援は生命線といってもいいほどの活躍ぶりだ。
大群の中に単身突っ込んでの撹乱陽動をしていたフェイトやウィルもたいして変わりない。
一方、管制人格相手では大活躍していたなのはは大苦戦中だ。
射撃を鍛えてきたからだろう。近くに敵が現れてもとっさに近接に切り替えることができず、そもそも生来の運動音痴と経験不足が相まって近接の技量自体がお粗末だ。
バリアジャケットの強度が非常に高いため、生半な攻撃では怪我を負うこともないが、先程は大量の蟲に取り付かれて悲鳴をあげていた。
リーゼアリアが本日何枚目かのカードを使用し、多数の魔力弾を構築する。
無防備な彼女に巨大な鳥が襲いかかるが、肩に乗っていた猫状態のリーゼロッテが飛びついて引っ掻いて防ぐ。
その間に構築が完了した百近い魔力弾は、仲間の間を縫って綺麗に敵だけを撃ち貫き、戦場の一角から生物を消滅させた。
彼女は戦況が傾きかけるたびにこうして再び膠着状態に戻してくれていたが、それにも限度がある。
「これでカードは打ち止め。このままだとじきにまた押され始めるわ」
リーゼアリアはクロノのそばにやって来ると、肩をつかむ。
「デュランダルを出しなさい。出力を抑えた凍結魔法で、空域の魔力に干渉して活性化を抑えるのよ」
凍結魔法は分子の運動を鈍らせる。AMFは魔力の結合を阻害する。どちらも何かを生み出す通常の魔法とは真逆の、何も起こさせない魔法だ。
そして凍結封印は魔力素のような素粒子のふるまいを固定化させ、あらゆる運動を零にする。
実体化がプログラム体を作るという魔法である以上、空域に遍在する防衛プログラムが残した魔力に干渉し、そのエネルギーを減衰させることができれば、実体化を防ぐことができるはずだ。
ただし、凍結封印を本来の出力でそのまま使えば、周囲の味方を巻き込んで氷漬けにしてしまう。
バリアジャケットの対熱機能で防げる範囲に収めるため、なるべく温度低下を引き起こさないよう出力と魔法式を調節する必要がある。
「抑えた出力でも、実体化の速度を下げるくらいはできるか。わかった。頼む、アリア」
懐から真白なカードを取り出して手渡そうとして、リーゼアリアにカードを押し返される。
「あなたがやるのよ、クロノ・ハラオウン。ロッテほどじゃないけれど、何度もカードを使ったせいで、私の体もガタが来ているの。デュランダルの魔力を制御するだけの余裕がないわ」
「なっ――」絶句した後、狼狽するクロノ。 「凍結魔法なんてろくに使ったこともないし、このデバイスの魔法式もまともに見てないんだぞ! 出力や術式の調整なんてできるはずがない!」
「式の調整は私がやる。クロノはデュランダルに内蔵してある魔力の制御に集中しなさい」
リーゼアリアの目は有無を言わさない迫力があって、それがクロノの懐かしい記憶を呼び起こす。
師事していた頃、無茶とも思える課題を課されたことは何度もあった。できるはずがない、自分にはまだ早いと、何度思ったことかわからない。けれど、全力で取り組んでみればいつだってかろうじて成功した。
愛用のS2Uを待機状態――真黒なカードに戻し、真白なカードを展開する。
デュランダルは、白と青の二色で構成された杖型のデバイスだった。先端は猛禽の嘴を思わせるフォルムで、槍のようにも見える。
「他に道もないか……みんな、僕が合図をしたらバリアジャケットの耐熱機能をレベル七以上に上げろ! ユーノ! シャマル! 対応できない者がいたらフォローを頼む!」
周囲に命令しながら、両の手でしっかりと握り、魔力を通す。
このデバイスにおいて、術者の魔力はあくまでも起爆剤だ。凍結封印に用いる魔力は、デバイスに内蔵されたカードが肩代わりしてくれる。
その一部を解放し、すでに用意されているプログラムに通わせるだけ。
魔力が解放されると同時に、絶え間なく殴打され続けるような衝撃が全身に響く。リンカーコアがマラソンを終えた直後の心臓のように激しく脈打ち、息をすることすら難しい。
身の丈を越える魔力の制御が困難と知識としては知っていたが、体験してみればクロノの予想を遥かに越えていた。
なのはやフェイト、ヴォルケンリッターが用いるカートリッジも、所詮は補助であって、自らの魔力総量を越えるほどではない。
魔力総量を遥かに上回る魔力の制御というのは、動力炉から魔力を引っ張ってくるリンディやプレシア、周囲の魔力素をかき集めて収束魔法を放つなのはなど、非常に優れた技術や類まれな才覚がなければできるものではない。
このままでは流れから外れた魔力がクロノの体を傷つけ始める。
「制御の仕方は感覚で覚えなさい」
デュランダルを持つ手と背に、そっと添えられる女の手。途端、外れそうになった魔力が、正しい流れに戻される。
リーゼアリアに補助されながら、クロノは少しずつ魔力の制御を覚えていく。
闇の書を凍結封印するために製造されただけあって、その魔力式は極めて複雑で、構築に要する時間も長い。
それだけの時間リーゼアリアとクロノという貴重な戦力が抜ければ、戦況は再び悪化していく。
このままでは凍結魔法の構築が完了するまでに、誰か犠牲者がでかねないというタイミングで。
『魔導書の調整、完了しました。制御と演算は私がおこないます。主は流れる魔力に逆らわず、私に続いて詠唱してください』
「了解! えっと……彼方より来たれ、やどりぎの枝。銀月の槍となりて、撃ち貫け。石化の槍、ミストルティン!」
はやてが高々に魔法の名前を唱えると、魔法陣から現れた六本の白槍が高々と空へ撃ち上げられる。
槍は上空で分割して枝となり、降り注ぐ軌跡が逆向きの系統樹を描く。枝の先端が正確に生物を貫き、石へと変える。
古代ベルカの魔法。現代では遺失した石化魔法だ。
そして、凍結魔法が完成した。
「凍てつけ!」
『エターナルコフィン』
起動を告げる清冽な音が広がり、一拍遅れて広がった波に呑まれて、余韻を残さず消える。
それは凍結の波。世界を殺し、静寂を広げる、秩序の体現。熱、音、風、魔力波、すべてが消えていく。この世の事象はすべて、粒子のふるまいにすぎないがゆえに。
実体化した生物は、肉体を構成する魔力を固められたことで、次々に地面に落下していく。空気中の水蒸気が氷結し、生み出されたダイヤモンドダストが無風の中でゆっくりと地面に落ちていく。
下方に広がる海面が凍りついていく。クロノの真下を中心に円状に凍りついていき、水平線まで広がってなお止まる気配はない。
落下した生物が氷った海面に衝突して砕ける。
白い息を吐きながら、クロノは周囲を見回す。
魔導師はみな健在。新たな生物が実体化し始めているが、そのペースは先程と比べて半減している。
「合格よ。花丸をあげたい気分だわ」
「そこまで褒められるのは初めてだな、アリア先生」
師弟は顔を見合わせて笑みを交わす。師の肩に乗る猫も、満足げに、にゃあ、と鳴いた。
実体化の速度は低下したとはいえ、実体化そのものが起きなくなったわけではなく、次々と現れる生物を撃破する戦いは続く。
連戦に継ぐ連戦で、途中からは戦えなくなる者もでてきた。
リーゼ姉妹はカードを大量に使った負荷で早々にギブアップ。クロノもデュランダルの制御で消耗し、離脱。武装隊の面々も魔力に限界が訪れて、飛行魔法すら維持できなくなる者が現れ始め、ユーノが作り出したフロータの上に立ち、残り少ない魔力を魔力刃だけに回して戦い始める有様で。
『反応空域内に生物反応なし。新たな召喚の兆候も確認されません』
凍結魔法の影響が薄れ、通信が復旧していたアースラから、事態の収束を告げる通信が空に響き渡る。
それを聞いても、誰も大声で歓声をあげたりはしなかった。
精も根も尽き果てて、ようやく終わったことに安堵のため息をもらすばかりである。
ほっと力を抜いたはやてが、そのまま意識を失い、ヴォルケンリッターやなのはたちが慌てて駆けつけた。
*****
「アースラの空間転送で戻るのは無理か」
『今度は凍結魔法の原因で、遠隔で空間に干渉するのが難しくなってるからね。最寄りの転送ポートは影響が少ないから、使えるようになったらすぐに医療班を送るよ』
「なら、僕たちも転送ポートに向かうとするか。そろそろ浮いているのも辛くなってきた」
「はやてっ! おいリインフォース! はやては無事なのか」
『眠られただけだ。だが肉体も魔力パスも消耗している。安静なところで休息を取る必要がある』
「気休めだけれど、回復魔法をかけるわ」
「支援で魔力を消費しただろう。俺の魔力も使え」
クロノとエイミィの通信や、はやてを取り囲んだヴォルケンリッターの会話を聞きながら、ウィルは未来を思い描く。
このまま、はやてに駆け寄って、みんなでアースラに戻って、クロノやリンディに勝手な行動をとったことを謝って。後始末が終わったら、ミッドチルダに戻って、レジアスやオーリスにたっぷりと叱られて。
何ヶ月かたって落ち着いてから、はやての元を訪れて。雪が降る海鳴の街か、初めて出会った時のような暖かな春かはわからないけれど、インターホンを鳴らして、扉の前で待つ。
笑顔でウィルを出迎えてくれるはやて。その背後には、ようやく得られた平穏に、穏やかな笑みを浮かべるヴォルケンリッター。
「やっぱり、許せないよな」
小さくつぶやき。はやてのそばにいるシグナムを睨みつける。まったく同じタイミングで、彼女も振り返ってウィルを見た。
ウィルは疲れ果てた顔のクロノを一瞥。これ以上気苦労をかけたくはないが、自分にも目的がある。
「ごめん」
シグナムは最愛の主の元に集う、最愛の仲間に背を向ける。せっかく全員が揃ったのに別れを告げるのは悲しいが、自分には使命がある。
「我らの主を頼む」
合図は必要なかった。異なる二点でまったく同時に破裂音が生じ、次の瞬間には一点で金属同士が擦れ合う音が大気を揺らした。
ウィルとシグナム。三度目にして、最後の一騎打ちが始まる。